- Amazon.co.jp ・本 (280ページ)
- / ISBN・EAN: 9784787723154
作品紹介・あらすじ
「シンプルで極端な見解には、必ず意図的な捨象や独断が含まれている。そんなことでは、複雑な自然に対峙することなどできない。予測できない自然と人間のいとなみの折り合いを、森林水文学者が多角的に模索する――中島岳志」どんなに強固な治水対策をしても、洪水や土砂災害は防げない。特に激化する大雨被害は、人間活動の結果である地球変動が原因であるのに、堤防やダムをつくり続けることで対応するなど、人新世の現代では完全に間違った対策である。最新科学を理解すれば、水害や渇水や土砂災害対策において何を優先するべきか、明らかなのである。国土交通省も、近年は頻発する水害が防ぎ切れないことを認め、堤防やダムだけでない、流域の住民と協力する「流域治水」プロジェクトを進めている。けれども、長年にわたり、水害裁判やダム建設で対立を続けてきた流域住民と国が協力することなどできるのだろうか。そもそも国の方針は、川の上流をインフラで固めて、山村の農業や林業を壊滅させていく公共事業に変わりはないからである。こうした矛盾だらけの水害対策に、研究生活50年の森林水文学者が異議を唱え、「望ましい水害対策」のあり方を探る。
感想・レビュー・書評
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2024年5月7日図書館から借り出し。随分待たされた割には、本を開いた形跡がない。
著者は京大農学部名誉教授、ただし学究一筋ではなくて農水省で実務研究に従事した経験を持つ水文学(森の水循環に及ぼす影響に関する研究12頁)の専門家。
第1部では、江戸時代からの河川改良の歴史を踏まえて、国交省の河川行政に対する批判を、やや技術的な部分も詳説しながら鋭く展開している。
その根本は、水害をゼロに抑え込むことは困難であるのに、ダム等の土木工事により水害は防げるとする前提が誤っているというものである。
そこで、昭和53年の大東水害訴訟でいかに国交省が腐心したかを紹介している。
ただ、国交省からすると、国家賠償法第2条第1項で「道路、河川その他の公の営造物の設置又は管理に瑕疵があつたために他人に損害を生じたときは、国又は公共団体は、これを賠償する責に任ずる。」と無過失賠償責任が負わされている中で、「河川」と明記されているところは大きいのではなかろうか。
また、平成2年の多摩川水害訴訟(岸辺のアルバムで有名)の最高裁判決で、先の大東水害訴訟判決は、やや修正されているところがあるのではないか。
この辺を触れておいて欲しかった。
第2部では著者の水文学知識が披瀝されて、初めて知る知識ばかりで、なかなか面白く、データ・図版も多く収録されていて、得るところが多い。
第3部では、「人新世時代の水害対策」と題して将来の水害対策の方向性を示している。
見田宗介の論を借りて、科学を含む超学際的研究によって人類の滅亡を引き伸ばす「軸の時代Ⅱ」に向かわなければならないとする。
そして、欲求を自主的に抑制することをも含み、主体的に意思を貫くことを「エゴイズム」と表現し、これを確立することを目指さなければならないとする。
この辺は、近頃勢いを失ったハーバーマスとの類似も感じるが、コミュニケーション(熟議)と言ってもいいのだろうか。
ただ、欲望を駆り立てることがますます過激になっている資本主義社会では、まことに困難な課題ではある。詳細をみるコメント0件をすべて表示