著者の『増補 責任という虚構』が良かったので、この本も読んでみました。いい本です。文献引用や事例が興味深くとても楽しめました。以下、気になったことを少しコメントします。
例えば、自由意志があるという思い込み(虚構)は、人間社会(ルールの網の目の社会)が成立するのに必要な基礎的な虚構(*)で深く隠蔽されているため、なかなか気付かない。
一方、民族という虚構は、日々内外のニュースに接している人にとっては、それほど強く隠蔽されていないように感じます。XX民族と言っても、その中にはいろいろな人出自や価値観を持つ人がいるだろう(皆同じではない)と想定するのは、割と普通のことかと。民族という虚構が、その民族の生活改善などポジティブな方向に繋がるのは良いですが、マズいのは、民族という虚構に乗って差別/虐待性向を開放し、無用な殺戮を正当化する人達がいることです。
民族に限らず、何らか虚構があるとして、そこから差別/虐待に繋がる通路がある場合、その通路を塞ぐ努力は必要。虚構であることを理解した上で、その虚構を生きる時と、虚構のメタレベルに立って慎重に行動する時(特に、差別/虐待に繋がる通路がある場合)を、切り替える知恵が求められると思いました。
*:参考までに『増補 責任という虚構』のレビューを以下再掲します。
<自由意志は責任を根拠付けるために動員される虚構?>
そういう側面もありますが、自由意志(自分の意思決定・アクション選択を、自分が意識的にコントロールしている)という思い込みには、人間が人為的なルールを命じ/遵守することに、その思い込みが有効(というか必須)なことがより根本にある。つまり、社会的動物である人間が、ルールの網で構成される社会を構成する上で、自由意志があるという幻想がなくてはならないからだと考えます。
例えば、親が「今後XXXをしてはいけません。」とルールを指示するのも、「わかった。今後XXXをしないようにする。」と子供が決意するのも、前提として、本人の意思決定は本人が意識的にコントロールできる(XXXをするかしないかは本人の意思決定次第)という思い込みがある。だから、自由意志があるという思い込みは、人間(ルール)社会の成立のキー。もう少し親子の話を続けます。
子供がルールを守れなかったとします。すると親は「なんで守れないんだ。駄目じゃないか。」と子供を叱る(か不機嫌になる)。ここでは、子供がルールに従って行動を意識的にコントロールできなかったことに対し、子供に《責任》があり、罰(叱られること自体も罰)を受けるのは当然だ、という感覚が親子双方に共有されている。
以上をまとめると、
・責任を根拠付けるために自由意志という虚構が動員されるのではなく、
・人間が人間(ルール)社会を構成するには、自由意志という虚構が必要で、
・その上で(あるいは同時に)、ルール遵守を促進する要素として責任という虚構が動員される、
と考えるのが合理的なように思いました。
なお、自由意志と責任は、神の死んだ近代の専売特許ということではなく、人間社会の成立時から、自由意志と責任は(上記の意味で)存在した。ただ、昔は、怨霊に取り憑かれるとか、悪霊が入り込むとか、洋の東西を問わず、自分の行動は自由意志だけでは成り立たっていない、という信憑も同時に存在していた、ということだと思います。
久永公紀『意思決定のトリック』・『宮沢賢治の問題群』
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増補 民族という虚構 (ちくま学芸文庫 コ 34-1) 単行本 – 2011/5/12
小坂井 敏晶
(著)
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〈民族〉は、いかなる構造と機能を持つのか。血縁・文化連続性・記憶の再検証によって我々の常識を覆し、開かれた共同体概念の構築を試みた画期的論考。
- ISBN-104480093559
- ISBN-13978-4480093554
- 出版社筑摩書房
- 発売日2011/5/12
- 言語日本語
- 寸法10.7 x 1.4 x 14.8 cm
- 本の長さ362ページ
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2011/5/12)
- 発売日 : 2011/5/12
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 362ページ
- ISBN-10 : 4480093559
- ISBN-13 : 978-4480093554
- 寸法 : 10.7 x 1.4 x 14.8 cm
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2023年11月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2021年6月27日に日本でレビュー済み
民族は虚構である。「虚構」という言葉の是非はさておき、民族が人々の記憶という、忘却と歪曲が幾重にも折り重なった、凡そ確実とは言えない代物に支えられた人工物であることなど今さら指摘するまでもない。だがその「虚構」のおかげで共同体の秩序や一体感が保たれるのであり、人間は「虚構」なしに生きられない。だとすれば、それが「虚構」であると暴き立てることに何の意味があるのか。この問いに真正面から向き合うことのない一切の虚構論は不毛である。無知な凡人が見えない社会秩序生成のメカニズムとはこうだ、何て俺は賢いんだ!という訳だが、これほど滑稽なことはない。ポストモダン思想の限界もここにある。
本書はどうか。成否は「開かれた共同体」というコンセプトにある。著者の言う「開かれた共同体」は実体論的思考に囚われたコスモポリタニズムと多文化共生を共に否定する。集団は内に開じられているからこそ外に開くことができる。日本が外来文化の受容に寛容なのは、日本文化への帰属意識や信念体系が不動とは言わぬまでも、相当程度しっかりしているからだ。生命体は外界との物質交換なしに生きられないが、それは自己を破壊しかねない危険を孕んだ営みでもある。虚構としての「民族」とは一種の免疫システムである。生命体において、自己を破壊する異物を濾過して排除しながら外界との物質交換を可能にするのが免疫システムだ。同じように、「開かれた共同体」は、民族という「虚構」の浸透膜によって自己を保持しつつ、同時にその浸透膜をフィルターとして多様な異文化と相互作用を行い、不断に自己を活性化しながら生成・変化していく。このプロセスにおいて浸透膜も変容するが、それがまた共同体に異物や変化への耐性を埋め込んいく。だからこそ浸透膜としての「民族」を軽視しても実体視してもいけないのだ。
「虚構」という言葉遣いに虚構と真実の二元論、ないし実体論的思考の残滓を感じないでもないが、その点を除けば皮相なポストモダン的言説とは一線を画した好著である。
本書はどうか。成否は「開かれた共同体」というコンセプトにある。著者の言う「開かれた共同体」は実体論的思考に囚われたコスモポリタニズムと多文化共生を共に否定する。集団は内に開じられているからこそ外に開くことができる。日本が外来文化の受容に寛容なのは、日本文化への帰属意識や信念体系が不動とは言わぬまでも、相当程度しっかりしているからだ。生命体は外界との物質交換なしに生きられないが、それは自己を破壊しかねない危険を孕んだ営みでもある。虚構としての「民族」とは一種の免疫システムである。生命体において、自己を破壊する異物を濾過して排除しながら外界との物質交換を可能にするのが免疫システムだ。同じように、「開かれた共同体」は、民族という「虚構」の浸透膜によって自己を保持しつつ、同時にその浸透膜をフィルターとして多様な異文化と相互作用を行い、不断に自己を活性化しながら生成・変化していく。このプロセスにおいて浸透膜も変容するが、それがまた共同体に異物や変化への耐性を埋め込んいく。だからこそ浸透膜としての「民族」を軽視しても実体視してもいけないのだ。
「虚構」という言葉遣いに虚構と真実の二元論、ないし実体論的思考の残滓を感じないでもないが、その点を除けば皮相なポストモダン的言説とは一線を画した好著である。
2017年2月27日に日本でレビュー済み
小坂井さん、虚構シリーズの一つ。
「社会心理学講義」を先に読了したので、同書が本書を含めての研究の集大成であることがわかりました。
ですので、3割くらいの内容が重複してはいます。
では、本書はスキップ…というわけにはいきません。残り7割が民族について掘り下げているので面白いのです。
小坂井さんの本は読んでいるととにかく脳が動きます。ブルーバックスの「物理数学の直感的方法」や「大栗先生の超弦理論入門」を読んだ時と似た脳の回転を感じたのは私だけでしょうか?
「社会心理学講義」を先に読了したので、同書が本書を含めての研究の集大成であることがわかりました。
ですので、3割くらいの内容が重複してはいます。
では、本書はスキップ…というわけにはいきません。残り7割が民族について掘り下げているので面白いのです。
小坂井さんの本は読んでいるととにかく脳が動きます。ブルーバックスの「物理数学の直感的方法」や「大栗先生の超弦理論入門」を読んだ時と似た脳の回転を感じたのは私だけでしょうか?
2014年7月4日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本書は、「民族」は存在するのか、また存在するのであれば、それはどのような意味においてなのか、という根本的な問いから出発し、様々な民族現象を新たに見直す視点を提示しようとするものである。時間の経過にもかかわらず民族が同一性を保つと我々が感じるのは何故か。文化の連続性は何を根拠にするのか。変化する多くの要素とは別に、民族の同一性を保つ本質的な要素や構造が存在するのだろうか。もしそうのような不変の要素や構造が実際に存在しなければ、同一性を生み出す社会的・心理的からくりはどうなっているのか。以上のような問いに対して本書は、民族同一性は虚構に支えられた現象だと主張する。そして虚構であるが故に現実が生成されるという虚構と現実の積極的な相補性を明らかにする。
章立ては以下の通り。
はじめに
第1章「民族の虚構性」
第3章「虚構と現実」
第4章「物語としての記憶」
第5章「共同体の絆」
第6章「開かれた共同体概念を求めて」
補講「虚構論」
「民族」とは客観的なものではなく主観的に構成されたものである、という本書の主張は一貫しており説得的である。もっとも、このような社会構築主義的な理解は目新しくない。本書の優れた点は、単に民族の虚構性を指摘しニヒリズムに陥るのではなく、虚構の生産的なプロセスに注目している点にある。そして、そこから本書は「開かれた共同体」概念の構築を試みる。それが成功しているかどうかは別として、哲学、社会学、社会心理学などの様々な知見を用いつつ、ユダヤ人から在日朝鮮人まで取り上げており、興味深く読めた。一読を勧めたい。
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補講「虚構論」
「民族」とは客観的なものではなく主観的に構成されたものである、という本書の主張は一貫しており説得的である。もっとも、このような社会構築主義的な理解は目新しくない。本書の優れた点は、単に民族の虚構性を指摘しニヒリズムに陥るのではなく、虚構の生産的なプロセスに注目している点にある。そして、そこから本書は「開かれた共同体」概念の構築を試みる。それが成功しているかどうかは別として、哲学、社会学、社会心理学などの様々な知見を用いつつ、ユダヤ人から在日朝鮮人まで取り上げており、興味深く読めた。一読を勧めたい。
2011年10月13日に日本でレビュー済み
東京大学出版会から出ていた『民族という虚構』の文庫、増補版である。
民族とは虚構である、というテーゼを聞いた時、人は「何だ、コスモポリタンか?」と訝しげに思うかもしれない。
しかし、本書では「虚構=悪」であるとか「虚構は事実や真実と対立する」といった考えを否定し、「虚構無しに人は生きれない」ことを強調する。
そして、議論は民族だけでなく、自我や社会といった概念にまで及び、脳科学や心理学をも駆使して、丁寧に展開されていく。
文庫化にあたり、筆者の近著との連携や、「虚構論」という論考の追加などが行われ、更に深みを増した一冊に仕上がっている。
民族論だけでなく、社会学を学ぶ人にとっても有益な論考であり、新たな共同体概念の構築の提言から、今までの常識を覆す。
非常に優れた民族論でもあり、社会学論でもあり、そして「虚構論」でもある。強くお勧めしたい稀有な一冊だ。
民族とは虚構である、というテーゼを聞いた時、人は「何だ、コスモポリタンか?」と訝しげに思うかもしれない。
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非常に優れた民族論でもあり、社会学論でもあり、そして「虚構論」でもある。強くお勧めしたい稀有な一冊だ。
2020年12月20日に日本でレビュー済み
「民族とか歴史は共同幻想である。虚構である」という著者の考え方は、まあそういう考え方もあるなあと思う。わたしなどは、だからこそみんなで大切に語り合うべきものだと考えている。
日本国・日本民族についての虚構性について、脳科学・デカルト・ルソー・ナチスなどを引き合いにして検証を積み重ねる。どうやら日本の民族意識を批判したいようなのだ。にしては、朝鮮民族意識や中国民族意識にたいする批判は読み取れない。
日本社会における日本民族意識批判をするならば、日本社会における朝鮮民族意識批判も同時にしなければフェアな論評にならない。
また、日本社会における日本民族意識批判をするならば、中国における共産党エリート意識批判や、韓国における韓国民族一致団結した慰安婦被害共同意識も同時に批判しなければフェアでない。
第六章に、在日朝鮮人のかたの民族意識について触れている箇所があるが、何らの肯定否定もせずフェードアウトさせている。
発想の転換のために読むには面白い本なので☆1にはならないが、あまりにアンフェアさが鼻につくので星は3つにした。出版時にだれも何も言わなかったのか?不思議なことだ。
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第六章に、在日朝鮮人のかたの民族意識について触れている箇所があるが、何らの肯定否定もせずフェードアウトさせている。
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