著者である松本卓也氏は京大の人文系では、あの浅田彰氏と同じ年齢(32歳)でいきなり「准教授」に抜擢されるという
驚愕の大学人事がまさに「勃発」し、さすがに松本卓也氏の最初の単著である傑作『人はみな妄想する』の衝撃が冷め
やらないうちにこうした展開になったことに、御当人であられる松本氏と同じくらいに、私も驚いたことを鮮烈に記憶して
います。
本書は前著『人はみな妄想する』での「鑑別診断」という「ワード」で、ラカンの「多様な視点」を「一点突破」してしま
った「画期的」な著作でした。
現実問題として、「ラカンの精神分析は、現在の精神医療の現場でどう役立つか?」と問われれば、私もまったく同様の
指摘を(失礼)していたので、まさに「正鵠を射たり」の心境でもありました。
さて本書ですが、タイトル通りに『享楽社会論』という大きな全体のテーマがあり、その論考をどんどん進めていく中で、
一番始めの「享楽」が「フロイトの時代」と「ラカンの時代」では、変化していったというこれも非常に鋭い視点から、
「享楽」を中心のワードにして、個人から社会現象までその範囲を広げていくという体裁の本になっています。
何せ、私も12日に本が届いて、なんとか日付をまたいで今しがた読了したところです。
松本氏は、物事の本質を把握して、それを明確に展開していくことが得意なように見受けられるのですが、本書でもその手さ
ばきは、見事に発揮されていて大変読みやすい本にもなっています。
本書を説明しだすとキリがないので、読者に大部を譲ることにしますが、私が勝手に読んで思ったことは、やはり「現代ラカン
派の展開」というサブタイトルにもあるように、ラカンの後継者であるジャック=アラン・ミレールが発展させている考え方を
松本氏はさらに自分自身の思考として展開しているので、決して「本書=ラカン」という体裁ではありません。
現代社会はラカンが存命中の頃とは全く違って、「ネット社会」という窮屈な社会の中で、多くの人達がそれぞれの「情動」を
軽い気持ちでぶつけ合う社会になってしまい、「壁に耳あり障子に目あり」の世界を遥かに超越した事態になってしまいました。
そんな社会の中でほとんどの人達は、新たな「悩みの種」を背負うことになったわけです。
そうしたことが「第一部・理論」「第二部・臨床」という部分で「211頁」まで続き、「第三部・政治」では、本書に至るまでの
松本氏の言説の中に「ヘイトスピーチの問題」ということが頻繁に語られるようになっていたのと、『ラカニアン・レフト』の
翻訳本を出してきた時から、実は嫌な予感はしたのですが(大変失礼)、残りの「279頁」までの全体としての割合は低いですが、
ある意味【問題発言】として(私はそう受け取りました)在日の方へのヘイトスピーチについての論考にあてられています。
これも著者は、それなりの覚悟を決めて書いた「第三部・政治」という最後に持ってくるほどおそらくは重要で書きたかったこと
だと思うのですが、私はこの第三部だけにはどうしても賛成しかねます。
本当は本文を引用して具体的に「なぜ私は受け入れられないのか」という理由を書きたかったのですが、どうしても長大になって
しまいます。
ここはべつに私専用のSNSではないので、それはしませんが、「レイシスト」と「ヘイトスピーチ」というのは、そもそもそれ
だけで良くないというのは、私も全く同じ意見です。
しかし、具体的な「団体名」を出し、それらについて批判するならば、こうした手薄な論を展開してはいけません。
いわゆる「従軍慰安婦問題」において争点となっていた「日本軍による強制性」は、公式に「見出だせない」という結論が出た
のは「厳然たる事実」であります。
そして今現在でもこの「強制性の証拠が見出だせない」状況は「継続中」なんです。
意外と知られていませんが「従軍慰安婦」の「人種別人数の割合」についても「日本人女性」が一番多かったわけです。
「旧大韓帝国の女性」の方は、多くてもその半数といわれているようです。
こうしたデリケートな問題を「大文字の存在」として影響力のあるしかるべき立場にいる人が論ずる時には、最低限「事実」は
「公平」に扱いながら、その上で論を展開するべきなのは、ほぼ「常識の水準」にあることでしょう。
物理学の力学においても、「壁を押す」という行為は、同時に「壁に押し返される」ということでもあるわけですから、双方向
の視点が必要であるということは極めて重要かつ基本的な筋道なのです。
著者の松本氏は、「精神科医」「分析家」「大学教員」という大変責任のある「肩書・立場」を背負ってしまっているわけです。
そしてこの「第三部」だけ軽々に不用意で情緒的な(または情動が優先的に)「無根拠性」という依るに依れない強弁で「悪事」
「軍による強制性」と断罪するのは、果たして専門書において「理性的」で「まともな記述」と言えるでしょうか。
そのように第三部における前提が誤謬なので、せっかく「レイシズム1.0(フロイト)」「レイシズム2.0(ラカン)」というよう
な論を展開していても、残念ながらそれは「空虚なもの」として、中空を漂うことにしかなっていないわけです。
私は松本卓也氏を尊敬しています、本書もやはり読んで良かったと思いました。
それでも、私ごとき輩がそうした「否」を突きつけるのは・・・・私事よりも本書を是非購入いただいて、それぞれの方が「自分
の思考」でどうか判断してくださいませ・・・。
そしてできれば、松本卓也氏にもこの恥ずかしいくらいの私の拙文が届くことを願っています。
心配無用、「手紙は必ず宛先に届く(ラカン)」そうですから、きっと届くことでしょう。
【追記・5月25日】
買ってからしばらく積読状態だった、科学哲学者・ファイヤアーベントの著作『知についての三つの対話』をたまたま読んだ。
その本のファイヤアーベントによる「あとがき」の中で、どうしても私が松本卓也氏の言説に抱く矛盾感を払拭できない状態に
とつぜん風穴を空けるような記述があったので、引用することにした。(ちなみにそちらの本にもレビューを書いています。)
「・・・ある個人の哲学とその人の政治上の言動とが密接に結び付いているようなことはほとんどないのです。(320頁)」
「フレーゲは、論理学と数学基礎論に関しては非常にシャープな思索家でしたが、政治的なことになると、日記に出てる限り
ではおよそ幼稚としかいえません。(320~321頁)」
そうなのだろうか、やはり。
たしかに、そういうことはよくあり得ることなのかもしれない・・・。
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享楽社会論: 現代ラカン派の展開 単行本 – 2018/3/9
松本 卓也
(著)
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精神分析が導く現代資本主義社会の突破口
ジャック・ラカンが提出した「剰余享楽」「資本主義のディスクール」といった概念は、現代社会の現象の把握のためにきわめて有効だ。本書では力強く展開する現代ラカン派の理論を紹介するとともに、うつ、自閉症、ヘイトスピーチといった、臨床や政治社会における広範な事象に応用し分析を試みる。精神分析の言説に新たな息吹をもたらす、ラカン派の俊英による鮮やかな社会論。
「こうして、「不可能な享楽」は「エンジョイ」になり、〈父〉はデータの番人になった。現代の私たちは、後者による徹底的な制御のもとで、前者の「エンジョイ」としての享楽の過剰な強制――「享楽せよ! Jouis !」という超自我の命令――によって、そして、その結果として消費されるさまざまなガジェットがもたらす依存症的な享楽によって慰められながら、徐々に窒息させられつつあるのではないだろうか。だとすれば、そこから抜け出すことはいかにして可能なのだろうか?」(本書より)
ジャック・ラカンが提出した「剰余享楽」「資本主義のディスクール」といった概念は、現代社会の現象の把握のためにきわめて有効だ。本書では力強く展開する現代ラカン派の理論を紹介するとともに、うつ、自閉症、ヘイトスピーチといった、臨床や政治社会における広範な事象に応用し分析を試みる。精神分析の言説に新たな息吹をもたらす、ラカン派の俊英による鮮やかな社会論。
「こうして、「不可能な享楽」は「エンジョイ」になり、〈父〉はデータの番人になった。現代の私たちは、後者による徹底的な制御のもとで、前者の「エンジョイ」としての享楽の過剰な強制――「享楽せよ! Jouis !」という超自我の命令――によって、そして、その結果として消費されるさまざまなガジェットがもたらす依存症的な享楽によって慰められながら、徐々に窒息させられつつあるのではないだろうか。だとすれば、そこから抜け出すことはいかにして可能なのだろうか?」(本書より)
- 本の長さ296ページ
- 言語日本語
- 出版社人文書院
- 発売日2018/3/9
- ISBN-104409340514
- ISBN-13978-4409340516
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商品の説明
著者について
松本 卓也(まつもと・たくや) 1983年高知県生まれ。高知大学医学部卒業、自治医科大学大学院医学研究科修了。博士(医学)。専門は精神病理学。現在、京都大学大学院人間・環境学研究科准教授。著書に『人はみな妄想する ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』(青土社、2015年)、『発達障害の時代とラカン派精神分析』(共著、晃洋書房、2017年)など。訳書にヤニス・スタヴラカキス『ラカニアン・レフト ラカン派精神分析と政治理論』(共訳、岩波書店、2017年)がある。
登録情報
- 出版社 : 人文書院 (2018/3/9)
- 発売日 : 2018/3/9
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 296ページ
- ISBN-10 : 4409340514
- ISBN-13 : 978-4409340516
- Amazon 売れ筋ランキング: - 394,628位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 15,860位心理学 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2018年3月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2018年3月29日に日本でレビュー済み
本書は三部構成から成り、第一部でジャック・ラカンとその後に活躍する現代のラカン派の理論を俯瞰的に紹介したのち、第二部・第三部ではそれぞれ臨床と政治の分野においてラカン派理論が現代にあっていかなる知見を提出することができるかについて論じられています。
著者自身もあとがきで述べていますように、同著者による前著『人はみな妄想する』がフロイトからラカンそして現代ラカン派に至るまでの理論展開を追うものだったのに対してこちらは章ごとに異なる個別の主題について扱うものなので、かなり読みやすい構成になっているように思います。
本書の優れている点は何を差し置いてもその明晰さにあるように思えます。とりわけ第一部ではラカンによる本邦ではともするとその晦渋さが強調されてきた諸理論が最近の知見を取り混ぜつつごく平易に語られており、初学者でも十分に理解できるのみならず、文献についての情報も充実しているためラカン派による新しい理論をインストールするための手引書として有益です。
第二部・第三部ではラカン派の知見からより現代的な問題、すなわち「新型うつ病」やヘイトスピーチなどのトピックについて論じられます。ここでもやはり著者の論調は明晰であり、時事性のある諸問題について精神分析のみならず幅広い分野の研究に目配せしながらラカン派の理論が現代にあっていかなるアクチュアリティを有するかが示されています。しかもその議論が単なる漫談じみたものとならず、主題ごとに参照すべき議論に網羅的に言及した上でクリアで目新しい議論の切り口を提出する緊張感溢れるものとなっている点にも注目されるべきでしょう。
現代的な数多くの主題を論じてもなお議論の明快さを失わない、ラカン派による理論の持つ射程を明晰に示す良書かと思います。
著者自身もあとがきで述べていますように、同著者による前著『人はみな妄想する』がフロイトからラカンそして現代ラカン派に至るまでの理論展開を追うものだったのに対してこちらは章ごとに異なる個別の主題について扱うものなので、かなり読みやすい構成になっているように思います。
本書の優れている点は何を差し置いてもその明晰さにあるように思えます。とりわけ第一部ではラカンによる本邦ではともするとその晦渋さが強調されてきた諸理論が最近の知見を取り混ぜつつごく平易に語られており、初学者でも十分に理解できるのみならず、文献についての情報も充実しているためラカン派による新しい理論をインストールするための手引書として有益です。
第二部・第三部ではラカン派の知見からより現代的な問題、すなわち「新型うつ病」やヘイトスピーチなどのトピックについて論じられます。ここでもやはり著者の論調は明晰であり、時事性のある諸問題について精神分析のみならず幅広い分野の研究に目配せしながらラカン派の理論が現代にあっていかなるアクチュアリティを有するかが示されています。しかもその議論が単なる漫談じみたものとならず、主題ごとに参照すべき議論に網羅的に言及した上でクリアで目新しい議論の切り口を提出する緊張感溢れるものとなっている点にも注目されるべきでしょう。
現代的な数多くの主題を論じてもなお議論の明快さを失わない、ラカン派による理論の持つ射程を明晰に示す良書かと思います。
2019年11月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
何とか読了したが、なるほどと腑に落ちる納得感がなく、砂をかむような体験になってしまった
分析医が権威をまとう必要があることは理解する。したがって常人には理解しがたい難解な理論を展開することは自由にやればよい。しかしその理屈で社会を切るとか人間の本性が分析できるというのは全くの妄想だ。ラカンの枠組みがどんなに複雑に見えようと、社会や人間存在を語るには単純すぎる。はっきり言えば絵空事である。そういう事実を信奉者は全く分かっていないように思う
例えば有名な鏡像理論だが、私たちは鏡に映る像を見ておのれを客観視し自我を確立するのではない。すでに自我があるから像の意味を理解するのだ。ラカンに限らず、精神分析は大人の自分を子供に投影して乳幼児期をことさらカオスとして描き、その無力感を言い立てるが、もちろん彼らのほうがしっかりとした自我を持つのである。ファロスへの憧憬など噴飯物の下品なジョーク。数え上げればきりがない
もしかするとこうした事例にはラカンの切実な何かが体験として含まれているのかもしれないが、この特殊は到底普遍化できないものである
迷宮のように暗く複雑なラカンの原著には言い難い魅力がある。人間性への徹底的な拒否感、ネガティヴな未来像、人は結局現実には触れえないという無力感、他者を信頼できない世界で孤独からの脱出はあり得るのか。誰も十分に把握できない難解なテクストから、そういう気分だけは妙にリアルなものとして伝わってくる。ラカンの理論のどこにひかれたか、読者は自覚的であらねばならない
私は絶望感の漂う作品が好きだ。例えばラヴクラフト。しかし地球の様々な災害の原因が虎視眈々と人類征服を狙うグレート・オールド・ワンズの間歇的な接触のせいであるなどという図式を語りたいとは思わない。アウグスティヌスの信仰心に感激したからとて、神を信じたりはしない
ラカンを読む楽しみは否定しない。しかしその魔力には用心深くありたいし、ラカン理論のわかりやすい解説書や、他分野への応用は全く無意味だと思う
分析医が権威をまとう必要があることは理解する。したがって常人には理解しがたい難解な理論を展開することは自由にやればよい。しかしその理屈で社会を切るとか人間の本性が分析できるというのは全くの妄想だ。ラカンの枠組みがどんなに複雑に見えようと、社会や人間存在を語るには単純すぎる。はっきり言えば絵空事である。そういう事実を信奉者は全く分かっていないように思う
例えば有名な鏡像理論だが、私たちは鏡に映る像を見ておのれを客観視し自我を確立するのではない。すでに自我があるから像の意味を理解するのだ。ラカンに限らず、精神分析は大人の自分を子供に投影して乳幼児期をことさらカオスとして描き、その無力感を言い立てるが、もちろん彼らのほうがしっかりとした自我を持つのである。ファロスへの憧憬など噴飯物の下品なジョーク。数え上げればきりがない
もしかするとこうした事例にはラカンの切実な何かが体験として含まれているのかもしれないが、この特殊は到底普遍化できないものである
迷宮のように暗く複雑なラカンの原著には言い難い魅力がある。人間性への徹底的な拒否感、ネガティヴな未来像、人は結局現実には触れえないという無力感、他者を信頼できない世界で孤独からの脱出はあり得るのか。誰も十分に把握できない難解なテクストから、そういう気分だけは妙にリアルなものとして伝わってくる。ラカンの理論のどこにひかれたか、読者は自覚的であらねばならない
私は絶望感の漂う作品が好きだ。例えばラヴクラフト。しかし地球の様々な災害の原因が虎視眈々と人類征服を狙うグレート・オールド・ワンズの間歇的な接触のせいであるなどという図式を語りたいとは思わない。アウグスティヌスの信仰心に感激したからとて、神を信じたりはしない
ラカンを読む楽しみは否定しない。しかしその魔力には用心深くありたいし、ラカン理論のわかりやすい解説書や、他分野への応用は全く無意味だと思う
2023年9月20日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
難解だと言われるラカンを「ざっくり」理解する切っ掛けにはなると思います。そういう意味では役に立ちました。
とはいえ、さらに平易な言葉で文章を構成した方が、本の方向性と合っていた気がします。
何故か中途半端な感じで、難しめな言葉や文学的というか「こだわりがある」表記が所々に使われており……読者によっては、それで「分からない」となってしまうかも。
ただ、最も気になるのは、ラカン派を中心とした思想と一緒に展開される……現代社会や時事的な事柄に関する著者の見解が、非常に「お粗末」なことです。
それらを語る姿勢も、明確な根拠や論拠の提示が……ほぼ一切なく、酷く公正さを欠き、著しく「不適切」かと。辟易しました。
むしろ、明らかに民主主義の基本理念や人権意識に反する自らの態度に異様なほど無自覚な点は、著者の深刻な「病」を露呈しているように感じます。何より、異なる政治的立場の人達の人権に全く無配慮で、「敵」意識が丸出しな点などに。
(特に極端な場合は)右翼も左翼も表層の言説や立ち位置が違うだけで、「構造」としては同じでしょうし(それは最早、一般論では?)
同様に、(本書で自明のこととして「極右」扱いされている)近年の与党への強烈な敵対は、著者の主張にある「少し違う隣人に、本来なら享受できたはずの完全な充足を盗まれたと錯覚し、レイシズムが生まれる」と、全く同じ構造に見えます。
ご自身の政治的発言に対する没入と熱狂も、「右翼や与党」という「他者」に奪われた十全な享楽を奪還しようとする、空想(妄想)を動機とした闘争……そのものな気が。
客観的な観点からは、政治的に「右」な人のみを「絶対的な社会悪」といった勢いで糾弾できる理由を何処に置いているのかは、全く謎です。
左右では無く「権威主義」に対する批判なら、ともかく。
(本書が問題にするのはあくまでも右翼で、左翼思想を掲げる権威主義や社会的暴力も、同等に扱っているようには読めません)
もしくは……
「法は法」だから尊重する必要があるのではなく、「個人の公平さや客観性には限界がある」から、法やその根本理念を軽んじてはならない……みたいな社会に培われ、自戒的に共有されている良心という「他者性」を「排除したい」などの潜在的な情動の気配を、強く覚えます。
著者の研究者・精神科医としての思索や論考は、ご自身の根元的な「快楽」を損なわないための「防御壁」となっていて、そこに膨大なエネルギーが注がれている印象を受け、その「自我分裂」な様が興味深くはありますが。
ラカンを抜きにして、著者が展開されている政治や社会に対する認識や見解は誇張では無く、30年以上前のありふれた学生が(飲み会などで)語っていたような内容でそのもので……肩書きと責任がある方が本気で執筆していると考えると、そのイタさや違和感はナカナカです。
なお当然、著者が「左派」だからではありません。(私も政治的な立場は「リベラル」ですし)
仮に、立場の異なる(政治)思想でも、誠実で深い思慮や経験、豊富で体系的な知識が窺える内容なら、とても興味深いのですが。
最後に、少し別の観点から。
乱暴な発言になりますが、現実として多い印象なのですが……「心の専門家」という立場=「人々の上に立つ超越者」と無意識に誤認されているのでは?と、どうしても疑ってしまいます。
そういう方に特有な、自己陶酔と尊大さ(暴力性)や幼稚さが随所に見られ、個人的には不快な本でした。
勿論、実際の著者がどうかは分かりませんが。
ですが、謙虚で誠実な人柄の方は、専門外の事柄を話す(記す)時はより一層、慎重になるよう自ずと、配慮や自制ができるとは思います。
とはいえ、さらに平易な言葉で文章を構成した方が、本の方向性と合っていた気がします。
何故か中途半端な感じで、難しめな言葉や文学的というか「こだわりがある」表記が所々に使われており……読者によっては、それで「分からない」となってしまうかも。
ただ、最も気になるのは、ラカン派を中心とした思想と一緒に展開される……現代社会や時事的な事柄に関する著者の見解が、非常に「お粗末」なことです。
それらを語る姿勢も、明確な根拠や論拠の提示が……ほぼ一切なく、酷く公正さを欠き、著しく「不適切」かと。辟易しました。
むしろ、明らかに民主主義の基本理念や人権意識に反する自らの態度に異様なほど無自覚な点は、著者の深刻な「病」を露呈しているように感じます。何より、異なる政治的立場の人達の人権に全く無配慮で、「敵」意識が丸出しな点などに。
(特に極端な場合は)右翼も左翼も表層の言説や立ち位置が違うだけで、「構造」としては同じでしょうし(それは最早、一般論では?)
同様に、(本書で自明のこととして「極右」扱いされている)近年の与党への強烈な敵対は、著者の主張にある「少し違う隣人に、本来なら享受できたはずの完全な充足を盗まれたと錯覚し、レイシズムが生まれる」と、全く同じ構造に見えます。
ご自身の政治的発言に対する没入と熱狂も、「右翼や与党」という「他者」に奪われた十全な享楽を奪還しようとする、空想(妄想)を動機とした闘争……そのものな気が。
客観的な観点からは、政治的に「右」な人のみを「絶対的な社会悪」といった勢いで糾弾できる理由を何処に置いているのかは、全く謎です。
左右では無く「権威主義」に対する批判なら、ともかく。
(本書が問題にするのはあくまでも右翼で、左翼思想を掲げる権威主義や社会的暴力も、同等に扱っているようには読めません)
もしくは……
「法は法」だから尊重する必要があるのではなく、「個人の公平さや客観性には限界がある」から、法やその根本理念を軽んじてはならない……みたいな社会に培われ、自戒的に共有されている良心という「他者性」を「排除したい」などの潜在的な情動の気配を、強く覚えます。
著者の研究者・精神科医としての思索や論考は、ご自身の根元的な「快楽」を損なわないための「防御壁」となっていて、そこに膨大なエネルギーが注がれている印象を受け、その「自我分裂」な様が興味深くはありますが。
ラカンを抜きにして、著者が展開されている政治や社会に対する認識や見解は誇張では無く、30年以上前のありふれた学生が(飲み会などで)語っていたような内容でそのもので……肩書きと責任がある方が本気で執筆していると考えると、そのイタさや違和感はナカナカです。
なお当然、著者が「左派」だからではありません。(私も政治的な立場は「リベラル」ですし)
仮に、立場の異なる(政治)思想でも、誠実で深い思慮や経験、豊富で体系的な知識が窺える内容なら、とても興味深いのですが。
最後に、少し別の観点から。
乱暴な発言になりますが、現実として多い印象なのですが……「心の専門家」という立場=「人々の上に立つ超越者」と無意識に誤認されているのでは?と、どうしても疑ってしまいます。
そういう方に特有な、自己陶酔と尊大さ(暴力性)や幼稚さが随所に見られ、個人的には不快な本でした。
勿論、実際の著者がどうかは分かりませんが。
ですが、謙虚で誠実な人柄の方は、専門外の事柄を話す(記す)時はより一層、慎重になるよう自ずと、配慮や自制ができるとは思います。