松岡正剛さんの『擬 MODOKI 「世」あるいは別様の可能性』が、昨日届きました。
いきなり読まずに目次を見ると、不思議なタイトルがずらり。
第一綴 抱いて/放して
第ニ綴 きのふの空
第三綴 エクソフォニー
第四綴 顕と冥
第五綴 予想嫌い
第六綴 レベッカの横取り
…
第二十綴 マレビトむすび
とりあえず第五綴の「予想嫌い」に親近感を覚えて開くと、著書が病院で肺がんの宣告を受け、一瞬呆然となった頭を整理して、本書の執筆を決意するにいたる、というシーンでした。
それが真っ白な本の装丁と相まってとても印象的だったので、ああ、ここから読んでよかったな、と感じました。
短編集のように各綴をばらばらに読むことも可能ですが、もちろん頭から順に読んでこその醍醐味もあります。
たとえば「風が吹けば桶屋が儲かる」的に、各綴に登場したキーワードが少しずつ変化しながらリレーしていくところは、推理小説みたいでワクワクします。
そうした技巧的な構成や膨大な知識量とは裏腹に、読後感はあくまで静かでやわらか。
『擬』というタイトルのとおり、これは「もどく」こと、つまりさまざまな模倣について書かれた本です。
興味深いのは、質の高い模倣(とは書かれていないけれど、古今の例がたくさん引いてある)や「杜撰な模倣」はあっても、模倣するに値するものとか、値しないものという区別がないところ。
しかも、「杜撰な模倣」がダメだとも言っていないのがすごい。
遠く離れたものを結びつけようとするほど、そこには「ちぐはぐ」や「あべこべ」が生じる。
でも、それでかまわない。
どんどん境界をまたいでいきなさい。
何かを真似ようとするとき、どんな感覚が働いて、どんなところに憧れや魅力を感じ、どんなやり方で模倣するのか、そこをよく観察してみなさい。
失われた日本の、日本人の根幹としての在り方を、そこから手繰り寄せてみなさい。
そんなメッセージを受け取った気がしました。
散りてのちおもかげにたつ牡丹かな 蕪村
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擬 MODOKI: 「世」あるいは別様の可能性 単行本 – 2017/9/29
松岡 正剛
(著)
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購入オプションとあわせ買い
現代思想の雄、松岡正剛が超ジャンル的思索をベースに、現代の捉えがたい「世界」と「世間」をめぐって、縦横無尽に論を展開。来たるべき「世」を見据え、展望する。蕪村からミトコンドリア、アーリア主義からヒッグス粒子まで! 松岡正剛の乾坤一擲!
- 本の長さ288ページ
- 言語日本語
- 出版社春秋社
- 発売日2017/9/29
- ISBN-104393333543
- ISBN-13978-4393333549
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商品の説明
著者について
松岡 正剛(まつおか・せいごう)
1944年生まれ。編集者、著述家、日本文化研究者。編集工学を提唱。京都市出身。東京大学客員教授、帝塚山学院大学教授を歴任。現在、株式会社松岡正剛事務所代表取締役、編集工学研究所所長、イシス編集学校校長。主著に『17歳のための世界と日本の見方』『連塾 方法日本』、共著に『意身伝心』『匠の流儀』(いずれも春秋社)ほか多数。
1944年生まれ。編集者、著述家、日本文化研究者。編集工学を提唱。京都市出身。東京大学客員教授、帝塚山学院大学教授を歴任。現在、株式会社松岡正剛事務所代表取締役、編集工学研究所所長、イシス編集学校校長。主著に『17歳のための世界と日本の見方』『連塾 方法日本』、共著に『意身伝心』『匠の流儀』(いずれも春秋社)ほか多数。
登録情報
- 出版社 : 春秋社 (2017/9/29)
- 発売日 : 2017/9/29
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 288ページ
- ISBN-10 : 4393333543
- ISBN-13 : 978-4393333549
- Amazon 売れ筋ランキング: - 147,524位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1944年、京都市生まれ。早稲田大学仏文科出身。東京大学客員教授、帝塚山学院大学教授を経て、編集工学研究所所長、イシス編集学校校長。1971年に 伝説の雑誌『遊』を創刊。日本文化、経済文化、デザイン、文字文化、生命科学など多方面の研究成果を情報文化技術に応用する「編集工学」を確立。日本文化 研究の第一人者として「日本という方法」を提唱し、私塾「連塾」を中心に独自の日本論を展開。一方、2000年にはウェブ上でイシス編集学校と壮大なブッ クナビゲーション「千夜千冊」をスタート(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『 松岡正剛の書棚―松丸本舗の挑戦 (ISBN-13: 978-4120041327 )』が刊行された当時に掲載されていたものです)
イメージ付きのレビュー
5 星
【和製タロットカード】~ちぐはぐ色SOKUあちらこちら(-。-)y-゜゜゜~
数は震動する。たとえ11という素数だったとしても、そこに11という静止したウツツはなく、10.999…や11.001…といった具合によせてはかえす波がある。こんなことは数でも、顔でも何でもよい(^_-)-☆。私たちはパートナーの鼻や眼の外見的足し算で人を視ているのではなく、鼻は鼻の舞いを、眼は眼のふるえを眺めて、総合的周波数をつかまえて、あゝ、この人は朋だ恋人だと判断する毎日を繰り返している。本書は世界と世間を別々に視たうえで、両者をかわるがわるにインタースコアするよう仕向けられた和合の暴力とも云える一冊となっている。まあゝゝ勘がよい人に紹介するのであれば、『和製タロットカード』だという言の葉を用いて、あとは放置するかもしれない。矛盾なきちぐはぐである。「物を余るように生産しておいて(そうでないときは貨幣をだぶつかせ)、これを市場に通してリーズナブルな(とおぼしい)価格で捌きあい、物持ち物持たずの非対称なバランスを生んでいく」(271頁)という資本主義の裏側では、「貸し借りという出来事にはPL(損益計算書)やBS(貸借対照表)では説明がつかないような、資本主義の合理で済まそうとしても片付かないような、そんな変ちくりんなやりとり」(271頁)なる「多少の不埒」がとりあえずこの惑星ではおこっている。ここら辺が他の星々と異にする地球型惑星(全宇宙の1%にも満たないと云われる)の類稀に視る非創造性のだらしなき源なのだけれども、宇宙のキワ故に、それを好き好んであえてやってくる魂もいるのだから仕方がない。ついつい辺境や際に住みたがる愛すべき魂に贈りたい一冊。地球で「擬く」には、本書が踊り「あらわす」決定周波数を餌に潜在周波数を釣るくらいのラジヲ体操はしておく必要がある。ところで、地球のキワには何があるか・・・。バス停と橋がなぜか多い。境界もまた擬くから、ランドマークをついたてたくなってしまうものなのかもしれない。
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2017年9月30日に日本でレビュー済み
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2019年5月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
昨今何かにつけ二元論で語られることが多い。例えば、善悪、文系理系、メリットデメリット等。しかし、著者はそれらの間の曖昧さ「擬」こそが重要であるはずだと説く。確かに科学や文化はそのような中から形成されると思う。世の中の見方に別の角度がある事を教えてもらった。
2017年9月24日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
松岡正剛氏の新著『擬』が昨日届く。
いきなり読み始めずに、目次を眺める。
第二十章まである。表記は「第二十綴」。
「あとがき(表記は、"別様のあとがき")」から読んでもよかったのだが、僕は「第二十綴…マレビトむすび」から読み始めた。
『....「世」という本質の大半が首尾一貫しんくともかまわない「擬(もどき)」でできているということを、そろそろ歴史の大前提だと言い切ってしまうことである.....』
「ちぐ」「はぐ」、「あべ」「こべ」、「かわる」「がわる」という矛盾することが衝突にならない可能性をこの書で追ったと、正剛氏はいう。
彼辺(あべ)と此辺(こべ)、鎮具(ちぐ)と破具(はぐ)が分断をこえて一緒にに語ってもいいものになっていった、ともいう。
『...貸し借りという出来事にはPLやBSでは説明がつかないような、、資本主義の合理で済まそうとしても片付かないような、そんな変ちくりんなやりとりがおこっていて、それがさまざまに変じて哲学や宗教や文学や音楽に、先生や看護師やボランティアになってきたということなのだ....』
我々が首尾一貫しなくともかまわない「擬(もどき)」でできていることを、この書籍の「第一綴~第十九綴」を読むことを通じて、正剛氏と対話したい。
(の)
いきなり読み始めずに、目次を眺める。
第二十章まである。表記は「第二十綴」。
「あとがき(表記は、"別様のあとがき")」から読んでもよかったのだが、僕は「第二十綴…マレビトむすび」から読み始めた。
『....「世」という本質の大半が首尾一貫しんくともかまわない「擬(もどき)」でできているということを、そろそろ歴史の大前提だと言い切ってしまうことである.....』
「ちぐ」「はぐ」、「あべ」「こべ」、「かわる」「がわる」という矛盾することが衝突にならない可能性をこの書で追ったと、正剛氏はいう。
彼辺(あべ)と此辺(こべ)、鎮具(ちぐ)と破具(はぐ)が分断をこえて一緒にに語ってもいいものになっていった、ともいう。
『...貸し借りという出来事にはPLやBSでは説明がつかないような、、資本主義の合理で済まそうとしても片付かないような、そんな変ちくりんなやりとりがおこっていて、それがさまざまに変じて哲学や宗教や文学や音楽に、先生や看護師やボランティアになってきたということなのだ....』
我々が首尾一貫しなくともかまわない「擬(もどき)」でできていることを、この書籍の「第一綴~第十九綴」を読むことを通じて、正剛氏と対話したい。
(の)
2017年11月21日に日本でレビュー済み
松岡正剛は、私にとって、その頭の中を覗きたい数少ない人物である。あまりにも巨大で鬱蒼とした深い森なので、全体像は定かではないが、『擬(MODOKI)――「世」あるいは別様の可能性』(松岡正剛著、春秋社)によって、辛うじて手がかりを3つ見つけることができた。
手がかりの第1は、本書は280ページしかないが、腐葉土ともいうべきその根底には『松岡正剛 千夜千冊』(松岡正剛著、求龍堂、全7巻+特別巻)の膨大な読書体験が横たわっているということ。
「もともと酸素は生物にとってはきわめて危険な代物だった。・・・ところがどっこい、そんな酸素の毒性に耐えられる生命体がいた。有毒な酸素をつかってエネルギーを産生する連中だ。第一次あべこべ事件がおこったのだ。この連中こそミトコンドリアの祖先なのである。続いて、さらに意外なことがおこった。ミトコンドリアの遠い祖先であるこの連中が別の生命体の中に入りこんだのだ。横取りだったかもしれないし、乗っ取りだったかもしれない。そして、この2つの生命体の遺伝情報はまもなく相乗りをおこし、融合していった。第二次あべこべ事件だ。最近では、最初の移住者がαプロテオバクテリアらしいということもわかってきた」。αプロテオバクテリアの移住先が古細菌だったということにも言及されている。
手がかりの第2は、松岡の編集とは、上下、左右、前後、さらには時空を超えて、興味の赴くままにどんどん手を伸ばしていき、異質なものを自由気儘に組み合わせる知的作業だということ。その水平方向の広がりと、垂直方向の深さが常人とは隔絶していることは言うまでもない。
「文明も芸術も、経済も文化も、知識も学習も『あらわれている』を『あらわす』に変えてきた。そうみなしていいだろう。この『あらわれている』と『あらわす』のあいだには、かなりの変換がおこる。内なる『あらわれ』が外なる『あらわし』に変わるからだ。そこにはときに杜撰に見えることも、ちくはぐもあべこべもおこってきた」。
「ぼくの仕事の大半も『あらわれ』と『あらわし』とのあいだを、たえず行ったり来たりする。ぼくが相手にする『知』はまさしくサヴォワールに出入りする知というものだ。ぼくはそういう知を動かすことを『編集する』と呼んできた。『ずれの編集』あるいは『あいだの編集』だ。ただし、そこにはさまざまな紆余曲折が生じるので、あいだをつなげるにはそれなりの技法や方法が必要になる」。
「ぼくの仕事は編集である。その立ち位置は作家や学者にほど遠く、絵師や彫師などの職人にけっこう近い。職人の腕をもって世界と世間のあいだで情報を編集するわけだ。まちがっても正義や民主主義はふりかざさない。ふりかざせばボロが出る。ぼくにとっての情報はそもそも魔もので水ものなのである。編集は同質をめざさない。いつも異質や異物と一緒にいるほうを選ぶ。そこをまぜこぜに組み上げて『もうひとつの世間体』を用意する。それがぼくが選んだ編集という仕事なのである」。
「編集の仕事はどんなプロジェクトの中でも模倣や見立てをとりこんで、どんどんモドキをつくっていくことなのである」。
手がかりの第3は、「擬」にも見られるように、ある概念に意外性のある名を与え、新たな命を吹き込む名人だということ。遊び心と心のゆとりが為せる業だろう。この松岡一流のネーミングが、どれほど松岡ワールドに吸引力と臨場感を与えていることか。
「文字通りには『擬く』とは『何かに似せてつくる』ことをいう。擬装すること、扮装することがモドキで、そのように擬かれたものもモドキだった。何かに似せてつくるのだから、そうやってつくられたモドキはすべて『まがいもの』であって『まねもの』であり、ありていにいえば『にせもの』だ。つまりはイミテーションであって、フェイクであってシミュラークルであり、コスプレなのである。しかしそれは、どこか本質的なものやことに導かれたうえでのミミクリーや模倣にもなっていて、それゆえモドキは何かの近似体であって、何かの相似物であることを告知しつづけるものなのである」。
「モドキの方法はやがて『見立て』や『本歌どり』として、文芸や美術でも茶の湯でも和菓子でも発展する。そこからは百花繚乱で、とくに談林俳諧や川柳や浮世絵や狂歌があらわれてからは、モドキは流行にさえなっていった」。
本書の中で触れられている『外は、良寛。』(松岡正剛著、芸術新聞社)を無性に読みたくなってしまった。「良寛の書と生きざまをめぐった一冊だが、気がつくと、外は良寛だらけだったというメッセージをこめた。内なる良寛のこともさることながら、外にも良寛がエクソフォニックに滲み出ていったことを言いたかったのだ」と書かれては、手にしたくなるのは当然だろう。
途方もなく広く、目が眩むほど深く、ずしりと重い一冊である。
手がかりの第1は、本書は280ページしかないが、腐葉土ともいうべきその根底には『松岡正剛 千夜千冊』(松岡正剛著、求龍堂、全7巻+特別巻)の膨大な読書体験が横たわっているということ。
「もともと酸素は生物にとってはきわめて危険な代物だった。・・・ところがどっこい、そんな酸素の毒性に耐えられる生命体がいた。有毒な酸素をつかってエネルギーを産生する連中だ。第一次あべこべ事件がおこったのだ。この連中こそミトコンドリアの祖先なのである。続いて、さらに意外なことがおこった。ミトコンドリアの遠い祖先であるこの連中が別の生命体の中に入りこんだのだ。横取りだったかもしれないし、乗っ取りだったかもしれない。そして、この2つの生命体の遺伝情報はまもなく相乗りをおこし、融合していった。第二次あべこべ事件だ。最近では、最初の移住者がαプロテオバクテリアらしいということもわかってきた」。αプロテオバクテリアの移住先が古細菌だったということにも言及されている。
手がかりの第2は、松岡の編集とは、上下、左右、前後、さらには時空を超えて、興味の赴くままにどんどん手を伸ばしていき、異質なものを自由気儘に組み合わせる知的作業だということ。その水平方向の広がりと、垂直方向の深さが常人とは隔絶していることは言うまでもない。
「文明も芸術も、経済も文化も、知識も学習も『あらわれている』を『あらわす』に変えてきた。そうみなしていいだろう。この『あらわれている』と『あらわす』のあいだには、かなりの変換がおこる。内なる『あらわれ』が外なる『あらわし』に変わるからだ。そこにはときに杜撰に見えることも、ちくはぐもあべこべもおこってきた」。
「ぼくの仕事の大半も『あらわれ』と『あらわし』とのあいだを、たえず行ったり来たりする。ぼくが相手にする『知』はまさしくサヴォワールに出入りする知というものだ。ぼくはそういう知を動かすことを『編集する』と呼んできた。『ずれの編集』あるいは『あいだの編集』だ。ただし、そこにはさまざまな紆余曲折が生じるので、あいだをつなげるにはそれなりの技法や方法が必要になる」。
「ぼくの仕事は編集である。その立ち位置は作家や学者にほど遠く、絵師や彫師などの職人にけっこう近い。職人の腕をもって世界と世間のあいだで情報を編集するわけだ。まちがっても正義や民主主義はふりかざさない。ふりかざせばボロが出る。ぼくにとっての情報はそもそも魔もので水ものなのである。編集は同質をめざさない。いつも異質や異物と一緒にいるほうを選ぶ。そこをまぜこぜに組み上げて『もうひとつの世間体』を用意する。それがぼくが選んだ編集という仕事なのである」。
「編集の仕事はどんなプロジェクトの中でも模倣や見立てをとりこんで、どんどんモドキをつくっていくことなのである」。
手がかりの第3は、「擬」にも見られるように、ある概念に意外性のある名を与え、新たな命を吹き込む名人だということ。遊び心と心のゆとりが為せる業だろう。この松岡一流のネーミングが、どれほど松岡ワールドに吸引力と臨場感を与えていることか。
「文字通りには『擬く』とは『何かに似せてつくる』ことをいう。擬装すること、扮装することがモドキで、そのように擬かれたものもモドキだった。何かに似せてつくるのだから、そうやってつくられたモドキはすべて『まがいもの』であって『まねもの』であり、ありていにいえば『にせもの』だ。つまりはイミテーションであって、フェイクであってシミュラークルであり、コスプレなのである。しかしそれは、どこか本質的なものやことに導かれたうえでのミミクリーや模倣にもなっていて、それゆえモドキは何かの近似体であって、何かの相似物であることを告知しつづけるものなのである」。
「モドキの方法はやがて『見立て』や『本歌どり』として、文芸や美術でも茶の湯でも和菓子でも発展する。そこからは百花繚乱で、とくに談林俳諧や川柳や浮世絵や狂歌があらわれてからは、モドキは流行にさえなっていった」。
本書の中で触れられている『外は、良寛。』(松岡正剛著、芸術新聞社)を無性に読みたくなってしまった。「良寛の書と生きざまをめぐった一冊だが、気がつくと、外は良寛だらけだったというメッセージをこめた。内なる良寛のこともさることながら、外にも良寛がエクソフォニックに滲み出ていったことを言いたかったのだ」と書かれては、手にしたくなるのは当然だろう。
途方もなく広く、目が眩むほど深く、ずしりと重い一冊である。
2017年10月5日に日本でレビュー済み
数は震動する。
たとえ11という素数だったとしても、そこに11という静止したウツツはなく、10.999…や11.001…といった具合によせてはかえす波がある。
こんなことは数でも、顔でも何でもよい(^_-)-☆。私たちはパートナーの鼻や眼の外見的足し算で人を視ているのではなく、鼻は鼻の舞いを、眼は眼のふるえを眺めて、総合的周波数をつかまえて、あゝ、この人は朋だ恋人だと判断する毎日を繰り返している。
本書は世界と世間を別々に視たうえで、両者をかわるがわるにインタースコアするよう仕向けられた和合の暴力とも云える一冊となっている。
まあゝゝ勘がよい人に紹介するのであれば、『和製タロットカード』だという言の葉を用いて、あとは放置するかもしれない。
矛盾なきちぐはぐである。
「物を余るように生産しておいて(そうでないときは貨幣をだぶつかせ)、これを市場に通してリーズナブルな(とおぼしい)価格で捌きあい、物持ち物持たずの非対称なバランスを生んでいく」(271頁)
という資本主義の裏側では、
「貸し借りという出来事にはPL(損益計算書)やBS(貸借対照表)では説明がつかないような、資本主義の合理で済まそうとしても片付かないような、そんな変ちくりんなやりとり」(271頁)
なる「多少の不埒」がとりあえずこの惑星ではおこっている。
ここら辺が他の星々と異にする地球型惑星(全宇宙の1%にも満たないと云われる)の類稀に視る非創造性のだらしなき源なのだけれども、宇宙のキワ故に、それを好き好んであえてやってくる魂もいるのだから仕方がない。ついつい辺境や際に住みたがる愛すべき魂に贈りたい一冊。
地球で「擬く」には、本書が踊り「あらわす」決定周波数を餌に潜在周波数を釣るくらいのラジヲ体操はしておく必要がある。
ところで、地球のキワには何があるか・・・。
バス停と橋がなぜか多い。
境界もまた擬くから、ランドマークをついたてたくなってしまうものなのかもしれない。
たとえ11という素数だったとしても、そこに11という静止したウツツはなく、10.999…や11.001…といった具合によせてはかえす波がある。
こんなことは数でも、顔でも何でもよい(^_-)-☆。私たちはパートナーの鼻や眼の外見的足し算で人を視ているのではなく、鼻は鼻の舞いを、眼は眼のふるえを眺めて、総合的周波数をつかまえて、あゝ、この人は朋だ恋人だと判断する毎日を繰り返している。
本書は世界と世間を別々に視たうえで、両者をかわるがわるにインタースコアするよう仕向けられた和合の暴力とも云える一冊となっている。
まあゝゝ勘がよい人に紹介するのであれば、『和製タロットカード』だという言の葉を用いて、あとは放置するかもしれない。
矛盾なきちぐはぐである。
「物を余るように生産しておいて(そうでないときは貨幣をだぶつかせ)、これを市場に通してリーズナブルな(とおぼしい)価格で捌きあい、物持ち物持たずの非対称なバランスを生んでいく」(271頁)
という資本主義の裏側では、
「貸し借りという出来事にはPL(損益計算書)やBS(貸借対照表)では説明がつかないような、資本主義の合理で済まそうとしても片付かないような、そんな変ちくりんなやりとり」(271頁)
なる「多少の不埒」がとりあえずこの惑星ではおこっている。
ここら辺が他の星々と異にする地球型惑星(全宇宙の1%にも満たないと云われる)の類稀に視る非創造性のだらしなき源なのだけれども、宇宙のキワ故に、それを好き好んであえてやってくる魂もいるのだから仕方がない。ついつい辺境や際に住みたがる愛すべき魂に贈りたい一冊。
地球で「擬く」には、本書が踊り「あらわす」決定周波数を餌に潜在周波数を釣るくらいのラジヲ体操はしておく必要がある。
ところで、地球のキワには何があるか・・・。
バス停と橋がなぜか多い。
境界もまた擬くから、ランドマークをついたてたくなってしまうものなのかもしれない。
数は震動する。
たとえ11という素数だったとしても、そこに11という静止したウツツはなく、10.999…や11.001…といった具合によせてはかえす波がある。
こんなことは数でも、顔でも何でもよい(^_-)-☆。私たちはパートナーの鼻や眼の外見的足し算で人を視ているのではなく、鼻は鼻の舞いを、眼は眼のふるえを眺めて、総合的周波数をつかまえて、あゝ、この人は朋だ恋人だと判断する毎日を繰り返している。
本書は世界と世間を別々に視たうえで、両者をかわるがわるにインタースコアするよう仕向けられた和合の暴力とも云える一冊となっている。
まあゝゝ勘がよい人に紹介するのであれば、『和製タロットカード』だという言の葉を用いて、あとは放置するかもしれない。
矛盾なきちぐはぐである。
「物を余るように生産しておいて(そうでないときは貨幣をだぶつかせ)、これを市場に通してリーズナブルな(とおぼしい)価格で捌きあい、物持ち物持たずの非対称なバランスを生んでいく」(271頁)
という資本主義の裏側では、
「貸し借りという出来事にはPL(損益計算書)やBS(貸借対照表)では説明がつかないような、資本主義の合理で済まそうとしても片付かないような、そんな変ちくりんなやりとり」(271頁)
なる「多少の不埒」がとりあえずこの惑星ではおこっている。
ここら辺が他の星々と異にする地球型惑星(全宇宙の1%にも満たないと云われる)の類稀に視る非創造性のだらしなき源なのだけれども、宇宙のキワ故に、それを好き好んであえてやってくる魂もいるのだから仕方がない。ついつい辺境や際に住みたがる愛すべき魂に贈りたい一冊。
地球で「擬く」には、本書が踊り「あらわす」決定周波数を餌に潜在周波数を釣るくらいのラジヲ体操はしておく必要がある。
ところで、地球のキワには何があるか・・・。
バス停と橋がなぜか多い。
境界もまた擬くから、ランドマークをついたてたくなってしまうものなのかもしれない。
たとえ11という素数だったとしても、そこに11という静止したウツツはなく、10.999…や11.001…といった具合によせてはかえす波がある。
こんなことは数でも、顔でも何でもよい(^_-)-☆。私たちはパートナーの鼻や眼の外見的足し算で人を視ているのではなく、鼻は鼻の舞いを、眼は眼のふるえを眺めて、総合的周波数をつかまえて、あゝ、この人は朋だ恋人だと判断する毎日を繰り返している。
本書は世界と世間を別々に視たうえで、両者をかわるがわるにインタースコアするよう仕向けられた和合の暴力とも云える一冊となっている。
まあゝゝ勘がよい人に紹介するのであれば、『和製タロットカード』だという言の葉を用いて、あとは放置するかもしれない。
矛盾なきちぐはぐである。
「物を余るように生産しておいて(そうでないときは貨幣をだぶつかせ)、これを市場に通してリーズナブルな(とおぼしい)価格で捌きあい、物持ち物持たずの非対称なバランスを生んでいく」(271頁)
という資本主義の裏側では、
「貸し借りという出来事にはPL(損益計算書)やBS(貸借対照表)では説明がつかないような、資本主義の合理で済まそうとしても片付かないような、そんな変ちくりんなやりとり」(271頁)
なる「多少の不埒」がとりあえずこの惑星ではおこっている。
ここら辺が他の星々と異にする地球型惑星(全宇宙の1%にも満たないと云われる)の類稀に視る非創造性のだらしなき源なのだけれども、宇宙のキワ故に、それを好き好んであえてやってくる魂もいるのだから仕方がない。ついつい辺境や際に住みたがる愛すべき魂に贈りたい一冊。
地球で「擬く」には、本書が踊り「あらわす」決定周波数を餌に潜在周波数を釣るくらいのラジヲ体操はしておく必要がある。
ところで、地球のキワには何があるか・・・。
バス停と橋がなぜか多い。
境界もまた擬くから、ランドマークをついたてたくなってしまうものなのかもしれない。
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