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献灯使 単行本 – 2014/10/31
圧倒的な言葉の力で夢幻能のように描かれる’’超現実”の日本。
人間中心主義や進化の意味を問う、未曾有の傑作近未来小説。
- 本の長さ274ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2014/10/31
- ISBN-10406219192X
- ISBN-13978-4062191920
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商品の説明
著者について
多和田 葉子
多和田葉子
1960・3・23~。小説家、詩人。東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。ハンブルク大学修士課程修了。1982年よりドイツに住み、日本語・ドイツ語両言語で小説を書く。91年、「かかとを失くして」で群像新人文学賞受賞。93年、「犬婿入り」で芥川賞受賞。96年、ドイツ語での文学活動に対しシャミッソー文学賞を授与される。2000年、「ヒナギクのお茶の場合」で泉鏡花文学賞を受賞。同年、ドイツの永住権を獲得。また、チューリッヒ大学博士課程修了。2005年にはゲーテ・メダルを受賞するなど日本、ドイツ両国で活動。
登録情報
- 出版社 : 講談社 (2014/10/31)
- 発売日 : 2014/10/31
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 274ページ
- ISBN-10 : 406219192X
- ISBN-13 : 978-4062191920
- Amazon 売れ筋ランキング: - 390,915位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 105,398位文学・評論 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
【著者紹介】
多和田葉子(たわだ・ようこ)
小説家、詩人。1960年3月23日東京都中野区生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。ハンブルク大学大学院修士課程修了。文学博士(チューリッヒ大学)。
1982年よりドイツに在住し、日本語とドイツ語で作品を手がける。1991年『かかとを失くして』で群像新人文学賞、1993年『犬婿入り』で芥川賞を受賞。2000年『ヒナギクのお茶の場合』で泉鏡花文学賞、2002年『球形時間』でBunkamuraドゥマゴ文学賞、2003年『容疑者の夜行列車』で伊藤整文学賞、谷崎潤一郎賞、2005年にゲーテ・メダル、2009年に早稲田大学坪内逍遙大賞、2011年『尼僧とキューピッドの弓』で紫式部文学賞、『雪の練習生』で野間文芸賞、2013年『雲をつかむ話』で読売文学賞、芸術選奨文部科学大臣賞など受賞多数。2016年にドイツのクライスト賞を日本人で初めて受賞。2018年『献灯使』で全米図書賞翻訳文学部門受賞。
著書に『ゴットハルト鉄道』『飛魂』『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』『旅をする裸の眼』『ボルドーの義兄』『百年の散歩』『地球にちりばめられて』などがある。
ヨーロッパ、アメリカ、アジアでこれまで700回以上の朗読会を開いている。アメリカではスタンフォード大学、コーネル大学、マサチューセッツ工科大学など1999年以降多数の大学に招かれ、数日から数ヶ月滞在。著作は日本語でもドイツ語でも20冊以上出版されており、フランス語訳、英訳の他にも、イタリア語、中国語、ポーランド語、韓国語、ロシア語、オランダ語、スェーデン語、ノルウェー語などの翻訳が出ている。
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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英語版、日本語版を読んだ直後の感想は、日本の読者にとっても一筋縄ではいかない作品だなというものでした。当初は私も福島原発事故への政府の対応、マスメディアの自主規制など実際に経験したことを真っ先に連想したのですが、何度か読み返すうちに、単に原発事故の問題より、その根底にある、地方にリスクを押し付け都会が利益を享受するという非対称構造等、現代社会のより広範な問題について考えさせられるようになりました。20世紀の終わりから我々が浸ってきた、人の物理的移動も含めたグローバリズム、民営化、インターネットによる自由でより開かれた社会による価値観の多様化という政府、企業による上からのバラ色のお題目とは裏腹の、東京へのカネ、ヒト、情報の一極集中、地方の切捨て、ひたすら富、若さ、健康長寿そして自己実現(?)を希求しなければならないという価値観の暗黙の強制、コピーライターが作る怪しげなキャッチコピーやメデイアに現れる専門家に従ってのトレンド、コスパを求めるマスの中の一員としての商品、サービスの消費行動、デジタル化による情報の集中を通じての管理社会という現実。
未曾有の災害はこのような矛盾を見つめ直す絶好の機会だったはずですが、いつものように政府による広告、メデイア業界を総動員しての様々な火消し活動により根本的問題に目が向けられることは全く無く、日々の生活に追われる人々はプラトンの寓話にある洞窟の中にとどまり、これまでの流れは寧ろ加速したように思われます。本著は主人公を現実とは一見全く逆転した世界に置くことにより、以上述べたような我々が住むことを余儀なくされてきた世界の真実を逆に際立たせてくれるように思います。
その中でも言葉というものが、いわゆる非常時の中、あたかも大戦中の大本営発表を踏襲するかのように深刻な事態の矮小化のために徴用され、いかに捻じ曲げられ悪用されてきたか、現実を直視し前に進むためにも言葉というものがどれだけ大切なものかということを作中の言葉狩り、外来語の禁止、自主規制という事象により思い出させてくれるようです。海外貿易が禁止された中でも数少ない許可された品目が言葉であるにもかかわらず、破壊されつくした日本語には需要がないというのは象徴的な設定です。言葉をさまざまな圧力の中でどうやって守っていくか。日本語、ドイツ語を問わず独特の感性、こだわりを持つ作者が海外から冷静な目でこの国を見つめ、日本語空間という閉ざされたバブルの中で知らず知らずのうちに言葉の劣化に慣らされてしまったわれわれ読者に与えてくれたひとつの大きな命題と思います。
読み進むうちに終戦直後に被爆地の子供たちが経験した健康調査という名の人体実験的処遇、米国大気圏核実験地の周辺で行われた乳歯による放射線測定プロジェクト、はたまた、カズオイシグロのNever Let Me Goにあるクローン人間同士の交流、献体というテーマなど様々なことが想起されます。
とりわけ、百歳を超えても健康体の老人と対照的に頭脳明晰ながら着実に肉体が衰えてゆく曾孫との関係は、「苦海浄土」に登場する水俣病の胎内汚染により言語もおぼつかない孫の杢太郎少年の将来を案じながらも彼の中にに言いようのない神々しさを見出す老漁師との関係を思い起こさせます。石牟礼道子が水俣病と共に生きる人々の姿を通して描き出した、戦後日本の経済成長の中心としての東京とは対極にある失われてゆくこの国の原風景たる自然に抱かれ海の恵みと共に生きてきた地方の人々の美しいくらし。本作品では東京が価値の求心地ではなく災厄の中心としてのグラウンドゼロとし、主人公をその周縁に置く設定からも、著者が苦海浄土を意識していたことが容易に窺えます。
初めて英語版を手にしてから3年以上経ち、その間に疫病、ヨーロッパ情勢によりいわゆる先進国ではなにやら現実の世界そのものが本書の仮想世界に近付いてきた感があります。感染症予防、気候温暖化抑制という絶対的命題の下、本作に著されているような移動の禁止、言論の監視や検閲、異論の排除、はたまた食、健康管理に関わる個人の選択権への干渉がマスメディア、ソシアルメデイアプラットフォームを利用してトップダウンのかたちで顕在化し、さらには昨年から欧州の一部ではドストエフスキー等の著作が焚書の憂き目にあいチャイコフスキーの作品を演奏することが禁止されたり、あの今世紀最高のソプラノ、アンナネトレプコが母国のリーダーを批判しないという理由で自由と民主主義の庇護者を自認する国々の名だたるオペラハウスから出演禁止となるという少し前には想像もできなかったようなことが現実化してきました。作者の住む国では排出二酸化炭素量の削減を最大の公約としてきた政府が政治的理由からこれまで忌み嫌ってきた石炭火力発電を推進するというシュールな現象が起きています。日本語の言葉遊び等の点はともかく、少なくともストーリー設定については、不幸なことですが、海外読者にも本書がより現実感をもって受け止められる環境になったのではと思います。
世の中が目まぐるしく変わる中、数年後に本書を読めばまた違った思いを持たせてくれるのでは、という期待を抱かせてくれる奥深い作品だと信じます。
このドライな突き放した日本の描きかたは、日本から離れて暮らす著者ならではのものだと思う。
英訳タイトルは「The Emmisary」で、上の言葉遊びは消えてしまっている。アメリカで図書翻訳賞を取ったというが、どんな訳だったのだろうか。
ある単語を漢字の当て字で表現したり、漢字を解体して偏を取り去ったり。かなり高度な言葉遊びと見た。いずれも巧みだ。それに、どの言葉遊びにも必然性が感じられる。
収録作は、おおむねディストピアをテーマとしたもの。高齢者が死ねなくなり、逆に若い世代が病弱になったり、東日本大震災に伴う福島第一原発の事故ののちふたたび原発事故が発生した世界だったり、人類が滅亡したあとの動物たちの話し合いだったり。物語性はいずれも希薄に思えるが、もちろん、しっかりとしたストーリーにもなっている。
こうした世界になぜ言葉遊びが援用されるのだろうか。それはおそらく、世界認識、人間における対象の認識を問うているからだろう。単なる添え物で言葉遊びを取り入れているのではない。テーマとあまり関係のない言葉遊びを連ねているのでもない。いずれの言葉遊びもテーマに高い親和性を持っている。
それをどう読み取るかだが、意味は敢えて問わないほうがいいだろう。それよりも、言葉遊びがもたらす一種の不条理性に身を委ねるのがいいのではないか。わたしたちはふだん、冗談交じりに言葉遊びをもてあそんでいるが、それは対象を違った仕方で認識させようとするものだ。たとえば、「資格がなくても互角に勝負できる」というのがある。これは、ある業種で働く際に、公的資格がなくても働ける業種だから、裁量によって他の業者と渡り合えるという意味だ。このように、「資格」という言葉の意味をある程度異化していることになる。もちろん、この作品集に収められた言葉遊びのほうがはるかに高度なのだが。
ディストピアでは、人々は世界認識を新たにしなければならない。描かれている世界は尋常ではないのだ。そのことを想起させるために、描かれている世界を通常世界とは違うかたちで認識させるために、言葉遊びは援用されている。添え物のように読み飛ばすなかれ。どの言葉遊びも貴重である。
〇 しかしながら、なぜこの作品がそれほど評価されるのかわからない。日本の将来を示唆するものであるからか? 現代の社会のどこかにこのような状況に発展しかねない萌芽があるからか? かかる悲惨な状況の下での主人公の少年やその祖父の行動に見るべきものがあるからか?
〇 そもそもこの作品は日本の将来(のひとつの可能性)を描いているのか、あるいは日本に限らず人類の将来の可能性を描いているのか。それさえわからず途方に暮れております。
多和田葉子さんの文章を読むのは、エイモス・チュツオーラ『やし酒飲み』(岩波文庫)の解説以外でははじめてだったのですが、とても詩的な洗練された文章で、音楽に浸るように読めました。
独特な比喩の使い方や、読み方は同じなのに漢字を変えることで意味をずらす、ダジャレとはまた違った語感も新鮮でした。
(救助隊→救女隊など)
舞台は近未来の日本で、老人はたくましく元気に生きているのに、若者は若くあるほど体が弱く、歯も骨ももろく、どこか世界がゆっくり滅びかけているようなのですが、
世界は日本を含めて各国は「鎖国」しており、世界の全体像は誰にもわからない。
わたしは読みながら、多和田さんがドイツ在住だと思い出し、ここで語られる「鎖国」とは今のEUの社会問題が反映されているように思いました。
作中では、沖縄は農業の中心地で、本州からの移住を希望する者が後を絶たないと書かれた後に、しかし移住許可の条件が厳しいとあり、どうしても今のフランスやイギリスを想起させられます。
(あるいは本当に未来の日本の姿なのかも・・・)
でも、その日本の少年・無名(むめい)は、体が弱く、曽祖父が毎朝作ってくれるオレンジジュースを飲むのさえ一苦労だけれど、好奇心は旺盛。想像力も豊か。
物語の後半では、世界地図を見て、それを自分の体のように感じてしまうほど。
そして、名もなき子という意味の名の彼、無名は、夢か、あるいは未来の幻視か、やがて世界に旅立つために選ばれた『献灯使』になる。
物語はその旅立ちの前で終わります。
無名は果たしてその後、日本と切断されて久しい未知(世界)とどのように遭遇したのか。とても気になりました。
(でもたぶん、好奇心に溢れる彼になら、大人の心配など他所に、この世界はみずみずしい体験を与えてくれる鮮やかな新世界に映るはず)
まとめると、ディストピア的な未来と、どこか古事記のような土着的な感覚のブレンドされた、氷の透き通るように美しく、ほの暗く哀しく、幻想的な作品でした。
多和田さんの他の作品も読んでみようと思います。
(あと個人的なことなのですが今年は、この『献灯使』や町田康『告白』、赤坂真理『東京プリズン』、高橋弘希『送り火』、上田岳弘『私の恋人』など素晴らしい作品に出会えました。日本の文学もまだおもしろいです)
マスメディア各社が倒産寸前の状態にあって、われわれの日常が危殆に瀕している現在、「仮設住宅」に住む人々が新聞を取っているとか、倒産した新聞各社がまた復活しているとか、まあ、滅多にない冗談としか思えない。東日本大震災の当時、ニューヨークのウォール街はアメリカの若者たちに占拠されていた。人類の99パーセントが、今や危殆に瀕しているとして。