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人が人を裁くということ (岩波新書) 新書 – 2011/2/19

3.9 5つ星のうち3.9 41個の評価

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日本では裁判員裁判が市民の義務として捉えられ、欧米では司法参加が市民の権利として理解される。これはなぜか。また、冤罪事件が繰り返されるのには、どのような構造があるのか。本書はそこから、裁判という営みの本質へと分析を進める。犯罪や処罰についての常識を疑い、人間という存在を見つめなおす根源的考察。
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登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ 岩波書店 (2011/2/19)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2011/2/19
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 新書 ‏ : ‎ 224ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4004312922
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4004312925
  • 寸法 ‏ : ‎ 11 x 1 x 17.5 cm
  • カスタマーレビュー:
    3.9 5つ星のうち3.9 41個の評価

著者について

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小坂井 敏晶
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上位レビュー、対象国: 日本

2022年7月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
人が人を裁くということ (岩波新書)  小坂井敏晶

P141
人間行動は社会状況に強く影響される。かといって外因によって完全に決定されるわけではない。人格によっても行為は左右されるから各人の自由はある。したがって責任を負う必要もある。こう考えればよいのか。
しかし、人格という内的要因も元を質せば、親から受けた遺伝形質に、家庭教育や学校などの社会影響が作用して形成される。我々は結局、外来要素の沈殿物だ。私は一つの受精卵にすぎなかった。父と母の肉体の一部が結合して受精卵ができ、それに外界の物質・情報が加わってできたのが私だ。したがって、私が取る行動の原因分析を続ければ、行動の原因や根拠は最終的に私の内部に定立できなくなる。
私の生まれながらの形質や幼児体験が、私の性格を作り、行動を規定するなら、私の行為の原因は私自身に留まらず、外部にすり抜ける。遺伝形質と家庭教育が私の行動を決めるならば、犯罪を犯しても、そのような遺伝形質を伝え、そのような教育をした両親が責められるべきではないのか。どうして私に責任が発生するのか。もちろん、この論理は両親にも当てはまる。彼らにも、またその両親にも責任は負えない。この議論からわかるように、各人に固有の肉体的・精神的性質に行動を帰属させても、主体的責任は導けない。

P156
病気や怪我が原因で車イス生活を余儀なくされる人に対して、歩けないのは当人が悪い、自己責任だという暴論を我々は認めない。しかし行為の責任も同じ論理に依っている。両親から受け継いだ遺伝形質に、家庭教育や学校教育など後天的な影響が加わって人格ができる。そしてその人格が、その時々の社会条件に応じて行為を生む。だから善行であれ悪行であれ、行為の原因は当人をすり抜ける。悪人を処罰するということは、身体障害者に対して、それは自業自得だと突き放すのと変わりない。実は我々は、このような恐ろしいことをしているのだ。しかし、自由意志という虚構のおかげで、この論理構造が隠蔽される。

P159
自由だから責任が発生するのではない。逆に、我々は責任者を見つけなければならないから、つまり、事件のけじめをつける必要があるから、行為者が自由であり、意志によって行為がなされたと社会が宣言するのである。言い換えるならば、自由意志は、責任のための必要条件ではなく、逆に因果論的な発想で責任を把握する結果、論理的に要請される社会的虚構に他ならない。

以上のように、小坂井敏晶は書いています。そして、私たちの人生の生き方としては、「意識は語る――ラメッシ・バルセカールとの対話」で、ラメッシが語っているようになります。
実際には行為者はいないが、社会上は、みな行為者であると、ラメッシ・バルセカールは言っています。社会には行為者はいます。

意識は語る――ラメッシ・バルセカールとの対話 p378
あなたが「私はどんな態度を育てるべきか?」と尋ねる瞬間に、その元はまだ個人的行為者です。実際にはどんな行為者もいないことを理解して、そして、まるで自分が行為者であるかのように人生で行為し続ければ、そのときには適切な慈悲の態度が育つのです。つまり、人生において正しく適切だと自分が思うことをやりながら、他人に関しては適切な寛容の態度が育ち、自分に関してもふさわしい態度が育ちます。言い換えるなら、自分自身に対しては、最高の行動規範をもち、他人に対しては低い基準を受け入れるということです。「私はできるかぎりの愛と慈悲をもって行動しなければならない。でも他人はこの理解をもっていないかもしれないので、どんな行為が起こっても彼らの行為ではない」。こういった態度をもてば、寛容が育ちます。

意識は語る――ラメッシ・バルセカールとの対話 p579
「まるで」選択があるかのように生きる
【質問者】 現象は幻想であるという考え方全体は、ある種の罠となることもありえませんか?
【ラメッシ】 はい。それゆえ人生においては、自分は行為者でないと知りながら、まるで自分が行為者であるかのように生きなければならないということです。人間は虚構によって生きています。たとえば人間は、太陽が静止していて、運動しているのは地球だということを知っていますが、それにもかかわらず、日常生活では太陽が昇っては沈むという虚構を受け入れています。
ですからその理解は、これは幻想で、人は自由意志をもっていないというものですが、しかし人生では、あなたはまるで自由意志があるかのように行動しなければならないのです。
1人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2018年5月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
きちんと数字を出して各国の司法制度と比較して分析されているため面白かったです。
考えさせられました。
3人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2015年12月26日に日本でレビュー済み
人質司法と形容される日本だけでなくアメリカやヨーロッパでも刑事司法に問題を抱えていること、人間が文明社会を築くうえで犯罪は必然的に発生することなど興味深い内容でした。

国家から不当な人権侵害を受けないためにも刑事司法や犯罪を多面的に考えることが大事だと思います。
3人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2014年2月18日に日本でレビュー済み
法とは何か。裁判とは何か。
それを考えさせられる良書である。

職業裁判官にしても、裁判員にしても、
人が人を裁くという構造は変わらない。

では、職業裁判官が裁くことと、市民が裁くことの意味はどのように違うのだろうか。

人が人を“正しく裁く”ということはできるのだろうか。

裁くという行為の裏側にあることを、
丁寧に掘り下げていく。

法体系も裁判の様式も国によって異なり、
裁判の意味さえも国によって異なるという。

真実を究明する場か、断罪する場か。
更生を求める場か、被疑者の恨みをはらす場か。

誰がさばこうが、冤罪のリスクは少なからず残る。
また冤罪を極力避けようとすれば、犯罪者をそのまま野に放つリスクが高くなる。

このトレードオフの構造の中で、
裁判は行われる。

人が判断することなので、完璧なものなどあり得はしないし、
簡単に、どの制度がよいとか論じられるものではない。

しかし、人が人を裁くというその行為がどんな意味をもっているのかは、
各自が自覚しておくことが必要なのではないかと思わされる。

裁判員に選ばれて、裁判に参加することは、
国民が勝ち取った権利なのか、それとも義務なのか。

いくつもの問いが浮かんでくる。

“なぜ市民が裁くのか。職業裁判官の日常感覚は一般人とずれているから素人に任せる方が良いというような実務上の話ではない。犯罪を裁く主体は誰か、正義を判断する権利は誰にあるのか。これが裁判の根本問題だ。誰に最も正しい判決ができるかと問うのではない。論理が逆だ。誰の判断を正しいと決めるかと問うのだ。人民の下す判断を真実の定義とする、これがフランス革命の打ち立てた理念であり、神の権威を否定した近代が必然的に行き着いた原理である。”
17人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2011年2月22日に日本でレビュー済み
 法学者による裁判論は世間にあまたあるだろうが、社会心理学者によるそれは数少ないと思われる。本書はその稀有な例である。 
 とはいえ、社会心理学に大きく偏ったものではなく、基本的な論点や歴史的な事実には十分な目配りがなされている。例えば、参審制と陪審制の違いと、そのい背後にある考え方の相違などを明晰に分析しているのである。また、社会にとっての裁判の意義や、近代社会が前提とする自由や主体性などにもつっこんだ考察が見られる。本書はだから、「裁判」をめぐる諸言説の集約といってよいだろう。
 「裁判」について関心があるむきにとって、読んで損はない。
18人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2013年9月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
とても面白い。社会とか好きな人にはオススメ‼心になにか訴えられる感じ
1人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2019年9月23日に日本でレビュー済み
本書は3部構成になっていますが,著者のメインテーマである第3部(原罪としての裁き)には,少なくとも法制度論としては賛成できません。第3部の著者の主張を私なりに要約すると,次のとおりです。

(1)人間には「自由意思」(自分の行為を制御する能力)は備わっておらず,従って「責任」(自分の行為に対する非難可能性)というものはない。

(2)それにも関わらず,犯罪の行為者を犯人(=責任者)として処罰するのは,社会秩序を維持するために,犯罪のシンボルとして処罰される「スケープゴート」が必要だからである(歴史的には「魔女」や「動物」が選ばれたこともある)。

(3)「責任」と「罰」は表裏一体であり,責任があるから罰するのではなく,犯罪のシンボル(スケープゴート)として選ばれたものに「責任」があるとされる。

なお,第1部と第2部では,現実の裁判において「冤罪」を回避し難いことがデータに基づいて論証されており(そのこと自体に異論はありません),全体の流れとして読むと「冤罪犠牲者もスケープゴートとして理解すべき」というかの如くです。

しかし,著者の主張には2つの点で賛成できません。

第一に,人間には自由意思がないという著者の前提は,常識的に考えて俄かに信じ難いものですし,科学的にもまだ決着が着いていません(著者が根拠とする実験を行ったリベット自身もこれに同意していません)。

仮に,この前提が正しいとすれば,人が刑法その他の法律や契約を守って社会生活を営むことは凡そ不可能となるはずです。しかし,実際には,大多数の人は法律や契約を守って生活しており,だからこそ社会が成り立っています。法律や契約がフィクション(虚構)であることは論を待ちませんが,「大多数の人は法律や契約を守る」という事実はフィクションではないはずです。

第二に,著者のいうとおり,人間に自由意思がないとすれば,刑罰を正当化することは,もはや出来なくなるはずです。

著者は,「スケープゴートが必要だから」ということで刑罰が正当化される(現にされている)と考えているようですが,少なくとも,人権思想を基礎とする近代刑法においては,刑罰の正当化根拠として明らかに不十分です。仮に,これだけで十分だとすれば,行為者の処罰に留まらず,法律を理解できない責任無能力者や,さらには冤罪犠牲者の処罰も正当化されることになりかねません。

近代刑法は,まず「証拠による裁判」の原則を打ち立て,次に「責任主義」によって処罰対象にさらに絞りをかけました。著者は,冤罪が避け難いという現実と,責任は虚構であるという議論によって,近代刑法の2つの原則を無効化し,刑罰の正当化根拠を等閑視していると言わざるを得ません。冤罪は,理論的に回避不可能というものではなく,困難ではあっても,これを根絶するための不断の努力を続ける他ありません(そのための方策については,著者が引用文献として挙げる秋山賢三『なぜ裁判官は誤るのか』,浜田寿美男『自白の心理学』などが参考になります)。しかし,人間に自由意思がないということが科学的に証明された場合,刑罰という制度は廃止せざるを得ないと思います。
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2016年6月29日に日本でレビュー済み
冒頭の裁判員裁判の批判については、あくまで制度設計の課題というか、相対的な比較であり、必要な理由や日本人の特性という追求かどうかは不明です。
中盤では、警察や検察が裁判資料の形成にあたって、いかに大ざっぱに作業がなされているか、また加害者が心理的に形成される、冤罪の生まれる環境について考察が進められている。後半では、社会的に犯罪の示す意味や、なぜ犯罪が亡くならないかについて述べる。 犯罪の境界、という議論はとても大切だと思う。たとえば、本書は扱っていないが少年犯罪や「尊属殺人」なども、量刑がより軽く、重くなるという点では近接した範疇だが、近年どのように扱われているかなど社会的には興味がひかれるけれども、こうした関心よりは哲学的な問いが目につく。著者はディルケムを引用し、犯罪も高度な創造性もコインの両面、という独自の解釈で面白いが、ごく一般の市民が犯罪者になりうる、という危機感の指摘ではない。権力の暴走、への批判の書ではない。実証的な推論を好まれる読者にはおすすめしない。
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