静かに語りかけるような写真集であった。
何か説教臭いものではなく、そこに働く人々の日々の営みを普通に捉えることで、ものすごく訴求力のあるものになっていた。
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屠場 単行本 – 2011/3/12
本橋 成一
(著)
筑豊やチェルノブイリの記録を発信してきた本橋成一が、故なき職業差別と身分差別に抗いながら、大阪・松原の屠場でいのちと向き合う人びとを追った、渾身のドキュメント。
- 本の長さ128ページ
- 言語日本語
- 出版社平凡社
- 発売日2011/3/12
- ISBN-104582277837
- ISBN-13978-4582277838
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登録情報
- 出版社 : 平凡社 (2011/3/12)
- 発売日 : 2011/3/12
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 128ページ
- ISBN-10 : 4582277837
- ISBN-13 : 978-4582277838
- Amazon 売れ筋ランキング: - 661,074位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2011年7月15日に日本でレビュー済み
数年前、食肉は誰がどこでどうやって加工しているのか知りたくなって調べたことがある。きっかけは2005年4月に、エリック・シュローサー「ファストフードが世界を食いつくす」に書かれていた食肉加工場の劣悪環境の話を読んだから。
記憶に残っているのは、アメリカの牛肉加工大手タイソンフーズとナショナルビーフの食肉加工の現実。(Webにアップされているタイソンフーズの工場見学記などを読んだ)
おぼろげな記憶を元に食肉加工プロセスを書くと、成育した牛は一列に並べられ、一頭ずつ順番に食肉加工場に送り込まれ、送り込まれた肉牛は頭蓋骨に電動ピンポイントハンマーで一撃を与え気絶させ(ハンマーを打つ係の人がいる)、頸動脈を切って絶命させ(首を切る係の人がいる)、クレーンで後ろ足を釣り上げ(足をフックにかける係の人がいる)、大きなナイフを持った食肉職人が”たったかたー”と部位毎に切り分けていく。牛一頭を解体する時間は10分くらい(うろ覚え)の流れ作業で、アメリカ企業らしくこの10分をより短い時間に短縮し(食肉職人の動きの無駄を省く)いかにコストを下げるかが管理職の役割なんだとか。
ちなみに鶏肉の場合はもっとシステマチックで、生きた鶏の足をフックにかけると、ベルトコンベアが自動的に機械の中に鶏を吸い込み、機械から出てきたときには鶏の首ははねられ、毛は全部むしり取られている。らしい(うろ覚え)。
鶏のオートメーション加工はともかくとして、毎日牛を殺さなければならない加工場の人たちは大変な仕事だ、と思うのと同時に、こういう人がいるから私たちは肉が食えるんだな、と感謝するのである。米国食肉加工場の職場環境の劣悪さは置いといて。
で、その後2008年12月に内澤旬子「世界屠畜紀行」を読んで、やっぱり食える肉をつくる=生き物を殺して解体するというのは、生半可な事じゃないよな、と感じたのである。
何年か前から、教育に食育という概念を取り込もうなどという話が挙がっているけど、食肉解体工場を子供に見せるくらいのことをしないと本当の食育にはならんのじゃなかろか。と思ったりもした(私は子無しなので現実にどういう教育が行われているのか知らない)
で、本書。
前出の内澤旬子さんがtwitterで「本書は良い!」と断言していたので買ってみた。
本書は、大阪の松原というところにある食肉加工場に入り、食肉加工の現場を撮った写真集である。食肉加工につきものの”動物を殺す”事がメインではなく、どちらかと言えば、そこで働いている人たちが誇りを持って仕事をしている姿を捉えた写真集に仕上がっている。
写真そのものは良い感じなんだけど、本としての作りがあまりよろしくない。
まあ単純な話だけど、見開きで載っている写真の中央部、つまり写真にとっていちばん肝心なところが、本の折り返し(本の用語で「のど」の部分)に邪魔されて見づらいのだ。で、かなり多くのページが見開き写真なので、見づらく感じる写真が多いのだ。
写真も良いし紙質も良いし、何かもったいない。
記憶に残っているのは、アメリカの牛肉加工大手タイソンフーズとナショナルビーフの食肉加工の現実。(Webにアップされているタイソンフーズの工場見学記などを読んだ)
おぼろげな記憶を元に食肉加工プロセスを書くと、成育した牛は一列に並べられ、一頭ずつ順番に食肉加工場に送り込まれ、送り込まれた肉牛は頭蓋骨に電動ピンポイントハンマーで一撃を与え気絶させ(ハンマーを打つ係の人がいる)、頸動脈を切って絶命させ(首を切る係の人がいる)、クレーンで後ろ足を釣り上げ(足をフックにかける係の人がいる)、大きなナイフを持った食肉職人が”たったかたー”と部位毎に切り分けていく。牛一頭を解体する時間は10分くらい(うろ覚え)の流れ作業で、アメリカ企業らしくこの10分をより短い時間に短縮し(食肉職人の動きの無駄を省く)いかにコストを下げるかが管理職の役割なんだとか。
ちなみに鶏肉の場合はもっとシステマチックで、生きた鶏の足をフックにかけると、ベルトコンベアが自動的に機械の中に鶏を吸い込み、機械から出てきたときには鶏の首ははねられ、毛は全部むしり取られている。らしい(うろ覚え)。
鶏のオートメーション加工はともかくとして、毎日牛を殺さなければならない加工場の人たちは大変な仕事だ、と思うのと同時に、こういう人がいるから私たちは肉が食えるんだな、と感謝するのである。米国食肉加工場の職場環境の劣悪さは置いといて。
で、その後2008年12月に内澤旬子「世界屠畜紀行」を読んで、やっぱり食える肉をつくる=生き物を殺して解体するというのは、生半可な事じゃないよな、と感じたのである。
何年か前から、教育に食育という概念を取り込もうなどという話が挙がっているけど、食肉解体工場を子供に見せるくらいのことをしないと本当の食育にはならんのじゃなかろか。と思ったりもした(私は子無しなので現実にどういう教育が行われているのか知らない)
で、本書。
前出の内澤旬子さんがtwitterで「本書は良い!」と断言していたので買ってみた。
本書は、大阪の松原というところにある食肉加工場に入り、食肉加工の現場を撮った写真集である。食肉加工につきものの”動物を殺す”事がメインではなく、どちらかと言えば、そこで働いている人たちが誇りを持って仕事をしている姿を捉えた写真集に仕上がっている。
写真そのものは良い感じなんだけど、本としての作りがあまりよろしくない。
まあ単純な話だけど、見開きで載っている写真の中央部、つまり写真にとっていちばん肝心なところが、本の折り返し(本の用語で「のど」の部分)に邪魔されて見づらいのだ。で、かなり多くのページが見開き写真なので、見づらく感じる写真が多いのだ。
写真も良いし紙質も良いし、何かもったいない。
2016年3月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
著者の「上野駅の幕間」(現代書館版)が好きだったので購入しました。土本典昭氏の薫陶を受けた写真家だけのことはあり、”一般市民が知らないことになっている”「食肉センター」や「食肉処理場」というごまかし言葉を使わず、敢えて「賭場」という言葉を用いてそこで働く人たちを生き々々と捉えた一冊です。
2013年3月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
まあ、食育とか本の装丁などはともかくとして、本書が企画に上がる際に最も懸念されたのは間違いなく「差別」「部落」という問題。
写真集のテーマや構成においてちょっとでもミスがあると出版社的に非常に危険だと普通は判断し企画は潰れるのが一般的。
映画ロッキーでも食肉加工工場が出てくる。日本でも屠場を社会の暗部の様に腫物を扱う風潮はなくすべきだと感じた。
それが差別をなくすための第一歩になるのかもしれないと感じた。
殺生を禁ずる仏教国日本と、牛は人に食われるために神が作ったと考えるキリスト教原理主義アメリカとの差なのかもしれないが。
そういう視点から、本書は屠殺自体よりも日本にいまだ残るくだらない差別意識や旧態依然とする社会構造へのメッセージだと感じた。
そういう意味で二重にとてもテーマの重い写真集だ。
写真集のテーマや構成においてちょっとでもミスがあると出版社的に非常に危険だと普通は判断し企画は潰れるのが一般的。
映画ロッキーでも食肉加工工場が出てくる。日本でも屠場を社会の暗部の様に腫物を扱う風潮はなくすべきだと感じた。
それが差別をなくすための第一歩になるのかもしれないと感じた。
殺生を禁ずる仏教国日本と、牛は人に食われるために神が作ったと考えるキリスト教原理主義アメリカとの差なのかもしれないが。
そういう視点から、本書は屠殺自体よりも日本にいまだ残るくだらない差別意識や旧態依然とする社会構造へのメッセージだと感じた。
そういう意味で二重にとてもテーマの重い写真集だ。
2014年5月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この崇高な職業を全ての民が認識すべき。敬意をもってよみたい。焼き肉食うやつみんな見れ!!
2015年10月21日に日本でレビュー済み
南大阪ミートセンターを撮った写真集。センター改築前(80年代後半)と改築後(90年代中頃)の写真が混在している。
致命的な欠陥は活字情報の不備だ。写真の説明が少ないうえに読みにくい。
写真解説はなぜか巻末にあり、いちいちページを往復して写真と説明を照らし合わせる必要がある。
また、ページ番号がノドの部分に印刷されており見づらい。
南大阪ミートセンターに関する記述はこの『写真説明』と、巻頭に撮影者(本橋成一)が寄せた「ミートセンターで昼食を食った話(700字程度)」だけ。少なすぎる。
巻末に鎌田慧と吉田明が寄稿しているものの、写真とは無関係。
鎌田の話は大阪市食肉処理場の取材に関するものだし、後者は部落問題。
また、仕方のないことではあるが、写真は屠殺数が多かった時代のものだ。
食肉自由化後、屠場はかつての活気を失っており、そうした新しい情報を本著から窺い知ることはできない。
全編モノクロであることも残念だ。
色鮮やかな臓器、鮮血、虚ろな瞳の色。
色彩情報をぜひとも載せるべきだったと思う。
致命的な欠陥は活字情報の不備だ。写真の説明が少ないうえに読みにくい。
写真解説はなぜか巻末にあり、いちいちページを往復して写真と説明を照らし合わせる必要がある。
また、ページ番号がノドの部分に印刷されており見づらい。
南大阪ミートセンターに関する記述はこの『写真説明』と、巻頭に撮影者(本橋成一)が寄せた「ミートセンターで昼食を食った話(700字程度)」だけ。少なすぎる。
巻末に鎌田慧と吉田明が寄稿しているものの、写真とは無関係。
鎌田の話は大阪市食肉処理場の取材に関するものだし、後者は部落問題。
また、仕方のないことではあるが、写真は屠殺数が多かった時代のものだ。
食肉自由化後、屠場はかつての活気を失っており、そうした新しい情報を本著から窺い知ることはできない。
全編モノクロであることも残念だ。
色鮮やかな臓器、鮮血、虚ろな瞳の色。
色彩情報をぜひとも載せるべきだったと思う。
2011年6月12日に日本でレビュー済み
店の商品棚に並ぶ肉の数々…。
それらが牛豚鶏のなれの果てだということは頭では理解していても、
なかなか肉に卸す屠場という職業・職場を知ることはないと思う。
もしかしたら知らないように目を背けてきただけなのかもしれない。
そういう意味では前頁モノクロでまとめられた本書は圧巻である。
改めて食肉産業に従事する方々に敬意を感じるとともに、こうした職
業・職場があるということを知るべきであると思った。
それらが牛豚鶏のなれの果てだということは頭では理解していても、
なかなか肉に卸す屠場という職業・職場を知ることはないと思う。
もしかしたら知らないように目を背けてきただけなのかもしれない。
そういう意味では前頁モノクロでまとめられた本書は圧巻である。
改めて食肉産業に従事する方々に敬意を感じるとともに、こうした職
業・職場があるということを知るべきであると思った。
2012年10月2日に日本でレビュー済み
屠場という、現代においてもなお複雑な事情を孕み、実態が不明瞭で、そのため私たちには形容する術すらない空間を、見事に一冊の写真集として仕上げてしまった作者に敬意を表するしかない。
私は久しぶりに、写真の隅から隅までを眺め通すという作業の愉みを身に沁みるくらい感じた。本書の解説にある通り、屠場をテーマにこれほどまでその様態を克明に記録した作品は日本では初めてだろう。ではなぜそれが本橋成一なる人物に可能だったか? これは写真という芸術がそもそも、一人の人間が、その眼に映った全体や個を、その人自身の生の営みによって印画紙に焼き付ける全行程の記録に他ならないからだ。
試しに写真集を開き、そこにプリントされた人々の「顔」を見てみればいい。浅い被写界深度にも関わらず、ピントは全て、人々の「顔」面にピシッと合わせられているのが分かるだろう。皺の数さえ数えられるのではなかろうかという鮮明さ。被写体との間に一定の緊張感と親密さが育てられていないと、レンズを挟んで私と彼(彼女)の二者を精密に繋ぐこの集中力は獲得できまい。
テーマについて私はとやかく述べないがしかし、ひとたびこの写真集を開き視線を写真の一枚一枚に隈なく注ぎ、そして本を再び閉じたときには、ある確かな実感が私たち一人一人に体験されることだろう。
私は久しぶりに、写真の隅から隅までを眺め通すという作業の愉みを身に沁みるくらい感じた。本書の解説にある通り、屠場をテーマにこれほどまでその様態を克明に記録した作品は日本では初めてだろう。ではなぜそれが本橋成一なる人物に可能だったか? これは写真という芸術がそもそも、一人の人間が、その眼に映った全体や個を、その人自身の生の営みによって印画紙に焼き付ける全行程の記録に他ならないからだ。
試しに写真集を開き、そこにプリントされた人々の「顔」を見てみればいい。浅い被写界深度にも関わらず、ピントは全て、人々の「顔」面にピシッと合わせられているのが分かるだろう。皺の数さえ数えられるのではなかろうかという鮮明さ。被写体との間に一定の緊張感と親密さが育てられていないと、レンズを挟んで私と彼(彼女)の二者を精密に繋ぐこの集中力は獲得できまい。
テーマについて私はとやかく述べないがしかし、ひとたびこの写真集を開き視線を写真の一枚一枚に隈なく注ぎ、そして本を再び閉じたときには、ある確かな実感が私たち一人一人に体験されることだろう。