最初は相模原の事件について見ていて、この犯人が言ってることは間違っている気がするが、自分の言葉で説明できない。どうしても薄っぺらい言葉になってしまうな、という悩みからこの本を購入しました。
だから「何も出来ないどころか、生きてるだけで他人の手を借りなければいけない人が、生きていてもいい理由」を見つける事がこの本を読んだ目的です。
最初の方は実際に著者の経験談から、障害者の方との交流を通して得た知見を元にー重度障害者の方との接し方ー結局は人と人であるという考え方を読んで、今まで"いい人"でいる為に他人事として避けてきた事を反省しました。障害者も同じ人間である、という美辞麗句は確かに正しいですが、差別を無くすなら違いを意識しないことは遠回りでしかないという事がわかりました。考えてみれば当たり前なんですが、外国人と暮らす時にもし互いに英語が話せたとしても、外見の違いを無いものとして扱っても、文化の違いを考えなければ上手くいくはずが無いですよね。そういう意味で私は無意識で障害者に"こちら側"であることを求めていたんだなと自覚しました。お互いに気持ちのいいところを探る、という言葉はどちらかに合わせるのではなく、時には衝突しながらも最後には手を取り合えるという希望の言葉です。全員がそうではなく、どこかには理解し合える人もいるだろうという話なので、自分には途方もないことに思えていましたが、読んだ後にはそんなに分の悪い賭けじゃないな、チャレンジしてみようと思わせてくれました。
かなり分量を使ってしまいましたが、本題に移りたいと思います。つまり何も出来ない人も生きていていいのか、という話です。この何もできない人というのは、障害がありながら権利を獲得するため活動しているような人ではなく、自分で意思を伝える事も出来ない人達、もっと言うなら意思があるのかもわからない人達のことです。これに対する考えは受け取り方によって様々だと思うので、あくまでも自分の意見なのですが、私が本書から読み取ったメッセージは「彼らの存在は幸せを示すバロメーターの1つである」という事です。かなり身も蓋もないですが、彼らを見るとこの人が生きていていいんだから私も生きていていいんだ、と思える訳です。更にもし彼らを社会が経済的に支えられなくなれば、次に見捨てられるのは私かもしれません。だから彼らには生きる価値があり、人権は等しく認められなければならないのです。我ながら酷く冷めた考えだと思いますが、私はみんな大変なんだからとか、もっと辛い人もいるんだよとかの言葉が大嫌いで、だったらなんで生きてるんだよ俺ですら生きる理由を見つけられないのに、と思っていました。しかし何もできない人の生を肯定してみただけで、生きていていいんだという実感が湧いてきたのです。ただ自分にできる支え合いを実践していけばいいのだなと納得できました。
最近の社会を見ていると経済が下降調子で先が見通せない状況になり、やれ自己責任だ自分でどうにかしろという考えが(まぁ昔からですが)より蔓延しているように思われるように思われてなりません。確かに本当に国が立ち行かなくなったら支援の手も打ち切られるのかもしれませんが、どうかそうなる前に弱者を切り捨てることは本当に幸せへ繋がるのかを考え、そうならないようにどうするかを死ぬ気で考える人が増えればいいなと思います。この競争社会を否定するつもりは毛頭ありませんが、互いにマウントを取り合うことよりも大切なことがあるんだと思っている人がいて非常に嬉しかったです。
良い本に出会えました
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なぜ人と人は支え合うのか (ちくまプリマー新書) 新書 – 2018/12/6
渡辺 一史
(著)
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『こんな夜更けにバナナかよ』から15年、渡辺一史最新刊!
ほんとうに障害者はいなくなった方がいいですか?
今日、インターネット上に渦巻く次のような「問い」にあなたならどう答えますか?
「障害者って、生きてる価値はあるんでしょうか?」
「なんで税金を重くしてまで、障害者や老人を助けなくてはいけないのですか?」
「自然界は弱肉強食なのに、なぜ人間社会では弱者を救おうとするのですか?」
気鋭のノンフィクションライターが、豊富な取材経験をもとにキレイゴトではない「答え」を真摯に探究! あらためて障害や福祉の意味を問い直す。
障害者について考えることは、健常者について考えることであり、同時に、自分自身について考えることでもある。2016年に相模原市で起きた障害者殺傷事件などを通して、人と社会、人と人のあり方を根底から見つめ直す。
ほんとうに障害者はいなくなった方がいいですか?
今日、インターネット上に渦巻く次のような「問い」にあなたならどう答えますか?
「障害者って、生きてる価値はあるんでしょうか?」
「なんで税金を重くしてまで、障害者や老人を助けなくてはいけないのですか?」
「自然界は弱肉強食なのに、なぜ人間社会では弱者を救おうとするのですか?」
気鋭のノンフィクションライターが、豊富な取材経験をもとにキレイゴトではない「答え」を真摯に探究! あらためて障害や福祉の意味を問い直す。
障害者について考えることは、健常者について考えることであり、同時に、自分自身について考えることでもある。2016年に相模原市で起きた障害者殺傷事件などを通して、人と社会、人と人のあり方を根底から見つめ直す。
- 本の長さ256ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2018/12/6
- 寸法10.8 x 1.7 x 17.4 cm
- ISBN-104480683437
- ISBN-13978-4480683434
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対象商品: なぜ人と人は支え合うのか (ちくまプリマー新書)
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商品の説明
著者について
ノンフィクションライター。1968年、名古屋市生まれ。中学・高校、浪人時代を大阪府豊中市で過ごす。北海道大学文学部を中退後、北海道を拠点に活動するフリーライターとなる。2003年、札幌で自立生活を送る重度身体障害者とボランティアの交流を描いた『こんな夜更けにバナナかよ』(北海道新聞社、後に文春文庫)を刊行し、大宅壮一ノンフィクション賞、講談社ノンフィクション賞を受賞。2011年、2冊目の著書『北の無人駅から』(北海道新聞社)を刊行し、サントリー学芸賞、石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、地方出版文化功労賞などを受賞。札幌市在住。
登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2018/12/6)
- 発売日 : 2018/12/6
- 言語 : 日本語
- 新書 : 256ページ
- ISBN-10 : 4480683437
- ISBN-13 : 978-4480683434
- 寸法 : 10.8 x 1.7 x 17.4 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 20,273位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1968年名古屋市生まれ。北海道大学文学部を中退後、北海道を拠点に活動するフリーライターに。2003年に刊行した『こんな夜更けにバナナかよ』で大宅壮一ノンフィクション賞、講談社ノンフィクション賞、2011年に刊行した『北の無人駅から』でサントリー学芸賞、地方出版文化功労賞などを受賞。札幌市在住。E-mail:w.k@edia.jp
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2021年5月19日に日本でレビュー済み
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2020年8月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
福祉を生業とする人間が、忘れてはいけないことが、たくさん書かれています。
今一度、振り返って、自分の立ち位置と、人であり続けることの重要性を確認できました。
今一度、振り返って、自分の立ち位置と、人であり続けることの重要性を確認できました。
2021年10月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
自分の価値観の固定されていたことを思い知らされます。色んな考え方があるのでしょうが、多様性の中で自分もその多様性の一人だと感じます。時には自分のことだけじゃなく周りにいる人のこと考えたいです。
2020年3月26日に日本でレビュー済み
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みんなに読んで欲しいです。
そしたら、世の中暮らしやすくなります。
そしたら、世の中暮らしやすくなります。
2019年7月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
著者は元々、障害や福祉には関心がなかったようだ。そこからボランティアや取材をとおしての目線。ライターとしての批判的姿勢は鋭く、さりげなく痛いところを突いている。
それは障害を囲むホンネとタテマエ論や、福祉の経験者が必ずしも理解者とはいえない点、あるいは「一億総障害者」などという記述からして、専門家の紋切り型福祉論とは異なる新鮮味がある。また介護と介助の違いや、「障害者」という表記の問題、障害者制度の行き詰まりなど、細部且つ広範に目配せもしている。この辺は福祉関係者や当事者でも学びがあるように思う。
また「相模原障害者施設殺傷事件」をどう解釈するかは、私も他誌の特集などを気にして読んでいるが、本書でもその点は全章において通底している。「障害者は生きている価値があるのか」という問いへの模索に「私はこう思う」という書き方は、既成の押しつけではない、考えた末に言葉を選んだ誠実さの表れともいえるだろう。社会の仕組みや表裏を交えて、広い視点からバランスよく述べられている。それはいちばん本質の近くに導くかのようでもある。
植松被告の主張を抽象的に批判するばかりでなく、さまざまな意見が混じる現実社会。それをどう考えるかの材料は本書で与えられている。
それは障害を囲むホンネとタテマエ論や、福祉の経験者が必ずしも理解者とはいえない点、あるいは「一億総障害者」などという記述からして、専門家の紋切り型福祉論とは異なる新鮮味がある。また介護と介助の違いや、「障害者」という表記の問題、障害者制度の行き詰まりなど、細部且つ広範に目配せもしている。この辺は福祉関係者や当事者でも学びがあるように思う。
また「相模原障害者施設殺傷事件」をどう解釈するかは、私も他誌の特集などを気にして読んでいるが、本書でもその点は全章において通底している。「障害者は生きている価値があるのか」という問いへの模索に「私はこう思う」という書き方は、既成の押しつけではない、考えた末に言葉を選んだ誠実さの表れともいえるだろう。社会の仕組みや表裏を交えて、広い視点からバランスよく述べられている。それはいちばん本質の近くに導くかのようでもある。
植松被告の主張を抽象的に批判するばかりでなく、さまざまな意見が混じる現実社会。それをどう考えるかの材料は本書で与えられている。
2020年6月4日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
高齢者の在宅介護の経験があります。私の方が元気を頂く方が多かった。未熟な私の介護に我慢してもらう事も多くて、どっちが上なんでないなあと感じたものです。この本を読んで改めて思い出した感じです。
2021年1月30日に日本でレビュー済み
1.内容
読者にとって、「障害者」というのはどんなイメージだろうか?『24時間テレビ 愛は地球を救う』(日本テレビ)のように頑張るイメージだろうか?それとも、津久見やまゆり園で事件を起こした加害者が持っているようなイメージだろうか?著者が実際に会った障害者はそのどちらでもなく、極めて人間的な人たちである。そんな障害者と出会うことによって、健常者も変わる。また、障害者が要求することで健常者の利便性も増える(駅のエレベーターを想起)。このように、障害者についてあまり知らない人たち(レビュアーもたまにしか会わないから該当)に、障害者の実際、障害者運動の実際を示すことによって、それが社会的にどういう意味があるのかを探求した本である。
2.評価
(1)障害者にあまり会わないレビュアーとしては、著者の展開をおおむね受け入れざるを得ない。障害者運動のくだりは、健常者にとっても有益だろう。つまり、声を上げなければ権利が実現されることはなく、声を上げれば他人にとってもいい場合があるのである。
(2)ただ、レビュアーの読書経験のせいか、細かいところが気になったので、星1つ減らして星4つとする。
第1に、『24時間テレビ』を否定的に評価することはない。以前パオロ・マッツァリーノ『偽善のすすめ(略)』(河出書房新社)を読んだからか、『24時間テレビ』で障害者を知り(それが一面的であることは承知)、募金をしてくれるからである(もちろん、障害者の自立生活を否定する趣旨ではない)。第2に、「『ポリティカル・コレクトレス』」(p16)を出す必要はない。その主張も障害者の自立生活同様それなりの背景があるのである(『最新差別語 不快語』(小林健治、にんげん出版)p64を見よ)。なお『最新差別語 不快語』でも「障害者」(p66)などとなっており、「"人権派・良識派"」(p201)と書く必要もない(『最新差別語 不快語』の著者は、プロフィール欄によると、「部落解放同盟糾弾闘争本部の一員」なのだから、「"人権派"」のはずで、そういう人でも著者が批判する「障害者」の言いかえをしていない)。
読者にとって、「障害者」というのはどんなイメージだろうか?『24時間テレビ 愛は地球を救う』(日本テレビ)のように頑張るイメージだろうか?それとも、津久見やまゆり園で事件を起こした加害者が持っているようなイメージだろうか?著者が実際に会った障害者はそのどちらでもなく、極めて人間的な人たちである。そんな障害者と出会うことによって、健常者も変わる。また、障害者が要求することで健常者の利便性も増える(駅のエレベーターを想起)。このように、障害者についてあまり知らない人たち(レビュアーもたまにしか会わないから該当)に、障害者の実際、障害者運動の実際を示すことによって、それが社会的にどういう意味があるのかを探求した本である。
2.評価
(1)障害者にあまり会わないレビュアーとしては、著者の展開をおおむね受け入れざるを得ない。障害者運動のくだりは、健常者にとっても有益だろう。つまり、声を上げなければ権利が実現されることはなく、声を上げれば他人にとってもいい場合があるのである。
(2)ただ、レビュアーの読書経験のせいか、細かいところが気になったので、星1つ減らして星4つとする。
第1に、『24時間テレビ』を否定的に評価することはない。以前パオロ・マッツァリーノ『偽善のすすめ(略)』(河出書房新社)を読んだからか、『24時間テレビ』で障害者を知り(それが一面的であることは承知)、募金をしてくれるからである(もちろん、障害者の自立生活を否定する趣旨ではない)。第2に、「『ポリティカル・コレクトレス』」(p16)を出す必要はない。その主張も障害者の自立生活同様それなりの背景があるのである(『最新差別語 不快語』(小林健治、にんげん出版)p64を見よ)。なお『最新差別語 不快語』でも「障害者」(p66)などとなっており、「"人権派・良識派"」(p201)と書く必要もない(『最新差別語 不快語』の著者は、プロフィール欄によると、「部落解放同盟糾弾闘争本部の一員」なのだから、「"人権派"」のはずで、そういう人でも著者が批判する「障害者」の言いかえをしていない)。
2021年6月27日に日本でレビュー済み
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あらかじめ断っておくが、私は身内に障害者がいる。
精神疾患を患っていた時期もある。
そして、私自身は、自分の身内以外にも、そうした人々の支援にあたっている。
そのうえで、というよりは、だからこそ、タイトルのように主張させていただきたい。
端的に言うと、著者の言論はいかにも偽善的で、皮相的である。
対岸の火事を眺めるばかりで、その渦中に飛び込むこともなく、「火事を起こすからといって(=他人に迷惑をかけてしまうからといって)、叩くのは酷い」、「今回は火事を起こしてしまったかもしれないけど(迷惑をかけてしまったかもしれないけれど)、良いところだってあるんだ」などと吹聴する。
火事に巻き込まれている当事者が言うなら素晴らしいが、そうではないのだからたまったものではない。
挙句の果てには、「火事を起こしてくれる人がいるからこそ、火事を起こさない人の優秀さが際立つのだから、お互い様だ」というような主張まで展開するのだから呆れる。
要するに、著者は弱き者・失敗した者の擁護に傾倒し、「弱者叩き」に対して疑義を唱え続けるばかりで、弱者を叩く人たちの気持ちにはまったく寄り添わない。
そうした言論の偏向は、そもそも取材対象の著しい偏りから始まっている。
たとえば、著者は第一章で、相模原障害者施設殺傷事件を取り上げている。
障害者福祉施設の職員が「社会の迷惑になるだけだから」との理由で自分の務める施設の入居者を殺してしまった事件である。
この事件について、著者は「なるべく客観的に分析したい」(P40)と前置きしたうえで、著者は犯人の主張に同調する意見がネットで散見されることを挙げる。が、犯人寄りの意見についての取材はたったこれだけ。
一方で、犯人を糾弾する意見については、識者から念入りに取材している。しかし、この識者、家族に障害者がいて、この事件に対する立場は客観的とは言い難い。
さらに、フリーライターとしてこの事件を扱うからには、犯人に直接取材することが必要かと思われるが、なんと犯人の主張やその思想の内容は先述の識者からの又聞き。
挙げ句に、「客観的に」と前置きしたにもかかわらず、犯人の主張に同調する人たちの意見を、「酷い」(P44)と感情的に一蹴。
と、こんな具合に、「弱者は悪くない!」といういかにも道徳的な結論ありきの、非常に偏った取材と主張が繰り返される。挙げればきりがない。
この手の言論にはもう辟易だ。
『支援に関わる当事者』として、『ただの外野にすぎない筆者』にお願いしたい。
こういう一方の立場に与するだけのやり方では、断裂・分断が進むだけなのだ。
理想論・綺麗事・正論を振りかざしているだけでは、何も解決しないのだ。
なぜ支援者が、ときに支援するべき対象に殺意を覚えてしまうのか。
なぜ人々は「弱い人」につい苛ついてしまうのか。
弱い人たちにばかり味方していないで、そちらの方にも思いを馳せてほしい。
「怒られてしまう人」にばかり共鳴していないで、「怒ってしまう人」にも共感してほしい。
道徳心や同情心だけじゃあ務まらない地獄が、支援の現場には存在するのだ。
所詮、物書き。
口先だけでは、なにも変わらない。
精神疾患を患っていた時期もある。
そして、私自身は、自分の身内以外にも、そうした人々の支援にあたっている。
そのうえで、というよりは、だからこそ、タイトルのように主張させていただきたい。
端的に言うと、著者の言論はいかにも偽善的で、皮相的である。
対岸の火事を眺めるばかりで、その渦中に飛び込むこともなく、「火事を起こすからといって(=他人に迷惑をかけてしまうからといって)、叩くのは酷い」、「今回は火事を起こしてしまったかもしれないけど(迷惑をかけてしまったかもしれないけれど)、良いところだってあるんだ」などと吹聴する。
火事に巻き込まれている当事者が言うなら素晴らしいが、そうではないのだからたまったものではない。
挙句の果てには、「火事を起こしてくれる人がいるからこそ、火事を起こさない人の優秀さが際立つのだから、お互い様だ」というような主張まで展開するのだから呆れる。
要するに、著者は弱き者・失敗した者の擁護に傾倒し、「弱者叩き」に対して疑義を唱え続けるばかりで、弱者を叩く人たちの気持ちにはまったく寄り添わない。
そうした言論の偏向は、そもそも取材対象の著しい偏りから始まっている。
たとえば、著者は第一章で、相模原障害者施設殺傷事件を取り上げている。
障害者福祉施設の職員が「社会の迷惑になるだけだから」との理由で自分の務める施設の入居者を殺してしまった事件である。
この事件について、著者は「なるべく客観的に分析したい」(P40)と前置きしたうえで、著者は犯人の主張に同調する意見がネットで散見されることを挙げる。が、犯人寄りの意見についての取材はたったこれだけ。
一方で、犯人を糾弾する意見については、識者から念入りに取材している。しかし、この識者、家族に障害者がいて、この事件に対する立場は客観的とは言い難い。
さらに、フリーライターとしてこの事件を扱うからには、犯人に直接取材することが必要かと思われるが、なんと犯人の主張やその思想の内容は先述の識者からの又聞き。
挙げ句に、「客観的に」と前置きしたにもかかわらず、犯人の主張に同調する人たちの意見を、「酷い」(P44)と感情的に一蹴。
と、こんな具合に、「弱者は悪くない!」といういかにも道徳的な結論ありきの、非常に偏った取材と主張が繰り返される。挙げればきりがない。
この手の言論にはもう辟易だ。
『支援に関わる当事者』として、『ただの外野にすぎない筆者』にお願いしたい。
こういう一方の立場に与するだけのやり方では、断裂・分断が進むだけなのだ。
理想論・綺麗事・正論を振りかざしているだけでは、何も解決しないのだ。
なぜ支援者が、ときに支援するべき対象に殺意を覚えてしまうのか。
なぜ人々は「弱い人」につい苛ついてしまうのか。
弱い人たちにばかり味方していないで、そちらの方にも思いを馳せてほしい。
「怒られてしまう人」にばかり共鳴していないで、「怒ってしまう人」にも共感してほしい。
道徳心や同情心だけじゃあ務まらない地獄が、支援の現場には存在するのだ。
所詮、物書き。
口先だけでは、なにも変わらない。