私は無着成恭氏より若干年下、やまびこ学校の子供たちより年上。高度成長期のものづくりに携わってきた。
都市は栄え、村は崩壊した。自分のしてきたことが本当に正しかったのか、考えてしまう。
それでも私達の時代は、中抜きだけが儲かる今の時代よりはましだった気もする。
日本の来し方行く末をエンドレスに考えさせられる論考である。
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遠い「山びこ」: 無着成恭と教え子たちの四十年 (新潮文庫 さ 46-7) 文庫 – 2005/4/1
佐野 眞一
(著)
- 本の長さ514ページ
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日2005/4/1
- ISBN-104101316376
- ISBN-13978-4101316376
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登録情報
- 出版社 : 新潮社 (2005/4/1)
- 発売日 : 2005/4/1
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 514ページ
- ISBN-10 : 4101316376
- ISBN-13 : 978-4101316376
- Amazon 売れ筋ランキング: - 664,997位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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著者について
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1947(昭和22)年東京生れ。
出版社勤務を経てノンフィクション作家に。主著に、民俗学者・宮本常一と渋沢敬三の交流を描いた『旅する巨人』(大宅賞)、エリートOLの夜の顔と外国人労働者の生活、裁判制度を追究した『東電OL殺人事件』、大杉栄虐殺の真相に迫り、その通説を大きく覆した『甘粕正彦 乱心の曠野』『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』など多数。
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2018年7月29日に日本でレビュー済み
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最初は図書館で借りて読みましたが、やはり手元に置いてじっくり読む必要があると感じ、購入しました。山びこ学校と無着成恭に関心のある人なら、必読文献でしょう。とくに山びこ学校を卒業した人たちのその後を、丹念に追っていく手法は圧巻です。ここまで丹念に山びこ学校と無着成恭に肉薄した作品はないと思いました。唯一の問題点といえば、やはりジャーナリストの視点が強すぎることでしょうか。
2008年9月21日に日本でレビュー済み
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林竹二や斎藤喜博など日本の民主教育を築いた人々はすでに
他界した。無着は昨年ラジオに登場して皆を驚かせた。
あの、懐かしい東北弁での教育相談である。やはり、この本
にあるとおり無着は教育実践一筋の人間である。すばらしい
実践の軌跡であった、感動した。
他界した。無着は昨年ラジオに登場して皆を驚かせた。
あの、懐かしい東北弁での教育相談である。やはり、この本
にあるとおり無着は教育実践一筋の人間である。すばらしい
実践の軌跡であった、感動した。
2012年11月5日に日本でレビュー済み
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この7月、大津の中学生が昨秋自殺したことに関し、「いじめ」が原因だったのではないか、との疑惑についての話題がマスコミをにぎわしていた。やりきれない気持ちになっていたそんな時期に私はとある古本屋の棚に文庫本「山びこ学校」を見つけ、入手した。この本を買うのは3冊目である。1冊は既に知人にさし上げたが、家の本棚にも1冊あるのを知っての上での入手である。そしてあとがきをむさぼるように読み始めた。国分一太郎氏や鶴見和子氏の文章を読み、ほっと一息ついた。
「これを読めばいいのだ。ここに答えがあるじゃないか。」そんな安心感を確認した。
そもそも「山びこ学校」に出合ったのは、幼少期に見た映画である。「先生、お芋が煮えただよう。」いや、カボチャだったかもしれないが、そんなセリフを、後日家族中で何度も繰り返して言い合っては笑い合った。母などは、この「山びこ学校」に、ずいぶんと元気づけられたのではなかったか? 惨めに貧しい日々を、なんとか明るく「から元気」を出してやってこられたのも、この精神、この生き方を、強い共感を持って受け入れたためではないだろうか、と思う。その「山びこ学校」のその後について書かれたこの本は、言うまでもなく興味深く読むに至った次第である。すぐれたレヴューが既にいくつも書かれているので、私のそれはきわめて空疎で個人的な感想になることをご容赦願うが、この本によって「山びこ学校」の歴史的意義を知り得たこと、いまだに光を放って輝き続けている、との確信を持てたことについて、著者には深く敬意を表したい。
「これを読めばいいのだ。ここに答えがあるじゃないか。」そんな安心感を確認した。
そもそも「山びこ学校」に出合ったのは、幼少期に見た映画である。「先生、お芋が煮えただよう。」いや、カボチャだったかもしれないが、そんなセリフを、後日家族中で何度も繰り返して言い合っては笑い合った。母などは、この「山びこ学校」に、ずいぶんと元気づけられたのではなかったか? 惨めに貧しい日々を、なんとか明るく「から元気」を出してやってこられたのも、この精神、この生き方を、強い共感を持って受け入れたためではないだろうか、と思う。その「山びこ学校」のその後について書かれたこの本は、言うまでもなく興味深く読むに至った次第である。すぐれたレヴューが既にいくつも書かれているので、私のそれはきわめて空疎で個人的な感想になることをご容赦願うが、この本によって「山びこ学校」の歴史的意義を知り得たこと、いまだに光を放って輝き続けている、との確信を持てたことについて、著者には深く敬意を表したい。
2012年3月29日に日本でレビュー済み
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戦後すぐの教育において、理論やイデオロギーではなく、がむしゃらに子どものことを考える教員がいて、自分のこと家族のこと地域のことを真剣に考える中学生がいて、考えるために書いた文章が授業記録となって残せたことはこの状況の中でしかあり得ない奇跡として資料をもとに描かれている。僕はこの本を読んでから岩波文庫の「山びこ学校」をじっくり読んだ。生活のための労働で学校に来れない同級生をみんなで労働を分け合って学校に来れるようにしたり、中学生が働いて文集「きかんしゃ」を出す経費を算段することも学校教育の一部であったことが、違和感なく、心が動かされるのは時代背景や一人ひとりの子どもの状況を丹念に取材してある「遠い山びこ」による。一人が山に向かって叫ぶ山びこではなく、シンフォニーの山びこのように聞こえた。自分のこと、家族のこと、住んでいる町のことを真剣に考えなければならないという動機づけが今の学校教育において、実現可能なのかが気にかかる。新潮文庫に「遠い山びこ」が手に入るようにしてもらいたい。
2006年5月3日に日本でレビュー済み
昭和40年代生まれの私は「やまびこ学校」の存在を全く知らなかった。教師をしていた無着成恭もラジオで人生相談をやっていた人という記憶があるくらいで(思い違いかもしれないが)、どんな人物かは全く知らなかった。知っていた人(当事者以外の)にとっても、この作品が最初に発表された‘92年の時点では記憶の彼方に去ってしまった出来事だったに違いないのではないか。
著者がこの作品を書いたのは極めて私的なきっかけである。彼は、無着と当時の生徒43名のその後を取材することで、「やまびこ学校」がもたらしたもの、高度経済成長以降の戦後民主義教育の変遷を辿ろうとしているのだが、無着成恭と佐藤藤三郎を除いて本当に市井の一般人ばかりである。しかも、零細な兼業農家の子供だった生徒の多くは、卒業後が村を出てしまっている。取材当初は生死がわからなかった人物もいる。言葉は悪いが失踪人調査のようである。それでも著者は生徒全員のその後を調査してしまう。一人くらいわからなくても、作品の出来には影響ないのになぁとは思うのだが、そうしないのが佐野眞一らしい。
彼はこの作品の結論を、農業の荒廃と引きかえに達成されたのが戦後教育の高度化であり、教育の荒廃であると記している。教育問題を良く考えたことない私でも、彼の言うことが全てであるとは思えないが、ある一面は捉えているのではないかと感じられた。そして、著者の思い込みは感じられるにしても、大上段から机上の空論みたいなものを述べられるよりも余程説得力があった。
粘っこい文章と思い込みの激しさは好き嫌いが分かれるとは思うが、膨大な資料と格闘し丹念な取材を行うことによって成立した、実に著者らしい作品である。
著者がこの作品を書いたのは極めて私的なきっかけである。彼は、無着と当時の生徒43名のその後を取材することで、「やまびこ学校」がもたらしたもの、高度経済成長以降の戦後民主義教育の変遷を辿ろうとしているのだが、無着成恭と佐藤藤三郎を除いて本当に市井の一般人ばかりである。しかも、零細な兼業農家の子供だった生徒の多くは、卒業後が村を出てしまっている。取材当初は生死がわからなかった人物もいる。言葉は悪いが失踪人調査のようである。それでも著者は生徒全員のその後を調査してしまう。一人くらいわからなくても、作品の出来には影響ないのになぁとは思うのだが、そうしないのが佐野眞一らしい。
彼はこの作品の結論を、農業の荒廃と引きかえに達成されたのが戦後教育の高度化であり、教育の荒廃であると記している。教育問題を良く考えたことない私でも、彼の言うことが全てであるとは思えないが、ある一面は捉えているのではないかと感じられた。そして、著者の思い込みは感じられるにしても、大上段から机上の空論みたいなものを述べられるよりも余程説得力があった。
粘っこい文章と思い込みの激しさは好き嫌いが分かれるとは思うが、膨大な資料と格闘し丹念な取材を行うことによって成立した、実に著者らしい作品である。
2005年6月21日に日本でレビュー済み
本書の第一義的な価値は、戦後間もない昭和24,5年頃、山形の山村の中学で行われた、師範学校出たての一教員による希有な教育の実践を明らかにしていることであろう。後に「やまびこ学校」と呼ばれ、戦後の作文教育に一時代を画したその教育実践を、筆者は執念とも言える情熱で追跡し、調査し掘り起こし、その実態を明らかにしているのだ。見事である。
しかし本書の価値はそれにとどまらない。真の価値は、無着成恭とその教え子たちのその後の40年を詳細に調査する中で、戦後教育の栄光と挫折に至る過程を明らかにし、その原因をさぐる新しい視点を提示している点にある。教育に携わる人々にとって必読の書と言えるのではあるまいか。
しかし本書の価値はそれにとどまらない。真の価値は、無着成恭とその教え子たちのその後の40年を詳細に調査する中で、戦後教育の栄光と挫折に至る過程を明らかにし、その原因をさぐる新しい視点を提示している点にある。教育に携わる人々にとって必読の書と言えるのではあるまいか。
2002年5月19日に日本でレビュー済み
本書は戦後民主主義教育の金字塔と歌われた『山びこ学校』の関係者を、四十年後に追ったノンフィクションである。
ただし回顧録的な内容を示すものでなく、広く『山びこ学校』という教育運動を全体的に捉えようとした試みの集積といってよい。大雑把な整理が許されるのならば、本書で示された試み全体は、山形県に位置する一中学校の一クラスで行われた特異な教育運動とその後を検証してみることで、戦後日本がいかなる変化を遂げてきたのかを探るものだといえる。
これほど壮大な試みをやりきった筆者の野太い姿勢は、極めて大きな危機感から発されている。受験戦争に翻弄され、その精神を疲労させていく小中学生たちの顔を駅前でかいま見ていた著者は、自分の息子が持ってきた卒業文集に、どれもこれも同じ文体、同じ発想の鋳型で貫かれ、まるで、学校という加工工場からベルトコンベアーで運ばれた文章のブロイラーを」見る(429頁)。
『山びこ学校』に記された赤裸々な作文と比較するにつけ、著者に見えてくるのは「文章のもつ力は、なぜこれほどまでそこなわれてきたのか」(430頁)という現代の教育現場の問題、ひいては現代日本の問題であった。
本書は、戦後教育の姿が変容していく様子を捉えるものであり、また戦後日本農業の変遷を追うものであり、マスメディアの戦後史とも言えるようなものであり、「学ぶこと=生きること」の意味が変遷していく姿を追うものであり、・・・。数多くの参考文献・多くの人たちへのインタヴューはこれら複雑に入り組んだ巨大な問題をなんとか読み解こうとした姿勢によって成されたものだ。骨太な姿勢は本書の中どこかしこに溢れている。
ただし回顧録的な内容を示すものでなく、広く『山びこ学校』という教育運動を全体的に捉えようとした試みの集積といってよい。大雑把な整理が許されるのならば、本書で示された試み全体は、山形県に位置する一中学校の一クラスで行われた特異な教育運動とその後を検証してみることで、戦後日本がいかなる変化を遂げてきたのかを探るものだといえる。
これほど壮大な試みをやりきった筆者の野太い姿勢は、極めて大きな危機感から発されている。受験戦争に翻弄され、その精神を疲労させていく小中学生たちの顔を駅前でかいま見ていた著者は、自分の息子が持ってきた卒業文集に、どれもこれも同じ文体、同じ発想の鋳型で貫かれ、まるで、学校という加工工場からベルトコンベアーで運ばれた文章のブロイラーを」見る(429頁)。
『山びこ学校』に記された赤裸々な作文と比較するにつけ、著者に見えてくるのは「文章のもつ力は、なぜこれほどまでそこなわれてきたのか」(430頁)という現代の教育現場の問題、ひいては現代日本の問題であった。
本書は、戦後教育の姿が変容していく様子を捉えるものであり、また戦後日本農業の変遷を追うものであり、マスメディアの戦後史とも言えるようなものであり、「学ぶこと=生きること」の意味が変遷していく姿を追うものであり、・・・。数多くの参考文献・多くの人たちへのインタヴューはこれら複雑に入り組んだ巨大な問題をなんとか読み解こうとした姿勢によって成されたものだ。骨太な姿勢は本書の中どこかしこに溢れている。