戦国武将をテーマにした娯楽を江戸時代から変遷を追うユニークな視点での本。
近代以前は史実は曖昧なまま、歴史創作が娯楽として消費されてきた。娯楽のみとしてではなく、そこから道徳的教訓を得ようとし、その道徳には多分に社会の空気に影響されてきた。史実の正確さよりもその時代の価値観の代弁者として戦国武将は利用されてきたと筆者は検証していく。
信長、秀吉、家康の三英傑ですらその時代の価値観により、評価は乱高下し利用されてきた事を明らかにしていく。
専門家ではない我々が歴史に触れるのは、ほとんどが娯楽作品である。小説はもとより、ゲームや漫画のキャラクター設定も遡れば別の創作、例えば司馬遼太郎の創作に影響され、その司馬遼太郎もまた過去の創作から引用、影響を受けている。
終章で筆者は「本書を通じて、時代の価値観が歴史観、歴史認識をいかに規定するかという問題に関心を持っていただけたのなら、著者としてこれに勝る喜びはない。」という。
歴史小説を全ての史実だとして読む人はいないだろうが、かと言って、どこまでが史実でどこからが脚色かなんて専門家でもない我々は判断できない。
つまりは、娯楽消費者の我々も歴史娯楽から一定の距離をとることが必要なのだろう。
とはいえ、一読した感想では、筆者はそういう娯楽を完全に否定しているわけではなく、一部の作品の描写力を認めている。あくまでも、距離の取り方さえ間違えなければ良いのだろう。
歴史コンテンツの歴史本というユニークな視点の本書は歴史小説ファンならず、戦国武将をモチーフにしたゲームやアニメがファン、そして、ビジネス雑誌の類によくある「信長に学ぶ経営」のような話も距離をとって読むためにも広く読まれて欲しい本だと思う。
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戦国武将、虚像と実像 (角川新書) 新書 – 2022/5/9
呉座 勇一
(著)
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日本人の武将像はいかに変化してきたのか?時代ごとの価値観が浮き彫りに!
妄説、打破!
信長は戦前まで人気がなかった。秀吉は人たらしでなく邪悪だった!?
時代ごとに人物像は変化していた。最新研究による実像に加え、虚像の変遷から日本人の歴史認識の特徴まで解析した画期的論考。
画期的に見える人物像も、100年前の焼き直しにすぎないものが多い。
織田信長は革命児、豊臣秀吉は人たらしで徳川家康は狸親父。明智光秀は常識人で、斎藤道三は革新者、石田三成は君側の奸で、真田信繁は名軍師。
このようなイメージは、わずか数十年前にできたものが実は多い。
彼らの虚像と実像を通して、江戸、明治、大正、昭和と、時代ごとの価値観まで浮き彫りにする!
■光秀=「温厚な常識人」は一冊のベストセラーがつくった。
■油売りでも革新者でもなかった道三
■信長は将軍も天皇も尊重していた
■秀吉の評価ポイントは勤王と海外進出
■江戸時代にも三成肯定論はあった
■幸村は「軍師」ではなく「現場指揮官」だった
■司馬遼太郎の家康論は徳富蘇峰の受け売り!?
■歴史小説・ドラマの源流は“蘇峰史観”にあり!
■「野心家・光秀」はなぜ定着しなかったのか?
■信長の「勤王」こそ「革命」だった!?
■徳川政権への不満が生んだ秀吉人気
■三成忠臣/奸臣論が見落としてきたもの
■超人化していった真田幸村
■賞賛されていた家康の謀略
【目次】
はじめに
第一章 明智光秀――常識人だったのか?
第二章 斎藤道三――「美濃のマムシ」は本当か?
第三章 織田信長――革命児だったのか?
第四章 豊臣秀吉――人たらしだったのか?
第五章 石田三成――君側の奸だったのか?
第六章 真田信繁――名軍師だったのか?
第七章 徳川家康――狸親父だったのか?
終 章 大衆的歴史観の変遷
あとがき
参考文献
妄説、打破!
信長は戦前まで人気がなかった。秀吉は人たらしでなく邪悪だった!?
時代ごとに人物像は変化していた。最新研究による実像に加え、虚像の変遷から日本人の歴史認識の特徴まで解析した画期的論考。
画期的に見える人物像も、100年前の焼き直しにすぎないものが多い。
織田信長は革命児、豊臣秀吉は人たらしで徳川家康は狸親父。明智光秀は常識人で、斎藤道三は革新者、石田三成は君側の奸で、真田信繁は名軍師。
このようなイメージは、わずか数十年前にできたものが実は多い。
彼らの虚像と実像を通して、江戸、明治、大正、昭和と、時代ごとの価値観まで浮き彫りにする!
■光秀=「温厚な常識人」は一冊のベストセラーがつくった。
■油売りでも革新者でもなかった道三
■信長は将軍も天皇も尊重していた
■秀吉の評価ポイントは勤王と海外進出
■江戸時代にも三成肯定論はあった
■幸村は「軍師」ではなく「現場指揮官」だった
■司馬遼太郎の家康論は徳富蘇峰の受け売り!?
■歴史小説・ドラマの源流は“蘇峰史観”にあり!
■「野心家・光秀」はなぜ定着しなかったのか?
■信長の「勤王」こそ「革命」だった!?
■徳川政権への不満が生んだ秀吉人気
■三成忠臣/奸臣論が見落としてきたもの
■超人化していった真田幸村
■賞賛されていた家康の謀略
【目次】
はじめに
第一章 明智光秀――常識人だったのか?
第二章 斎藤道三――「美濃のマムシ」は本当か?
第三章 織田信長――革命児だったのか?
第四章 豊臣秀吉――人たらしだったのか?
第五章 石田三成――君側の奸だったのか?
第六章 真田信繁――名軍師だったのか?
第七章 徳川家康――狸親父だったのか?
終 章 大衆的歴史観の変遷
あとがき
参考文献
- 本の長さ320ページ
- 言語日本語
- 出版社KADOKAWA
- 発売日2022/5/9
- 寸法11 x 1.5 x 17.5 cm
- ISBN-104040824008
- ISBN-13978-4040824000
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出版社より
商品の説明
著者について
●呉座 勇一:1980年(昭和55年)、東京都に生まれる。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。専攻は日本中世史。現在、信州大学特任助教。『戦争の日本中世史』(新潮選書)で第12回角川財団学芸賞受賞。『応仁の乱』(中公新書)は47万部突破のベストセラーとなった。『陰謀の日本中世史』(角川新書)で新書大賞2019第3位受賞。他書に『頼朝と義時』(講談社現代新書)、『日本中世への招待』(朝日新書)、『一揆の原理』(ちくま学芸文庫)、『日本中世の領主一揆』(思文閣出版)がある。
登録情報
- 出版社 : KADOKAWA (2022/5/9)
- 発売日 : 2022/5/9
- 言語 : 日本語
- 新書 : 320ページ
- ISBN-10 : 4040824008
- ISBN-13 : 978-4040824000
- 寸法 : 11 x 1.5 x 17.5 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 108,733位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1980年8月、東京に生まれる。
1999年4月、東京大学教養学部(前期課程)文科Ⅲ類入学。
2001年4月、東京大学文学部歴史文化学科日本史学専修課程進学。
2003年3月、東京大学文学部(歴史文化学科日本史学専修課程)卒業。
2003年4月、東京大学大学院人文社会系研究科(日本文化研究専攻日本史学専門分野)修士課程入学。
2005年3月、東京大学大学院人文社会系研究科(日本文化研究専攻日本史学専門分野)修士課程修了(文学修士)。
2005年4月、東京大学大学院人文社会系研究科(日本文化研究専攻日本史学専門分野)博士課程進学。
2008年3月、東京大学大学院人文社会系研究科(日本文化研究専攻日本史学専門分野)博士課程単位取得満期退学。
2011年6月、東京大学より博士(文学)を授与される。
2005年4月より2008年3月まで、日本学術振興会特別研究員DC。
2008年4月より2011年3月まで、日本学術振興会特別研究員PD。
現在、東京大学大学院人文社会系研究科研究員。
イメージ付きのレビュー
5 星
明智光秀、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の通説を論理的に覆す、説得力のある一冊
『戦国武将、虚像と実像』(呉座勇一著、角川新書)で、とりわけ興味深いのは、明智光秀、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康についての論考です。●明智光秀は常識人だったのか?「明智光秀というと、古典的教養を備えた常識人で、朝廷や幕府といった既存の権威・秩序を尊重する保守派の印象が強いだろう。しかし以前、拙稿『明智光秀と本能寺の変』で論じたように、光秀が古典に通じていたのは事実だが、伝統や建機を尊重し、改革に否定的な人物であることを明確に示す一次史料は存在しない」。「同時代人は、光秀を冷酷で恩知らずな策略家とみなしており、彼に同情を示すことはなかった」。「光秀謀反の動機として、野望より怨恨が重視されていく背景には、社会の価値観の変化があったと考えられる。天下泰平の世になり、武士の主従関係が安定化すると、己の野望のために恩義ある主君を裏切るという戦国武将の価値観が理解されなくなったのだろう。怨恨による謀反の方がまだしもリアリティを持つようになったと思われる」。●織田信長は革命児だったのか?「近年の歴史学界では、織田信長が革新者であるという理解が相対化されつつある。長篠の戦いでの鉄砲三段撃ち(輪番射撃)や第二次木津川口の戦いでの鉄甲船といった信長の『軍事革命』については、在野の歴史研究家である藤本正行氏らの研究によって、歴史的事実ではないという見解が現在では主流である。また、拙稿『明智光秀と本能寺の変』で論じたように、信長が兵農分離を進めたという通説にも疑義が呈されている。信長が軍事的革新者だったとは言いがたい。織田信長の(楽市楽座などの)経済政策が先進的、画期的であったという通説的理解にも疑問がある。・・・織田信長が自分の領国全体に楽市楽座政策を展開した形跡は見られない」。「織田信長は既存のシステムを根こそぎ否定するのではなく、むしろ既得権者と折り合いをつけて、漸進的な改革を行っている。信長を『革命家』とみなすのは過大評価だろう」。「足利義昭と織田信長との間に摩擦があったことは否定できないが、両者は基本的に協調関係にあった」。「織田信長と朝廷との関係はどうか。歴史学者の今谷明氏の『信長と天皇』以来、信長と朝廷との対立関係を説く論者が相次いだ。しかし、この見解も、現在の歴史学界では批判されている。・・・残された同時代史料を見る限り、朝廷を支えようという信長の姿勢は一貫している」。●豊臣秀吉は人たらしだったのか?「実のところ、秀吉の『人たらし』エピソードのほとんどは後世の創作であり、本当に秀吉が人間的魅力にあふれた人物だったかは分からない。・・・現実の豊臣秀吉が人情の機微に通じていたことを示す、確たる史料はない。・・・秀吉は織田家臣時代の中国攻めで別所長治・小寺政職らの離反を招いており、むしろ人望が薄かった可能性すらある」。「豊臣秀吉が真心をぶつけることによって敵を味方にしたという事例は、信頼できる史料によって裏付けられない。頼山陽が『日本外史』で喝破したように、秀吉の調略は基本的に利益で釣るものであった」。●徳川家康は狸親父だったのか?「近年の研究は、織田信長から(嫡男の)信康殺害指示が出ていたことに否定的である。信康事件の背景には、親織田路線を採る浜松城の家康派と親武田路線への転換を唱える岡崎城の信康派との派閥抗争があり、当主である家康が家中の混乱を収拾するために信康を追放、殺害した。これが事件の本質だろう」。「(方広寺鐘銘事件は)徳川方が鐘銘の問題を必要以上に騒ぎ立て政治的に利用したことは否定できないが、豊臣方に落ち度があったことも事実だ。徳川方のこじつけ、難癖とは言えない。・・・方広寺鐘銘事件の時点では、豊臣家が徳川家への臣従を誓う形での幕引きもあり得た。このことは歴史学界では共通認識になりつつある。是が非でも豊臣家を滅ぼすと最初から家康が決めていたわけではないとすると、『狸親父』イメージも再考が必要だろう」。「大坂城内堀埋め立てについても、学界では通説は否定されつつある。細川忠利・毛利輝元ら関東方として従軍した諸大名は国元宛ての書状で、和睦条件に二の丸・三の丸の破却が入っていると述べている。これに従えば、本丸のみを残して他は全て破却することを、大坂方も同意していたと見るべきだろう」。さまざまな通説を論理的に覆す、説得力のある一冊です。
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上位レビュー、対象国: 日本
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2022年6月17日に日本でレビュー済み
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坊さんの日記で延々と解説していくということが逆に新鮮だった『応仁の乱』呉座氏の新作として期待をもって臨み読みやすさも手伝い一気に読了、各時代巷間の人物評価を纏め上げた価値ある内容でクオリティは高いと感じました。
ただ、読み物としてはもう少々の工夫で読後の充実感も増したのでは、との感想です。
戦国武将7人を相手にどれも同じ取り口で、早くも3人目あたりから試合展開や決め技が読めてきてページを送る速度が上がってしまいました。
面白かったことは面白かったのですが、読み進むほどにそれは20時45分の印籠や22時45分の中村主水(後期)を観る面白さに近くなって・・というのが正直なところでござんす。ごめんなさい。
司馬史観批判もトレンドとしてはやや周回遅れな気もしますし、百田なんか相手にしてるし、編集者さんの頑張り(口出し等)次第でもっと面白い本になっていたのではないか、逆にいえば改善の余地があり今後も気になる著者であることは疑いありません、という印象でございます。伏してお詫びします。
次作以降も“著者”として期待しています。SNSはやんなくていいです先生。
ただ、読み物としてはもう少々の工夫で読後の充実感も増したのでは、との感想です。
戦国武将7人を相手にどれも同じ取り口で、早くも3人目あたりから試合展開や決め技が読めてきてページを送る速度が上がってしまいました。
面白かったことは面白かったのですが、読み進むほどにそれは20時45分の印籠や22時45分の中村主水(後期)を観る面白さに近くなって・・というのが正直なところでござんす。ごめんなさい。
司馬史観批判もトレンドとしてはやや周回遅れな気もしますし、百田なんか相手にしてるし、編集者さんの頑張り(口出し等)次第でもっと面白い本になっていたのではないか、逆にいえば改善の余地があり今後も気になる著者であることは疑いありません、という印象でございます。伏してお詫びします。
次作以降も“著者”として期待しています。SNSはやんなくていいです先生。
2022年6月25日に日本でレビュー済み
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歴史作家の中には歴史学者による歴史解釈に異を唱え、根拠ない推測に基づいた自説を史実として主張する者がいる。更に自説を認めないアカデミア、歴史学者を無能呼ばわりする作家すらいる。旧態依然とした守旧派アカデミアに果敢に切り込んでいく孤高の作家という図式は不特定多数の読者を引き付けるマーケティング戦略であり、私自身歴史作家の著作にはまったことがある。
一方、歴史学者側も黙ってはいない。特に本書の著者である呉座先生は断続的に歴史作家の主張を分析し、問題点を明らかにしてきた。2018年に刊行された著書「陰謀の日本中世史」はそのような歴史学者から歴史作家への反駁の一つである。本能寺の変等歴史的事件の真相としてまことしやかに流布する陰謀論のほぼ全てが事実として捉えるに足らないフィクションであり、歴史作家達の主張は新たな発見ではなく、事件後現代に至るまで長い間に脚色、創作された珍解釈の焼き直しに過ぎないと喝破している。私には「陰謀の日本中世史」の内容は十分に納得できるものであったが、歴史作家達の反発は激しいものがあった。ある作家は呉座先生の人格攻撃とも取れる発言を繰り返し、見苦しい水掛け論の様相を呈していた。
そこで本作である。本書は、戦国武将の評価が時代が下る毎に変遷し、時にはイデオロギーの補強などに利用されてきた事実をエビデンスと共に俯瞰するものである。本書のポイントは次の二点に集約できる。
●戦国武将にまつわるエピソードは、時代時代で歪曲あるいは創作され続けてきた。
●現代の歴史作家の主張はそれらの焼き直しに過ぎない。
本書を読めば、戦国武将たちが生きた時代と同時期の資料に見られる内容の信憑性が相対的に高く、時代が下るにつれ歪曲、創作されてきたことが明確になると同時に、現代歴史作家による歴史解釈が過去の俗説の焼き直しにすぎないことが再び明らかにされる。俗説による脚色をそぎ落とすことで、戦国武将たちの実像に迫る仕組みとなっているのだ。
加えて本書はレトリックが工夫されている。「陰謀の日本中世史」では数々の陰謀論がそれを主張する作家名と共に取り上げられていたが、本書においては陰謀論等俗説を主張する歴史作家の個人名は一部を除いて記されてはいない。これでは歴史作家側も反駁しにくいだろう。なかなか上手な戦略だと思う。正に水掛け論に陥りがちの"歴史学者 VS 歴史作家"のバトルに決着をつける歴史学者による最強の反論だと思う。
一方、歴史学者側も黙ってはいない。特に本書の著者である呉座先生は断続的に歴史作家の主張を分析し、問題点を明らかにしてきた。2018年に刊行された著書「陰謀の日本中世史」はそのような歴史学者から歴史作家への反駁の一つである。本能寺の変等歴史的事件の真相としてまことしやかに流布する陰謀論のほぼ全てが事実として捉えるに足らないフィクションであり、歴史作家達の主張は新たな発見ではなく、事件後現代に至るまで長い間に脚色、創作された珍解釈の焼き直しに過ぎないと喝破している。私には「陰謀の日本中世史」の内容は十分に納得できるものであったが、歴史作家達の反発は激しいものがあった。ある作家は呉座先生の人格攻撃とも取れる発言を繰り返し、見苦しい水掛け論の様相を呈していた。
そこで本作である。本書は、戦国武将の評価が時代が下る毎に変遷し、時にはイデオロギーの補強などに利用されてきた事実をエビデンスと共に俯瞰するものである。本書のポイントは次の二点に集約できる。
●戦国武将にまつわるエピソードは、時代時代で歪曲あるいは創作され続けてきた。
●現代の歴史作家の主張はそれらの焼き直しに過ぎない。
本書を読めば、戦国武将たちが生きた時代と同時期の資料に見られる内容の信憑性が相対的に高く、時代が下るにつれ歪曲、創作されてきたことが明確になると同時に、現代歴史作家による歴史解釈が過去の俗説の焼き直しにすぎないことが再び明らかにされる。俗説による脚色をそぎ落とすことで、戦国武将たちの実像に迫る仕組みとなっているのだ。
加えて本書はレトリックが工夫されている。「陰謀の日本中世史」では数々の陰謀論がそれを主張する作家名と共に取り上げられていたが、本書においては陰謀論等俗説を主張する歴史作家の個人名は一部を除いて記されてはいない。これでは歴史作家側も反駁しにくいだろう。なかなか上手な戦略だと思う。正に水掛け論に陥りがちの"歴史学者 VS 歴史作家"のバトルに決着をつける歴史学者による最強の反論だと思う。
2023年1月13日に日本でレビュー済み
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呉座さんの博覧強記が十分生かされていて読んで面白い。しかし、帯の「妄説」が気になった。というのは、フィクション(司馬遼太郎の「史談」含む)を「妄説」と言わないからだ。呉座さんが俎上に載せている司馬さんにせよ、直木三十五にせよ山岡荘八にせよみな小説家。つまり彼らの作品には史実とフィクションが様々の割合で混在している。各章の最後の段落は、例えば、「今後、三成のイメージが更新されていくことを期待したい」(第五章[204])というような、「妄説」修正の期待の言葉で結ばれている。あるいは、終章で「歴史小説家」安部龍太郎の言葉を引用して、「歴史小説の書き手も読み手も、『歴史を学ぶ』、『過去から学ぶ』という意識を持っている」と安部の「小説論」を一般化して、批判の対象にしてしまう。しかし、これは言い過ぎであろう。「歴史小説」にもピンからキリまで、質や依拠する資料の多さなど、さまざまある。眠狂四郎を書いた柴田錬三郎の作品から「学ぶ」人は少ないだろうし(現在ではほとんど読む人もいない)、山田風太郎の忍法小説に人生の指針を発見する人もいないだろう(彼の日記や、明治時代を背景にした伝奇小説は面白い)。小説はフィクションなのだから、「(歴史)小説」を「妄説」というのは間違いだ。
むしろ、妄説というのは、事実に立脚せず、資料にあたることもせず、なのに「歴史本」を名乗る井沢元彦や百田尚樹などの主張にこそふさわしい(あとがきで触れているが)。それらの「俗流歴史本」から学ぶ人も(信じられらないことだが)一定数いるだろうし、それはそういう人たちの勝手である。私は、高校時代に、岩波や中央公論や文藝春秋社などの日本史、世界史の全集をほとんど読んだから、歴史小説中の史実とフィクションの区別ぐらいはつけられると自負している。いや、高校で日本史や世界史を一通り学んだ人なら、史実とフィクションの区別ぐらいできるはずだ。私は歴史小説に何かを学ぼうと思ったことも若いころから一度もない。私は司馬遼太郎の後輩(学科は違うが)。その縁で、彼の作品はほとんど読んだ。彼と話をしたことも数回ある。司馬さんについて感心するのは、史実からフィクションを紡ぎだすその技法と、両者の境界を限りなくあいまいにするそのうまさである。歴史小説(史伝、史談)を読む/読み解く楽しみ、面白さというのはそういうところにあり、そういう読み方に耐えられない小説は多くの読者を獲得することも、長く読み継がれることもないのではないか。森鴎外の史伝は今でも読まれ、一方、吉川英治は忘れ去られていることがその証左である。
歴史小説/歴史本にはもちろん功罪がある。百田本が「日本すごい」と思い込む人たちを増やすのは罪だろう。私は、司馬さんの短編「美濃侍」を読んで、郷土の先輩所郁太郎の存在を知り、古本屋をあさって、『所郁太郎伝』を見つけ、興味深く読んだ。小さな一個人が偶然と必然によって、大きくて強力な歴史の歯車に巻き込まれていく、そのプロセスを知った。司馬遼太郎を英雄史観と批判する人たちは、この短編を読めば、その近視眼を恥じるだろう。このように歴史小説から史実を発見するというのは功だろう。呉座勇一、『戦国武将、虚像と実像』も、歴史小説ではないが功も罪も併せ持つ。歴史小説を「妄説」と批判するのに多くのページを費やしたことが数少ない罪である。小説は読者の心を映す鏡である。幸せな人も不幸な人もその中に自分を発見しようとする。司馬道三、司馬信長、司馬竜馬に読者は自分を投影したのだ。だから何千万人もが司馬さんの長編、短編小説を読んだ。残念ながら、歴史書を自分の鏡として読む人はいない。小説と歴史書を競わせてはいけない。
最後に。「妄説」は帯にあるだけで、本文には一度も出てこない。編集者がキャッチーだと思って、こういう「強い」言葉を選んだのだろうか。
[「あとがき」の「カノン(聖典)」(306)は「正典」の間違い。]
むしろ、妄説というのは、事実に立脚せず、資料にあたることもせず、なのに「歴史本」を名乗る井沢元彦や百田尚樹などの主張にこそふさわしい(あとがきで触れているが)。それらの「俗流歴史本」から学ぶ人も(信じられらないことだが)一定数いるだろうし、それはそういう人たちの勝手である。私は、高校時代に、岩波や中央公論や文藝春秋社などの日本史、世界史の全集をほとんど読んだから、歴史小説中の史実とフィクションの区別ぐらいはつけられると自負している。いや、高校で日本史や世界史を一通り学んだ人なら、史実とフィクションの区別ぐらいできるはずだ。私は歴史小説に何かを学ぼうと思ったことも若いころから一度もない。私は司馬遼太郎の後輩(学科は違うが)。その縁で、彼の作品はほとんど読んだ。彼と話をしたことも数回ある。司馬さんについて感心するのは、史実からフィクションを紡ぎだすその技法と、両者の境界を限りなくあいまいにするそのうまさである。歴史小説(史伝、史談)を読む/読み解く楽しみ、面白さというのはそういうところにあり、そういう読み方に耐えられない小説は多くの読者を獲得することも、長く読み継がれることもないのではないか。森鴎外の史伝は今でも読まれ、一方、吉川英治は忘れ去られていることがその証左である。
歴史小説/歴史本にはもちろん功罪がある。百田本が「日本すごい」と思い込む人たちを増やすのは罪だろう。私は、司馬さんの短編「美濃侍」を読んで、郷土の先輩所郁太郎の存在を知り、古本屋をあさって、『所郁太郎伝』を見つけ、興味深く読んだ。小さな一個人が偶然と必然によって、大きくて強力な歴史の歯車に巻き込まれていく、そのプロセスを知った。司馬遼太郎を英雄史観と批判する人たちは、この短編を読めば、その近視眼を恥じるだろう。このように歴史小説から史実を発見するというのは功だろう。呉座勇一、『戦国武将、虚像と実像』も、歴史小説ではないが功も罪も併せ持つ。歴史小説を「妄説」と批判するのに多くのページを費やしたことが数少ない罪である。小説は読者の心を映す鏡である。幸せな人も不幸な人もその中に自分を発見しようとする。司馬道三、司馬信長、司馬竜馬に読者は自分を投影したのだ。だから何千万人もが司馬さんの長編、短編小説を読んだ。残念ながら、歴史書を自分の鏡として読む人はいない。小説と歴史書を競わせてはいけない。
最後に。「妄説」は帯にあるだけで、本文には一度も出てこない。編集者がキャッチーだと思って、こういう「強い」言葉を選んだのだろうか。
[「あとがき」の「カノン(聖典)」(306)は「正典」の間違い。]
2022年10月5日に日本でレビュー済み
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今まで司馬遼太郎や山岡荘八、あるいはあまたの伝記にとらわれていたのがよくわかりました。同一人物でも時代によっても評価が変わるものだと、本を読み終えて思いました。
2022年7月6日に日本でレビュー済み
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「実は○○だった歴史上の人物」的な話は沢山ありますが、一度ちゃんとした本を読んでみたいと思い本書を手に取りました。筆者の呉座氏は東大博士課程修了とのことだったので研究プロセスには期待できます。
信長や光秀といった戦国武将たちのイメージが史実と異なるのはもちろん、江戸~幕末~明治~戦前~戦後といった各時代で変化していったことが、それぞれの時代の文献を引用することで明らかにされています。
興味深いのは戦国武将のイメージの変化が、大衆娯楽(歌舞伎や読み物)の創作のみならず各時代の研究者も影響し影響されていることでしょう。それぞれの引用には著者名と書籍名が明記されているので、自分で確かめることもできます。
ただ、惜しいのは現代の情報がほぼ司馬遼太郎で終わっていることです。近年の大河ドラマなどにもわずかに言及していますが、ほんのちょっとです。司馬遼太郎の作品は1960~70年代までなので、ほぼ半世紀の情報が欠けているのは残念です。
また呉座氏の私見による取捨選択が無いとも言いきれません。本書の中でたびたび「その時代の権威ある研究者ですら、時代感覚や私見によって史実に忠実ではない」ことが批判されていますが、まさに本書自身もまた2020年の感覚で書かれているので。
信長や光秀といった戦国武将たちのイメージが史実と異なるのはもちろん、江戸~幕末~明治~戦前~戦後といった各時代で変化していったことが、それぞれの時代の文献を引用することで明らかにされています。
興味深いのは戦国武将のイメージの変化が、大衆娯楽(歌舞伎や読み物)の創作のみならず各時代の研究者も影響し影響されていることでしょう。それぞれの引用には著者名と書籍名が明記されているので、自分で確かめることもできます。
ただ、惜しいのは現代の情報がほぼ司馬遼太郎で終わっていることです。近年の大河ドラマなどにもわずかに言及していますが、ほんのちょっとです。司馬遼太郎の作品は1960~70年代までなので、ほぼ半世紀の情報が欠けているのは残念です。
また呉座氏の私見による取捨選択が無いとも言いきれません。本書の中でたびたび「その時代の権威ある研究者ですら、時代感覚や私見によって史実に忠実ではない」ことが批判されていますが、まさに本書自身もまた2020年の感覚で書かれているので。
2022年8月10日に日本でレビュー済み
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筆者の主張は最終章p.266に集約されています。一つは、戦国武将の逸話の多くが偽りまたは真偽不明であること。もう一つは、それらの逸話を時の政権や大衆作家が都合よく利用してきたこと。
ビジネス誌や高齢者向け雑誌が取り上げるような「今こそ○○に学ぶ人間学」は、それらの手垢にまみれた二次利用に過ぎません。こうした俗流歴史人間学に流されないための最小限の教養になるでしょう。
ビジネス誌や高齢者向け雑誌が取り上げるような「今こそ○○に学ぶ人間学」は、それらの手垢にまみれた二次利用に過ぎません。こうした俗流歴史人間学に流されないための最小限の教養になるでしょう。
2022年7月10日に日本でレビュー済み
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徳川時代から明治維新後の価値観の転換が大きく評価を変えているのが解る。現政権を肯定することを前提に評価がされているように思う。人物が生きた時代を正確に映し出す資料が新しく発見されなければ新しい評価も生まれない。実に困難な作業だと思います。困難な課題に挑戦した貴重な著作だと思います。