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異端の時代――正統のかたちを求めて (岩波新書) 新書 – 2018/8/22
森本 あんり
(著)
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世界に蔓延するポピュリズム。はたしてそれは民主主義の異端なのか? 古代中世の神学史、丸山眞男らの議論を手がかりに、宗教・政治・文化に通底する「異端発生のメカニズム」を解き明かし、混迷する時代の深層に迫る。著者が十年来抱えたテーマがここに結実、「異端好みの日本人」に、現代の「正統」の所在を問いかける――
- 本の長さ272ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日2018/8/22
- 寸法10.7 x 1.1 x 17.3 cm
- ISBN-104004317320
- ISBN-13978-4004317326
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商品の説明
著者について
森本あんり
1956年神奈川県生まれ.プリンストン神学大学院博士課程修了(Ph.D.).
現在―国際基督教大学(ICU)学務副学長,同教授
専攻―神学・宗教学
著書―『ジョナサン・エドワーズ研究――アメリカ・ピューリタニズムの存在論と救済論』(創文社),『アメリカ・キリスト教史――理念によって建てられた国の軌跡』(新教出版社),『アメリカ的理念の身体――寛容と良心・政教分離・信教の自由をめぐる歴史的実験の軌跡』(創文社),『反知性主義――アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書),『宗教国家アメリカのふしぎな論理』(NHK出版新書)ほか
1956年神奈川県生まれ.プリンストン神学大学院博士課程修了(Ph.D.).
現在―国際基督教大学(ICU)学務副学長,同教授
専攻―神学・宗教学
著書―『ジョナサン・エドワーズ研究――アメリカ・ピューリタニズムの存在論と救済論』(創文社),『アメリカ・キリスト教史――理念によって建てられた国の軌跡』(新教出版社),『アメリカ的理念の身体――寛容と良心・政教分離・信教の自由をめぐる歴史的実験の軌跡』(創文社),『反知性主義――アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書),『宗教国家アメリカのふしぎな論理』(NHK出版新書)ほか
登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2018/8/22)
- 発売日 : 2018/8/22
- 言語 : 日本語
- 新書 : 272ページ
- ISBN-10 : 4004317320
- ISBN-13 : 978-4004317326
- 寸法 : 10.7 x 1.1 x 17.3 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 268,009位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 572位キリスト教一般関連書籍
- - 1,240位岩波新書
- - 2,471位哲学 (本)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2023年1月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
特に改善注文点はなし。参考書として活用します。
2018年8月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
終章まで読み通してみて、
丸山真男論、キリスト教史を扱う前半と、
後半で描かれる、個人化が進み「宗教なき時代」となった
今日の世界とが有機的につながって、面白かった。
「現代は異端が普遍化された時代である。異端だらけの
時代に、正統の居場所がないのは当然だろう」(202頁)
いまの時代をとらえるには、
政治・哲学ももちろん大事だが、
宗教・歴史という視点が欠かせないのだと思う。
最近にはない、深い読書体験を与える本だ。
丸山真男論、キリスト教史を扱う前半と、
後半で描かれる、個人化が進み「宗教なき時代」となった
今日の世界とが有機的につながって、面白かった。
「現代は異端が普遍化された時代である。異端だらけの
時代に、正統の居場所がないのは当然だろう」(202頁)
いまの時代をとらえるには、
政治・哲学ももちろん大事だが、
宗教・歴史という視点が欠かせないのだと思う。
最近にはない、深い読書体験を与える本だ。
2019年3月20日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
丸山真男氏の説やその他の学者の説を引用しつつ著者の主張を素人にも分かりやすく叙述しておられます。例を沢山にしめしてあるので
宗教の面から考えるだけでなく社会のいろいろな現象を捉えて異端について素人にも分かりやすく述べておられるので
大変参考になりました。丸山真男氏だけでなく大勢の先人たちの説を踏まえて解説しておられますから興味深く読みました。正真正銘の異端がどんなものであるのかを垣間見せてくださって有意義でした。
宗教の面から考えるだけでなく社会のいろいろな現象を捉えて異端について素人にも分かりやすく述べておられるので
大変参考になりました。丸山真男氏だけでなく大勢の先人たちの説を踏まえて解説しておられますから興味深く読みました。正真正銘の異端がどんなものであるのかを垣間見せてくださって有意義でした。
2018年8月26日に日本でレビュー済み
タイトルは「異端の時代」で、トランプ大統領をはじめとする既成概念に捕らわれないような人物(そして彼を支持する人々を生んだポピュリズム)を異端と称しているのか? と勘違いしそうになるが、本書の意図は違う。彼・彼らは異端ではなく、ただの非正統である、というのが著者の主張である。
異端とはそもそも正統の中から生まれるものであり、正統とは何かが見えない現代には異端も生まれないのである。ポピュリズムは民主主義から生まれた異端ではないのか? との疑問にも本書は明快に答える____否と。ポピュリズムの手法は、数ある論点の中からひとつを選び出し、それを争点にして善悪二元論ですべてを断罪する。自分たちが善であり正統である、と主張するのだが、彼らは反知性主義・反権威主義的に否定をするだけで、新しい価値観・新しい正統を作りだすことはない。しかし、異端とは新しい価値観・新しい正統を主張することから始まり、そして新たなる正統を作り出すものだ。カトリックから見れば異端でしかなかった宗教改革者のルターやカルヴァンなどを考えればそれがわかるであろう。つまり、本当の異端には、旧来の正統・権威を否定し、かつ新しいものを構築する覚悟があるのだ。ポピュリズムやネット空間上の反知性主義的な言論には、その覚悟はない。ゆえに彼・彼らはただの非正統である、というのが著者の主張なのだ。
では何故に、この正統がない、つまり異端のない時代に著者は異端についての本を書いたのか? それは著者が本物の異端を待ち望んでいるからであろう。非正統があたかも正統であるかのような錯覚の時代において、その錯覚からの覚醒を呼び起こす異端が生まれ、それがよりベターな世界を作る正統へと発展することを期待しているのだ。
なお本書はキリスト教神学者の著者らしく、主に神学的・神学史的な観点から正統・異端を検討・分析しているので、キリスト教や宗教そのものに全く興味がない人々には読む進めることがしんどいかもしれない。しかし、正統とはそもそも何なのか? 正統がないことの危険性とは何か? そして我々は今現在どういった時代に生きているのか? という問題に対して有益な情報を与えてくれることは間違いない。個々人が異端きどりの非正統と化している今、自省する意味も含めて一読の価値ありです。
※8月29日追記
著者は正統の破綻の一例としてコミュニティの崩壊、つまり教会制度の信用低下を挙げている。これは教会を通して経験していた宗教より、教会の媒介なしに直接個人で宗教体験することが重視されてきたことに起因するという。本書ではアメリカ人哲学者のラルフ・ウォルドー・エマソンの、
「自分の直感と感情だけを信じて、常に真の新たなキリスト教を創造せよ」(p205)
という言葉を紹介しているが、「直感と感情」を重視することはドイツの神学者シュライエルマッハーの唱えた自由主義神学そのものである。神学においては、自由主義神学はその後の弁証法神学にて克服されたことになっているが、世俗社会においては未だに自由主義神学的思考が尾を引いているということなのだろう。そう考えると、共同体を分解し個人をアトム化する資本主義の超克を目指す柄谷行人氏が、弁証法神学の創始者カール・バルトに着目し(現代思想・1月臨時増刊号2015)、資本主義の先に千年王国を待望する佐藤優氏が弁証法神学者フロマートカの神学書を世に問うのも、何やら合点がいくのである。
異端とはそもそも正統の中から生まれるものであり、正統とは何かが見えない現代には異端も生まれないのである。ポピュリズムは民主主義から生まれた異端ではないのか? との疑問にも本書は明快に答える____否と。ポピュリズムの手法は、数ある論点の中からひとつを選び出し、それを争点にして善悪二元論ですべてを断罪する。自分たちが善であり正統である、と主張するのだが、彼らは反知性主義・反権威主義的に否定をするだけで、新しい価値観・新しい正統を作りだすことはない。しかし、異端とは新しい価値観・新しい正統を主張することから始まり、そして新たなる正統を作り出すものだ。カトリックから見れば異端でしかなかった宗教改革者のルターやカルヴァンなどを考えればそれがわかるであろう。つまり、本当の異端には、旧来の正統・権威を否定し、かつ新しいものを構築する覚悟があるのだ。ポピュリズムやネット空間上の反知性主義的な言論には、その覚悟はない。ゆえに彼・彼らはただの非正統である、というのが著者の主張なのだ。
では何故に、この正統がない、つまり異端のない時代に著者は異端についての本を書いたのか? それは著者が本物の異端を待ち望んでいるからであろう。非正統があたかも正統であるかのような錯覚の時代において、その錯覚からの覚醒を呼び起こす異端が生まれ、それがよりベターな世界を作る正統へと発展することを期待しているのだ。
なお本書はキリスト教神学者の著者らしく、主に神学的・神学史的な観点から正統・異端を検討・分析しているので、キリスト教や宗教そのものに全く興味がない人々には読む進めることがしんどいかもしれない。しかし、正統とはそもそも何なのか? 正統がないことの危険性とは何か? そして我々は今現在どういった時代に生きているのか? という問題に対して有益な情報を与えてくれることは間違いない。個々人が異端きどりの非正統と化している今、自省する意味も含めて一読の価値ありです。
※8月29日追記
著者は正統の破綻の一例としてコミュニティの崩壊、つまり教会制度の信用低下を挙げている。これは教会を通して経験していた宗教より、教会の媒介なしに直接個人で宗教体験することが重視されてきたことに起因するという。本書ではアメリカ人哲学者のラルフ・ウォルドー・エマソンの、
「自分の直感と感情だけを信じて、常に真の新たなキリスト教を創造せよ」(p205)
という言葉を紹介しているが、「直感と感情」を重視することはドイツの神学者シュライエルマッハーの唱えた自由主義神学そのものである。神学においては、自由主義神学はその後の弁証法神学にて克服されたことになっているが、世俗社会においては未だに自由主義神学的思考が尾を引いているということなのだろう。そう考えると、共同体を分解し個人をアトム化する資本主義の超克を目指す柄谷行人氏が、弁証法神学の創始者カール・バルトに着目し(現代思想・1月臨時増刊号2015)、資本主義の先に千年王国を待望する佐藤優氏が弁証法神学者フロマートカの神学書を世に問うのも、何やら合点がいくのである。
2021年2月9日に日本でレビュー済み
バイデン大統領が就任してまだ一か月も経っていないというのに、トランプははるかかなただ。いまだに何かを策動してしるのかわからないがトランプ的なもの日々薄れている。歓迎したい。
さて、正統と異端について、自分には初めて知る歴史的事実、古今東西の人物と言葉が出現して、なかなか頭に入ってこない点が多かった。当たり前のように表出する専門的単語から何を言わんとしているのかを探り出すのは骨が折れた。
その中でも悪人正機説と原罪論が同じことを言っているのだという記載が一番鮮やかに残っている。これは理解しやすかった。確かにそうだ。どうしようもない負の部分を背負ったまま人は生きている。それでこその正統であろうと思う。広く世の中の人が是としている、是とせざるを得ない、否とすると居場所がなくなる、嘘をついていることになる、からであると思う。
さて、正統と異端について、自分には初めて知る歴史的事実、古今東西の人物と言葉が出現して、なかなか頭に入ってこない点が多かった。当たり前のように表出する専門的単語から何を言わんとしているのかを探り出すのは骨が折れた。
その中でも悪人正機説と原罪論が同じことを言っているのだという記載が一番鮮やかに残っている。これは理解しやすかった。確かにそうだ。どうしようもない負の部分を背負ったまま人は生きている。それでこその正統であろうと思う。広く世の中の人が是としている、是とせざるを得ない、否とすると居場所がなくなる、嘘をついていることになる、からであると思う。
2018年10月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
著者は宗教学者で、キリスト教を専門とする。この著者が丸山真男の「正統と異端」論を俎上にのせて、批判する。著者によれば、キリスト教にとって「正統」とは、多数の信者による集合的見解を意味し、「異端」とは少数の信者による正統とは異なる見解を意味するという。正統・異端は、歴史的に形成される宗教的見解であって、正典に記述される前からあった宗教的観念である。この著者の主張は目からウロコの考えである。さて、丸山真男は「正統」をL正統(権力継承の時間的・順序的正統性)とO正統(権力継承の道理としての正統性)に分け、北畠親房の『神皇正統記』を例に権力の正統性を論じる。著者は丸山の正統・異端論を批判するが、著者の正統・異端概念は、キリスト教的・宗教的な概念であって、しかも過去における信者の集合的見解である。このような宗教的特質を有する概念をそのまま日本歴史(日本思想史)における政治的正統性をめぐる議論に適用して良いのだろうか?丸山の解釈の是非をめぐる議論以前に、この点が大いに疑問に思われる。宗教的正統・異端概念と政治的正統・異端概念は根本的に異なる性質の概念ではないか?しかも、『神皇正統記』には、南北朝時代に生きた人々の集合的見解は反映されているのであろうか?著者北畠親房の個人的見解をもって書かれた書物ではないのか?このような疑問は残るが、本書が提起した問題は大変面白く、参考になる。丸山のみならず、西洋中世史の泰斗故堀米庸三の正統と異端論が登場するのも懐かしい。お勧めの一冊だ。
2021年6月30日に日本でレビュー済み
本書(『異端の時代 ―― 正統のかたちを求めて』(森本あんり著、岩波新書、2018年8月21日 第1刷発行))から、上記した標題以外に、標題にしたかった文章を二つ下記します。傍点、傍線、まるぼしは、≪ ≫で代替します。引用文全体は、【 】で囲みます。引用文中の引用は、< >で囲みます。
【 「 正統は「どこでも、いつでも、誰にでも信じられている」≪かのように≫存在していなければならない。事実であるかどうかはともかく、少なくともそれは「太古の昔から永遠の掟のごとく不動のものとして存在している」≪かのように≫信じられていることが枢要なのである。」(P.234)
「 異端は弾圧されたから姿を消したのではなく、姿を消したから異端なのである。」(P.59) 】
時事問題を若干。「コロナ」「五輪」で「敗戦」濃厚です。日本「特有」の「万世一系」的「無責任の体系」が至るところで作動しています。東芝もあります、「赤木ファイル」をはじめとする「森・加計・桜」も解決していません、中曽根康弘や小泉純一郎や安倍晋三(菅義偉)等の自民(公明)党政府(各時代の「高級」官僚連中や経団連・日経連等のお偉方も当然含みます)が、時代時代で埋め込んだ各地の「地雷」が爆発を起こしているのでしょう。庶民には逃げる場所がありません、医療関係者は更に大変です、「赤紙(召集令状)」ですから。
森本あんりは面白い、気に入りました。彼の名前を初めて知ったのは、「反知性主義」という言説が日本で流行っていた5~6年前に『反知性主義 ―― アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書)(未読)という著書を見たときだと思います。その後、東京女子大学で行われた「第8回丸山眞男記念比較思想研究センター公開研究会」の「『丸山眞男 別集 第4巻 正統と異端一』合評会」(2019年7月6日開催)に聴衆として参加して彼の話を聞きました。その時は、岩波新書で『初期仏教 ―― ブッダの思想をたどる』(2018年)を書いた馬場紀寿も参加していました。森本あんりは「L正統とO正統 ―― キリスト教史からの批判的検証」、馬場紀寿は「仏教における「正統と異端」」という内容で発表をしました。内容は覚えていません、詳しくは「センター報告書 第15号(2020年3月)」に出ていますので、確認ください(後で読んでみようと思ってはいます、馬場の『初期仏教』とともに)。
全く別件ですが、本日(6月30日(水))、「岩波講座 世界歴史」(全24巻、2021年10月刊行開始)のパンフレットを入手しました。それを見ましたら、森本あんりが、「第23巻 冷戦と脱植民地化Ⅱ 20世紀後半」で「宗教と現代政治」という論稿を書くようです、楽しみです。他の論稿や著者名等、ワクワクするような内容が目白押しで、刊行が待ち遠しいですね。
本書は、引用・紹介したい文章満載で「困惑」気味ですが、最終節の「真正の異端を求めて」全文と、「秘跡論から見る正統」全文とそのまえのアウグスティヌスに関する文章も含めて引用・紹介します。この「秘跡(サクラメント)」の話は面白い、まさに「目から鱗」です、キリスト教ならではの「話」でしょうか。日本聖書協会の新共同訳『聖書 ―― 旧約聖書続編つき』(1988年刊)を持っていますが、全く読んでいません。
そのほかにも、アメリカ合衆国の憲法の制定過程の話(第7章後半)、ツヴェタン・トドロフの「自分自身に酩酊(めいてい)する意志」の件(第5章)、「正典」も「教義」も「職制」も結局は「正統」が決めるということ(第2、3、4章)、そこで「正統」とは「どこでも、いつでも、誰にでも、信じられてきたこと」であるということ、また、「職制」に関連して「厳格な性倫理という誤解」の話、等々、興味深い内容いっぱいです。
では、まず、「秘跡(サクラメント)」についての文章を引用します。「第6章 異端の熱力学 ―― 中世神学を手がかりに」(P.138 ~ P.159)の「第2節 ドナティストの潔癖」(P.142 ~ P.145)の最後の方の文章と「第3節 秘跡論から見る正統」(P.146 ~ P.151)全文です。
【 「 ただし、アウグスティヌスにとってこれは、教会がどこまで寛容であるべきか、という種類の問題ではない。教会論ではなく、秘跡論が焦点なのである。背教者が再び洗礼を受けたり、離教した司祭が再び叙階を受けたりする必要がないのは、「サクラメントは決して損なわれえない」からである(著作集八:25頁)。秘跡において働いているのは神の恵みであって、施行者はその経路であり道具であるにすぎない。だから施行者の個人的な属性は、恵みの有効性に何ら障害をきたさない。簡単に言うと、どんなに悪い人間が行なっても、その作用自体は有効なのである。
洗礼を授ける者は誰も、「わたしの洗礼」とは言わない。洗礼は、父子聖霊の三位一体の名によってのみ授けられるのである。洗礼は、それ自体で聖なるものなので、授ける者や受ける者がたとえ人殺しであっても、有効である。ここに、ソヴィエト体制のスターリン批判という異端処理の方法との相似性がほんのりと浮かび上がっている。
3 秘跡論から見る正統
□ 悪臭にも汚れない光
この秘跡理解は、その後カトリック教会の公式見解として何度か表明されることになる。5世紀末には、アカキウスの棄教事件に際して、同様の判断が示されている。コンスタンチノープルの大司教だったアカキウスは、カルケドン公会議が定めたキリスト両性論に異を唱えてローマから破門されたが、本人はその破門の効力を認めず司教職にとどまり続け、逆に彼もローマ教皇を破門したため、教会は35年にわたって東西に分裂した。
では、その間に彼が行なった叙階は有効か。この問いに回答を与えたのが、教皇アナスタシウス2世の書簡「離教者が授けた諸秘跡の有効性について」( Exordium pontificatus mei )である。
< 離教した司教アカキウスが洗礼を授けた者、また彼が規定に従って司祭、聖職者に叙階した者はアカキウスの離教によって影響を受けない。秘跡の恩恵は悪人によって授けられても弱められないことは明らかだからである。洗礼は、たとえ姦通者または盗人によって授けられても、それを受けた者を少しも傷つけない( DS 356 )。 >
同書簡の巧みな喩えによると、それは「太陽の光線がひどい悪臭を放つ場所にさしこんでも、少しも汚れない」のと同じである。
□ 消えない印
カトリック教会の歴史は息が長い。この話が次に出てくるのは、ほぼ千年後の1439年のことである。エウゲニウス4世は、ペストの猖獗(しょうけつ)を避けて各地を転々とする公会議のさなか、大勅書「エクスルターテ・デオ」( Exultate Deo )を出す。これは、アルメニア人との合同に際して、カトリック教会の七つの秘跡を教義的に明示することを目的とした文書である。ここで確定された七秘跡のうち、洗礼、堅信、叙階の三つは、それを受けた者に「消えない印」( character indelibilis )を刻みつけるので、「繰り返して授けるべきではない」と定められた。
なぜこの「印」は消えないのか。それは秘跡の真の授与者が司祭ではないからである。洗礼の「効果を発する主要原因は聖三位一体であり、道具因は授与者である」( DS 1313-1315 )。授与者も必要だが、その存在は単なる道具因にすぎない。要するに誰でもいいのである。
カトリック神学が多用するアリストテレス的な原因論をあてはめると、洗礼における「質料因」( material cause )は水、「形相因」( formal cause )は洗礼定式文である。通常ならその次に「作用因」ないし「動力因」( efficient cause )が来るが、そう書かれていないのは、おそらくそれが二つあるからだろう。洗礼の「作用因」は、「外的」には司祭だが、それが効果を発する「主要原因」は聖三位一体である。つまり、人間の授与者は添え物にすぎない。定式を守り、受ける者に真摯な意向さえあれば、洗礼は聖職者でなくとも授けることができる。信徒でも女性でも、いな異教徒や異端者ですら、洗礼を授けることができるのである。この公式見解は、今日に至るまで変わっていない。
宗教改革後のトレント公会議になると、叙階の秘跡に際して与えられる「霊的印章」は「消されることも、除去されることもない」と明確に宣言されている( DS 1767 )。だから、ひとたび叙階された者は、再び信徒に戻ることはできない。
□ 「非合法だが有効」
では、聖職に任じられた者に不適切な点が見いだされたらどうなるのか。この議論が非常に面白い。カトリック教会法によると、その場合は聖職者としての身分を喪失する。この身分喪失を laicization と呼ぶが、日本語でこれを「還俗」と訳すのは厳密には誤りである。なぜなら、すでに説明した通り、聖職者はけっして「俗人に還る」ことができないからである。
とすると、聖職者としての身分を喪失するとはどういう意味か。その人は、「叙階に基づく権利の行使」を「禁止」されるのである(『カトリック新教会法典』290-292条)。これは実に不思議な定義である。「禁止」されるということは、その能力はまだ残っている、ということである。能力がなくなっているなら、禁止するまでもない。身分喪失者は、聖職権の行使を「禁止」される。それを行使する「権利」はない。その「正当な」( licit )行使はできない。
裏を返せば、禁じられていても行使はできる、ということである。権利なき行使、不当な行使はできる、ということである。もしそのような聖職者がミサを行えば、その秘跡は非合法( illicit )ではあるが、にもかかわらず有効( valid )だ、ということになる。何という不思議な論理であろうか。
「非合法だが有効」( illicita sed valida )というこの論理の奥深さは、神の恵みの印を人間が消し去ることはできない、という神学の要請に基づいている。あえてこれを他の業態に喩えるなら、「有能だが免許を剥奪された医師」がいちばん近いかもしれない。その医者が診察することは法律で禁じられており、薬を処方すれば違法になる。だがそれでも、その診察や投薬は効くだろう。「非合法だが有効」な司祭は、手塚治虫の漫画に出てくる無免許の名医「ブラック・ジャック」のような存在である。
教義史においては、このサクラメント理解は「事効論」( ex opere operato )と呼ばれる。直訳すれば「なされた業から」という意味で、「人効論」( ex opera operantis )つまり「なす者の業から」ではない、ということである。秘跡の施与者の人格や品性は、秘跡を通して働く神の恵みにとって、偶有的なものにすぎない。先に引用した古代的な表現を使えば、太陽の光はゴミ溜めに射し込んでも汚れないのである。
□ 教会も神を信じていた
この奇妙な理解の定式は、実際のところ何を意味しているのか。それは「教会も神を信じていた」ということである。教会なのだから、神を信じているのは当然だ、と思われるかもしれない。だが、巷(ちまた)の陰謀論はそう考えない。権力を握った正統派の最高権力者は、もはや神を信じてすらいない連中だ、ということになっている。「神を信じていない」というよりは、むしろ「自分が神になっている」ないし「自分を神と同一視している」ということだろう。
神を信じているのは素朴で騙されやすい民衆だけで、その民衆を思う通りに操作しているのが正統派を自任する教会の権力者だ、というのがお決まりのパターンである。いわば神をそっちのけにして自分の権力意思を貫こうとする。 ―― 先に『ダヴィンチ・コード』の陰謀論に触れたが、同じ著者による小説『天使と悪魔』(2000年)の結末部分では、教会の正統がまさにこのようなシニシズムで描かれている。
もしそうであったなら、このような定式は存在しなかっただろう。最高権力者たる自分が「非合法」と判断した以上、それは「無効」だと考える。つまり、「非合法ゆえに無効」( illicita ergo invalida )となっていたはずである。だが、教会はそうは考えなかった。「非合法」は人間の定めた基準による判断だが、秘跡において働くのは神の力である。だからそれは教会の判断を超えて「有効」になるのである。教会とその指導者たちは、いくら自分が禁じても、神がその禁止に拘束されるとは考えなかった。教会が非合法と断じた秘跡であっても、神の力はそれを超えて秘跡を有効ならしむる。つまり教会は、自分が「最高」権力者ではない、ということを知っている。簡潔に言うと、彼らは自分よりも神の方が上にある、ということを信じていた。そのことの証拠が、この定式なのである。」(P.145 ~ P.151) 】
次に、「終章 今日の正統と異端のかたち」(P.223 ~ P.240)の最終節「第4節 真正の異端を求めて」(P.236 ~ P.240)を全文引用・紹介します。
【 「 4 真正の異端を求めて
□ 全体の部分となる勇気
本書は、宗教における正統の発生と展開を参照枠としつつ、政治や文化一般における正統と異端の生態を問うてきた。いずれの領域にあっても、正統は特定しがたく名伏しがたく把握しがたい全体性を特徴とし、異端は明示的な要素と輪郭をもった彩度の高い主張を特徴とする。
正統と異端はまた、個と全体という社会力学の下地をもっている。公的生活への参画や連帯から切り離された個人は、たやすく操作されて全体主義に取り込まれてしまう、という指摘をしたのはアレントであった。政治権力とは別の価値軸をもつ自発的な中間団体が多元的に存在することは、民主主義下の個人の暴走を防ぎ、社会全体のレジリエンスを向上させるのに役立つだろう。
アレントの親友であった神学者パウル・ティリヒは、これを「全体の部分として生きる勇気」と表現した。現代人は、「個人として生きる勇気」のことなら十分すぎるほど知っている。だがこの勇気は、単に自分を信頼すれば自然と湧いてくる、というものではない。個人であろうとする意志を捨てることなく、かつ自分がより大きな全体の部分であることを受け入れるには、存在論的な自己肯定が必要である。個と全体を統合する勇気は、自己を超えた存在に与(あずか)ることによってのみ得られるのである。人はそこで、みずからに固有な本質を肯定し、みずからの運命を引き受けることができる。自分が有限であることを承認し、それを受け入れることができる。
ティリヒは、このような存在論的勇気の象徴的表現をアルブレヒト・デューラーの版画「騎士と死と悪魔」(本章扉)に見出している(ティリヒ、175頁)。デューラーの描く騎士は、あらゆる否定的な力に囲まれながら、ある力に参与することによって、それらに抗して自己を肯定する勇気を得ている。彼を支えているのは、自分自身に対する信頼ではない。そのような自信は、傍らでじっと彼を凝視する死や悪魔の眼差しに絡め取られ、容易に崩れてしまうだろう。といってそれは、中世的な集団主義への埋没によって得られる信頼でもない。この騎士は、すでにそのような歴史を後にして旅立っている。彼は、怖れることなく前方を見つめ続け、注意深くではあるが信頼をもって、彼方の都を目指して前進を続ける。みずからを超えた存在の根拠に参与しているからである。
□ 正統を襲う異端
デューラーの騎士は、魑魅魍魎(ちみもうりょう)の跋扈(ばっこ)する現代社会にあって、恥じることなく臆することなく正統を担おうとする者の姿であるとも言えよう。正統は、必ず批判勢力の攻撃に晒される。虚無の力に脅かされる。その攻撃から彼の身を護るのは、自分の武具や鎧ではなく、非存在を超克する存在の根拠への信頼である。彼は、周囲に否定の力が渦巻いていることを知っている。にもかかわらず( trotz )、彼はみずからに固有の本性を肯定する勇気をその信頼から得ているのである。
宗教改革前夜という当時の情勢からすると、ここに描かれているルター的な精神の体現者は、正統ではなくむしろ異端の側に属している、と言うべきかもしれない。だが、そういう言葉の割り振りは、ここではさして重要ではない。現在の正統を襲ってこれに成り代ろうとする異端、時満ちなば必ずや正統たらんとする異端、みずから新たな正統を担おうとする覚悟のある異端だけが、真の異端だからである。少なくともそれは、現代人好みの「なんちゃって異端」のことではない。
現代には、非正統はあるが異端はない。すでに紹介した通り、古今東西の歴史に見る真正の異端は、みな志の高い人々である。知的に優秀で、道徳的に潔癖で、人格的に端正で、人間的に魅力のある者だけが、異端となる資格をもつ。そうでない者は、安んじて正統にとどまるがよい。
真正の異端はまた、一人よがりの正義を振り回したりはしない。デューラーの騎士は、単独ではあっても孤立はしていない。その目線はまっすぐに目的地へと向けられており、その歩みは思い上がり(ヒュブリス)とは無縁の着実さを示している。彼は、同志を募り、信頼する友をもち、共同作業を委ね、自分も分業体制の中で限定された位置をもつ。そうしてこそ、腰の据わったアイデンティティが生まれ、粘り強く理想を実現するための闘いを続けることができるのである。
そのような異端だけが、やがて正統となる。正統となったら、次は自分が新たな異端の挑戦を受ける立場となる。それに正面から応えつつ課題を担い続ける腹構えが必要である。批判されても中央にどっかと居座り続ける図太さと憎たらしさをもたねばならない。それがさらに次なる若き異端の群れを育て、鍛えることだろう。そのようにして大舞台が回り続けることが、健康な社会の徴表である。
もし現代に正統の復権が可能だとすれば、それは次代の正統を担おうとするこのような正真正銘の異端が現れることから始まる以外にない。」(P.236 ~ P.240) 】
最後に、「自由」についての文章を引用紹介して、本書の紹介を終わりとします。
【 「 自由は、あるものに本来的に備わっている法則に従うことによって得られる、ということである。制約なしに自由はない。自由になろうと思う者は、みずからに限定を引き受けねばならない。規則を破り、束縛を逃れれば自由になる、と考えるのは中学生までである。無限定で無定形の自由に実質を与え、具体的で手に取ることのできる現実となすのは、その外周を囲う何ものかなのである。」(P.163) 】
「「自由」は「不自由」のなかにある」あるいは「自由とは必然性の洞察である」ということでしょうか。
【 「 正統は「どこでも、いつでも、誰にでも信じられている」≪かのように≫存在していなければならない。事実であるかどうかはともかく、少なくともそれは「太古の昔から永遠の掟のごとく不動のものとして存在している」≪かのように≫信じられていることが枢要なのである。」(P.234)
「 異端は弾圧されたから姿を消したのではなく、姿を消したから異端なのである。」(P.59) 】
時事問題を若干。「コロナ」「五輪」で「敗戦」濃厚です。日本「特有」の「万世一系」的「無責任の体系」が至るところで作動しています。東芝もあります、「赤木ファイル」をはじめとする「森・加計・桜」も解決していません、中曽根康弘や小泉純一郎や安倍晋三(菅義偉)等の自民(公明)党政府(各時代の「高級」官僚連中や経団連・日経連等のお偉方も当然含みます)が、時代時代で埋め込んだ各地の「地雷」が爆発を起こしているのでしょう。庶民には逃げる場所がありません、医療関係者は更に大変です、「赤紙(召集令状)」ですから。
森本あんりは面白い、気に入りました。彼の名前を初めて知ったのは、「反知性主義」という言説が日本で流行っていた5~6年前に『反知性主義 ―― アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書)(未読)という著書を見たときだと思います。その後、東京女子大学で行われた「第8回丸山眞男記念比較思想研究センター公開研究会」の「『丸山眞男 別集 第4巻 正統と異端一』合評会」(2019年7月6日開催)に聴衆として参加して彼の話を聞きました。その時は、岩波新書で『初期仏教 ―― ブッダの思想をたどる』(2018年)を書いた馬場紀寿も参加していました。森本あんりは「L正統とO正統 ―― キリスト教史からの批判的検証」、馬場紀寿は「仏教における「正統と異端」」という内容で発表をしました。内容は覚えていません、詳しくは「センター報告書 第15号(2020年3月)」に出ていますので、確認ください(後で読んでみようと思ってはいます、馬場の『初期仏教』とともに)。
全く別件ですが、本日(6月30日(水))、「岩波講座 世界歴史」(全24巻、2021年10月刊行開始)のパンフレットを入手しました。それを見ましたら、森本あんりが、「第23巻 冷戦と脱植民地化Ⅱ 20世紀後半」で「宗教と現代政治」という論稿を書くようです、楽しみです。他の論稿や著者名等、ワクワクするような内容が目白押しで、刊行が待ち遠しいですね。
本書は、引用・紹介したい文章満載で「困惑」気味ですが、最終節の「真正の異端を求めて」全文と、「秘跡論から見る正統」全文とそのまえのアウグスティヌスに関する文章も含めて引用・紹介します。この「秘跡(サクラメント)」の話は面白い、まさに「目から鱗」です、キリスト教ならではの「話」でしょうか。日本聖書協会の新共同訳『聖書 ―― 旧約聖書続編つき』(1988年刊)を持っていますが、全く読んでいません。
そのほかにも、アメリカ合衆国の憲法の制定過程の話(第7章後半)、ツヴェタン・トドロフの「自分自身に酩酊(めいてい)する意志」の件(第5章)、「正典」も「教義」も「職制」も結局は「正統」が決めるということ(第2、3、4章)、そこで「正統」とは「どこでも、いつでも、誰にでも、信じられてきたこと」であるということ、また、「職制」に関連して「厳格な性倫理という誤解」の話、等々、興味深い内容いっぱいです。
では、まず、「秘跡(サクラメント)」についての文章を引用します。「第6章 異端の熱力学 ―― 中世神学を手がかりに」(P.138 ~ P.159)の「第2節 ドナティストの潔癖」(P.142 ~ P.145)の最後の方の文章と「第3節 秘跡論から見る正統」(P.146 ~ P.151)全文です。
【 「 ただし、アウグスティヌスにとってこれは、教会がどこまで寛容であるべきか、という種類の問題ではない。教会論ではなく、秘跡論が焦点なのである。背教者が再び洗礼を受けたり、離教した司祭が再び叙階を受けたりする必要がないのは、「サクラメントは決して損なわれえない」からである(著作集八:25頁)。秘跡において働いているのは神の恵みであって、施行者はその経路であり道具であるにすぎない。だから施行者の個人的な属性は、恵みの有効性に何ら障害をきたさない。簡単に言うと、どんなに悪い人間が行なっても、その作用自体は有効なのである。
洗礼を授ける者は誰も、「わたしの洗礼」とは言わない。洗礼は、父子聖霊の三位一体の名によってのみ授けられるのである。洗礼は、それ自体で聖なるものなので、授ける者や受ける者がたとえ人殺しであっても、有効である。ここに、ソヴィエト体制のスターリン批判という異端処理の方法との相似性がほんのりと浮かび上がっている。
3 秘跡論から見る正統
□ 悪臭にも汚れない光
この秘跡理解は、その後カトリック教会の公式見解として何度か表明されることになる。5世紀末には、アカキウスの棄教事件に際して、同様の判断が示されている。コンスタンチノープルの大司教だったアカキウスは、カルケドン公会議が定めたキリスト両性論に異を唱えてローマから破門されたが、本人はその破門の効力を認めず司教職にとどまり続け、逆に彼もローマ教皇を破門したため、教会は35年にわたって東西に分裂した。
では、その間に彼が行なった叙階は有効か。この問いに回答を与えたのが、教皇アナスタシウス2世の書簡「離教者が授けた諸秘跡の有効性について」( Exordium pontificatus mei )である。
< 離教した司教アカキウスが洗礼を授けた者、また彼が規定に従って司祭、聖職者に叙階した者はアカキウスの離教によって影響を受けない。秘跡の恩恵は悪人によって授けられても弱められないことは明らかだからである。洗礼は、たとえ姦通者または盗人によって授けられても、それを受けた者を少しも傷つけない( DS 356 )。 >
同書簡の巧みな喩えによると、それは「太陽の光線がひどい悪臭を放つ場所にさしこんでも、少しも汚れない」のと同じである。
□ 消えない印
カトリック教会の歴史は息が長い。この話が次に出てくるのは、ほぼ千年後の1439年のことである。エウゲニウス4世は、ペストの猖獗(しょうけつ)を避けて各地を転々とする公会議のさなか、大勅書「エクスルターテ・デオ」( Exultate Deo )を出す。これは、アルメニア人との合同に際して、カトリック教会の七つの秘跡を教義的に明示することを目的とした文書である。ここで確定された七秘跡のうち、洗礼、堅信、叙階の三つは、それを受けた者に「消えない印」( character indelibilis )を刻みつけるので、「繰り返して授けるべきではない」と定められた。
なぜこの「印」は消えないのか。それは秘跡の真の授与者が司祭ではないからである。洗礼の「効果を発する主要原因は聖三位一体であり、道具因は授与者である」( DS 1313-1315 )。授与者も必要だが、その存在は単なる道具因にすぎない。要するに誰でもいいのである。
カトリック神学が多用するアリストテレス的な原因論をあてはめると、洗礼における「質料因」( material cause )は水、「形相因」( formal cause )は洗礼定式文である。通常ならその次に「作用因」ないし「動力因」( efficient cause )が来るが、そう書かれていないのは、おそらくそれが二つあるからだろう。洗礼の「作用因」は、「外的」には司祭だが、それが効果を発する「主要原因」は聖三位一体である。つまり、人間の授与者は添え物にすぎない。定式を守り、受ける者に真摯な意向さえあれば、洗礼は聖職者でなくとも授けることができる。信徒でも女性でも、いな異教徒や異端者ですら、洗礼を授けることができるのである。この公式見解は、今日に至るまで変わっていない。
宗教改革後のトレント公会議になると、叙階の秘跡に際して与えられる「霊的印章」は「消されることも、除去されることもない」と明確に宣言されている( DS 1767 )。だから、ひとたび叙階された者は、再び信徒に戻ることはできない。
□ 「非合法だが有効」
では、聖職に任じられた者に不適切な点が見いだされたらどうなるのか。この議論が非常に面白い。カトリック教会法によると、その場合は聖職者としての身分を喪失する。この身分喪失を laicization と呼ぶが、日本語でこれを「還俗」と訳すのは厳密には誤りである。なぜなら、すでに説明した通り、聖職者はけっして「俗人に還る」ことができないからである。
とすると、聖職者としての身分を喪失するとはどういう意味か。その人は、「叙階に基づく権利の行使」を「禁止」されるのである(『カトリック新教会法典』290-292条)。これは実に不思議な定義である。「禁止」されるということは、その能力はまだ残っている、ということである。能力がなくなっているなら、禁止するまでもない。身分喪失者は、聖職権の行使を「禁止」される。それを行使する「権利」はない。その「正当な」( licit )行使はできない。
裏を返せば、禁じられていても行使はできる、ということである。権利なき行使、不当な行使はできる、ということである。もしそのような聖職者がミサを行えば、その秘跡は非合法( illicit )ではあるが、にもかかわらず有効( valid )だ、ということになる。何という不思議な論理であろうか。
「非合法だが有効」( illicita sed valida )というこの論理の奥深さは、神の恵みの印を人間が消し去ることはできない、という神学の要請に基づいている。あえてこれを他の業態に喩えるなら、「有能だが免許を剥奪された医師」がいちばん近いかもしれない。その医者が診察することは法律で禁じられており、薬を処方すれば違法になる。だがそれでも、その診察や投薬は効くだろう。「非合法だが有効」な司祭は、手塚治虫の漫画に出てくる無免許の名医「ブラック・ジャック」のような存在である。
教義史においては、このサクラメント理解は「事効論」( ex opere operato )と呼ばれる。直訳すれば「なされた業から」という意味で、「人効論」( ex opera operantis )つまり「なす者の業から」ではない、ということである。秘跡の施与者の人格や品性は、秘跡を通して働く神の恵みにとって、偶有的なものにすぎない。先に引用した古代的な表現を使えば、太陽の光はゴミ溜めに射し込んでも汚れないのである。
□ 教会も神を信じていた
この奇妙な理解の定式は、実際のところ何を意味しているのか。それは「教会も神を信じていた」ということである。教会なのだから、神を信じているのは当然だ、と思われるかもしれない。だが、巷(ちまた)の陰謀論はそう考えない。権力を握った正統派の最高権力者は、もはや神を信じてすらいない連中だ、ということになっている。「神を信じていない」というよりは、むしろ「自分が神になっている」ないし「自分を神と同一視している」ということだろう。
神を信じているのは素朴で騙されやすい民衆だけで、その民衆を思う通りに操作しているのが正統派を自任する教会の権力者だ、というのがお決まりのパターンである。いわば神をそっちのけにして自分の権力意思を貫こうとする。 ―― 先に『ダヴィンチ・コード』の陰謀論に触れたが、同じ著者による小説『天使と悪魔』(2000年)の結末部分では、教会の正統がまさにこのようなシニシズムで描かれている。
もしそうであったなら、このような定式は存在しなかっただろう。最高権力者たる自分が「非合法」と判断した以上、それは「無効」だと考える。つまり、「非合法ゆえに無効」( illicita ergo invalida )となっていたはずである。だが、教会はそうは考えなかった。「非合法」は人間の定めた基準による判断だが、秘跡において働くのは神の力である。だからそれは教会の判断を超えて「有効」になるのである。教会とその指導者たちは、いくら自分が禁じても、神がその禁止に拘束されるとは考えなかった。教会が非合法と断じた秘跡であっても、神の力はそれを超えて秘跡を有効ならしむる。つまり教会は、自分が「最高」権力者ではない、ということを知っている。簡潔に言うと、彼らは自分よりも神の方が上にある、ということを信じていた。そのことの証拠が、この定式なのである。」(P.145 ~ P.151) 】
次に、「終章 今日の正統と異端のかたち」(P.223 ~ P.240)の最終節「第4節 真正の異端を求めて」(P.236 ~ P.240)を全文引用・紹介します。
【 「 4 真正の異端を求めて
□ 全体の部分となる勇気
本書は、宗教における正統の発生と展開を参照枠としつつ、政治や文化一般における正統と異端の生態を問うてきた。いずれの領域にあっても、正統は特定しがたく名伏しがたく把握しがたい全体性を特徴とし、異端は明示的な要素と輪郭をもった彩度の高い主張を特徴とする。
正統と異端はまた、個と全体という社会力学の下地をもっている。公的生活への参画や連帯から切り離された個人は、たやすく操作されて全体主義に取り込まれてしまう、という指摘をしたのはアレントであった。政治権力とは別の価値軸をもつ自発的な中間団体が多元的に存在することは、民主主義下の個人の暴走を防ぎ、社会全体のレジリエンスを向上させるのに役立つだろう。
アレントの親友であった神学者パウル・ティリヒは、これを「全体の部分として生きる勇気」と表現した。現代人は、「個人として生きる勇気」のことなら十分すぎるほど知っている。だがこの勇気は、単に自分を信頼すれば自然と湧いてくる、というものではない。個人であろうとする意志を捨てることなく、かつ自分がより大きな全体の部分であることを受け入れるには、存在論的な自己肯定が必要である。個と全体を統合する勇気は、自己を超えた存在に与(あずか)ることによってのみ得られるのである。人はそこで、みずからに固有な本質を肯定し、みずからの運命を引き受けることができる。自分が有限であることを承認し、それを受け入れることができる。
ティリヒは、このような存在論的勇気の象徴的表現をアルブレヒト・デューラーの版画「騎士と死と悪魔」(本章扉)に見出している(ティリヒ、175頁)。デューラーの描く騎士は、あらゆる否定的な力に囲まれながら、ある力に参与することによって、それらに抗して自己を肯定する勇気を得ている。彼を支えているのは、自分自身に対する信頼ではない。そのような自信は、傍らでじっと彼を凝視する死や悪魔の眼差しに絡め取られ、容易に崩れてしまうだろう。といってそれは、中世的な集団主義への埋没によって得られる信頼でもない。この騎士は、すでにそのような歴史を後にして旅立っている。彼は、怖れることなく前方を見つめ続け、注意深くではあるが信頼をもって、彼方の都を目指して前進を続ける。みずからを超えた存在の根拠に参与しているからである。
□ 正統を襲う異端
デューラーの騎士は、魑魅魍魎(ちみもうりょう)の跋扈(ばっこ)する現代社会にあって、恥じることなく臆することなく正統を担おうとする者の姿であるとも言えよう。正統は、必ず批判勢力の攻撃に晒される。虚無の力に脅かされる。その攻撃から彼の身を護るのは、自分の武具や鎧ではなく、非存在を超克する存在の根拠への信頼である。彼は、周囲に否定の力が渦巻いていることを知っている。にもかかわらず( trotz )、彼はみずからに固有の本性を肯定する勇気をその信頼から得ているのである。
宗教改革前夜という当時の情勢からすると、ここに描かれているルター的な精神の体現者は、正統ではなくむしろ異端の側に属している、と言うべきかもしれない。だが、そういう言葉の割り振りは、ここではさして重要ではない。現在の正統を襲ってこれに成り代ろうとする異端、時満ちなば必ずや正統たらんとする異端、みずから新たな正統を担おうとする覚悟のある異端だけが、真の異端だからである。少なくともそれは、現代人好みの「なんちゃって異端」のことではない。
現代には、非正統はあるが異端はない。すでに紹介した通り、古今東西の歴史に見る真正の異端は、みな志の高い人々である。知的に優秀で、道徳的に潔癖で、人格的に端正で、人間的に魅力のある者だけが、異端となる資格をもつ。そうでない者は、安んじて正統にとどまるがよい。
真正の異端はまた、一人よがりの正義を振り回したりはしない。デューラーの騎士は、単独ではあっても孤立はしていない。その目線はまっすぐに目的地へと向けられており、その歩みは思い上がり(ヒュブリス)とは無縁の着実さを示している。彼は、同志を募り、信頼する友をもち、共同作業を委ね、自分も分業体制の中で限定された位置をもつ。そうしてこそ、腰の据わったアイデンティティが生まれ、粘り強く理想を実現するための闘いを続けることができるのである。
そのような異端だけが、やがて正統となる。正統となったら、次は自分が新たな異端の挑戦を受ける立場となる。それに正面から応えつつ課題を担い続ける腹構えが必要である。批判されても中央にどっかと居座り続ける図太さと憎たらしさをもたねばならない。それがさらに次なる若き異端の群れを育て、鍛えることだろう。そのようにして大舞台が回り続けることが、健康な社会の徴表である。
もし現代に正統の復権が可能だとすれば、それは次代の正統を担おうとするこのような正真正銘の異端が現れることから始まる以外にない。」(P.236 ~ P.240) 】
最後に、「自由」についての文章を引用紹介して、本書の紹介を終わりとします。
【 「 自由は、あるものに本来的に備わっている法則に従うことによって得られる、ということである。制約なしに自由はない。自由になろうと思う者は、みずからに限定を引き受けねばならない。規則を破り、束縛を逃れれば自由になる、と考えるのは中学生までである。無限定で無定形の自由に実質を与え、具体的で手に取ることのできる現実となすのは、その外周を囲う何ものかなのである。」(P.163) 】
「「自由」は「不自由」のなかにある」あるいは「自由とは必然性の洞察である」ということでしょうか。
2018年9月29日に日本でレビュー済み
序章と終章は面白かった。
だが、それ以外(つまり大部分)は、「宗教学、神学について」がテーマという感じで、私にはあまり興味が持てなかった。
ただ、2~6章の、主にキリスト教の歴史についての論は、通常の歴史書には出てこないような(私は初めて知ったことが多かった)細かいエピソードが多く、勉強にはなった。
だが、それ以外(つまり大部分)は、「宗教学、神学について」がテーマという感じで、私にはあまり興味が持てなかった。
ただ、2~6章の、主にキリスト教の歴史についての論は、通常の歴史書には出てこないような(私は初めて知ったことが多かった)細かいエピソードが多く、勉強にはなった。