くらしのアナキズム

著者 :
  • ミシマ社
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  • Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784909394576

作品紹介・あらすじ

国家は何のためにあるのか?
ほんとうに必要なのか?

「国家なき社会」は絶望ではない。
希望と可能性を孕んでいる。
よりよく生きるきっかけとなる、
〈問い〉と〈技法〉を
人類学の視点からさぐる。

本書でとりあげる「人類学者によるアナキズム論」とは…
・国家がなくても無秩序にならない方法をとる
・常識だと思い込んでいることを、本当にそうなのか? と問い直す
・身の回りの問題を自分たちで解決するには何が必要かを考える

アナキズム=無政府主義という捉え方を覆す、画期的論考!

***
この本で考える「アナキズム」は達成すべき目標(・・)ではない。むしろ、この無力で無能な国家のもとで、どのように自分たちの手で生活を立てなおし、下から「公共」をつくりなおしていくか。「くらし」と「アナキズム」を結びつけることは、その知恵を手にするための出発点(・・・)だ。(「はじめに」より)

***

ミシマ社創業15周年記念企画

感想・レビュー・書評

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  • 人類の長い歴史から見れば国家ができたのは最近。国家がなくても大混乱にはならない(マダガスカルの小さな町・エチオピアの村)。自然災害が起きると、国家の機能は一時的に機能麻痺に陥る。アナキズムは達成すべき目標ではない。しかし、身近な暮らしから(下から)公共をつくるとき、その知恵を得るための出発点になる。

  •  秩序を保つためには「国家」がなければならない。現代社会に生きている自分たちにとって国家は自明のものだし、国家がなければ困ると考えている。
     でもそれは本当なのだろうか。国に頼らずとも、自分たちで「公共」をつくり、守ることができる、それがアナキズムなのだ、と著者は言う。
     そして、モースの『贈与論』、デヴィッド・グレーバーの『アナーキスト人類学のための断章』、ジェームズ・スコットの『反穀物の人類史』『ゾミア』等の人類学的知見、宮本常一、きだみのるの日本社会に関する民俗誌などを参照しながら、生活者のできることに目を向ける「くらしのアナキズム」を考えていく。

     大きな災害があれば、人はできる範囲で助け合おうとする。「市場」(しじょう)は資本主義の原理で動くが、「市場」(いちば)は非日常空間だったt
     「アナキズム」というと反国家というイメージが強かったが、くらしのアナキズムであれば、誰でもがある程度のことはできるかもしれない、それを実感できた。
     

  • 『村に火をつけ、白痴になれ』でアナキストたちの生き方に触れたこともあり、興味あるかもと思って読んでみた。著者の定義するアナキズムは今の社会に必要なものだと思うし、多数決って公平そうだけど少数派を切り捨てることでもあるとか、私たちが現在享受する恩恵は過去に「法律違反者」たちが抗議活動によって勝ち取ったものだとか、なるほどと思える内容だった…
    けども、この「アナキズム」、著者の母親が経験した熊本地震後の地域の緩やかな助け合いを読むにつけ、私には無理だろうとガッカリして怖くなって、パニックを起こしそうになった…「流れに抗うには、身体を支え、手をさしのべあう仲間がいる。」「ひとりで問題に対処できなくなるまえに、一緒に不真面目になってくれる仲間をみつけ、そのささやかなつながりの場や関係を耕しておく。それが、くらしのアナキズムへの一歩だ。」
    一歩と言われても、そんな仲間、私にはいないし、この生活様式では今後も作れそうにない。災害に焦点を置くならば、うちのご近所は変人な老人だらけで、著者のお母さんの暮らすコミュニティのようにはいかないはず。これは「シスターフッド」って言葉についても言えることだけど、理念というか概念というか、肯定するし応援したい、でも実際問題そんなに連帯できる仲間なんていないんだもん。遠くから幸あれと応援できる少数の友人さえいればそれでよくて、私は私で好きなように居心地よくやっていく、そういう傲慢な考え方生き方のツケがこれから回ってくるんだろうなあ…

  • 文化人類学者の書く本はだいたい面白い。

    人間のプリミティブな地点から、様々なことを分析するからそうなのだろうか。

    「アナキズム」は国家の管理が及ばないことから生ずる混乱に満ちた状態でなく、人間の原初的な動機により築かれる社会性の発露である、というところだろうか。

    著者のエチオピアでのフィールドワークや熊本の震災で経験した実体験を根拠として論説がなされる。

    とても興味深く、現在の政治への批判も随所に。
    共感が持てる本である。
    そしてそこから自分がとうするか、それが問題。

  • こういう共同体を復活させよう!という考え方はいろんな本に書いてあるが、心構えばかりで結局現代日本における具体的例などが書かれていないな…というのが率直な感想。
    それからやっぱり共同体って素晴らしいのだろうなと思わされる一方、単身マンション住まいで敷地内で男性とすれ違うのもなんかやだなぁ、と思ってしまうような現代の状況を鑑みると、再び共同体というものを暮らしに打ち立てるのは難しい気もする。知る機会がない、知らない人(特に一人暮らしの女性にとっては男性)は怖い、近所付き合いめんどくさい、一人でいるのに慣れているから楽、というさまざまなハードルを、理想だけで乗り越えていくのは難しいと思う。
    ここまで個別化された現代人は、本当に共同体を心地よいと思えるのか。

  • アナキズムは無政府主義じゃないって言うので、どういう本なんだろうと思って読んでみた本。
    要するに国家を当てにしないという自助・共助的なあり方を目指す(ちょっと皮肉だ、著者的には政府の言うこととは違うんですということらしいけど…)という話で、地域の共同体でのつながりを取り戻すことで自己決定する政治と経済をやっていこうという感じ。共同体のつながりの復活っていうのは良く取りざたされるけど、その達成への道筋についてはやっぱり弱いように思う。
    国家はこれこれこういう成り立ちなので搾取と抑圧を行うものだし、災害や疫病では思う様には動かないということで、国家は「図体がでかいだけで、無能で無力である」。虐げられる「生活者」vs 権力と暴力を独占する国家という構図を展開する。
    私自身は災害やコロナ禍で国家が全く無能だとは思わないし、日常のインフラ整備や治安維持など含めてある程度必要な役割を果たしていると思うのだが、そこは個人の感想か。

    政治をドラマとして消費することに終始して政治を政治家任せにしないで、生活が政治の延長上にあることを自覚するべきという著者の意見はすごく賛成できる。
    でも、国家と政治家を「生活者」とは断絶した存在のように扱い、対立をあおるのはあまり好きじゃない。
    未開社会の首長が自分の財産を根こそぎ共同体のために使い、奉仕することを強いられるのを美談っぽく書いていることも若干違和感があったが、「病気が理由でその職を投げだせば、同情が集まって支持率が上がる」などと書くあたり、現代日本の政治家も国家で働くたくさんの人々もサンドバックではなくて同じ共同体の「生活者」でもあるっていう認識がなさそうなんだよな。
    近所のお店の主人が病気で店辞めたら「病気で仕事を投げ出した」なんて書かないだろうに。例えそのせいですごく不便になるのでも、嫌いな人間だとしても。

    規模は全然違うけど国家だって共同体の人間が運営する共同体のための問題解決システムであって(著者自身国家は暮らしのための道具にすぎないと書いている)、アナキズムが無政府状態を目指すことをやめて国家と共存せざるを得ないのなら、国家を敵視するのではなくて著者の言うアナキズム的あり方に取り込む方が正攻法ではと思う。
    政治が遠い遠いと言っても、最近は国会議員や自分の市の市議会議員の人なんかもSNSを活用している。メディアを通さない形で直に自分の活動を報告したり市民と交流したりする様子を見て、すごいなと思っていた。自分の興味のあるトピックについて活動している政治家を探して応援したりとかもこの時代だからネットでできるし。本来の市民の代表ってこういう形で育つものなんだと感じる。
    この本で主張される、多数決は民主政治じゃない・意志決定までに皆を納得させなきゃいけないっていうのは国家規模だと難しいけど、別に今までも根回しや議論、反論への配慮は一応あって多数決だけが全てだったわけではないだろう。
    国の政治というシステムを構成しているのは敵ではなくて、対話のできる、人格のある共同体の仲間で、私たちが責任を持つ(その手段は選挙だけではない)代表だということを認識するのであれば、「政治の現場である暮らしのなかの関係性や場を耕しておくこと」を活発化できるのではないか。
    その気になればできることはまだある気がする。

  • 政府の転覆を謀るような破壊的な「無政府主義」ではない。国家のなかにありながら、民主主義をとりもどすための「アナキズム」を提案する。

    「未開」とされてきた人びとの営みに注目する人類学の視点から考えることで国家の自明性を疑う。初期国家の成り立ちからして、「国家は、人びとから富と労力を吸いとる機械として誕生」しており、歴史的にみれば「国家はむしろ平和な暮らしを脅かす存在だった」とする。そして過去には「非国家空間=ゾミア」のような、人びとを飲みこむ国家を逃れた共同体が存在した例を示す。

    パンデミックも含む現代の日本の状況に目を移し、災害時の人びとの助けあいが国や行政による対応を上回ることなどを挙げ、国家の本質はその発生時と変わりがないとする。政治と経済が国家と資本主義に委ねられることが当たり前になり、自発的な問題解決能力が失われた現在の状況を憂う。そして、本来は身近なものであるはずの「政治」「経済」が何であるかを問い直したうえで、それらをとりもどすべきだと訴える。

    文化人類学の観点から、西洋由来の国家的な政治体制と思われがちな「民主主義」が、実は国家成立以前から世界各地でみられた普遍的な「民衆の知恵」であるという指摘が新鮮だ。現代エチオピアと日本社会との対比や、過去においては海賊たちまでもが民主的だったとする具体的な事例なども興味深い。同時に、多くの人が民主主義の象徴とみなしているであろう「多数決」を、コミュニティを破壊しやすい非民主的な方法だとする。この点では、大小を問わず現在の多くの争いや分断の問題の根源を突きつけられた思いがする。また、現在の日本の政権にたいする批判的な記述も目立つ。

    本書では、鶴見俊輔、ジェームズ・スコット、柳田国男、花森安治、オードリー・タン、ミシェル・フーコー、クロード・レヴィ=ストロース、フェルナン・ブローデル、宮本常一などの著作や発言が多数引用されている。そんななか本書にもっとも大きな影響を与えているのは昨年亡くなったデヴィッド・グレーバーであり、著者自身がそのことを強調している。余談だが本書で言及されていないところで、序盤にある椎葉村や柳田国男などについての記述は、『遊動論 柳田国男と山人』に書かれている内容がほぼ同じだったように記憶している。

    著者のいう民主主義・政治・経済を取りもどすということは、すなわち主体的な暮らしと生き方を取りもどすことだと理解した。つまり現代においてそれだけ人びとの生から主体性が大きく損なわれているということになる。デヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ』で指摘された無意味な仕事の拡大もこれにつながり、資本主義下で常態化しつつある砂をかむような労働のあり方も回復すべきもののひとつとして付け加えられるだろう。全体に学びや驚きが多く、引用されているデヴィッド・グレーバーやジェームズ・スコットの著書にも関心をもつことができた。

    「人に迷惑をかけてはいけない」や「自己責任」とは対称的な「不完全性の肯定」については、再び広く認識されるべき、人が暮らしていくうえでの基本的な姿勢だと強く感じる。

  • 意図的に国家支配から逃れるゾミアの民とエチオピアでの体験談が
    中心に語られる。読解力が無いせいかもしれないが目指すべきゴールが見えない。
    農村での忖度と根回しは◯だが農村を指示基盤にもつ現政権与党の忖度と根回しは✕。思いやりが大切でルールは不要だが新自由主義による規制緩和は✕。
    少しずつ変えていきたいのか?革命起こしたいのか?

  • 今見えている国家とか経済とかもう一度見直してみる、時期にきている気がする。

  • いやーこれは面白かった。

    つまりアナキズム=無政府主義者みたいなのはオッカナイものではないと。それはむしろ太古?から非西洋文明なところからあるということ。

    そして面白いのが今の民主主義=多数決みたいなのがあるのでなくて、もっとリーダーはごりごり変わるし、そもそも「国家的」なしくみがなくても回っていたし、していると。

    国家自体が搾取ではないかという単一的な話や問題提起でなく、もっと本質的に人類学だったりからアプローチして考えると。

    読後感としては、まとめるとかなり日々努力みたいなのになりがちだが、実際に先が見えない中でどう試行錯誤していくかというところで、それこそ原始的な意味で、自給していくにはどうすればいいか、自分でそれこそ「つくる」ことを大事にしたり、消費=仕事を生み出す=経済と捉えると、ただお金を使うというよりは、誰かの役に立つ=経済みたいになるし、投資でもあるし、なんだか応援的な意味にもなるだろうと。

    考える切り口として暮らし、日々の生活というところだけど、国家とか既にある行政とか、そういうことでなく、コミュニティでもいいし、関係性でもいいし、作っていくことはものすごく自然な感じがする。
    別に国家を破綻させたり転覆とかでなくて(笑)カウンターとしての考え方を入れてもそれが結局消費されれば終わるので、どう取り組んでいくかみたいなのがツボだというところを得る。

    別に社会主義だとか、パーマカルチャーで原始的に物々交換しようとかってことでもなくて、哲学というか一個ずつ考えていくと、やはりそこに生きる人が、僕も含めて楽しいとか幸せとかって思えないなら結構まずいんだろうなあと。それは尺度としてなにか比較するものでもないが、とはいえ鎖国して閉じ込めるものでもない。そのあたりの感覚めちゃくちゃ大事で、かなり勉強になった本だった。面白い。

    グレーバーもそうだけど、人類学やっぱ面白いと感じた一冊。入門書としてもいいかも。

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著者プロフィール

松村 圭一郎(まつむら・けいいちろう):1975年熊本生まれ。岡山大学文学部准教授。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。専門は文化人類学。所有と分配、海外出稼ぎ、市場と国家の関係などについて研究。著書に『くらしのアナキズム』『小さき者たちの』『うしろめたさの人類学』(第72 回毎日出版文化賞特別賞、いずれもミシマ社)、『旋回する人類学』(講談社)、『これからの大学』(春秋社)、『ブックガイドシリーズ 基本の30冊 文化人類学』(人文書院)、『はみだしの人類学』(NHK出版)など。共編著に『文化人類学との人類学』(黒鳥社)がある。


「2023年 『所有と分配の人類学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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