- Amazon.co.jp ・本 (296ページ)
- / ISBN・EAN: 9784909394408
作品紹介・あらすじ
外来のものと土着のものが共生するとき、
もっとも日本人の創造性が発揮される。
どうして神仏習合という
雑種文化は消えたのか?
組織、民主主義、宗教、働き方…
その問題点と可能性を「習合」的に看破した、
傑作書き下ろし。
壮大な知の扉を、
さあ開こう。
「話を簡単にするのを止めましょう」。それがこの本を通じて僕が提言したいことです。もちろん、そんなことを言う人はあまり(ぜんぜん)いません。これはすごく「変な話」です。だから、多くの人は「そんな変な話は聴いたことがない」と思うはずです。でも、それでドアを閉じるのではなく、「話は複雑にするほうが知性の開発に資するところが多い」という僕の命題については、とりあえず真偽の判定をペンディングしていただけないでしょうか。だって、別に今すぐ正否の結論を出してくれと言っているわけじゃないんですから。「というような変なことを言っている人がいる」という情報だけを頭の中のデスクトップに転がしておいていただければいいんです。それ自体すでに「話を複雑にする」ことのみごとな実践となるのですから。――あとがきより
感想・レビュー・書評
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「習合」という言葉には、馴染みがなかったので、辞書で調べてみた。ブリタニカ国際大百科事典による解説が一番詳しかったので、それを下記に引用する。
【引用】
人類学用語。文化接触によって生じる2つ以上の異質な文化的要素の混在、共存のこと。1935年頃から始まった文化変容研究の開花期に登場した用語。習合において、もとの文化要素は再解釈、再構成され、新しい意味や機能が与えられる。典型的な例として、キリスト教やイスラム教、仏教などの世界宗教が広まっていくなかで各地の伝統的信仰と混在したように、在来文化と外来文化の接触によって生じる信仰や宗教活動の諸形態がある。文化接触以前の状態をゼロ・ポイント、文化要素の中核であり文化接触後も変わらないこともある領域を文化焦点などといい、それらの用語とともに文化変容の過程を示すのに用いられる。
【引用終わり】
内田樹は、日本の中での習合の例として、神仏習合をあげている。もともと日本の信仰であった八百万の神と外国からの宗教である仏教が混合した、神仏習合の独特の宗教が日本では生まれたこと、そういったハイブリッドは、日本人の得意とするところであったこと、等を述べている。
神道と仏教、あるいは、江戸時代に盛んであった儒教について、それのどれが一番正しいものであるのか、という議論ではなく(もちろんそういう議論もあったであろうが)、それらを混合して、オリジナルなものをつくってしまうことが日本的なやり方であったということであり、「何が正しいのか」といった短絡的な議論で決めつけをせず、もう少し物事を複雑に考えようということが主張と理解した。
読んでいて、これはD&I(ダイバーシティ&インクルージョン)の議論と似ているな、とも感じた。モノカルチャー的な組織(例えば、ひと頃よりは多様化が進んでいるが、新卒入社日本人大卒男子ばかりの経営陣が経営する大企業など)は、環境があまり変化しない時代には強みを発揮するが、現代のように、いつ・どのように・どの程度・変化が起こるのかを予測することが難しい時代には、組織の中に、色々な考えを持つ人がいた方が組織の生存確率は高まる、という議論だ。
内田樹の議論に賛成なのだけれども、でも、多様なものを受け入れることを日本人が得意としてきた(それが日本的)という部分は、「そうかなぁ~?」と思ってしまう。 -
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明窓・日本の「一番いいところ」 | 山陰中央新報デジタル
https://www.sanin-chuo.co.jp/articles/-/2...明窓・日本の「一番いいところ」 | 山陰中央新報デジタル
https://www.sanin-chuo.co.jp/articles/-/2289732022/06/26
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内田先生、ミシマ社からの久々の書き下ろしは、〈習合〉をキーワードに、日本社会の様々な諸相を論じたものである。
加藤周一が唱えた、日本文化は雑種文化であるというテーゼの代表的な顕現として「神仏習合」があるのではないかと捉え、それではなぜ千年近く続いたにもかかわらず、維新政府の政策によりほとんど抵抗なく神仏分離が進んだのか、との問いを発する。
それを中心的な問いとして、共同体、農業、宗教、仕事と働き方等々について、興味深い話が続く。社会的共通資本の公共性、ショートレンジで利潤最大化を目指すグローバル資本主義の限界、働くことの意義、これは自分の使命だと思って行動する人間がどのくらいいるかが、その社会の強靭性、健全性を示していること等々について、いつもの内田節で、具体事例を紹介しながら、目から鱗の面白い話題が続く。
純化主義、原理主義は純粋で、浄化、原点帰還は巨大なエネルギーを発出するが、それで本当に世の中はよくなるのだろうか、折り合いをつけて習合することで日本は創造性を発揮してきたのではないのか。
日本の閉塞状況に対する著者の考察が詰まっており、いろいろなことを考えさせられる、良き参考書である。
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本の中にも記載されていたと思いますが
日本辺境論に続いての日本文化社会論
あとがきに記載されていることが非常に面白く
思えました。たしかに、『話を簡単にするのをやめましょう』
というのはなかなk思いつきません。
でも、確かに異物を除去する考え方や、純血を
薦めていく考え方は怖いと思います。
頭をスマートにするのではなく、逐次的な賢さを
求めるのではなく。頭の容量を大きくし選択と集中の
逆を考える
というのも大事だなと思いました。 -
本書腰巻きには次のようにある。
「外来のものと土着のものが共生するとき,私たちの創造性はもっとも発揮される。」
まさに,そういう本だ。日本人の以下のような生活は,いかにも豊かな生活習慣だと思うがどうだろうか。
年末には,クリスマスを祝って,除夜の鐘を聞いて年越しそばを食べ,神社で初詣をして書き初めし,左義長に参加して,節分では鬼を払ったつもりになり,恵方巻きを食べ…というような生活。結婚式と葬式とはまったく違う宗教で行ったり…。
こんな生活は,他の国の人から見ると,いかにも節操がないように思えるが,それが日本人なのだから仕方がない。日本人は古来から,新しい文化と交わる度に,それを排除するというよりもいいとこ取りをしたり,複合させたりして,日本独自(に見える)文化を創ってきたのだろう。
世界には(あるいは最近は日本にも)「純粋になること」を主張する人たちもいるけれども,その純粋を人に求めるようになるところから悲劇は生まれるのではないか。トランプのアメリカ・ファーストが失敗したのは,米国が建国以来持っていた「混ざっているからこそのよさ」「混ざっているからこそのエネルギー」を活かすことをやめてしまったことによるのだと思う。
「まえがき」によると,日本文化は「雑種である」ということを指摘したのは加藤周一さんらしいが(『雑種文化 日本の小さな希望』1956年),内田さんは,さらに,次のようなことを本書で述べていきたいと言っている。
僕が書こうと思うのは,どうして日本人は雑種をおのれの本態として選択したのか? それはどのような現象に端的に表れているのか? そのもっとも成功したものは何か? 雑種ゆえの弱みや欠点があるとしたら,それはどういうかたちで表れるのか? そういった一連の問いです。…中略…雑種文化の原理論としては『雑種文化』一冊があれば足りると思います。でも,それを踏まえた「各論」をいろいろな人が書くことにも意味はあると思います。(本書 p.7)
そして,内田さんは,「神仏習合」を典型的な事例として話し始めるのだ。
内田さんの形口は大好きなので,今まで何冊も読んできた。これもまた,また読んでみたい本である。
一カ所だけ引用を。すごい文章です。力づけられます。いいじゃないですか,今のあり方で。
ミスマッチを「悪いこと」だと考えるから傷つくんです。人生はミスマッチだらけです。僕たちは間違った家庭に生まれ,間違った学校に入り,間違った人と友だちになり,間違った相手と結婚して,間違った仕事を選んで,間違った人生を送る。そういうものなんですよ。それでいいじゃないですか。それだってけっこう楽しいし,そこそこの「よきもの」を創り出して,この世界に遺していけるし,周りの人からは「楽しそうな人生を送りましたね」と言ってもらえたりっするんですから。(本書,p.60) -
「日本は本来雑種的である」とし、神仏習合を代表例に雑種的であることが、今台頭しつつある原理主義を排除し、持続的な社会をつくっていくことになることになるとした、雑種文化日本礼賛の書。
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わたしの様ないろいろなことをごった煮で考えている周縁的な人間にとっては勇気を与えてくれる一冊。理解・共感・原点回帰に囚われている人には一読をすすめる。
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面白い構成。
問いを立てて、それに明確な答えを与える論がないことを確認しつつ、いろんな分野へ話が進む。最後にやはりまだ答えがないその問いに、内田さんが仮説を立てる。 その最後の部分、なぜその問いを重視するのかというところに内田さんの「好き/嫌い」が絡んでいるところが好ましいと思った。
内田さんの本はものすごく広い分野に渡る割に、明確に記憶に残る知識や結論が少ないからちょっと戸惑う。内田さんが断定するところにえ?と引っかかってしまうことがあるからだと思っていたのだけど、「わかりやすくない」ということも確かにありそう。知識や結論を残し行動を変えるのではなく、なんとなく頭の隅に内田さんの話が(曖昧なまま)溜まっていく。それを筆者が目指しているらしいことがわかり、驚いたが納得もした。
ただやっぱり内田さんの論には「そうだろうか?」と思うことも多い(それは彼の論が多岐にわたることと、批判を恐れずそこに言及している裏返しでもあるのだけど)。最後に複雑化がいいことだという人はほぼいない、みたいなことを仰っていたけど最近は「わかりやすさ」に警鐘を鳴らす媒体は結構多いんじゃないか、とか思う。私は複雑な方が好きだし。
日本文化の話だと思って、加藤周一の名前に頷きながら読んでいたら地方移住?の話が始まり驚く。ちょうど自分の関心が得る分野だから特に興味深く読んだ。「仕事」の話も。
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習合とは、対立を回避する一つの日本的な解決方法なのかと思いました。これには良い面・悪い面両方があるのでしょうが、今の世の中の状況を考えると一つの解決策となるのかと思います。人は過ちを犯すことを前提とするとある考え思いを時間の経過(時間稼ぎ)と共に判断出来るのでは。現代は何でも急ぎ過ぎと感じます。
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日本って料理も音楽も、外国のものを取り入れて日本固有のものと融合させ日本オリジナルにしてしまう能力が高い
そういう習合力が、原理主義が蔓延る現代に必要である、という本
内田先生の本はいつも、「なるほど普通に考えたらそうだよな」と思わせてくれる
「習合」の解説、わかりやすくて良かったです。ありがとうございました♪
読んでいないのにコメントするの...
「習合」の解説、わかりやすくて良かったです。ありがとうございました♪
読んでいないのにコメントするのは良くないとは思うのですが、
加藤周一の「雑種文化論」を支持しているものとしては、「日本が得意としている」というのには一票を入れます。「多様な」というのが何が入るかによりますね。稲作、仏教、儒教、キリスト教、共産主義などを取り入れてハイブリッド化したのは事実です。でも稲作文化を取り入れたからと言って、肉食を取り入れなかったし、仏教の中で一神教を取り入れたのは親鸞などの例外にとどまったから雑種なんだと思います。
日本人が多様性を取り入れるのが得意かどうかというのは、実は読みながら...
日本人が多様性を取り入れるのが得意かどうかというのは、実は読みながらずっと考えていたことでした。最初は、私も日本人は外からのものを取り入れて自分なりにアレンジすることが得意だよな、と思いながら読んでいました。ただ、D&Iを連想したあたりから、本当にそうなのかな、と思い始めました。女性活躍が進んでいるか、あるいは、外国人をすんなりと受け入れているか、等で必ずしもそうではない事例も頭に思い浮かんだからです。
今考えているのは、やや当たり前のことなのですが、異質なものを受け入れることが「得意な日本人」と「不得手な日本人」がいるということです。kumaさんがおっしゃっているのは、日本人が「選択的に」色々なものを受け入れたり受け入れなかったりしたということだと思います。それはその通りなのだと思いますが、もうひとつ「人による」ということもあったのかな、と思いました。
コメントありがとうございました、新しい気づきがありました。