観光客の哲学 増補版 (ゲンロン叢書)

著者 :
  • ゲンロン
4.17
  • (23)
  • (14)
  • (6)
  • (3)
  • (1)
本棚登録 : 388
感想 : 23
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (424ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784907188498

作品紹介・あらすじ

第71回毎日出版文化賞受賞、紀伊國屋じんぶん大賞2018でも第2位にランクインした著者の代表作『ゲンロン0 観光客の哲学』に、新章2章・2万字を追加し増補版として刊行。「ゆるさ」がつくる新たな連帯とはなにか。姉妹編『訂正可能性の哲学』と連続刊行!

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • この本は、哲学は決して高尚な取っつきにくい学問ではなく、身近で面白いものなのだということを、読みやすい文章で示してくれている。図らずもコロナ禍を経て「観光客」というキーワードが、初版の時以上に意味を持つようになった。「親」として生きることに対するメッセージが深い。カラマーゾフの兄弟を再読せねばと思う。
    「訂正可能性の哲学」が大変楽しみである。

  • 観光客=誤配=他者といった認識。

    意図しない偶発性が生み出す関係に基づく、グローバリズムとナショナリズムの二者択一ではなくて、新しいアイデンティティを。そこには政治的なや経済的なつながりではなく、「憐れみ」のような感情的なものに促される連帯がある。

    過去の哲学者や事象による思想を乗り越えようという試みは、哲学入門書を読んでいるだけでは味わえない生の哲学という感触で読み応えがある。同時に、過去の思想に(著者の解釈を織り込んであるだろうが)も多角的に触れることができるのは個人的に有益。ここから興味の幅が広げることができるのさ。

    姉妹編「訂正可能性の哲学」も早速読み始めよう。


  • 私が東浩紀の著書を読むのは20年弱ぶりであり、前に読んだのは学生時代の専門の基礎演習で扱った『動物化するポストモダン』であった。同書はサブカルチャーを題材にするというテーマのポップさ(だが内容自体は決してポップなものではない)もあり、著者の著書の中では広範に読まれたものの1つでると思われるが、私自身は同書で扱われるアニメなどの分野にほとんど関心がないこともあり、正直、印象には残らなかった。

    一方で、近年彼が事業家として株式会社ゲンロンを設立し、音楽におけるインディーズレーベル運営のような形で言論活動を行なっている点には関心を持っていた。それは思想家のようなビジネスから最も遠くかけ離れたであろう人種がそうした活動を行なっているというユニークさにあるし、思想という決してカネにはならない領域で事業を行なっていくことの本気さを感じていたからである。

    前置きが長くなってしまったが、本書は2017年にゲンロンから出版された同書の増補版であり、巻末に2つの論考が収録されている。

    本書のテーマは”観光”という行為、そして”観光客”という主体をこれまでとは全く異なるポジティブな可能性をもたらすものとして再照射している。その可能性とは何か。それは、政治学者カール・シュミットの主張にもあるような「敵か味方か」という二元論、ひいてはそれがもたらすような社会の分断に対して、そのどちらでもないような存在として機能するからである。

    一方で、”たかがちょっとした観光でその国・地域のことなんてわからない”というような批判に表れているように、観光という行為や観光客という存在には、どうしても物事の本質を理解しきれないというような中途半端さに対するネガティブイメージもある。しかしながら、自らが過去に行った観光を思い出せば明らかなように、当地を訪れて人々や文化に触れることで、確実に変化する何かがある。それは本質がどうのこうのという側面よりも遥かにプラグマティカルで実利的な変化である。

    本書の第2部は、”観光”という行為の意味合いをさらに推し進め、柄谷行人の近年の仕事(『世界史の構造』など)で展開される「贈与」・「収奪と再分配」・「商品交換」という3つの交換様式に次ぐ第4の交換様式として「贈与の高次元での回帰」をひきながら、”観光”がこれに該当する、という視点からさらなる論を展開する。が、第2部については著者自らも未完成であることを述べているように、第1部に比べて議論がまとまっているような印象はない。

    個人的に、”観光”というプラグマティックな実利的行為から現代社会を問い直すという著者の基本姿勢には全面的に賛同するし、高い知的興奮を覚えた一冊である。

  • 東浩紀さんの著作がはじめてどころか、おそらくこの類の思想書をはじめて読んだ。頑張った。とはいえ後半からはエッセイみたいで読みやすい。
    そもそもの前提に突っ込みたくなるところがあったり、東さんの思想が右か左かは分からないけれど現代の左翼にやたら当たりの強さがあったりする。それらも含めて面白かった(前者はinteresting、後者はamusing)。
    やや関心があるというだけで哲学分野に首突っ込んでみる私の読書の仕方が観光客のようなものだろうか。

    政治や世界を厳しく見ていて、それでも次世代に希望を見出しているのだから非常にタフだなと感じる。

  • 2割くらい読んだ

  • 分断が進み、友―敵しかないような現代にあって、いかにして連帯は可能か。ポストモダンの動物化のなかで、どうしたら人間でいられるか、社会を少しでもましにできるか。実に現代的な課題に、まじめに向き合ってゲンロンを展開する。そのベタな姿勢には称賛しかない。あとは、この観光客的な連帯を、どう実装するかだ。

  • 連帯はしないが、たまたま出会ったひとと言葉を交わす、という観光客的な関係性。他者の絶対的な排除でもなく、完全な開放性でもなく、そのあいだの状態が実際に現実にダイナミズムを与えている。積極的にそうあろうと振る舞える環境、偶然性による出会いが多発するような環境はどうしたら作れる?

    “ひとは一般意志のためには死ななければならない”
    “死の可能性のないところに政治はない”
    デモ活動のテーマのために、死ぬことができるか?

    確率によって運命が決められる局面が確かにあるという「郵便的不安」。これが身近な存在であるということは普通ではない?

  • 師匠から、読んでみてほしいと言われた一冊。

    賛否がかなりある人ということもあり、別の先輩から「そんな人の本読んでるの」と言われて、部分的に納得もしたのでしばらく中断してた。
    けど、猪瀬直樹氏との対談動画で、彼に対してしっかり言うべきことをおっしゃっている姿をみて、東浩紀さんをキャンセルする必要はないと思い再開。
    (ただ、東浩紀さんによる過去の問題あった言動をすべて無しにするわけではないことはご理解いただきたい。この人の言葉に向き合ってみてもいいかもと思っただけである。)

    400頁あり、(後述する通り「ゆるく」はしているものの)私の勉強不足もあるので、そこそこ難しくは感じた。
    哲学的なバックグラウンドはもちろん、数学・表象文化論・メディア論・文学など多様な学問的素材が連関しているので、理解できなかったところも多々あるのが正直なところではある。

    ただ、今のところ、とても共感できる本だった。
    「今のところ」というのは、姉妹編とされている『訂正可能性の哲学』はこれから読むからである。

    まず、この本は本来『他者の哲学』というタイトルが付されうる本だと思う。
    しかし、このようなタイトルにした意図の一つとして「他者のかわりに観光客という言葉を使うことで、ぼくはここで、他者とつきあうのは疲れた、仲間だけでいい、他者を大事にしろなんてうんざりだと叫び続けている人々に、でもあなたたちも観光は好きでしょうと問いかけ、そしてその問いかけを入口にして、「他者を大事にしろ」というリベラルの命法のなかに、いわば裏口からふたたび引きずりこみたいと考えている」(40頁)と記されている。
    これを正直に書いちゃうところに、どこか可愛さも感じるが、言いたいことはとても分かる。
    「他者」という旗を掲げるだけで、一気に言葉が届かなくなる層が一定程度いることは、私もひしひしと感じていて、リベラルの課題だと思っているからだ。
    (逆に、第6章で「家族」という旗を掲げたのは挑戦的だったが、言いたいことは伝わった。)

    そんな「観光客=他者」を主題として、次の時代における行動指針を示してくれている。
    そもそも、東さんは現状の世界秩序をかなり批判的に捉えており、それに対する抵抗によって改善を志している。
    では、次の時代はどう切り抜ければよいか。その一つのヒントがまとまっていたのが以下の部分である。
    「優先的選択を誤配へと差し戻すことを企てる。そして、そのような実践の集積によって、特定の頂点への富と権力の集中にはいかなる数学的な根拠もなく、それはいつでも解体し転覆し再起動可能なものであること、すなわちこの現実は最善の世界ではないことを人々につねに思い起こさせることを企てる。(中略)ぼくたちは、あらゆる抵抗を、誤配の再上演から始めなければならない。ぼくはここでそれを観光客の原理と名づけよう。21世紀の新たな連帯はそこから始まる。」(237頁)
    そして、チャード・ローティが打ち出す「リベラル・アイロニスト」の議論を踏まえて、そのような「連帯」をつくりだすのは「共通の信念や欲望の確認ではなく、単純に「苦しいですか?」という呼びかけ」(243頁)であると解釈している。
    ここは本を実際に読まないと理解できないし、私もこの感想だけを読むことに終始せず、実際にこの本を手に取ってほしいので、特段解説はしない。

    以上のような中身の話に加えて、スタンスの部分も共感できるところが多かった。
    本人たちにそのような意図はなくとも、結果的に知識層による知の独占は存在していて、その反発が、トランプ元大統領の台頭をはじめとした、右派ポピュリズムを生み出している。
    その潮流に歯止めをかけるべく、ゆるくすること/歩み寄ること/開くことに、東さんは重要性を見出している。
    彼は、「哲学はずっと(中略)ラディカルに線を引くことばかりを目指してきた。けれどもそれだけでは見失われるものがある。」(6~7頁)と考え、「読者を聞き慣れぬ固有名と難解な専門用語で圧倒し、世界のすべてが理論で切れるかのように錯覚させる、ある時期の思想書のきわめてマッチョで、そしてナルシスティックな抑圧的なスタイル」(8頁)から脱却すべく、「あえて「ゆるく」語ることを選んだ」(9頁)ということで、このような珍しい哲学書の形態をとっている。
    ポップで可愛い装丁もその文脈であろう。
    ここから、東さんが上述したような「言葉が届かなくなる」壁、それどころか逆効果を生んでしまう現象にぶつかったことがひしひしと伝わる。
    レベル感は大きく劣るが、私も同じ性質の壁にぶつかったからこそ、この思想は強く共感した。
    実際、「分割をしない運動」(181頁)として説明される「マルチチュード」は、この本における大事なキーワードである。

    加えて、上述したような潮流に対して、日本だとこういう時、ただ無思考に中立でいようとする知識層が一定程度いるが(このような姿勢は現状の追認/黙認であり全く中立ではないことを書き添えておきたい)、彼はちゃんと自らの立場を、「ぼくは、自分はリベラルで、ポストモダニストだと考えている。」(9頁)と明記している。
    立場を表明することから逃げていない。
    その上で、自分の支持する立場に対してある程度の厳しさをみせている。(だから一部ではプライドを傷つけられて彼をキャンセルしようとしているのかもしれない。)
    支持したい立場を盲信するのではなく、その弱さを正面から認め、それを乗り越えるにはどうすればよいのか、思想的には理想主義だが・手法的には現実主義である姿勢は、尊敬に値する。(そしておそらく手法も理想主義的であるべきだと考える人が上述したような彼をキャンセルする人なんだろう。)

    かなり褒めてしまったが、最後に二つこの本のマイナス面にも触れておく。
    まず、最大の欠点は、デモへのリスペクトが欠けているところだ。200頁や238頁の書きぶりは、読んでいてあまり気持ちよくはなかった。
    もう一点は大きな問題ではないが、やはり後半は、ご本人が記されていた通り、あまりまとまっていなくて面白くなかった部分も多い。第1部と第2部の最初(第6章)が良かった分、第2部の後半(第7章~第8章)と補遺(第9章~第10章)は、私の知識不足もあるし、長かったのもあって、ちょっと頑張って読み進める必要があった。

    最後に少しだけ厳しいことを書き添えたが、総じて良書だった。
    姉妹編『訂正可能性の哲学』を読んで、ここに示した考えがどうなるのか、早速楽しみである。

全23件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』など。

「2023年 『ゲンロン15』 で使われていた紹介文から引用しています。」

東浩紀の作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
エーリッヒ・フロ...
J・モーティマー...
凪良 ゆう
ヴィクトール・E...
千葉 雅也
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×