- Amazon.co.jp ・本 (424ページ)
- / ISBN・EAN: 9784907188498
作品紹介・あらすじ
第71回毎日出版文化賞受賞、紀伊國屋じんぶん大賞2018でも第2位にランクインした著者の代表作『ゲンロン0 観光客の哲学』に、新章2章・2万字を追加し増補版として刊行。「ゆるさ」がつくる新たな連帯とはなにか。姉妹編『訂正可能性の哲学』と連続刊行!
感想・レビュー・書評
-
この本は、哲学は決して高尚な取っつきにくい学問ではなく、身近で面白いものなのだということを、読みやすい文章で示してくれている。図らずもコロナ禍を経て「観光客」というキーワードが、初版の時以上に意味を持つようになった。「親」として生きることに対するメッセージが深い。カラマーゾフの兄弟を再読せねばと思う。
「訂正可能性の哲学」が大変楽しみである。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
観光客=誤配=他者といった認識。
意図しない偶発性が生み出す関係に基づく、グローバリズムとナショナリズムの二者択一ではなくて、新しいアイデンティティを。そこには政治的なや経済的なつながりではなく、「憐れみ」のような感情的なものに促される連帯がある。
過去の哲学者や事象による思想を乗り越えようという試みは、哲学入門書を読んでいるだけでは味わえない生の哲学という感触で読み応えがある。同時に、過去の思想に(著者の解釈を織り込んであるだろうが)も多角的に触れることができるのは個人的に有益。ここから興味の幅が広げることができるのさ。
姉妹編「訂正可能性の哲学」も早速読み始めよう。
-
私が東浩紀の著書を読むのは20年弱ぶりであり、前に読んだのは学生時代の専門の基礎演習で扱った『動物化するポストモダン』であった。同書はサブカルチャーを題材にするというテーマのポップさ(だが内容自体は決してポップなものではない)もあり、著者の著書の中では広範に読まれたものの1つでると思われるが、私自身は同書で扱われるアニメなどの分野にほとんど関心がないこともあり、正直、印象には残らなかった。
一方で、近年彼が事業家として株式会社ゲンロンを設立し、音楽におけるインディーズレーベル運営のような形で言論活動を行なっている点には関心を持っていた。それは思想家のようなビジネスから最も遠くかけ離れたであろう人種がそうした活動を行なっているというユニークさにあるし、思想という決してカネにはならない領域で事業を行なっていくことの本気さを感じていたからである。
前置きが長くなってしまったが、本書は2017年にゲンロンから出版された同書の増補版であり、巻末に2つの論考が収録されている。
本書のテーマは”観光”という行為、そして”観光客”という主体をこれまでとは全く異なるポジティブな可能性をもたらすものとして再照射している。その可能性とは何か。それは、政治学者カール・シュミットの主張にもあるような「敵か味方か」という二元論、ひいてはそれがもたらすような社会の分断に対して、そのどちらでもないような存在として機能するからである。
一方で、”たかがちょっとした観光でその国・地域のことなんてわからない”というような批判に表れているように、観光という行為や観光客という存在には、どうしても物事の本質を理解しきれないというような中途半端さに対するネガティブイメージもある。しかしながら、自らが過去に行った観光を思い出せば明らかなように、当地を訪れて人々や文化に触れることで、確実に変化する何かがある。それは本質がどうのこうのという側面よりも遥かにプラグマティカルで実利的な変化である。
本書の第2部は、”観光”という行為の意味合いをさらに推し進め、柄谷行人の近年の仕事(『世界史の構造』など)で展開される「贈与」・「収奪と再分配」・「商品交換」という3つの交換様式に次ぐ第4の交換様式として「贈与の高次元での回帰」をひきながら、”観光”がこれに該当する、という視点からさらなる論を展開する。が、第2部については著者自らも未完成であることを述べているように、第1部に比べて議論がまとまっているような印象はない。
個人的に、”観光”というプラグマティックな実利的行為から現代社会を問い直すという著者の基本姿勢には全面的に賛同するし、高い知的興奮を覚えた一冊である。 -
東浩紀さんの著作がはじめてどころか、おそらくこの類の思想書をはじめて読んだ。頑張った。とはいえ後半からはエッセイみたいで読みやすい。
そもそもの前提に突っ込みたくなるところがあったり、東さんの思想が右か左かは分からないけれど現代の左翼にやたら当たりの強さがあったりする。それらも含めて面白かった(前者はinteresting、後者はamusing)。
やや関心があるというだけで哲学分野に首突っ込んでみる私の読書の仕方が観光客のようなものだろうか。
政治や世界を厳しく見ていて、それでも次世代に希望を見出しているのだから非常にタフだなと感じる。 -
2割くらい読んだ
-
分断が進み、友―敵しかないような現代にあって、いかにして連帯は可能か。ポストモダンの動物化のなかで、どうしたら人間でいられるか、社会を少しでもましにできるか。実に現代的な課題に、まじめに向き合ってゲンロンを展開する。そのベタな姿勢には称賛しかない。あとは、この観光客的な連帯を、どう実装するかだ。
-
連帯はしないが、たまたま出会ったひとと言葉を交わす、という観光客的な関係性。他者の絶対的な排除でもなく、完全な開放性でもなく、そのあいだの状態が実際に現実にダイナミズムを与えている。積極的にそうあろうと振る舞える環境、偶然性による出会いが多発するような環境はどうしたら作れる?
“ひとは一般意志のためには死ななければならない”
“死の可能性のないところに政治はない”
デモ活動のテーマのために、死ぬことができるか?
確率によって運命が決められる局面が確かにあるという「郵便的不安」。これが身近な存在であるということは普通ではない?