- Amazon.co.jp ・本 (192ページ)
- / ISBN・EAN: 9784907053499
作品紹介・あらすじ
私たちはみな、資本主義という恒常的な災害の被災者である。
パン(金)も、バラ(尊厳)も、両方よこせ!
蔓延する新型ウィルス、パンデミック下で強行される五輪、そして顕在化する不平等や分断。私たちが直面している危機は、COVID-19 によるというよりは元来グローバル資本主義ないしネオリベラリズムという災厄によるものであるー
女性の活躍、ケア労働、路上生活、再開発、生活保護...あらゆる格差、貧困、分断の問題を最新のフェミニズムの視点から読み解き、国内外の事例から日常的で具体的な抵抗の方法を探る。気鋭の社会学者、初の単著。
感想・レビュー・書評
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(書評)『生きるためのフェミニズム パンとバラと反資本主義』 堅田香緒里〈著〉:朝日新聞デジタル(有料会員記事)
https://www.asahi.com/sp/articles/DA3S15040120.html
生きるためのフェミニズム パンとバラと反資本主義 | タバブックス
http://tababooks.com/books/ikirutamenofeminism詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
「私たちはみな資本主義という恒常的な災害の被災者である」というフレーズに惹かれて。1,2部は著者の体験と理論が見事に複合されていて素晴らしいと思った。
しかし、3部についてはクエスチョン。
タネさんのエピソード。タネさんの死が「犬死」であることの意義について著者は力説するが、それは決してタネさんの声ではない。著者とタネさんという人物との個人的な(書かれていないことも含めての)関係性に裏打ちされた記述なのだとは思う。それでも。「無駄な死なんてないと思い込もうとする心性を憐れむように死んだ」や、「誰よりも~」というような記述は過度にタネさんという人物を美化しすぎているとしか思えない。それを第三者である学者が書くという暴力性(著者は無論その点にも自覚的ではあるのだが)。
(ちなみに犬死に上等!という著者の「意見」には賛成。タネさんの人生にそれを語らせてはいけないとやっぱり思うけど)
その点、ヤスさんとのエピソードは極めて示唆に富み、インターセクショナル•フェミニズム/セーファースペースについて考える上でも重要だと思う。 -
タネさんよりも個人的にはヤスオさんとのエピソードが強烈によかった。この節では男性の路上生活者たちと接するときに、小さな緊張と居心地の悪さがあったことを正直に書かれていて、そこがよかった。
福祉事務所に行くときに、ヤスオさんが途中で帰ってくれといったときの表情が目に浮かぶ。このくだりは切実で、本心の行動であり、なまのプライドが見え、心を打たれる。 -
まあエッセイだと思って読めば細かいことは気にしなくてもよいのかもしれないが…グローバル資本主義とフェミニズム、新自由主義という大きな概念を持ち出してくるわりに、論じ方が情に流れてゆるすぎるのが気になってしまう。資本主義の下で多様な生が虐げられている。それはそうだ。しかしそれでどうしてベーシックインカムがその抵抗手段になるのか。大きなシステムの話をするなら雰囲気ではなくてかっちりと詰めて論じてほしいのだけどなあ。
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ネオリベラルフェミニズムという言葉をはじめて知る。
大学のころはフェミニズムを学び、
キャリアも子育ても、どちらも叶えるぞと息巻いていた。まさにシェリルサンドバーグの「lean in」のように。子供を産み、仕事を続け、そのどうにもならないしんどさに直面。
女性が社会進出すること活躍することが、
ある種の断絶や、自助努力と結び付いてしまう。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
どんな人だって、パンとバラを求めることができる。幸せに生きることができる。
そんな社会をつくりたい。
内面にある家父長制に苦しむけれど、
わたしも魔女になりたいと、そう思う本でした。 -
すきなのは、第1章です!
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タバブックスイベントのあと
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タイトル通り、たしかに本書の通奏低音として「フェミニズム」が流れている。ただ、一読した感想としてはもう少し射程が広く、女性を含めた弱者全般を扱ってるといったほうが正確。実際、社会的成功をおさめたアッパークラスの女性による、いわゆるリーン・イン・フェミニズムには「偽装フェミニズム」「多様性の名の下での排除」と厳しい。
政府が進める女性活躍推進法や少子化対策にも批判的である。それは女性への支援でも女性の活躍でもなく、国のために「活用」しようという話でしかない、といった具合に。
上で挙げた「リーン・イン」の著者はハーバード大を卒業しFacebookのCOOを務め、子ども2人を育てる女性である。ことさら女性に限定せずとも世界有数のエリートといっていいし、努力もしたのは事実だろう。ただその生活は、エリートとはいえない無数の女性たちに支えられているのも事実である。
「そいつらは努力が足りないからだ」というのは視野が狭く一面的で、弱肉強食のネオリベ的競争原理に支配されたものでしかない…。
男性社会のなかで女性が活躍する話はみんな好きだ。「みんな」というのは、それを称揚するひとたちも、それに対する過剰な反発をするひとたちも含めて。
しかし、著者が書くようにすべての女性が輝かしく働いて子どもを産み育て、社会で活躍したいわけではない。どちらか片方で充分という女性もいれば、バリバリ働きたくもないし子育てもしたくないという女性もいるのは当たり前である。それに、家庭環境や教育水準、先天的な個人的要因などの諸条件によっては、そもそも活躍する可能性自体がない場合もある。
そして資本主義と結託したフェミニズムは、それらのひとたちを排除する。「活用」できないからだ。
本書が女性だけに限らない弱者を取り扱うのは中盤以降に多くなる。主に書かれるのはホームレスのことで、これは上に挙げた諸条件にあてはまりやすい属性である。
内容としては学術書ではないのでむずかしくない。
なにより、著者の言語感覚が優れていて小気味好く読める。 -
社会の中で、制度から零れ落ちてしまう人と行く食事の場としての、モスバーガー。