- Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
- / ISBN・EAN: 9784907053185
作品紹介・あらすじ
日本唯一のアウトサイダー・キュレーターが伴走する 街の表現者たち。驚異のアートと人生の記録 !!
話題の自撮りおばあちゃん、武装ラブライバー、昆虫の死骸で観音像をつくった男、仮面だらけの謎の館、雑草を刈りアートにする路上生活者、食べたものを記録し続ける男......18 人の表現者たちの豊かな生きざまを追う!
感想・レビュー・書評
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先月みに行ったアウトサイド・ジャパン展の会場で買った本。カメムシやカブトムシなど虫の死骸で甲冑をつくる人、誰にも見せない自作ヒーローを書き続けている人、7年かけて迷路を書いた人、食べたものを全部絵に書いて記録している人。どれも、筆者の櫛野さんが発掘しなければ誰にも知られることがなかった作品たちで、それはつまり、誰かに見られる、知られるためではなく、本当に自分のためだけの作品だった。自分が生きていくために、あるいは自分を治癒したり、保ったり、確認したりするためだけに、つくられるもののエネルギーのすごみ、それをアウトサイド・ジャパン展では感じた。この本を読んで改めて、なにを考えてるとか、特に何も(発信したいことは)考えてないとかを、知ることができた。わたしは、自分のためだけに作ったことがあったかな、と考える。あったような気がするけど、だいぶ前のことのように思う。
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ほんとにアウトサイド。
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アウトサイドよりの人間として、非常に興味深く読めました。面白い、素敵な人がいっぱいいるんだな。がんばろ。
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図書館で特集されてたので立ち読み。
まずインサイダーになってから酸いも甘いもかみ分けてから、アウトサイダーにならなければ。 -
わざとアウトサイドで生きたいと思っている人に比べて、本書に出てくる「意図せずアウトサイドにいる」人たちの表現の一途さには胸を打たれる。櫛野さんの文章も過度な煽りがなくてとてもいい。表紙のどぎつさに引いて読まないのはもったいない。
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アウトサイダー・アートとは、美術教育を受けていない人々が制作した作品で、アートとして扱われるものを指す。日本では、知的、精神障害者あるいは、精神病患者のアートと思われることも多いが、アウトサイドとは、あくまで既存のアートの外側であって、心身の非定型ではない。だから、自分をはじめとした誰もが、アウトサイダー・アーティストになれる可能性をもっているといえる。とはいえ、よく知られた「シュヴァルの理想宮」のフェルディナン・シュヴァルや、「非現実の王国で」のヘンリー・ダーガーなど、突き抜けた個性があるのも、また事実である。そして、本書で紹介されている18人も、けして負けずとも劣らない個性の持ち主ばかりだ。その作品はどれも「極めて個人的な動機」で制作され、『見るものに「なぜ」「何のために」という思考さえ停止させてしまうほど解釈不能な独特な世界観』で構成される。はっきりいって、本人以外にその価値、意味を見出すことは難しい。しかし、その「制作にかけられた膨大な時間や尋常ならざるエネルギーの過剰さ」には敬服させられてしまう。そして同時に、羨ましく、また、心強くもなるのである。ためらうことなどない、自分たちも、もっと個性的であっていいのだと。アウトサイダー・キュレーター櫛野展正と歩く、アウトサイド探訪。「こんな生き方があったのか!」
(アウトサイダー・アートは、その制作者の生き様そのものである。ゆえに、その制作者たちと分ち難く結びついているのであり、インサイダー、いわゆる既存のアートが、ただの高額商品として、いっそ没個性的に扱われるのとも対照的であるかも知れない。)
「アウトサイダー・アーティストは自分の作品を他人に見られることを望んでいないのではないか?」「アウトサイダー・アーティストは見られることを欲している。ただし、特定の方法で。」「大英博物館やルーブル美術館に訪れて、その収奪の激しさに驚いたことがある方は少なくないだろう。植民地にあった巨大な列柱など、どうやって移動したのかすら分からない物体が「作品」として陳列されている。このように、アートヒストリーは略奪によって形成されてきた。おそらく、同様の事態がアール・ブリュットを巡って発生している。アウトサイダー・アーティストの作品を公共的な場に移動し、その行動自体を善行として誇ること。正義のアート。無謬のアート。残念ながら、略奪は進行中である。櫛野が行政の使用するアール・ブリュットという言葉ではなく、あくまでアウトサイダー・アートという言葉にこだわるのは、この略奪に抵抗するためだ。そのために、彼はクシノテラスという場のあり方を発明した。権力の名のもとに行われる略奪と暴力に満ち溢れた公共空間ではなく、アーティストの家の敷地内にありながら、可視化された場。半・公共的でありながら、半・私的でもある場。権力を否定するでもなく、私的空間に閉じこもるでもなく、両者の共存を可能にする実践の場。それがクシノテラスだ。」
解説=花房太一『世界を治癒する者』
https://togetter.com/li/1133189 -
自閉症、発達障害、うつ病・・・を患っている人いない人、
独自のアート表現者。
家中にイラストを描き続ける人、河の土手に草刈りアートをする人、パンダの被り物の自称忍者、ガムの包み紙に緻密なイラストを描く人、ペットボトルアートだらけの酒屋主人、自虐的な自撮り老女、那須で2万点以上の仮面を作る元著名なアーティスト・・・ -
「ー」
いろんな生き方があるのはわかる。
いろんな好みがあるのもわかる。
それでも生理的に受け付けられない。 -
この本を読みながら、分岐点はあったんだと思い出す。西本喜美子さんの写真を見ながら、自分の水疱瘡のブツブツ顔を写真に撮ればアートになるんじゃないかと思って、結局撮らなかったこと。小林伸一さんの壁画を見て、鬱々としていた学生時代に自分探しをしながら、完全に独自なイラストが描けないかとグネグネしたペイズリー柄のような派手なイラストを描いたのに、人になんか見せられたもんじゃないとそのまま奥にしまったこと。
結局評価されたかっただけで、創作意欲なんか大してなかったんだと思う。僕がひと時の妄想や思いつきで続けられなかったことを、誰のためでもない創作への意志として持続しているアーティスト達が羨ましい
読みながら羨ましく思う反面、変わり者だからとレッテル貼って安堵したい自分も感じる。村上隆「芸術家起業論」のような、メインの西洋美術史の文脈を前提として売れる戦略立てるやり方を、大人なやり方よと腹に落とそうとする自分もいたりする。
この本を1944円出して買っている時点で、本書で紹介されるアーティスト達にとって僕は外の人、本書で花房さんが解説しているが図式で言えば、中間領域であるクシノテラスのさらに外から眺めているんじゃないか。読み進めていくほどに、アウトサイダー・アーティスト達と僕との境界を意識してしまう。
だから「おわりに」の締めの一節が優しく思えた。
「要するに、狂人だから制作しているわけではない。正気を守って置くために作り続けているのだ。言い換えれば、誰もがアウトサイダー・アーティストになる可能性を秘めている。そう、みんなアウトサイドで生きているのだ。」