湯殿山の哲学: 修験と花と存在と

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  • ぷねうま舎
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  • Amazon.co.jp ・本 (238ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784906791712

作品紹介・あらすじ

修験の山の奥の奥、その最深部に秘された信とは何か。本尊の懐の地を出自とする著者が、はるか西洋中世哲学の回廊を旅した果てに、再びこの問いに戻ってきた。厳密な論理の畑を耕すときも、湯殿山はいつも「私」に呼びかけていた、風のように、存在のように。
香山リカ氏評──
「湯殿山は花だ。存在の花なのである」と、この書の最後に山内さんは記す。西洋哲学で言われる〈存在〉は一般的で抽象的だが、湯殿山の近隣で生まれ育ち、ごくあたりまえにその研究を続けてきた著者にとっての〈存在〉は、もっとやさしげではかなげで、この世界にふたりとない〈私〉をそっと成り立たせるものだ。それを山内さんは「花」と呼んだ。湯殿山とスコラ哲学の上に、そしてそのあわいにたゆたう〈私〉の上にも、途切れることなく花がふりつむ…。これぞ山内哲学の到達点なのではないだろうか。

感想・レビュー・書評

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  • 湯殿山の縁起であり、その麓で生まれ育った著者の少年期の
    思い出であり、東北の雪国の厳しい暮らしであり、長じて
    研究することとなったスコラ哲学であり。それらが幾重にも
    積み重なり結びつき形作っている現在の著者の、全存在を
    かけた吐露、それがこの本だ─と私は受け取った。湯殿山と
    スコラ哲学がどのように結びつくのかわかったようでわから
    ないのにもかかわらず、読後、魂を揺さぶられるような感動
    を覚えるのはそのせいなのではないか、と。

  • スコラ哲学の研究者の山内士郎さんは、スコラ哲学にいわゆる中世の神学論争という感じではなくて、フーコーやドュルーズの議論も踏まえながらのアプローチしていて、今につながるなにかを見出そうというのが、面白い。

    その山内さんの湯殿山の修験についての本?なんだそれ?と好奇心が動く。

    といっても、いきなりこの本にひかれたのではなくて、コッチャの「植物の生の哲学」の解説で、湯殿山の話しをかいて、そこから入ったかな?

    本の最初のほうで、「存在は花なのだ」というコッチャの議論に近い話しがあるのだが、いわゆる哲学の話しは、一旦、脇におかれて、湯殿山出身の著者の幼年期の回想とか、その歴史の掘り起こしが書かれつつ、「なぜ、スコラ哲学を研究するようになったのか」みたいな個人史の発掘がされていく。

    スコラ哲学と修験、基本的には関係ない。無理に関係づける必要もないものなんだけど、たまたま著者の人生のなかで、たまたまくっついただけの個別のもの。その個別性が普遍を志向する西洋哲学と対立しつつも、統合されるというか、なかなか読み取りにくい(ウィトゲンシュタイン的には、語ることができない)関係への道筋が指し示される、みたいな感じなのかな?

    本は終盤のほうで、千日行や即身仏といった過酷というか、現代の視点では反人間的な宗教行為、というか、考えることもできないことが、そんなに遠くもない過去においてなされていたことが買いてあり、ここは衝撃。

    そして、最後にスコラ哲学とのリンクが再度貼られて、神秘主義の経験が語られる。

    そのなかで、アッシジの話しもあって、フランチェスコ派は、清貧で、庶民的な感じなんだけど、有名なスコラ学者も排出していて、唯名論的な議論を展開したんだよなと思い出す。彼らは、きっと「このもの性」、「個別性」ということを語ることで、「個別」と「普遍」が神秘主義的に統合すること意図していたんだろうな〜。(が、結果としては、「唯名論」は、近代科学に繋がっていく)

    最後に「存在の花」というテーゼが再度提示される。

    内容的には面白かったけど、一つ一つの議論がもうちょっとボリュームをもって語られると面白いのになとか思った。

  • 著者の出身地が自分の出身地と近いため、知っている地名や固有名詞が出てきて親近感のような気持ちを抱いた。また、冬から春になる様子の描写が本当に書いてある通りだと思い、地元が懐かしくなった。
    湯殿山イコール即身仏信仰だと思っていたので、それは違っているという筆者の考えは興味深い。土地の歴史、不在によって存在が際立つこと、「湯殿山は花である」ということ、幼少期の記憶、あらゆる要素と哲学が絡み合う面白い本だった。今後も山形の修験道や山岳信仰の本などを読みたい。

  • 神仏に対する筆者の考え方が分かりやすく、目から鱗だった。確かにそうだなぁと感じる。

    敵対するもの同士が怨敵退散を祈願した場合、神はどちらの祈願に耳を傾けるのか。神仏が一つだけなら敵対する両方を叶える訳にはいかないから、正しい願いを聞くか、さもなければ無視するのが神の正しい選択である。

    神仏が複数存在するとして、神仏間の戦いを認めるか、神仏は一つと考えて。人間の個別的祈願は神の意志を反映しないから、神は人間の祈願に対して個別対応はしないとする2つに1つの道が考えられる。

    人間生活から距離が大きくなれば神本来の特質を取り戻し、人間生活に近づけば近づく程、力のある魑魅魍魎の類に堕ちてしまう。

    神への祈願や契約とは、神を人間側に近づけ過ぎている事。神を人間の次元に引き下げておいて、人間であれば喜ぶであろうきょうおうをさしあげるというのは、里神や家神、屋敷神、歳神と言った人間らしい神には相応しいのかもしれないが、普遍宗教になった途端、神は人間らしさを失わねばならない。沈黙し続け、現世の営みにおいては一切手助けをしない、奇跡によって介入しない神こそ、真の神。

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著者プロフィール

山内 志朗(やまうち・しろう):1957年山形県生まれ。東京大学大学院博士課程単位取得退学。慶應義塾大学名誉教授。専攻は哲学。著書に『天使の記号学』『存在の一義性を求めて――ドゥンス・スコトゥスと13世紀の〈知〉の革命』(以上、岩波書店)、『ライプニッツ――なぜ私は世界にひとりしかいないのか』『〈つまずき〉のなかの哲学』(以上、日本放送出版協会)、『普遍論争――近代の源流としての』(平凡社ライブラリー)など多数。共編著に『世界哲学史(全8巻、別巻1)』(ちくま新書)などがある。

「2023年 『中世哲学入門 存在の海をめぐる思想史』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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