何も共有していない者たちの共同体

  • 洛北出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (281ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784903127026

作品紹介・あらすじ

 
すべての「クズ共」のために

どこから来たかではない
なにができるかでもない

私たちと何も共有するもののない――人種的つながりも、言語も、宗教も、経済的な利害関係もない――人びとの死が、私たちと関係しているのではないか?

何かが一人の官能の共犯者から
別の共犯者へと伝わる。
何かが理解されたのである。
共犯者の間で使われるパスワードが
認識されたのだ。
あなたを同じ仲間の
一人の共犯者に仕立てる何かが
語られたのだ。
ケツァール鳥、野蛮人、原住民、
ゲリラ、遊牧民、モンゴル人、アステカ人、
スフィンクスの。

 「侵入者」では、他者性――私たちと対面するときに、私たちに訴えかけ、私たちに異議を申し立ててくるもの――の輪郭を描いている。
 「顔、偶像、フェティッシュ」では、真の価値はなぜ、私たちが共有しているものではなくて、個々人を個別化し、彼または彼女を互いに他者にするものの方にあるのかを説明する。
 「世界のざわめき」が示そうとしているのは、言語とはたんに、私たちの経験を同等で交換可能なものとして扱えるように平準化する、人間の約束によって制定された一つのコードではなく、むしろ、自然のざわめき――動物の、最終的には、存在し反響するすべての物のざわめき――から生じるものと考えられるべきだ、ということである。言語というコードを鳴り響かせるとき、私たちは、人間の解読者とだけではなく、自然界が奏でる歌、不平、雑音とも意思を疎通させているのである。
 「対面する根源的なもの」では、語られる内容よりも、私がその場に存在して語ることの方が本質的となるような状況を検討する。
 「腐肉の身体・腐肉の発話」は、ある特殊な言語状況で生まれる拷問を扱っている。その犠牲者は、彼または彼女が語り、信じたことのすべてが嘘であり、自分は真実を語ることができないと無理矢理に自白させられてしまう。
 最後に、「死の共同体」は、人が死にゆく人と形づくる共同体を考察している。

感想・レビュー・書評

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  • 洛北出版|特集|アルフォンソ・リンギス
    http://www.rakuhoku-pub.jp/special/01lingis.html

    洛北出版|書籍詳細|『何も共有していない者たちの共同体』
    http://www.rakuhoku-pub.jp/book/27028.html

  • 松岡正剛×武田隆の対談で、武田氏が引用していた。

    「自分の感受性のなかにだけある力、他の誰にでもできないように愛し、笑い、涙を流す力への関心は、世界中の裏道や小路に、自分のキスと抱擁を待っている人びとがいるという確信、そして自分の笑いと涙を待ち望んでいる湿地や砂漠があるという確信においてのみ可能となるのである」という一節のように、インターネットの世界には、このロマンが大事だと思うんです。

    ジョーゼフ・キャンベルなら「そして、孤独だと思いこんでいたのに、実は全世界が自分と共にあることを知るだろう。」

    読んでみたい(20130726)。

    読み終わった(20130824)

    ・クロード・レヴィ=ストロースは『野生の思考」のなかで、アマゾンの先住アメリカ人が自分たちの環境に関する厳密に経験的な表象を精巧に作り上げていたことを明らかにした。彼らは、風聞やおおよその知識と、有効な知識とを周到に区別する方法をとった。環境に存在する自然物質や生物の種、その特性や用途に関する彼らの識別眼のほうが、現代の私たちの生物学や動物学、薬学のデータがもつものよりも、往々にして、ずっと包括的だった。アマゾンの先住民が作り上げた表象は、観察し検証する際に経験的精密さを厳しく追及するという点で、私たちのものと同等であった。彼らの手にした実際の表象はただ、認識の面で立ち入ることのできた領域が限られていたことと、調査と実験に使う道具が技術的に限られていたことによって制限されていただけである。

    ・古代ギリシアの通商港湾都市に異邦人がやってきて、ギリシア人に「どうしてそのようなやり方をするのか?」と尋ねたとしよう。人間の集団が独自性を築き上げた社会であればどこであれ、この問いにたいする答えは、昔も今も変わらず、「私たちの父祖がそうしなさいと教えたからだ。私たちの神々がそうあるべきだと命じたからだ」というものである。ところが、ギリシア人が、そうした先祖や神々を共有しない異邦人にも受け入れられる理由―明晰な精神の持ち主であれば誰でも受け入れられる理由―を与え始めたとき、何か新しい事態が誕生したのである。こうした理由を与える言語行為は制約である。このように回答する者は、自分の発言に縛られ、発言の理由を与える約束をし、さらにその理由にたいする理由を与える約束をしていることになる。彼は自分の発言の責を負うのだ。

    ・西洋で合理的な倫理学について最初の論文を書いたアリストテレスは、勇気をすべての美徳の最初にあげた。それはたんに、等しい価値をもつ様々な美徳のリストの最初に来るというだけではない。勇気は超越的な美徳なのであり、すべての美徳の可能性の条件なのである。というのも、勇気が無ければ、正直であることも、寛大であることも、友人であることも、あるいは愛想よく会話することすらできないからだ。そして、あらゆる勇気は、評判、仕事、財産、命を失う危険を覚悟して行われる行為なのである。

    ・何を語るかは、結局のところ、ほとんど重要ではない。きみはどんなことでも口走ってしまうだろう。たとえば、「大丈夫だよ、お母さん」と。きみはこんなふうに言うことは愚かなことだと知っている。母親の知性に対する侮辱ですらあることも分かっている。母親は自分が死ぬということを承知しているし、きみよりも勇敢なのだから。母親はきみが言ったことを責めたりはしない。結局、何を言うかは大して重要なことではないのだ。要請されていたのは、何かを語るということだけであり、それは何であっても良かったのである。きみの手と声が、彼女が今しも漂いゆく、何処とも知れぬ場所に付き添って伸ばされること。きみの声の暖かさとその抑揚が、彼女の息が絶えようとするまさにその時に、彼女のもとに届くこと。そしてきみの目が、何も見るものがない場所に向けられている彼女の目と出会うこと。このことだけが重要なのである。
    語ることと語られた内容のあいだに裂け目が開いてしまうような、こうした状況を知らない者はいない。語るということ―これが本質的で絶対に必要なことだ―が、語られたことから切り離されてしまう状況、語られたことの方は、もはや要求されておらず、ほとんど必要とされてもいない状況を。

    ・トマス・クーンは、新しい科学革命はすべて、同じ自然と空の配置を見る新しい概念上の方眼なのではなく、新しい地球と新しい空が目に見えるようになるゲシュタルト変化だと述べている。

  • タイトルから想像する話と違った!私たちのコミュニティは普段、「共通する価値観etc」を持った者たちによって成り立っているけど、異なる存在と出会ったとき、どう向き合うか、コミュニケーションをとるか。コミュニケーションも、共通する記号(言語)があって初めて成り立つ。それを超越するものは生と性、死と愛。(と私は理解した。)哲学的というか、著者の見えている世界を切り取った思索的なものなので、この人生きづらくないだろうかと余計なことを思ってしまったけど、これだけ分断が叫ばれる世界で、彼に共鳴する人はきっと多い。

  • 『けれども私は、すべてを残して去っていく者、すなわち、死にゆく人びとのことを考え始めた。死は一人ひとりの人間に一つひとつ別のかたちで訪れる、人は孤独のなかで死んでいく、とハイデガーは言った。しかし、私は病院で、生きている人が死にゆく人の傍に付き添うことの必然性について、何時間も考えさせられた』(序文)

    この、ともすれば抽象的と表現したくなる文章群は、その文体故に読者に言葉を越えた所での共鳴を促す。それが著者の意図ならば、重厚な解説に目を通す前にその印象を綴っておきたい。

    例えば言葉の持つ二つのレベルの特性をシニフィエ・シニフィアン(意味されているもの/記号内容・意味しているもの/記号表現)と幾ら分析してみても、コミュニケーションにおいて伝播するものの全てを表すことは出来ないのだとアルフォンソ・リンギスは説く。もしコミュニケーションが言葉という要素に分解できる言語的側面に限られるのであれば、充分な帯域幅と極限までに雑音の取り除かれた会話は「対面」であろうと「オンライン」であろうと違いはない筈だが、そのことを確信をもって肯定できるのは極端に情報に依拠した生活習慣に耽る一部の人々だけだろうという予感は、確かにリンギスの言明の正しさを示しているように思う。

    では何がコミュニケーションを成立させるかと問う時、リンギスは共同体という概念を持ち込む。しかしその共同体の何たるかを説くために費やされる言は如何にも曖昧に響く。それもその筈で、敢えてソシュールに倣うなら、言葉に付随するシニフィアンを共有できない他者に特定の概念の意味するところを説明する困難さに加えて、共通するシニフィエを持たない他者に特定の概念を伝える為には、言葉の前段で励起される情動の共鳴を探ることを何度も繰り返し、自分と他者の間に疎通するものを通して意味世界構築しようとする行いなのだから。むしろその困難な伝播の過程を、執拗に表現し直される言葉の羅列によって具現化して、気付きを促しているのかとさえ思えてくる。しかし、その言説を詳細に読み込もうとすると、逆説的にコミュニケーションの総体を、言語以外のもの(例えば環境雑音や、顔に現れる表情、俗に言われる言葉の抑揚に含意されるニュアンス)も含めて、ひとつずつの要素に分解しその変化を詳細にコマ送りで観察することになる。それはリンギスが否定したい筈のソシュールの試みにも似た還元主義的な分析とも映る。その禅問答のような過程を通して、その未知の概念に含まれ得ることを幾つもの類推を引き寄せて考察することにより、リンギスは言葉にならなないことを言葉の余韻の中に蘇らせようと試みているようにも読める。

    とは言いつつ、言葉の意味を越えたものの伝播の工程といったものはある程度理解できるものの、その先にある筈の共同体という言葉のシニフィエの心象の再構築は余りにも心許ないのも事実。だからリンギスの言いたいことを理解したとは決して言えない。けれど、判りそうで分からない、その時は判ったつもりだったが後から言語化してみると意味が解らない、という会話は幾らでも経験している。対面でないことの不自由さも痛いほどに判る。何かを伝える為に相手との間に構築する基盤は、互いに差し出す手のようでもあり、互いに差し出す剣のようでもあり、疎通される意思、という意味では変わるところはないということも解る。そのようなコミュニケーションの本質を説いているのだとすると、リンギスが書いたこの書の重要性は、汎世界的な感染症の広がる環境で、コミュニケーションの意味するところがますます研ぎ澄まされた「記号的言語の伝達」--それはデジタル化された文字による、意図しない限り極端に雑音の排除された言葉の遣り取り--という側面に集約されてしまっている中、一段と増しているだろうことは言わずもがなだ。特に「世界のざわめき」と題された一説には多くのことを考えさせられる。その中からひと際示唆的な文章を、少々長い引用となるけれど引いておきたい。

    『ある人が述べることが、別の人の言うことに対立し、疑義を唱え、否定し、あるいはまた反駁することがあるかもしれないが、互いの応答として反対意見を述べる際に、対話者は互いを排除して安全な場所に引きこもるわけではない。というのも、話者と聞き手は対話のなかで、あるリズムにしたがって役割を交換しあうからである。発信者が受信者となり、受信者が発信者となる。他者は〈同じ人間〉の変形にすぎなくなる。議論は闘争ではなくなり、対決は相互交換に姿を変えてしまう。しかしながら、二人の人間が暴力を放棄してコミュニケーションをとり始めると、彼らは外部の人間とはコミュニケーションのない暴力的な関係に入る。コミュニケーションを阻もうとする外部の人間は、十分存在しうるし、実際つねに存在している。個人間のあらゆる会話は、ある確立された秩序、価値体系、あるいは既得の利益を覆そうとするものである。そこにはつねに敵が、私たちの会話のすべてに耳をそばだてているビッグ・ブラザーがいる。だから、私たちは閉ざされたドアの背後で、静かに話すのだ。生中継のテレビカメラが私たちに向けられていれば、話し相手に向かって何も話さないであろう。あのことではなくこのことが伝達されるのを阻むことに利益を見いだす外部者がいる。彼らは「あのこと」のために論じることによって、そして「あのこと」を魅惑的に、かつ人を虜にするやり方で表象することによって、あるいは、「あのこと」で時間と空間を満たしてしまう手を使って、その目的を達成する。また、私たちのコミュニケーションを完全に妨げてしまうことに利益を見いだす外部者も存在する。彼らは、無関係で矛盾するメッセージ、すなわちノイズでコミュニケーションの時空を満たすことによって、その目的を達成する』―『世界のざわめき』

  • 人間同士を何か既知の"タイプ"に押し込めて会話しがちだが、人間の独自性とは既知のタイプに押し込めるものではなく、言語にできない、非合理的な特徴に現れるものだから、何も共有できないというただ一つの共通点を持つもの同士として付き合っていくしかない。必要なのは理解や共感ではなく許容である。

  • 難しかった、のでほとんど理解できてないけど、すごく興味深い内容。また再読(リベンジ)したい。

  • 同一性、均一化を目指す現代に対する疑問。個性や地域らしさを出せる雑音はあってもいい。それによって他者性を感じられる。

    その人の役割やポジションによって語られるべき何かが存在する。既に文献にそのようなことは語られているにもかかわらず。結局、話の内容ではなく、誰が話すか。

  • ノイズの中からあなたの顔が弁別される。

  • コミュニケーション成り立たせるの成立するノイズが、
    共同体。

  • タイトルが気になる一冊。

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著者プロフィール

 リトアニア系移民の農民の子どもとしてアメリカで生まれる。ベルギーのルーヴァン大学で哲学の博士号を取得。ピッツバークのドゥケーン大学で教鞭をとった後、現在はペンシルヴァニア州立大学の哲学教授。
 世界のさまざまな土地で暮らしながら、鮮烈な情景描写と哲学的思索とが絡みあった著作を発表しつづけている。
 メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』、レヴィナス『全体性と無限』、『存在するとは別の仕方で、存在の彼方へ』、クロソフスキー『わが隣人サド』の英訳者でもある。邦訳書籍に、『汝の敵を愛せ』、『何も共有していない者たちの共同体』(以上、小社より刊行)、『異邦の身体』(河出書房新社)、『信頼』(青土社)がある。

「2006年 『何も共有していない者たちの共同体』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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