日本二千六百年史 新書版

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  • 毎日ワンズ
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  • / ISBN・EAN: 9784901622950

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  • 初代天皇神武天皇が、即位されたとするBC660年を起点とする日本史として皇紀2600年となっています。
    いわゆる、インペリアルカレンダーを使っています。

    大川周明は、数カ国の言語を習得し、イスラム教にも明るい。
    当初は、エリート集団、満鉄調査部に所属し、拓大の教壇にも立っていた。キリスト教、西洋哲学から始まり、イスラム教を経て、国家社会主義にたどり着いた。
    皇道派として、2つのクーデターの論理武装を構築し、満州帝国の建国に尽力した。
    東京裁判を生き抜き、1957年神奈川県の自宅で一生を終えた。

    本書は、300頁におよぶが、日本史のエッセンスをつめこんだものとして、納得感がありました。

    気になったのは以下です。

    ・中国で政権交代が行われると、シナ人は故国を捨てて、日本に帰化するものが多かった。そして彼らは日本では文明人として丁重に迎え入れた。
    ・もともと日本には、天象に関する迷信はなかった。
    ・日本史は、四期に画することができる
     建国より大化の改新まで
     大化の改新より、鎌倉幕府成立まで
     鎌倉幕府成立から徳川幕府の大政奉還まで
     明治維新から現代まで
    ・神功皇后の折、儒教、仏教が伝来した。当時の我が国が東海の一孤島でありながら、その精神的方面において、すでシナ及びインドと雁行しえるだけの素養を築き上げていた
    ・聖徳太子は、氏姓制度をこのままに放置すれば、いわゆる天を覆さんとする民の出づべきことを明確に洞察し、仏教の信仰と、儒教の道徳を経緯として、シナの制度にのっとって新しい国家を実現しようとした。
    ・仏教の伝道者が優等なる文明の持ち主でもあった、寺工、仏工らの建築技術、紙と墨、天文・地理、暦本、農業技術、医術、砂糖などが仏教とともにもたらされた
    ・仏教の教えが、万物皆空、諸行無常を力説したにもかかわらず、実際には、著しい象徴主義の宗教であった。仏像、仏画、堂塔などきわめて仏陀の福音を慈悲・偉大・荘厳を形象化することに努めていた。

    ・奈良朝の偉大なる作品とは、塑像、乾漆像、木像、銅像などの彫刻である
    ・奈良朝では、実に仏教が疲弊の禍根となった
    ・天皇は二人の偉大な宗教家をして腐敗せる奈良朝仏教の改革にあたらせた。弘法大師、伝教大師である
    ・古の日本では、西南をもって故国となし、東北をもって植民地とみなしていた
    ・平安朝における荘園制度の発達は、国家の政治的統一を破壊し去れるが故に、地方の豪族=武士は、激烈にして露骨なる生存競争をはじめ、ついには中央政府を脅威するの大乱を生ずるに至った
    ・平将門の乱、安和の変、平忠常の乱、安倍頼時の乱、清原武衡の乱など、源氏をして東国のさむらいごごろを得せしむる因縁となった

    ・鎌倉幕府の創立は、やむなき必要に迫られたる政治的改革であった。中央集権制度の実現は水泡に帰し、国民の政治的統一は全く失われて、ほとんど無政府状態に陥ったのである
    ・しかして、この政治的退廃より救ったのは実に源頼朝の功業に帰せざるを得ない
    ・武人の道徳的向上は独り男子のみならず、婦人の道徳もまた鎌倉時代に入って俄然として向上した。武士道が頼朝に負えるように、婦人道はその妻政子に負うところが大きい
    ・加持祈祷の仏教から、国民個人を救済する鎌倉仏教が台頭した。始めたのは、日本版ルーターともいえる、源信僧都、法然、親鸞であった。禅宗が続き、法華宗がその最後を締めくくった。
    ・新宗教とは次のような特徴をもつ。
     新宗教の宣伝者が、皆、伝道に熱心なこと
     宗教を外面的儀式の束縛から解放したこと
     学問より開放して、その教義信仰の単純簡明であること
    ・仏教には正像末の三時説というのがある
     釈迦入滅後500年 正法の世
     次の1000年 像法の世
     その次の10000年 末法の世
    ・万民安堵、質実簡素を家法とする北条氏の精神は、時宗の元寇撃退を最後としてあわただしく、当初の剛健真摯を失い始めた。
    ・建武中興は、しかして、足利尊氏は新政に不満であった武士の統領として、ついに後醍醐天皇に反旗を翻し、足利党が勝利した。
    ・後醍醐天皇があまくみたのは、北条氏がほろぶも、大小名の勢力は依然として亡びない、政府を作り、これを倒す実力は実に大小名の手にあったことだ。
    ・応仁の乱以降の戦争は騎馬時代より歩兵時代に移った。
    ・大名間の競争が激しくなるにしたがって、兵力を城下に集中しておく必要が次第に大となった。
    ・戦国時代は、下剋上の時代。実力本位の時代である。

    ・学問と言えば、貴族と僧侶の特権であったが、戦国時代において武人の好学に及んだ。
    ・江戸時代に盛んとなった学問は以下
     中江藤樹、熊沢蕃山ら、王陽明学
     伊藤仁斎ら 儒教古学
     新井白石
     契沖、賀茂真淵、本居宣長ら、国学
     そして、青木昆陽ら蘭学
    ・八代吉宗は、農業の精緻なる目的で、西洋の詳細な暦を手に入れようとして、洋書の禁を緩めた
    ・前野良沢、杉田玄白は、ターネルアナトミアの人体の、寸分も実物と相違せざるを見て驚愕し、非常なる発奮のもとに、解体新書を表した
    ・諸藩の重役が算術を知らざるがゆえに、天下の富が多く商人の手にするは、極めて当然であった
    ・諸侯の窮乏すでにかくの如くなれば、藩士の困窮せることは言うまでもなかった

    ・明治維新の建設的事業は、明治天皇の親政府の手によりて断行せられた。それ一切の改造は、常に強大なる中央権力を要し、従って断固たる専制政治を欲する。
    ・明治維新は、2年の版籍奉還、廃藩置県、国民皆兵、徴兵令の発布、地租改正、義務教育の開始である
    ・明治維新は、
     ペリー来寇から大政奉還までの15年を前期、大政奉還より、国会開設の詔示までの15年を本期、国会開設までの10年を後期として40年にわたる苦心経営の結果として成る

    目次


    第1章 序論
    第2章 日本民族及び日本国家
    第3章 日本国家の建設
    第4章 儒教及びシナ文明の伝来
    第5章 大化改新
    第6章 仏教は如何にして日本に栄えしか
    第7章 奈良朝の文化
    第8章 平安遷都
    第9章 貴族政治の堕落と武士勢力の台頭
    第10章 源氏と平氏
    第11章 鎌倉幕府の政治
    第12章 鎌倉時代の日本精神
    第13章 宗教改革者としての道元禅師
    第14章 蒙古襲来前後
    第15章 建部中興
    第16章 室町時代
    第17章 戦国時代の文明史的意義
    第18章 新時代の開拓者織田信長
    第19章 海外発展精神の勃興とその挫折
    第20章 基督教の伝来
    第21章 切支丹禁制
    第22章 徳川時代の社会及び国家
    第23章 徳川初期の文化
    第24章 徳川時代の思想界に於ける新精神
    第25章 徳川時代に於ける泰西文明の摂取
    第26章 幕末日本の国難
    第27章 崩壊すべかりし封建制度
    第28章 尊皇と攘夷と倒幕
    第29章 第明治維新
    第30章 第世界維新に直面する日本

    出版社 每日ワンズ, 2017
    ISBN 4901622951, 9784901622950
    ページ数 293 ページ
    第1刷発行 2017年10月01日
    第2刷発行 2017年10月22日

  • 「昭和14年7月に発売され、たちまちベストセラーになったが、軍部や右翼の一部から「国体違反」「不敬」などの批判が浴びせられ、発行中止の告発を受理した検事局から削除訂正を求められた。このため昭和15年9月以降は訂正版となった。そして敗戦後GHQによってまたも追放。
    本書は初版であるが、改訂版で削除された箇所を傍線で示し、読者の参考と供することにした。」

    「隠そうとしていた部分がわかる」というだけでも興味深いですが、日本の通史として、本当に面白い本でした。
    ただ、読み方や意味のわからない言葉が毎ページ数個あり、辞書で調べながらやっと完読。
    「日本語ってこんなにたくさんあるんだなあ」と感心。
    同じ言葉ばかり使っている自分…。
    大川周明さんの頭の中にはこれらの単語が全てはいっているのでしょうか。
    しかも、それでインド哲学が専攻だからヒンズー語もできるだろうし、コーラン全文翻訳したからアラビア語もできる?

    まあ、とにかく全部面白かったけど、四つ記録しておきます。

    日本史受験したというのに、北条と藤原がごちゃごちゃになっていた私。
    北条泰時についてのこの部分すごく好き。
    >仁治二年、天下の豪族たる武田一家が、土地に関して小さな大名と争える時、泰時は道理に於て武田の非なるを見、之を敗訴せしめた。武田一家はこの敗訴を恨みて、泰時の一身に危害を加えんとするとの評判が高まり、人々は再三泰時に警戒注意を与えた。その時、彼曰く「人の恨を顧み、その理非を分たざらんには、政道の本意あるべからず。逆心を怖れて申し行わざらんには、定めてまた存私の謗を招くべきか」と。而してこの事ありて一月の後、武田家は巷説の無実なるを陳じ、もとより何らの異心なきのみならず、子々孫々断じて悪事を企てざるべき旨の起請文を泰時に差し出した。彼は綿の如き情と、鉄の如き意志とを以て、民と国とのために一生を献げたのである。

    また、私は源氏物語が好きではないのですが、「平安朝末期の道徳的頽廃はほとんど吾らの想像以上に甚だしきものであった」と大川氏。嬉しいお言葉。
    「しかるに爛熟せる京都文明が生みたるこの堕落腐敗を刷新して、日本国をその道徳的破産より救えるものは、実に武士道そのものであった」
    そして武士たちがすごくカッコよく描かれているのです。時代もあるのかな…。

    一方宗教ですが、道元禅師について一章費やしている事に驚き。
    なぜなら私、よく曹洞宗のお寺に行っているものですから。
    でも道元についても曹洞宗についてもほとんど知識なかったので、これからいろいろ読んでみようと思いました。

    最後に、やっぱり一番面白かったのは幕末。
    結果を知っているのに、ドキドキして読みました。
    図書館で借りたけど全部読む時間が無いというかたは、このテーマだけ読んでみては?

    「(前略)外に海外の形勢を望めば、英・露・仏・米の新興諸国、最も無遠慮に東侵南下の政策を強行し、西力の東漸(西洋の侵略)、日に激烈を極めたる時である。(中略)かくの如くにして貪婪飽くことを知らざる欧米列強の爪牙は、当然シナ及び日本に向かって研がれ始めた。今日にして日本当時の国際的地位を顧みれば、国家の存亡累卵の危きよりも危く、真に冷膚をして沸然たらしむるものがある。けれども幸いにして非常の国難を免れ、まさに三千年の社稷を失わんとせる逆境を脱出して、却って新日本の建設を成就せしことを思えば、真に歓天喜地して皇国の幸運を祝せざるを得ない。日本に天祐ありとすれば、その明らかにかつ豊かに下されしこと、実に幕末の時に於けるが如きはない。」

  • 最近(2018.2)日経新聞の広告欄で、戦前(昭和14年)に書かれた本が、当時検閲で削除された部分が復活して出版された、と宣伝されていたので興味を持ちました。

    本の中には、該当箇所に傍線が引いてありその部分はすぐにわかります。書かれた文体は少し古いので少々読みにくいところがありますが、傍線を探しながら読んだという感じです。

    私が最も印象に残ったのは、実は本の前半部分で、広告にも掲載されていた事ですが、日本の今の地名の多くは「アイヌ語」が含まれているとのこと。北海道に行ったときに、同じ漢字でありながら読めないものが多く、これはアイヌ語のせいだ、と理解していた覚えがありますが、北海道以外にもそのような名残があることに改めて気づきました。そういえば、どの地方でも駅の名称、地名等、漢字を習っていても読みにくいものが多いですね。

    この点について今後さらに学んでいきたい、という「きっかけ」を与えてくれたという点で、この本は記念すべきものになりました。

    以下は気になったポイントです。

    ・日本国民の天皇に対する関係は、その本質において父母に対する子女の関係と同一である、子女が父母に対して正しき関係を実現することが「孝」である、同様に日本国民が天皇に対して正しき関係を実現することが「忠」である。日本の天皇は、家族の父、部族の族長が共同生活体の自然の発達において国家の君主となり、もって今日に及べるが故である(p29)

    ・有史以前の太古において、日本はアジア大陸と同じく、南北二大勢力の争闘の舞台であった。南方の民は、今日の日本民族であり、北方の民はすなわち、アイヌ族である。初め日本は恐らくアイヌ民族の国土であった、この根拠は南は九州より北は奥羽に至るまで、日本の地名はほとんどアイヌ語らしき事である、日本語としては到底解釈し得ざる地名も、アイヌ語の転訛としてみると明らかなことが多い(p33)

    ・アイヌ人という勇武なる先住者をこの国土にもたなかったならば、南方民族(大和民族)に免れがたき文弱におちいり、今日のような国家建設ができなかったかもしれない。(p34)

    ・日本史は明らかに4期に分けられる、1)建国より大化革新、2)鎌倉幕府創立まで、3)徳川幕府の大政奉還、4)明治維新後(p47)
    ・室町幕府は、その外面組織は鎌倉時代と同一であるが、その政治を有効ならしめる統一力を欠いていた。(p143)

    ・江戸時代は、徳川氏を盟主と仰げる260余国からなる連邦の観があった、当時の大名の領土は、約20の大諸侯を除けば、大は数郡、小は半郡にも及ばない(p195)

    ・五番方と呼べる、大番・書院番・小姓組番・新番・小十人組、は将軍の親衛として江戸城を警護、書院番は駿府、大番は二条・大阪の在番も務めた(p196)

    ・領土の大小を問わず、各大名はみな独立対等であった、1万石の大名とは、1万石のコメを産する土地の君主の意味、収穫のうち30-40%をお蔵入りとして、君主の収入としていた。但し石高には表高、内高があり、名義上1万石でも実際は数万石の収穫(内高)が上がる土地もあった。表高は軍役高とも言い、100石につき3人の兵を雇う必要があった(p260)

    ・幕府創立当時には、1800万石、元禄時代に2600万石、天保時代に3000万石、徳川氏所領は、初期は400万石、末期は800万石(p261)

    ・フランス革命はナポレオンの専制、ロシア革命はレーニン及びスターリンの専制によりなりつつある、明治維新はその専制者を明治天皇にあてた(p276)

    ・旧来の調停直轄地、及び、幕府旧領地を分ちて、府・県とし、全国諸侯は、273を算し、9府20県と、273藩に分割した(p277)

    ・全国に8大学、256中学、5万3760小学の設立する計画を立てた(p281)

    2018年2月25日作成

  • これが戦前の1939年、つまり日本がすっかり軍事国家になっていた当時に書かれた本であることに驚く。

    著者は政府や軍を賛美する姿勢もなく、日本の国難を乗り切るために、古代から日本の歴史を振り返り、国民に日本人のアイデンティティに目を向けさせ、日本の進むべき道について国民的世論を起こさせようという野心を感じる。

    今の日本は失われた30年、コロナ禍、更にオリンピック投資の回収不能による財政悪化で、国力衰退に向かっている。そんな局面で、↓このフレーズに見られるように、いま歴史に学ぶことの重要さを思い知る。

    --

    試みに日露戦争直後の帝国議会を見よ。この議会に於て第二次桂内閣は、一面に於て、平民が負担すべき戦時特別稅、即ち戦後の撤廃を約束せる通行税・織物稅及び塩専売法を存続せしめんとし、他面に於て、公債償還資金の増加、並びに国債利子所得税の免除を企てた。国債利子の所得税は、富豪にとりて決して大なる重荷でない。けれども之を免除してその歓心を買わんとした。公償還資金の増加は、公債時価を騰貴せしめて銀行業者を喜ばせんとしたのである。平民は戦争に疲れ果てたる上に悪稅を存続せられ、富豪は特別なる眷顧を受ける。この議会の光景こそ、日露戦争以後に於ける日本政治の典型である。

  • 大川周明
    日本二千六百年史 

    神話的な国家建設から満州事変までの通史。東亜新秩序(アジアの日本化)の必要性を説いているような構成。


    大化改新、鎌倉幕府の創立、徳川幕府の大政奉還、明治維新を歴史の転換点とし、聖徳太子、道元、織田信長を政治、思想の革命者としている


    スクラップ&ビルド思想は、この時代のインテリの共通思想だったのか「総てが改造即ち破滅の道程にある〜その破壊は必ず建設のための破壊でなければならない」


    国家の建設についての著者の論調は危険思想もあるが、惹かれる部分もある
    *日本精神の最も著しきものは、入り来る総ての思想や文明に方向を与えること
    *日本書紀は〜強大なる国民的自覚並びに反省の所産である
    *我は 非我との対立により確立する〜日本は中国との接触によって国民的自覚を持った


    日本建国の理想「あまつひつぎのみさかえ、あめつちとともにかぎりなけむ」天地の開闢(かいびゃく)、宇宙の生成を説いている


    国民の天皇に対する関係は〜宗教的。国民が天皇に対して正しき関係を実現することは忠

    古代の戦争は、まつろはぬものを まつろはす(同一の神を崇拝する)もの〜まつろひさえすれば 皆同胞


    徳川初期は、元気と希望に充ちた時代〜されど思想信仰を欠いた時代。暗黒光明を征服せんとする傾向を示す〜仏教を根本信仰とする鎌倉時代との違い















  • 大川周明が記した、神武天皇の時代から昭和15年までの日本の通史。よく調べられていると思う。特に、大化の改新、藤原氏の貴族政治、武家政治、戦国時代から江戸幕藩体制、明治維新へと連なる政治体制の移行についての分析が面白い。神道、仏教、キリスト教伝来等の宗教に関する分析も興味深い。今に至る天皇制の偉大さを痛感した。

    「如何なる世、如何なる国と言わず、改造または革新の必要は、国民的生命の衰弱・頽廃から生まれる」p10
    「現今の如き時代に於て、国史研究の重要性を力説したい。唯だ正しき国史の研究のみが、吾らをして日本歴史の尊貴、日本民族の偉大、日本国体の荘厳を体得せしめ、よく一切の非常時に善処すると得せしめるであろう」p16
    「(アイヌ人との生存競争)アイヌ人は「山を行くこと飛禽(ひきん)の如く、草を行くこと走獣の如し。恩を承けては即ち忘れ、死を見ては必ず報ぜんとす」という強暴なる民なりしが故に、吾ら祖先にとりて手強き敵であったに相違ない」p35
    「シナ人もまた、三国以来乱離を極めし故国を去りて、吾国に帰化する者が多くなった。彼らが朝鮮人以上に尊敬され、従って社会的・政治的に好待遇を与えられしことは言うまでもない(雄略天皇の時代にはその人口が1万8000を超えた)」p44
    「蘇我氏の悪逆は、神道に背きて仏教に帰依したからだとも言われている。さりながら吾らは、儒教の感化と帰化シナ人の煽動とが蘇我氏をして事ここに至らしめたものと信ずる」p46
    「(大化の改新)ただ入鹿一人の血を流し、蝦夷の自尽せしめたのみで、かくの如き徹底せる革新が成就されたことは、実に世界史に類例なきところとせねばならぬ」p56
    「(仏教の渡来がもたらしたもの)推古天皇の18年に高麗より渡来せる僧曇徴は紙及び墨の製法を伝え、同じく推古天皇の御字に、百済僧観勒は天文・地理学及び暦本を献じて、播種・収穫その他一般農業上に非常なる進歩を促し、天智天皇の時には、シナ僧智由が指南車を作りて之を献じ、孝謙天皇の時に渡来せるシナ僧鑑真は、吾国に於ける医術の祖と呼ばれ、また砂糖の栽培を国民に教えたるなど、彼らが国民の物質的幸福を増進せることは非常なものであった」p64
    「(織田信長)彼はその大業の当初より、日本国家の新しき秩序は、国民の心の奥深く根ざし、千秋万古抜くべからざる尊皇心を基礎として築き上げねばならぬことを知っていた。見よ、彼は足利義昭を奉じて京都に入りしその時から専ら心を皇室に傾け、先ず三年の日月を費して紫宸殿、清涼殿、内侍所、昭陽殿及びその他の局を造営し、京都の町人にコメを貸し付け、その利息を毎月の御入費に差し上ぐべきことを定め、暫く眠れる国民の尊皇心を覚醒し、皇威の確立と共に自己の権威を重からしめ、之によって国家建設の業を容易ならしめた」p161
    「(キリスト教の伝来)当時の諸侯が、外国貿易の利益を得んがために、如何に宣教師を好遇したかを知り得るであろう」p177
    「一万石の君主は、その収穫のうち、三斗五升または四斗一升として一万俵、即ち三千五百石または四千石が、いわゆる「御蔵入」として君主の収入に帰するのが普通であった。百石につき三人の兵を養い、一旦の緩急に備うる掟があって、一万石の大名は三百人の兵数並びにその兵器武具を平日より準備しておかねばならぬことになっていた」p260
    「徳川時代に於ける日本全国の総石高は、幕府創立当時には千八百万石、元禄時代には二千六百万石、天保時代には三千万石と称せられている。徳川氏の所領は、天正の初期に於いては約四百万石即ち全国の四分の一、その末期に於いては約八百万石即ち全国の三分の一弱を占めていた」p261
    「政治・経済・道徳・宗教悉く腐敗し去りて、なおかつ国家が現状を維持し得るか。明治維新は、たとえ米国の来襲がなく、英露の東漸なくとも、日本精神が未だ亡びざる限り必ず起こるべき革新であった」p266
    「維新の志士は、皇室を中心として君民一体の国家を形成せんとせる根本精神に於いて、まさに革新の理想的なる主義を掴めるものにして、彼らが終始この主義を以て一貫し、しかも非常なる天佑の下に革新の目的を最も見事に成就せることは、之をフランス革命が当初は立憲君主制を標榜して、中頃より共和制に代わり、さらにナポレオンの帝政を出現してその落ち着くところに落在するまでに、非常なる転変と曲折とを見たるに比して、あるいはシナ革命が清朝を倒して二十年を過ぐるもなお、何ら根本的革命を挙げ得ざるに比して、実に非常なる成功と言うべく、而してこの成功の真因は、その立てるところ正しかりしが故であると言わねばならぬ」p270
    「対馬の租借権を主張して動かざりし露艦、長崎に入りて威嚇至らざるなかりし露艦は、クリミア戦争の勃発により、太平洋の海面に於いて英仏艦隊と抗敵するために、日本に対する毒手を緩めた。米国の日本侵略は、ペリー提督の公文が明らかに示す如く、突如として交迭せる反対党の政策によりて平和主義に豹変した。而して1858年メキシコ問題による米仏両国の確執、1861年の南北戦争は、米国をして野心を日本に逞しうするのを余暇なからしめた。これ実に明治維新がフランス的発狂に陥らず、フランス革命の如き恐怖時代を見ざりし原因である」p274
    「総ての改造は、新しき統一を代表せる大専制者の出現を待ちて、初めてその成功を可能とする。フランス革命はナポレオンの専制によって成った。ロシア革命はレーニン及びスターリンの専制によって成りつつある。而して明治維新は、実にその専制者を明治天皇に於いて得た」p276
    「国民生活の不安を救うためには、幾多の欠陥を明らさまに暴露せる資本主義経済機構に対して、巨大なる斧を加えねばならぬことが明白なるに拘わらず、富豪階級と権力階級との多年にわたる悪因縁は、ついに徹底せる改革の断行を妨げて、唯だ一日の安きを愉しむ弥縫的政策が繰り返されるだけである。かつて万悪の源なるかに攻撃せられし幕藩政治は亡び去り、専制頑冥と罵られたる官僚政治もまた亡び、明治初年以来の理想なりし政党政治の世となった。而して国民は早くも政党に失望し、その心に新しき政治理想を抱くに至った」p290

  • 思想家 大川周明が第二次世界大戦が勃発した1939年(皇紀2599年)に発表した歴史書。日本2600年の歴史を独自の視点で論じてます。高天原から江戸幕府の終焉まではかなり詳細に記述されています。源頼朝や足利尊氏への見方は面白いです。ここに書かれている事が当時の日本人にとって一般的な考えだったかは疑問ですが、日本民族が、普通に日本民族としていられた時代の歴史観を垣間見ることができ、目からウロコな内容がたくさんあります。あえて今の時代に読むのが良いと思いました。本書は世界維新に向けての提言で終わります。

  • 新聞のセンセーショナルな広告で興味を持ったけど、
    別にぶっ飛んだ内容ではなかった。
    1つの視点としては面白い。
    こうして、通史でダァーっと読める本て、そう考えると意外と少ないなぁと思った。
    やっぱ歴史は流れだから。

  • 東2法経図・開架 210.1A/O46n//K

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著者プロフィール

1886年、山形県生まれ。戦前の代表的な思想家。1911年、東京帝国大学文科大学(印度哲学専攻)卒業。1915年、日本へ亡命してきたインド人ヘーラムバ・グプタと出会い、インド独立運動に従事。19年に満鉄入社、同社の東亜経済調査局、満鉄調査部に勤務。同年、北一輝、満川亀太郎らと猶存社を結成する。20年に拓殖大学教授に就任。25年、北、満川、西田税、安岡正篤らと行地社を結成。1932年、五・一五事件に関与したとして禁固5年の判決を受ける。37年に出所すると、日中戦争から日米戦争へと向かう時代のなかで、アジア主義、日本精神の復興を訴え、世論に大きな影響を与えた。日本思想界の象徴であり、その影響力の大きさから、戦後、その著作の多くがGHQによって発禁とされた。また、東条英機らとともにA級戦犯として起訴されるが、精神疾患を理由に不起訴となる。晩年はコーランの全文翻訳を成し遂げ、日本のイスラム研究に大いに貢献した。1957年に死去。著書に『宗教の本質』『日本文明史』『日本二千六百年史』など多数。

「2018年 『大東亜秩序建設/新亜細亜小論』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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