- Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
- / ISBN・EAN: 9784898154878
作品紹介・あらすじ
[最果タヒ × 百人一首] ふたたび!
記憶が歴史に変わっていく中で消されていった「感性のまたたき」
―― 100の「エモい」を大解剖。
映画、展覧会、WEB、広告、音楽…あらゆる場所へことばを届け、
新しい詩の運動を生み出し続ける詩人・最果タヒ。
清川あさみとの共著『千年後の百人一首』で挑んだ現代語訳では、
千年前から届いた百の思いにどう向き合い、
胸に刺さる詩のような新訳が生まれたのか?
百首を扉にして読む、恋愛談義、
春夏秋冬、生き生きとしたキャラ、人生論。
そして、「最果タヒ」の創作の秘密。
いちばん身近な「百人一首」案内エッセイ、誕生!
感想・レビュー・書評
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いただきものの本です。
平成⇒令和のこの時に。
高校の授業で日本の古典文学、和歌や百人一首を習いますが、当時の私にはそれが苦手でした。
「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ /天智天皇」
「君がため 春の野に出でて 若菜摘む わが衣手に 雪は降りつつ /孝光天皇」
御所にお住いの天皇御自らが苫穂の庵に住んだり、新春の明け方に野っぱらで若菜摘みするわけないじゃないか、やってないことをかっこつけて、身分の高い人のお気楽な遊びじゃないか!
そんな私に対して、古典文学好きのクラスメートは言ったのです。「実際にはお付きの者が若菜摘みしたかもしれないけれど、それにこの歌を添えて相手に届けるのが雅なんじゃない。相手も分かっていて受け取るんだよ」
しかし当時の私は叫んだ。「欺瞞だ!!!」
(女子高には、古典や歴史が先生より詳しいくらいの一種のオタクの生徒たちもいる。先生もなかなか面白いけど)
何しろ私は源氏物語や枕草子や百人一首などの貴族文学・和歌などより、太平記や里見八犬伝や平家物語や義経記のような軍事物が好きでしたからね(笑)(※すべて現代語訳された簡易版です)
授業だって「木曽の最期」などは非常に興味深く受けていましたが、朝廷文化系はイマイチ食指が動かず(-.-)
しかし年齢が上がるにつれて分かってきた。
実際には明け方の野原に若菜摘みには行っていないかもしれない、しかし歌を詠んだ天皇も届けられた相手も、若菜を見て薄く雪の降る朝の野の情景とそこにいる天皇の姿を思い描く、そこで心が通じたり同じ想いを共有することができる。
それこそが和歌を通して同じ感性を共感するという楽しみでもあるんだなと。
さて。
こちらの本は、「千年後の百人一首」ということで、百人一首を現代詩人が現代の感性で訳するというか読み解く本。そこから浮かび上がる詠み手たちの性格や時代背景など。
現代でも分かる感情もあれば、詠み手の状況のや、当時の風習から読み解くと同じ行為でも意味が違っていたんだなと感じることなど。
改めて百首すべて読むと「この人はこんな歌を!」と今更ながらの感想を持ちました。
それにしても千年前の和歌が「分かる」というのは、日本の文化、日本人の感性は変わっていないのですね。「満開の桜」と聞けば「綺麗だな、でもあとは散るだけだな」という、美しさと寂しさを想う。これを千年経っても共有できるのです。このような共有認識の下に成り立つのが同じ文化を有するということでしょう。
…さて、このレビュー冒頭に書いた「君がため」ですが、
私は後朝の文かと思い込んでいて、だからなおさら「夜を共に過ごした恋人に他人が摘んだ草を自分が摘んだとか言って贈るの?!」とか思っちゃっていたのですが、
「御所内の畑で体に良い七草を摘むのは天皇の仕事」「すると贈った相手は爺やや乳母さんかも?」とか、
「孝光天皇は苦労した時代があるから実際に若菜を摘んで煮炊きしたかもしれない」などという説もあると聞いて、
結局後朝なんだか老人愛護なんだか苦労人なんだかわからないけれど、そんな情景を色々思い浮かべるのは確かに面白い(笑)詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
大好きな最果タヒさんによる百人一首についてのエッセイ。好きな歌から順番ばらばらに読んでしまったから、読了にずいぶん時間がかかったし、きっと同じ歌を繰り返し読んでいるに違いない。しかし、何回読んでも飽きないからいい。最果さんの歌に対する想いや解釈、100%合ってるわけではないが(むしろ歌の解釈に正解などないが)、「わかるわ~」と勝手に共感してしまい、それがなんとなく気持ちいい。
このエッセイの中で、「千年前に共感する」というフレーズが出てくる。ただでさえ現代に生きている人に共感することも難しいのに、千年前に共感することができることは、単純にすごいことだと思う。しかし筆者もあとがきに書いているが、これは単なる「共感」ではなく、言葉の共振なのだ。千年前の彼ら彼女らが遺した言葉は、決して隔絶された場所に存在するのではなく、私たちと同じ世界軸に生きているのだ。だから千年経っても彼ら彼女らの歌はこうして語り継がれていて、同じ感情を抱くことができるのだろうな。
古典が苦手でも、百人一首が気になる人にとっては手軽に(高校古典の文法抜きで)知ることができるので、おすすめ。 -
昔のもの、取り分け何世紀の人の心を探るという考えがあまり無かった者としては、目から鱗でした。いつの時代も、色恋や感受性に変化なく、変わって行ったのは環境など、『人間の周り』であると感じました。その上で、環境が変わる前にあった気持ちであるとか、逆に今とイコールになるものに関して思いを馳せたりできて、とっても楽しかったです。ただ少し言い回しなどが難しいので集中できる時に読むこと。だけど教科書の翻訳とはまた違った身近な解釈につくづく最果さんの理解力や想像力に驚くばかりです。
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さみしさって本当はそういうものだと思うのです。世界が私を無視するのではなくて、私が世界を無視することで、そっと湧き出る感情なのだと。
全体的に文章が綺麗であっという間に読んでしまったけど、なんも残ってない。そのくらい最果さんの書くものって、わたしにとって読み心地というか手触りが綺麗すぎる、良くも悪くも。 -
中学生のときに大好きだった百人一首
当時好きだったのは「久方の 光のどけき 春の日に 静心なく 花の散るらむ」。意味もわからないまま、音や字面のならびで好きだった。
大人になって百首の背景を最果タヒさんの視点とともに読むと、当時の彼らの生活を理解しきることはできなくても、なんでだか、その情景に思いを馳せてしまう。 -
千年を超えて
いつか忘れる、そしてそれと同じく思いだす。それはきっと数えられないほど昔かもしれないし、歌はそれでも残る。誰かの、こころを同じくして。
原動力はやはり負なのだ。寂しい、憎い、絶望、消えたい、消えた。
表現をやめない。自分のために、いつかの、誰かのために。 -
教科書で習い丸暗記をすることもあった百人一首だが、いにしえの和歌の言葉や堅苦しい現代語訳でしか接していなかった自分が、歌の向こうにいる千年前の詠み人の存在、実在をすっかり忘れていたことに気づかせてくれた。想像しにくかった彼ら彼女らの心情や状況を知ると、たちまち歌が血の通ったものに。特に、32番の「生きている言葉」の解釈、47番の「さみしさ」の解釈には感動した。
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小学生の時に習った百人一首。あの頃はプリントを渡されて必死に覚えてました。カルタも持っているし、家や授業でもやりました。
だからなのか、今でも百人一首の歌を見ると自然と頭の中でリズムつきで読めます。
歌の内容は解説がないと意味が読み取れないけれど、他の和歌などに比べると百人一首って親しみがあります。
平安時代に読まれた歌ばかりを集めたわけではないけれど、平安時代のことや貴族の人たちの生活とかもっと知りたいと思います。 -
ここまで解釈を広げられる想像力にまず感動する
試しに百人一首を目で読むんじゃなくて口で詠んでみた
朗読舐めてました