ウィトゲンシュタインから龍樹へ: 私説「中論」

著者 :
  • 哲学書房
3.88
  • (4)
  • (0)
  • (3)
  • (1)
  • (0)
本棚登録 : 42
感想 : 3
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (210ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784886790859

作品紹介・あらすじ

縁起の他にその事物たらしめる本質=実体があるのではない。『ウィトゲンシュタインと禅』、『ウィトゲンシュタインから道元へ-私説『正法眼蔵』』に続いて、実体を否定し、意味的存在としての実在つまり言語ゲームの世界を説く『中論』を解明しつくした名著。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • ウィトゲンシュタインの研究者として知られる著者が、「言語ゲーム一元論」の視点から龍樹の『中論』を読み解いている本です。主として中村元の『龍樹』(講談社学術文庫)にもとづいて『中論』のテクストを紹介しつつ、それについての著者自身の理解が語られています。

    著者の考える「言語ゲーム一元論」は、後期ウィトゲンシュタインの思想にもとづいており、「文章というものは、全体として言語ゲームの中で如何に用いられ如何に働いているかによって、その意味が決まるのであって、文章をそれを構成する単語一つ一つに(原子論的に)分解してはならない」と説明されています。こうした立場から、「去ること」「根」「界」「有為」「業」「死」「苦」「行」「自性」「我」などを否定していく龍樹のテクストが解読されています。

    あらかじめ設定された「思想」に依拠してテクストの解釈が提出されていることもあり、少々退屈に感じてしまいました。

  • 小さい頃から理屈っぽい奴だと言われ続けてきた。今もそれは変わらない。必要とされる時にだけ重宝がられて、ふだんは煙たがられている。どうもこの国では理屈を言う輩は立場が悪いようである。それは、この世の中にある何もかもを現実に存在していると感じている人の方が多いからだろう。例えば川を見たとしよう。あなたが見た川の水は見た瞬時に流れ去っているはず。その後あなたが川と言い、聞く人が思い浮かべる川は実在しない川である。その川が実在するのは言語ゲームの世界なのである。理屈は言語によって展開される。言語の世界は人々が実体と感じている世界から遊離しているため、理屈はものごとを解決するよりもかえって複雑にするように感じられてしまうらしい。しかし、ものごとが言語で構成されている限り、人々が実体だと信じて疑わないものもみな、言語の世界の存在でしかない。

    ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム論」の核心は、「すべてのもの一切を、心的なものも物的なものもおしなべて、言語的存在と見なす」ということである。言い換えれば、一切は意味的存在で、言語以前に実体としてあるものなどないという徹底的な思考である。著者は、その思考を大乗仏教「八宗の祖」龍樹の書き表した難解を持って知られる『中論』と通底させようとする。誰でも一度くらいは耳にしたことがあるだろう。「般若心経」の一節「五蘊皆空」(一切は空である――実体は存在しない)の世界像と。

    ナーガールジュナ(漢訳名「龍樹」)の『中論』には前々から興味を持っていたのだが、超難解と聞いて尻込みしていた。難解といっても、訳が分からないという意味ではない。論理的に明晰すぎて、通常の思考ではついていけないということである。仏教用語の問題もある。誰かいい先達がいないものかと探していたところへこの本である。『中論』をやはり難解なウィトゲンシュタインの「言語ゲーム論」で読み解こうという著者の試みに飛びついたわけだ。

    『中論』とは何か。釈迦入滅後百年を経て、教団は戒律を巡り上座部と大衆部に分裂する。その後もう一度分裂を起こし二十の部派仏教が生まれる。それを批判する形で生まれてきたのが大乗仏教の運動である。その「大乗教典」の中心をなす「空」の思想を位置づけたものが龍樹(150~250)の記した『中論』にほかならない。

    では、その内容はといえば、「八不」と言われる「不生・不滅・不常・不断・不一・不異・不去・不来(何ものも滅することもなく常住することもなければ断滅することもない。一つとして同じものはなく異なりもしない。去るものはなく来るものもない)」ということを称揚する立場から、反駁者の「戯論(形而上学的言説)」を例に引き、徹底的に理詰めに論駁してゆく。そのあまりなラディカルさは、最後には、思考の放棄を宣言し、仏陀は何も説かなかったと言うまでに及ぶ。

    著者は先行する諸訳を手がかりにしながらも、意味の通らないところは自説を引き、『中論』を読み解いてゆく。時には有名なゼノンのパラドックス(飛んでいる矢は止まっている)なども例に引きながら、逆説を多用する龍樹のパラドキシカルな思考の跡を誠実に辿ってゆく。そうして最後まで読んで思うことは「『中論』には二つの原理が貫いている」ということである。

    その一つは「縁起」の原理であり、もう一つは、「〈去るもの〉は去らない」という原理である。前者は、「一切は意味的に含みあっている」という原理であり、後者は、「事柄は二重におきることはない」という原理である。この後者は、「一重の原理」と言われてもよいであろう。(第二十五章より引用)

    「八不」はこの二つの原理が分かれば理解できると著者は言う。こうして書いてみても虚しいのは、この結語に至るまでに思索の行為こそが愉しいのであって、結語そのものは『中論』の記述をそのまま読むのと同じで何の感興ももたらさない。読者は是非、本を手にとって読んでみられたがいい。宗教というものの持つ神秘的なところや超越的なところが嫌いな方にこそお薦めしたい一冊である。

  • ナーガルジュナの「中論」をウィトゲンシュタイン研究の観点から。

全3件中 1 - 3件を表示

著者プロフィール

黒崎宏(くろさき・ひろし)
1928年生まれ。哲学者。東京大学大学院哲学研究科博士課程単位取得満期退学。成城大学名誉教授。著書に『ウィトゲンシュタインの生涯と哲学』、『言語ゲーム一元論』、『「絶対矛盾的自己同一」とは何か』など多数。

「2022年 『ウィトゲンシュタインのパラドックス』 で使われていた紹介文から引用しています。」

黒崎宏の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×