- Amazon.co.jp ・本 (430ページ)
- / ISBN・EAN: 9784878936814
感想・レビュー・書評
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いや~、難しかった。
宗教を知るうえで、史実や歴史的背景を正確に知る必要があるんだな…。
幼いころに受洗していわゆるミッションスクールにどっぷりつかって成長してしまった自分に、どう折り合いをつけたものか…とすっきるというより、悩みを深めた1冊だった。
2020.11.29詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
特にキリスト教に詳しくなくても、イエスと言えばどんな男か、たいていの人が説明できそうな気がする。娯楽映画に一番多く登場する宗教者である。非暴力を貫き、己の罪を悔い改めることを説く、愛の宗教の創始者。しかし、その容貌はともかく、性格や思想の方は、福音書の記述をもとに作りあげられた像を真に受けると、とんだまちがいをしてしまいそうだ。
知っての通り、福音書というのは、イエスの弟子たちが、近くにいて見聞きした師の言葉を後に思い出して書き記したものである(本当のところは、弟子の名を借りて複数の記述者によって書かれたものと考えられる)。マタイ、マルコ、ルカ、それにヨハネの四つの福音書を数えるが、ヨハネのものは別にして考えるのが通例だ。しかし、先の三人の福音書にしたところが、三者三様、それぞれ記述者の思惑が入り込み、イエスその人の言動には異同がある。
キリスト教に限ったわけではない。すぐれて独創的な思想家やそれまでにない行動パターンをとる人間が現れると、普通の人間は、まず驚き、拒否し、やがて、受け容れるといった行動様式をとるものだ。そして、その受容のレベルが、受けとる側によって異なる。だから、いくら身近にいた弟子でも、弟子の生育歴や教養その他によって、師の言葉はフィルターを通して受けとられることになる。ましてや、教団という大所帯を維持してゆくとなれば、そこには、俗世間との妥協が入ってくる。変質は避けられない。
田川がここで明らかにしようとしているのは、当時のガリラヤで大工をしていたイエスという男の真の姿である。ユダヤ民族にとってユダヤ教というのは、単に宗教というにとどまらず、政治であり、法である。すべては律法によって厳しく律されていた。しかし、現実的にはパリサイ派のような教条主義的な人々もいれば、戒律を無視し、世俗的な利益に走る宗教者たちもいて、一般の人々にとっては決して納得のいく世界ではなかった。
おまけに当時世界はローマ帝国によって支配されていた。ローマの支配とユダヤ教による支配に対する「逆説的反抗」者としてのイエスというのが、田川の描き出してみせるイエス像である。有名な「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」というのも、非暴力というより、「どうせ打つならこちらも打ったらどうだ」とういう反抗的な身振りであったろうというのだから、世間に流布するイエス像やキリスト教という宗教の既成概念は木っ端微塵になる。
もちろん、勝手な解釈ではない。当時の歴史的状況や資料に残されたイエスの言葉を検討した結果浮かび上がるのが、「逆説的な発言に見られる鋭い批判、相手の問いに答えることを拒否し、お前が自分でやればいいだろうとつき放す冷たさ、底の底までつき入ってくるようないやらしい皮肉、などに見られるおそろしく醒めた目」の持ち主だ。
しかし、その醒めた眼を持つ男の中には「一見ひどく幼稚で迷信的な宗教的熱狂」が同居していた。それが、イエスを追いつめ、ついには死に至らしめたのである。田川がこの本を書くことで解き明かしたかったのは、なぜ、ひとりの男の中に相手を徹底的に突き放す醒めた目と幼稚な宗教的熱狂が同居し得たのかという疑問である。答えは出たのだろうか。
あとがきに「十字架に架けて殺されたこの男のものすごい生を描きうるためには、自分もそれに対抗しうるだけの生の質を生きていないといけない」と著者は書いている。すぐれた聖書学者だが、既成のキリスト教の護教論者が卒倒しそうなほど過激な言動を繰り返す著者には敵も多い。逆境の中で、自分の仕事を続けることの意味を探るというのがこの本を書くもう一つの目的であったろう。答えはその選びとった生の中にこそあるのではなかろうか。 -
キリスト教をある程度勉強して、自分なりの考えを固めた上で読むべきものかと思います。その方がおそらくずっと面白いです。生半可な信仰ではグラッグラになります。怒りや失望も芽生えるでしょう。逆にキリスト教を知識として知るためとか、ただ批判の根拠として読むというのも違う気がします。これでとりあえず目からウロコをキレイさっぱり落として、ニュートラルな気持でもう一度より深く聖書を読んでみよう、と思っています。
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イエス・キリストではなく実在したナザレのイエスがどのような人物であったかを書いた本。この人の書くイエスは律法学者に対して「ゴチャゴチャうるせえ、黙れ」と言いそう。理屈をこね回す人を嫌い、宗教に対して皮肉的な態度をとる人物だ。仲良くなれそう。
タイトルと厚みからもっと固い感じの本かと思っていたが、そうではなかった。なんというかネット記事にありそうな感じ。初版のあとがきが書かれたのは1980年だけれども。
それにしてもこの著者はずいぶんと好戦的であるように思える。わざわざイエスについて語った人を名指ししてはこき下ろすのだから。このような内容を本に書けるのは、そうとう自分に自信が無いとできない。 -
イエスが語った教説は、歴史的・社会的状況を超越した普遍的・無時間的な真理などではなかった。彼がめざしていたのは、みずからの置かれた歴史的場を意識しつつ、それに自覚的に切り込もうとしていたのだと著者は論じている。
神学者たちは、イエスの言葉を彼が生きていた「歴史的場」から切り離し、そこからイエスの教えの「本質」を取り出そうとする。だがそれは、イエスの言葉を現代的な宗教思想の枠組みにはめ込むことにほかならない。著者は歴史的資料を精査することで、イエスの個々の伝承を歴史的な場の中に置き戻して捉えようと試みている。
一例をあげると、「良きサマリア人の譬え」を著者は次のように読み解いている。当時のユダヤ人は、サマリアを「異邦人」が多く入り込んだ堕落した都市と見ていた。イエスは、ユダヤ人のサマリア人に対する差別意識を告発する。だが、イエスはそれを「心優しくサマリア人を受け入れましょう」という説教によって語ることはしない。何より、ガリラヤ人であったイエスや彼の生きていた周囲の民衆の上にも、サマリアと同様の差別がのしかかっていた。イエスは、「隣人」の範囲を拡大したとしても、同じ差別の構造が再生産されることを知っていた。だからイエスは、「隣人」の範囲を定めるのではなく、「誰がこの被害者に対して隣人になったか」という問いを対置したのだと著者は主張する。
「汝の敵を愛せ」という言葉もこの文脈で理解される。「隣人を愛せ」という主張はその裏に「敵を憎め」という主張を伴わざるをえない。この構造を照らすために、イエスは「敵を愛せ」という逆説的な言葉を投げつけたのだった。こうしたことから著者はイエスを「逆説的反抗者」と特徴づけている。
「憎しみを持ってはいけません、敵をも愛するほどの心をお持ちなさい」とにこやかに説教するときには、こうしたイエスの逆説的な意味は失われてしまっている。キリスト教は、イエスが時代状況と自覚的に切り結ぶために選んだ毒をもった言葉を取り込み、骨抜きにしてしまったと著者はいう。確かにイエスの言葉には、こうした説教へと変質してゆく萌芽を含んでいた。だが、批判されるべきはそうした不注意な言葉を語ったイエスではなく、二千年たってもイエス一人を克服できない社会の方ではないのかと、著者は述べている。 -
微細に、無慈悲に張り巡らされた宗教というイデオロギーにイエスという男は挑み続けたのか。テキスト・クリティークということを、本書ほど痛感した書物はなかなかない。奇跡に関する記述も興味深い。
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宗教的な闘争ではなく、権力・権威・道徳一般につきまとう偽善の告発や不満の発露としてイエスを捉える。
個人として、反発としてのイエス。
ドラマとして、あるいは聖書の解釈として非常に面白かった。教義やヒューマニズムの偽善的側面には鈍くならないでいたい、と紋切り型ながら思う。
今までの史実を批判している割には「〜と考えるのは大げさにすぎる」「は想像に難くない」といった類推が多い気もして、それをこちらは判別しがたい感じがある。 -
相変わらず怒ってんなあ、と思うと同時にとてもわかりやすい内容。この人は筆を執る時だいたい攻撃的モード。タイトルから既にね。4つの福音書の関係について整理できたこと、イエスは悔い改めや懺悔について何も述べていないことなど、新たな気づきがあった。
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https://cool.obirin.ac.jp/opac/volume/870152
ひなたやま、多摩にもあります