ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか

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  • Amazon.co.jp ・本 (376ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784866470887

作品紹介・あらすじ

女らしさがつくられたものなら、男らしさは生まれつき?

男性、女性、すべての人のために。
フェミニズムが台頭する今だからこそ、「男らしさ」の意味も再考するとき。

自身も男の子の親である著者のギーザは、教育者や心理学者などの専門家、子どもを持つ親、そして男の子たち自身へのインタビューを含む広範なリサーチをもとに、マスキュリニティと男の子たちをとりまく問題を詳細に検討。
ジャーナリスト且つ等身大の母親が、現代のリアルな「男の子」に切り込む、明晰で爽快なノンフィクション。

〈目次〉
はじめに――今、男の子の育て方に何が起こっているのか?
1章 男の子らしさという名の牢獄――つくられるマスキュリニティ
2章 本当に「生まれつき」?――ジェンダーと性別の科学を考える
3章 男の子と友情――親密性の希求とホモフォビアの壁
4章 ボーイ・クライシス――学校教育から本当に取り残されているのは誰?
5章 「男」になれ――スポーツはいかにして男の子をつくりあげるのか
6章 ゲームボーイズ――男の子とポピュラーカルチャー
7章 男らしさの仮面を脱いで――男の子とセックスについて話すには
8章 終わりに――ボーイ・ボックスの外へ

帯推薦文:堀越英美(『女の子は本当にピンクが好きなのか』『不道徳お母さん講座』著者)


「女の子は生来的に数学が苦手だとか、月経周期のせいで優れたリーダーにはなれないという意見に対しては、批判と、豊富な証拠に根差した反論が向けられる。
しかし男の子と男性に関しては、私たちはいまだに、彼らの問題点も短所も、そして長所も、生物学的な結果なのだという考えにしがみついている。女らしさはつくられたものだが、男らしさは生まれつき、というわけだ」(本文より)

感想・レビュー・書評

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  • 妊娠を機に手に取った。(まだ性別は分からないけど、夫の家系はY染色体が圧倒的に強い)

    勝手に期待していたのは、男の子を「男らしく」させない育て方。よく考えればこれは育児本ではないので、そんな内容が的確に書いてあるわけではない…

    エピソードとしては著者の住むカナダの話がほとんど。
    ジェンダーだけではなく人種によるバイアスについても多くの紙面が割かれており、これは日本に置き換えるならどういうことなんだろうか、とやや想像しにくいところもあった。
    (在日韓国人・中国人とか…?ただ、こちらは見た目だけで明らかなわけではないし、ドラマでステレオタイプに扱われがちなわけでもないからちょっと違うか。)

    ホモソーシャルな男集団の中で(しばしばチームスポーツ界隈で)仲間にナメられないために、称賛を得るために、女がモノ扱いされる事件は万国共通なんだなと改めて暗澹たる気持ちにさせられた。

    一方、小さい頃から男の子は粗暴で落ち着きがないと見られがち・警戒されがちで、それが男の子たちの自信を失くさせる原因にもなっているというのは進んだ悩みだなあとも思った。
    日本ではこういう要素すらも「男の子だからしょうがない」で許され、むしろその側面を助長している気がする。

    男の子たち自身が自らの弱さを語ることが許されず、それゆえ語る言葉も持たず、「男らしくあれ」というマンボックスに囚われている。
    安心して弱みを見せられる場を提供し、心を開いてもらうという地道な取り組みが、大きなインパクトとなって社会を塗り替えるときが来ると信じたい。
    世代交代によるパラダイムシフト…ホモソ世代がこの世からいなくなるには、何十年かかるんだろう。

  •  既存の「女らしさ」という有害なステレオタイプからの解放が、フェミニスト達によって叫ばれる一方で、「男らしさ」について言及される事は少なかった。
     男の子はスポーツができて、暴力的、タフであるといった固定観念を親や、周囲の大人たちから植え付けられ、泣いたりでもすれば「女みたいな真似をするな」だとか、ゲイのレッテルを貼られ非難される光景は十分に想像できる。
     だが、昨今の日本の若者を目を移すと男性はより中性的になっている事から、日本においては有害なジェンダーステレオタイプから男女ともに解放されつつあるようにも思えた。また、性に関してより正しい知識を学校などの場で具体的に教育を行なっていくべきとする本書の意見に同意する。

  • 感想
    初めて投稿します。

    読んだ感想としては3つ。
    一つは、文章があまりにも読みにくいこと。
    海外の記者だからなのか、この人特有の書き方なのか、評論する上での仮定→例示→結論、の書き方がどの章においてもあまり上手く構成されていないと感じられる。評論文かと思えば急に日記風になるのも混乱を生じさせる。
    何の話をしているのか分からないまま、例示が列挙される。カナダやアメリカ特有の考え方か、社会の在り方なり方が違うせいなのか、日本人の私には理解があまり追いつかない例が多い。結論が飛躍したり、文章を締めていない事も少なくない。結末があったとしても、だから男は野蛮である、で終わっている事が多く思われる。

    二つめに、男性学の話をしている割に、あまりにも人種的、差別問題的な話が多く見受けられる。突然政治思想やLGBTへの意見が入ってくるのも、共感がし難くくなるところである。白人が、黒人が、アジア人が、そして問題になるのは男性ばかり、女性は模範的で問題が少ない。大抵はこれの繰り返しに思われる。
    途中、黒人は殊更にこういう傾向があると話す事もあるが、取り上げる話がどうしても貧困層の話が多いので、平均的な話が出来ているようには思えない。例示も障害を持つとされる男の子ばかりや、今の問題を起こしがちとされる男性ばかりである。自分の意見に合致するような殊更に際立った例を持ってくることも多い。
    白人だからこうだ、黒人だからこうだ、アジア人だからこうだ、との決めつけが多い欧米社会にも話を向けているが、問題提起だけで終わっていて結論が不明な所も少なくない。
    書かれた時期がそうなのであろうが、“野蛮な男らしさ”の例で、トランプ元大統領を殊更にバッシングしているのも向こうのメディアの人らしい点なので、そこも共感できない所である。

    最後に、筆者が明らかに男女や人種への考え方に偏りがあるように思われる。
    男が作り上げてきたものはどこまでも野蛮で、暴力的で、非文化的である、くらいの勢いで書かれている章もある。社会が持つ男性のイメージを説いた本というよりは、筆者の持つ男性へのイメージを延々と語られているように感じた。男性は幼稚で不安定で問題児が多く、大人になってもあまり変わらず、そんな男性が社会で幅を利かせているのがおかしかった、ただ今はそれが女性の台頭で変化し、それについて男性は卑屈になっている、それにしても“男らしい”男性の言動はどれも野蛮で…こんな話に感じ取れる話も多いように見受けられる。
    また、自分や女性的な考え方の方が優れている、それを理解出来ないのはおかしい、ととれる書き方もある。野蛮さや男が好むものは理解が出来ない、拒絶してしまっているとの筆者の意見もある。相互理解や相補性がある考え方ではないままで、“男らしさ”を語るのは何がしたいのか分からない。男性が読んでいてあまり心地良いとは思えない本だな、と初めて感じた本だ。

    これほどまで男性や社会の持つ「男らしさ」を悪のように考えて、肯定をほとんどしていない本は他にはないと思う。
    私が想像していた男性学の本、男の子はかく在るべしとされ続け生き辛くもっと自由を認められてはどうかを投げかける本、というよりは、今までの“男らしさ”は悉く悪である、という筆者の意見を集約した本に思えた。終章でも結局は女性の話がメインになっていたのも分からんちんである。
    また欧米ならではなのかは分からないが、筆者も例に出てくる人物も、理解が及ばない相手を軒並みこき下ろす場面が多い。ここも理解が及ばない。

    肯定的に取れるところは後半の性教育の話である。ここは自身に子どもができた時にも注意しようと思えた。

    読む人によって評価は分かれるだろうから、良し悪しの無い点数を付けています。
    ただはっきりと言って、これは男性学の本では無いと思いました。

  • 自分が子育てをするなら娘だと思っていた。
    胎児の性器の形を知って「娘と一緒に男社会と闘いたかった。女の子ならよかったのに」と思った。男の子を育てるのもフェミニズムの闘いだと思えるまで時間はかかった。男の子を「有害な男らしさ」に晒すだろう社会と、どう接したらいいだろう?と途方にも暮れた。

    この本はそんな母親(や父親)に「大丈夫」と言ってくれる。

    男らしさは生まれつきのものではない(これは『子育ての大誤解』が詳しい)。

    女の子が押し付けられる「有害な女らしさ」と同じように、男の子も「有害な男らしさ」に押しつぶされている。
    「男」だと「男たち」に認められるために、素直な感情を言葉にする方法も学べず、助けを求められず、強がって人を傷つけることをする。
    男の子たちも、自分の気持ちを聞いてほしいし、友だちを大事にしたいし、好きな子と対等で健全なセックスをしたい。でもその方法を学ぶ機会が奪われている。

    この本には、かつてそういう男の子たちだった男性たちが若い男の子たちが学ぶのをサポートする事例が多く登場する。

    「私たちは、前に進まなくてはならない」

    「私たちは 、男の子の問題行動を当たり前で生来的なことのように扱い 、「男の子だからしょうがない 」という考えを肯定することにより 、危険行為であれ性暴力であれ成績不振であれ社会的孤立であれ 、男の子の苦境や欠点の陰にある 、男らしさというイデオロギ ーを見逃してしまっている」

    「これまで女の子たちにしてきたのと同じように 、男の子たちにも 、ジェンダ ーの規範や制限に立ち向かうことを応援してあげなくてはならない」

    そして第5章「「男」になれスポ ーツはいかにして男の子をつくりあげるのか」が必読。

    サフラジェットの活動によって「男の特権」を脅かされた白人上流階級の男たちが逃げ込み、女を排除したのが近代スポーツ。
    近代スポーツはその後、非白人男性への規範化の道具となるが、アメフトを洗練したのがネイティブアメリカンのチームだったり。

    ボディコンタクトを制限したアイスホッケーの例からは、危険なボディコンタクトが当たり前の競技や防具なしの格闘技はローマの殺し合いと変わらない、と思えた。本当にスポーツをするのなら、いくらでも安全なほうにルールを変えればいい。その延長に男女別競技の行く先があると思う。

    親だけではなく、教育、保育に関わる人には必須で読んでほしい。

  • 子どもなし、子育てする予定もない男性が読んだ感想です。
    子育てを中心としたジェンダー問題の話ではあるものの、仕事を退職してどのコミュニティにも属することができなくなった男性、その境遇に向かっている多くの男性(自分含む)への処方箋が示されていると感じました。
    本書では「自己解決を自分に強いる」「感情を表に出さない」ことを男性は社会的に要請されているのだということを色々な論拠をもってくりかえし主張します。私は、この要請の結果が自分の欲求や感情を表現できず空気の読めないいわゆる「おじさん」を産むのではと想像せずにはいられませんでした。
    こんな偉そうなことを言っている自分にも思い当たる節はあり、遠くない未来に自分もおじさんになる光景をありありと思い描くことができて背筋が冷たくなります。
    筆者は、男性も女性のように「自分の感情を表現し」「周囲に助けを求める」ことができるような社会を理想とし、特に子供の時期からそれを教育すべきだと主張します。ここには同意しかなく、男性性が身体化してしまった自分のような大人はこれまでの生き方全てを変えるようなことなので、大人になる程変えることは難しいのだろうと思います。ただ、文中にあるような男性同士があつまり自らの心情を共有しあう団体がそれを変えるヒントになっていると感じました。

  • あらすじ(hontoより)女らしさがつくられたものなら、男らしさは生まれつき?
    男性、女性、すべての人のために。
    フェミニズムが台頭する今だからこそ、「男らしさ」の意味も再考するとき。
    自身も男の子の親である著者のギーザは、教育者や心理学者などの専門家、子どもを持つ親、そして男の子たち自身へのインタビューを含む広範なリサーチをもとに、マスキュリニティと男の子たちをとりまく問題を詳細に検討。
    ジャーナリスト且つ等身大の母親が、現代のリアルな「男の子」に切り込む、明晰で爽快なノンフィクション。(https://honto.jp/netstore/pd-book_29453385.html


    前から気になってたけど、おすすめされたので。

    わかりやすい。実際に「男性、男の子の解放」のために活動をしているアクティビストにも話を聞いてるので希望を持てる内容になってる。

    フェミニズムに対してあからさまな憎しみを持ってたり、怒ってたりする男性がいるけれども、そんな人にこそ読んでもらいたい内容。男性が感じているプレッシャーだったり、劣等感だったりはどこからくるのか、そこからどうすれば解放されるのか(口で言うほど簡単ではないけど)を考えさせられる。読み進めるうちに、女性の進出やフェミニズムにその責任を求めることが如何に間違っているかがわかる。どうしても男性の問題となると、男/女という関係性の中だけで検討しがちだけど、それだけじゃなくて、人種やエスニシティ、階級(経済的状況)なんかが関係していたりするんですね…

    ジェンダーはフェミニズムのために活用される概念ではもちろんあるけども、この本で繰り返し語られるように、ジェンダーについて再考することは男性性についても再考することだし、それによって男性もこうあるべきという「マン・ボックス」から解放されうるということをもっと発信していかねばな…

    以下心に残ったところ引用。





    (ベル・フックスの言葉)...フェミニズムの過失のひとつは、「新しいマスキュリニティや男性のありかたについてのガイドラインや方策が必要であるのに、その土台となるべき本格的な少年時代研究をしていないことだ」と主張する。研究不在の理由のひとつは、性差別的社会において一般的に男の子は女の子よりも高いステータスにあるため、得することはあっても損はしていないと、想定されているからである。しかし、フックスが指摘するように、「ステータスも特権で得られるものも、愛されることと同じではない」のだ。(p.16-17)

    →フェミニズムを学ぶと、男性の特権を意識しがちだけど、その一方で女性性より「上」に位置付けられている男性性に男性や男の子ががんじがらめになっていることまで意識できていなかったりするよね。

    男の子や男性にとってより自由で広がりのあるマスキュリニティのかたちをつくるうえで、フェミニズムや、女の子と女性の平等を目指す闘いから学べるものは何だろうか?(p.20)

    →同時に進めていければこそジェンダーや性差別について理解が深まってフェミニズムも進展するはず。

    (アレクサンダー・ルーの言葉)...男性的特権は人種や民族と深く結びつけられており、アジア系の男性や少年に対するステレオタイプはむしろ「男らしくはない」と指摘する。(p.34)

    →男性だけでも一括りにはできない。人種やエスニシティによっても期待やプレッシャーが大きく変わってくる。

    私たちはマスキュリニティにより高い価値を置いているため、女の子が男性的にふるまうことはステップアップとみなす。しかし、男でありながら女性向けの活動や衣服を好んでいると思われたなら、ステータスと権力が失われることになるのだ。(p.89)

    →ジェンダーの序列が生む悲劇というか…男性がいわゆる「女性らしい」振る舞いをするとその逆よりも嘲笑の対象になりやすいし、社会からの抵抗感も強いよね。

    「…男の子(男性、女の子、女性も)が単なるジェンダー集団を超えた存在であると認めようとしない文化ーーーあるいは有色人種の男の子が人種ステレオタイプを超えた存在であると認めようとしない文化ーーーに関係する問題なのだ。(p.126)

    →人種もジェンダーも、結局「個」の尊重という話になるよね。ステレオタイプを完全に捨て去ることはできないけれど、如何にそれに引っ張られずに個性として認められるか。

  • 多少の気付きはあったものの、体系的に理解ができる本ではないような印象。
    アメリカではどのような取り組みがあり、どのような事件が起きたか、など具体例が多い。

    以下読書メモ
    >>>
    ・ソーシャルメディアでは「マンスプレッディング(訳註:mantspreadingを組み合わせた言葉。男性が公共交通機関の座席で脚を広げて座りスペースを占領すること)」や「マンスプレイニング(訳注:mantexplainingを組み合わせた言葉。男性女性に対し、ある事柄について、相手が自分よりも多くを知っているという事実を考慮せず上から目線で解説すること

    ・ソーシャルメディアでは「マンスプレッディング(訳註:mantspreadingを組み合わせた言葉。男性が公共交通機関の座席で脚を広げて座りスペースを占領すること)」や「マンスプレイニング(訳注:mantexplainingを組み合わせた言葉。男性女性に対し、ある事柄について、相手が自分よりも多くを知っているという事実を考慮せず上から目線で解説すること

    ・「インセル」(訳註:incel = involuntary celibate、 不禁欲主義者。自ら選択したわけではなく、ただモテないためにセックスをしていない人を指す)

    ・ 権力・お金・ステータス・女性からの好意は自分たちの生得権なのだとこれまでずっと教わってきた男の子や男性の意識と、女の子や女性がますます主体性や自活力、権力、選択肢をもつようになっている現代社会の実情とのあいだに、軋轢が高まっていることである。

    ・ 哲学者のケイト・マンは、ロジャーについて述べた文章のなかで「しばしば女性嫌悪は、女性をその立場から引きずり下ろし、もとの低い立ち位置に戻したいという欲求から生まれている。そのため、より高いところに到達した女性ほど、そのぶん大きな転落を求められる」

    ・ しかし世論に目を向ければ、女性が勝ち得たもののせいで、女性の幸せが犠牲になり、男性のアイデンティティや自尊心が脅かされている、というストーリーがつくりあげられていた。

    ・同時交差性、インターセクショナリティとは、1980年代に米国の法学教授であるキンバーレ・クレンショーが、重複する社会的アイデンティティ(例・黒人かつ同性愛者、隴がい者かつイスラム教徒)を言い表すためにつくった造語である

    ・ マン・ボックスとは、「男であること」が一般的にどのように意識され理解されているのか、そしてその認識がどのような結果につながっているのかを表すために用いられるメタファー

    ・ ペレラはそれらを書き留めながら、この作業から見えてくるのは「男らしさが、柔らかい・優しい・感情的・フェミニンといった印象を与えるものすべての否定によって成立していること」なのだと説明した。別の言い方をすればいあらゆる点で女と逆の存在が男である。

    ・ この中傷としての「オカマ」「ヤリマン」の活用方法に映し出されているのは、セックスに関して男女に対極の要求が課せられていることである。男子は(異性との)セックスに積極的でなくてはならず、女子は貞淑でなくてはならないのだ。

    ・ 18歳以上になると、男としての基準を満たせていないことで敗北感を感じるという声があがった。ヒューイットはこれを「大黒柱コンプレックス」のサインだと言う。高い給料やいい車といった目に見える成功の証をもっていなければ、真の男になれたと思えないのだ。「自己充足感を外部に求めているんです。恋人との関係においても、金銭的に養えなければ自分に付き合う価値はないと考えている人がいました。」

    ・ 正確なことを言うなら、発表されるのは「性別」(生物学的アイデンティティ)だが、祝われているのは「ジェンダー」(一連の社会的期待や行動様式)である。さらにそのジェンダーは、女の子は繊細なお姫さまで男の子は泥だらけのわんぱく小僧という、かつての幻想へのノスタルジアを映し出したような両極端へと単純化されている。

    ・ 歴史的にも、世界的に見ても、自然の状態では女の子より男の子が生まれる確率のほうぎわずかに高く、出生数は女の子100人あたり男の子がおよそ105人となっている。この違いの理由については、比較的高い男性の死亡率を埋め合わせるためだという理論がある。しかし、人間によるバイアスについて言えば、ほとんどいつも男の子のほうが優勢だ。かつては、地位を得たり、一族の名を継承したり、商売を継いだりする能力があるために男の子が好まれていた。負担とみなされた女の子は、生まれてすぐ殺されたり、捨てられたり、奉公に出された。現在でさえ、男の子を生むことにはある種の成功意識が残っている。統計的に、1人目に女の子が生まれた家庭のほうが二人目以降の子どもをつくる確率が高く、遺伝子的「当たり」である男の子が生まれるまで子どもをつくろうとする親たちの意向が示唆されている。

    ・「親は、男の子には一貫してジェンダーに対応したおもちゃを与える傾向がある。それは、ホモフォビアの色濃い文化において、『ピンク』の側に入った男の子の社会的代償はとくに大きいと理解しているからかもしれないし、ジェンダー規範に従ってほしいという親自身の願いによるのかもしれない」。

    ・男の子は「男の子」として生まれてくるのではなく、「男の子」になることを選ぶ(あるいはチューの言うように「自らのジェンダー社会化に積極的に参加する」)のだ、という考えには大きな意義がある。赤ちゃんの頃から、男の子たちは感情を無視したり抑制するように、さりげなく、あるいは無意識のうちに指導されていることや、大人は男の赤ちゃんを攻撃的・反抗的であると受け止めていることを示す研究もあるが、それらの研究結果とも整合性がある。

    ・ I matter :「僕は大切」の意

    ・ノースカロライナ州の公立学校に通う黒人生徒たちを対象とした長期調査によると、低所得層の黒人生徒たちが小学校時代にひとりでも黒人の先生に教わった経験がある場合、高校を卒業し大学進学を考える確率は大きく上昇することがわかった。貧しい黒人の男子生徒のあいだでは、たったひとり黒人の先生がいることが、退学率の40%近い低下という飛躍的な変化につながっている。

    ・私たちは全員、どれだけ自分が心の広い人間だと思っていても、人種・ジェンダー・性的指向・年齢などに関して無意識の先入観をもっている、というのが無意識バイアスの概念である。喜ばしいのは、いったん自らの反射的な偏見に気付けば、学習によってそれを軽減することができる、という研究結果が出ていることだ。無意識バイアスは、多くの場合、特定集団へのなじみが薄いことや、その集団に対する根強いステレオタイプがあることに起因している。

    ・ 女性はあまりに無知なため投票できないと考えられており、知的な刺激を受けすぎると子宮から脳に血が上って不妊症になると医者に警告されていたのは、ほんの1世紀ほど前の話なのである。

    ・ 社会学者のマイケル・キンメルは、著書『Guyland(ガイランド)』の中で、スポーツへの興味は、男らしさを決定づける特性のひとつだと言う。今もスポーツは男性の領域であり、男性が集団としてのアイデンティティを見出せる場所だ。またスポーツは、喜びや敗北の涙のようなかたちで男性が極端な感情を表現することが許される、数少ない機会のひとつである。「男たちはスポーツのために生き、スポーツを通して生きている」とキンメルは述べている。「スポーツは、実に多くの役割を果たしている。我々の男らしさを証明し、世代間、人種間、社会階層間の壁を取り払い、男性同士の絆を固め、そして、男の世界と女の世界のあいだの境界線をいっそう明確にするのだ」。

  • 読書習慣を失い、読み始めてから読み終わるまでに途轍もない時間をかけてしまった。その間に妻が妊娠し、3ヶ月後に男性器を持った新生児を出産する予定となった。
    アメリカと同様なのかそれ以上に悪くか、(性に限らず)教育においても社会状況においても先進各国と比べ非常に遅れていることの間違いないこの国で、子どもたちにより良い感性と環境を与えられるようにしたい、とは思うが、それはそれは大変だ

  • 「男らしさ」なるものがいかに有害かは、わざわざ教えられるまでもなく、女性たちには自明のことだ。
    生まれながらに有害な存在が、誤った教育によってさらに、ひたすら悪しき方向へと導かれた結果が、今と今までの「男らしさ」である。それは女性のみならず、男性自身をも侵す猛毒である。
    よって彼らをなだめすかし、ヨチヨチと持ち上げ慰めて、かろうじて「有害でない」レベルへなんとか持っていこう…という話である。
    理屈はわかる。ご立派だし、有用だ。有用なのだ、が。

    そこまでして、男性にいていただく必要があるのだろうか?
    百歩譲ってshineとまでは言わないにしても、女性たちが、他ならぬ彼らの第一の被害者たる女性たちが、そこまで身を削ってやる必要があるのだろうか?

    著者は「女性差別は悪である」という認識が比較的に浸透した国(「男女平等である」とは言えない。そんなものは、この地上に古今東西存在したためしがない)カナダに住むレズビアンで、みずから望んで男の子を養子にした人である。
    比較的男の害に遭ってこなかったからこそのお花畑思考なのでは…との思いは拭えなかった。

    ?~2019/6/20読了

  • 自分の言動の元になっているものに無自覚ではいられない
    それを省みることは自分を否定するということではなく更新していくと捉えていきたいです

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著者プロフィール

ウェブメディア「シャトレーン」寄稿編集者であり、作家・出演者としてCBCラジオでも活躍。 ジャーナリストとして受賞歴を持ち、これまで、雑誌「トロント・ライフ」「トゥデイズ・ペアレント」、 ウェブメディア「ザ・ウォルラス」「NewYorker.com」、「グローブ・アンド・メール」紙などに寄稿している。 妻と、養子に迎えた息子とともにカナダ・トロントに暮らす。

「2019年 『ボーイズ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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