ウォークス 歩くことの精神史

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  • Amazon.co.jp ・本 (520ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784865281385

作品紹介・あらすじ

現代アメリカでもっとも魅力的な書き手のひとり、レベッカ・ソルニットの代表作、ついに邦訳!
広大な人類史のあらゆるジャンルをフィールドに、〈歩くこと〉が思考と文化に深く結びつき、
創造力の源泉であることを解き明かす。

アリストテレスは歩きながら哲学し、彼の弟子たちは逍遥学派と呼ばれた。
活動家たちはワシントンを行進し、不正と抑圧を告発した。
彼岸への祈りを込めて、聖地を目指した歩みが、世界各地で連綿と続く巡礼となった。
歴史上の出来事に、科学や文学などの文化に、なによりもわたしたち自身の自己認識に、歩くことがどのように影を落しているのか、自在な語り口でソルニットは語る。人類学、宗教、哲学、文学、芸術、政治、社会、レジャー、エコロジー、フェミニズム、アメリカ、都市へ。歩くことがもたらしたものを語った歴史的傑作。

感想・レビュー・書評

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    https://www.vogue.co.jp/lifestyle/article/a-hundred-roads-of-inspiration-discovery

    ウォークス 歩くことの精神史 | 左右社
    http://sayusha.com/catalog/books/nonfiction/p9784865281385

  •  歩くことの理想とは、精神と肉体と世界が対話をはじめ、三者の奏でる音が思いがけない和音を響かせるような、そういった調和の状態だ。歩くことで、わたしたちは自分の身体や世界の内にありながら、それらに煩わされることから解放される。自らの思惟に埋没しきることなく考えることを許される。(中略)歩行のリズムは思考のリズムのようなものを産む。風景を通過するにつれ連なってゆく思惟の移ろいを歩行は反響させ、その移ろいを促してゆく。内面と外界の旅路の間にひとつの奇妙な共鳴が生まれる。そんなとき、精神もまた風景に似ているということ、歩くのはそれを渡ってゆく方途のひとつだということをわたしたちは知らされる。(p.14)

     歩くことはまた視覚的な活動とも考えられる。徒歩移動はいつでも、目を楽しませ、目に入るものについて考えることを楽しみながら、新奇なものを既知の世界へ回収していく活動だ。歩行が思想家たちに格別有用だった理由はここから生じているのかもしれない。旅の驚きや解放感やひらめきは、世界一周旅行でなくとも、街角の一回りから感じられることもある。そして、徒歩は遠近いずれの旅にもわたしたちを連れだしてくれる。もしかしたら歩くことは旅ではなく動くことというべきかもしれない。(p.15)

     場所を知ってゆくことは、記憶と連想の見えない種をそこに植えてゆくことだ。そこはあなたが戻ってくるのを待っている。そして新しい場所は新しいアイデアと新しい可能性を孕んでわたしたちを待っている。世界の探検は精神の探索の最良の手段のひとつであり、脚はその両方を踏破してゆく。(p.26)

    これほどよく考えを巡らせて、はつらつとして、多くを経験し、自分自身であったこと―という表現を用いるならば―は、徒歩で一人旅をしている間だけのことであった。歩くことには思考を刺激し、活気づけるものがあるようだ。一所にとどまっているとほとんど考えることができない。精神を動き出させるには体も動きださねばならない。田舎の景色、次々と移り変わってゆく心地よい眺め、開けた空、健全な食欲、健全な身体。歩くことはそうしたものを与えてくれる。そして宿の気楽の雰囲気、あらゆる係累や、身の上を思い出させることが不在であること、そのすべてが我が精神を自由にして、大胆に考えるよう促すのだ。思考をつなげ、選び、恐れも束縛もなく、意のままに我が物とすること、(ルソー、p.36)

     巡礼の根底にあるのは、聖なるものはまったくの非物質的な存在ではなく、霊性にはチリがあるという考えだ。巡礼の足取りは、物語とその舞台に光をあて、精神と物質のきわどい分断線を進む。霊的なものを希求しながらも、その手掛かりとなるのはきわめて物質的なディテールだ。仏陀が誕生した場所。キリストが死んだ場所。聖遺物の在処。聖水の流れる場所。これは霊性と物質をふたたび和解させること、といえるかもしれない。なぜならば巡礼へおもむくことは、魂の求めや信を身体とその運動によって表すことなのだから。(p.86)

     遠方へ向かって重い歩みをすすめる人の姿は、人間の生を表現するもっとも普遍的で説得力あるイメージのひとつだろう。ひろい世界の只中で、己の心身のみを頼りにする小さく孤独な姿。具体的な目的地に到達すれば、そこには精神的な恩恵も待っているに違いない、という希望が巡礼の旅路を輝かせる。(p.87)

    「自分の体を抜けだすこと。すると一歩一歩が、天候や、肌に触れる感触や、変化してゆく視界、移ろう季節、野生動物との出会いになる」(美術批評家ルーシー・リパード)(p.128)

     すなわち歩きに出かけることは単に両脚を交互に動かすということではなく、長すぎも短すぎもしない、ある程度の時間を継続する歩行を意味し、心地良い環境に身をおき、健康や楽しみ以外に余計な生産性のない行為に勤しむということを表現している。(p.166)

     山々の高見は人びとの住む土地から遠く離れているのが常だ。神秘家やならず者たちはしばしば人目を逃れるためにそこを目指す。そして登ることは「自分の心が惑わない唯一の時間」を産む。(p.230)

     6世紀以前には日本人は神聖とされた山には登らなかった。そこは俗世から隔絶された領域で、人間が立ち入ることのできない聖域だと考えられていた。人びとは麓に社を建立し、敬して距離を隔てながら礼拝していた。6世紀の中国から仏教伝来にともなって、神々と通じるために霊峰の頂上を目指す登山がはじまった。(p.240)

    「強力といふものに道かれて、雲霧山気の中に氷雪を踏てのぼること八里、さらに日月行道の霊関に入るかとあやしまれ、息絶身こごえて頂上にいたれば、日没て月顕る。(松尾芭蕉「月山」)(p.241)

     いまでは、歩くことはしばしば自分と街の歴史を重ねながら顧みるものになっている。空き地に新しい建物が建ち、年寄りの溜まり場だったバーは流行りもの好きの若者に占領され、カストロズ・ディスコはドラッグストアに変わり、あらゆる通りと界隈がその様相を変えてゆく。(p.325)

     群集というものも人類にとって新しい経験ではなかっただろうか。互いを見知ることのないままに生きる夥しい数の他人同士。遊歩者は、いわばこの孤立の群れに安息を見出す新しいタイプとして出現した。「群集こそ彼の領土なのだ。鳥が大気に棲み、魚が水に棲むごとくに」というフレーズは、遊歩者の説明としてよく引かれるボードレールの一節に読める。(p.333)

     散歩に出ること、すなわち世界に出てゆき、愉楽のために歩くことには三つの前提条件がある。自由な時間をもっていること、行く場所があること、そして疾病や社会的な拘束に妨げられることのない身体であることだ。自由な時間にはさまざまな要素があるだろうが、公共空間のほとんどは、ほぼ常に女性にとって等しく安全かつ快適な場所とはなってこなかった。(p.393)

     歩くことが文化的に好きなだけ歩き出てゆくことができなかった者は、単に運動や余暇の愉しみを奪われているのみだけではなく、その人間性の重大な部分を否定されてきたといえるだろう。(p.413)

     進歩とは時間と空間、および自然を超越することにあるということだ。それは鉄道によって、あるいは後には自動車、飛行機、電気的な通信手段によって推し進められる。飲食、休息、移動、および天候の影響は、身体存在の経験のうちもっとも基本的なものであり、それを否定的に捉えるのは生物と感覚の世界の断罪にほかならない。「足という動力は長い衰微の道をたどることになった」という毒のある一文はまさにそれを地で行っている。(中略)ある意味で、列車が押し潰したのはひとりの肉体ではなかったのだ。人間が肉体として生きる有機的な世界から知覚や希望や行為を切断することによって、列車の影響下にあるすべての肉体がそこで減殺された。(p.431)

     列車は飛翔体として経験され、その旅は射出されて風景を通過してゆくように経験される。そうして個々人は感覚の制御を失う。……この飛翔体のなかに座る乗客はもはや旅人ではなく、19世紀によく喩えられたように小包となった。(中略)郊外住宅地のように、旅行中の人びとをある種の空間的な辺獄におき、車中で人びとは読書や睡眠や編み物をするようになり、退屈への不満を口にしはじめる。自動車と飛行機はこの変化を莫大な規模へと拡大した。高度3500フィートをゆくジェット旅客機での映画鑑賞は、空間と時間と経験からの究極的な遮断といえるかもしれない。(pp.432-433)

     よくいわれるように、日焼けがステータス・シンボルになったのは低所得者の多くが農場から屋内の工場へ移り、褐色の肌が労働時間ではなく余暇のゆとりを意味するようになったためだ。筋肉がステータス・シンボルになったとすれば、それは多くの仕事がもはや肉体の強さを求めていないということを意味している。日焼けと同じく、それは過ぎ去ったものに見出された美学なのだ。(p.439)

     トレッドミルは郊外住宅地と自動車都市の自然な帰結だ。どこにも行くあてのない場所で、あるいはどこにも行く欲望が湧かない場所、どこにも行かないための道具。そして自動車と郊外住宅地に適応した精神に、野外よりも居心地のよい屋内人工環境を差し出す。精神と身体と地表面の移りかわりがひとつに融けあった扉の外の歩行よりも、定量化可能で明瞭に規定された活動という点で、より快適なのだ。トレッドミルもまた、世界から引きこもることを促す多くの装置のひとつなのだろうと思う。そうした便宜が世界を住みよくすることや、何にせよ世界とのかかわりに対する嫌気を誘うのは恐ろしいことだ。(pp.444-445)

  • 歩くこと。歩きながら考えること。それが人類をいつも前に進ませてきた。人類の精神を形作ってきた歩行の歴史を、自身の経験も交えながら縦横無尽に語りつくすノンフィクション。


    私は歩くのが好きなほうで、時間が許せば二駅分くらいの距離は歩いていく。交通費をケチってると思われたりもするが、私は一人でものを考える時間が好きだから歩くのが好きなのだなと本書を読んで気づいた。歩くことについて考えたことがなかったから、そんな単純なこともわからないままにしていた。
    本書でソルニットが俎上にあげたトピックは多岐に及ぶ。そもそもヒトを猿から隔てたのが二足歩行だから、人類史のほとんどが歩行と結びついてしまうのだ。ひとまずは「なぜ人類は二足歩行を始めたのか」を過去・現在の科学者が唱えるさまざまな仮説をならべて考えるところから始まる。結論はでないが、前時代の女性差別的な仮説をイジりにイジり倒すのが楽しい。
    その後、歩行が文学のテーマになったのはソローから、ということで時代は一気に下って18世紀へ。ロマン派、ワーズワース、安全な庭からピクチャレスクな〈自然〉へ、というベタな流れを辿るのだが、歴史的な記述からシームレスに個人的なエピソードへ繋がっていく語りがとにかく気さくで読みやすい。最初は本書の厚みにビビった私も夢中で読み進めていた。
    とはいえ、私は自然が好きな歩行者ではないので、都市の歩行者に視線を移した後半部のほうが興味深かった。ソルニットが実際に滞在したことのある世界の都市を比較しているところを読むと、同じように「東京や札幌や福岡を歩くこと」を語る本があってほしいと思う。
    ソルニットの口調が特にアツくなるのは民衆が集会の自由を行使し、歩くことの力を発揮するパレードやデモについて語る場面だ。市民が道路を私的空間とみなして寛いでいる街と語られたパリが、それだからこそ革命が起き今もデモの盛んな都市なのだと言われると、ニュースで見る火炎瓶飛ぶパリの印象も違ってくる。
    ソルニット自身もそうした行列・行進に参加してきた一方で、歴史的に女性の一人歩きは危険視されてきた。ただ一人で自由に歩きたいと思うだけで、男性の欲望や憎悪から身を守る術をつけろと強要される〈歩く女たちの歴史〉を記した「夜歩く」の章は、ソルニットの内面も吐露されフェミニズムのエッセイとして素晴らしい。夜間に歩いていただけで警察に拘束され、処女か非処女かの"検査"をされたというおぞましい話も、そう遠い昔ではないのである。
    結末部は人間の身体性が疎外されている現代社会に対する批判になっていくが、なかでもルームランナーを使ったウォーキングについての「かつて使役動物の地位にあった身体は現在愛玩動物の地位におかれている。往時の馬のような実際的な輸送手段とはなっていない代わりに、犬の散歩のような運動を課されている。つまり、実用ではなく娯楽のための存在となった身体は、労働[ワーク]ではなく運動[ワークアウト]している」というくだりはキレ味がよすぎる。
    本書を読んでいてストレスフリーだったのは、なんにつけても〈書く〉主体がほとんど男性だった時代を語るときに、では女性はどうだったのだろう、とサイドチェンジする視点が常にあることだ。歴史を書いたものには、男性が当然のように女性を排除して使う「私たち」に曖昧に乗っかって仲間に入れてもらったような気にならないと読めないものもある。本書は、「では女性は」「では同性愛者は」「では金を持たない庶民は」と、〈書く〉特権階級にあとから参入した属性のことを忘れることがない。それが読んでいて本当に安心できる。しいて言えば、義足や車椅子のユーザーのことはどう考えているのか知りたかった。
    〈歩くこと〉から放射状に語りが拡散していくようにも、〈歩くこと〉という一つのテーマが多様な語りをギュッとまとめているようにも読める巧みな構成で、ここからまた思考を歩ませることができる開かれた本だと思う。松岡正剛の『ルナティックス』や『フラジャイル』のような遊学の精神とフェミニズムが結びついて、読む者の心を軽くする一冊になっているのがすごい。名著。

  • 歩行の歴史を語るなかに作者が散歩をするモノローグが挿入され、まさに思考がふらふらと歩き回るような過程をたどる。
    歩く対象としての自然が庭から山まで様々なかたちに変奏・解釈され、果てに歩くことのできない郊外にたどり着くのが特に興味深かった。

  • ・歩みが街を離れた孤独なものであるとき、それは社会を出て自然に入ってゆく手立てとなる。歩く者は旅人の孤独を帯びているが、その旅は虚飾のない、ただ自身の肉体のみに頼るものだ。馬や船や車といった、あつらえたり購入したりできる利便性には頼らない。歩くということは、つまるところ、人類の夜明けからほとんど進歩していない活動なのだ。

    ・歩くことには思考を刺激し、活気づけるものがあるようだ。一所にとどまっているとほとんど考えることができない。精神を動き出させるには体も動かさねばならない。田舎の景色、次々に移りかわってゆく心地よい眺め、開けた空、健全な食欲、健康な身体。歩くことはそうしたものを与えてくれる。そして宿の気楽な雰囲気、あらゆる係累や、身の上を思い出させることが不在であること、そのすべてが我が精神自由にして、大胆に考えるよう促すのだ。思考をつなげ、選び、恐れも束縛もなく、意のままに我が物とすること。

    ・これは歩行が分析的な行為ではなく、即興的な振舞いだとということを示唆している。ルソーの『夢想』は、こうした思考と歩行の関係をはじめて鮮明に捉えたもののひとつだ。

    ・姪のひとりによれば、コペンハーゲンの街は彼の「応接間」であり、そこを歩き回ることはキェルケゴールの日々の大きな楽しみだったという。それは人と暮らすことのできない男が人びとに交わる術であり、束の間の出会いや、知人と交わす挨拶や漏れ聞こえる会話から幽かに伝わる人の温もりを浴びる術だった。ひとり歩く者は、居ながらにしてとりまく世界から切り離されている。観衆以上の存在でありながら参加者には満たない。歩行はその疎外を和らげ、ときに正当化する。そのおだやかな懸隔は歩いているからこそであり、関係を結ぶことができないためではない、と。

    ・つまり、動くのは身体だが変わるのは世界であり、そのことが自他の区別をもたらすのだ、と。移動は流動する世界のなかで自己の連続性を経験する手段となることができ、それゆえ個々が自らを知り、互いとの関係を理解する端緒となる可能性を秘めているということだ。人間がいかに世界を経験するか、このことの考察の重点に感性や精神ではなく歩行という行為をおく点で、フッサールの企図は新しかった。

    ・一方で、道具が身体を拡張するように歩行は世界へ延びてゆく。歩行の拡張が道をつくる。歩くために確保された場所はその追求のモニュメントであり、歩くことは世界のなかに居るだけでなく、世界をつくりだすひとつの方法なのだ。ゆえに歩く身体はそれがつくりだした場所に追うことができる。小道や公園や歩道は、行為にあらわれた想像力と欲望の軌跡であり、その欲望はさらに杖、靴、地図、水筒、背嚢といった物質的帰結をつくりだす。歩くことが事物の制作や労働と同じように備えている決定的な重要性とは、身体と精神によって世界へ参画することであり、身体を通じて世界を知り、世界を通じて身体を知ることなのだ。

    ・人は赦しや癒やしや真実へ至ろうと迷いつづけることが運命づけられているのだが、わたしたちは、いかに険しい旅路であったとしても、「ここ」から「そこ」まで歩いてゆく方法は知っているのだ。また、わたしたちはよく人生を旅のように思い描く。本当の遠征へと踏みだすことはそのイメージを手の先にとらえ、実体を与えてゆくことでもある。肉体と想像力によって、霊化された地理世界のなかにその姿を描き出してゆくこと。遠方へ向かって重い歩みをすすめる人の姿は、人間の生を表現するもっとも普遍的で説得力のあるイメージのひとつだろう。広い世界の只中で、己の心身のみを頼りにする小さく孤独な姿。具体的な目的地に到達すれば、そこには精神的な恩恵も待っているに違いない、という希望が巡礼の旅路を輝かせる。巡礼者はそれぞれの物語をなし遂げ、それが同時に、旅と変容の物語がつくりあげる宗教そのものへ折り込まれてゆく。

    ・1974年の11月下旬に、友人がパリから電話をかけてきて、ロッテ・アイスナー(映画研究者)が重病だ、おそらく助からないだろう、といった。ぼくはいってやった、そんなことがあってたまるか、こんなときに、ドイツの映画界にとって、それもいまのいまこそ、かけがえのないひとじゃないか、あのひとを死なせるわけにはいかない。ぼくはヤッケとコンパス、それに最低限必要なものをつめこんだリュックサックを用意した。ブーツはとても頑丈で新しかったので、大丈夫だと思った。そしてまっすぐパリに向かった。ぼくが自分の足で歩いていけば、あの人は助かるんだ、と固く信じて。それに、ぼくはひとりになりたかった。

    ・物語がすこしずつ明かされてゆくように、道は旅する者に徐々に開かれてゆく。ヘアピンカーブは筋書きの急展開に似て、登り坂は高まるサスペンスのように頂へ向かい、分かれ道では見たことのない筋書きが顔をのぞかせ、おわりゆく物語のように臭着地がみえてくる。書かれたものが不在の誰かの言葉を読ませるように、道はそこにいない誰かの行路を辿らせる。道々はかつて通りすぎた者たちの記録であり、それをたどるということは、もうそこにはいない者を追ってゆくことなのだ。それはもはや聖人でも神々でもなく、羊飼いや狩人、技術者、移民、市場へ向かう農民であり、あるいは、ただの通勤者の群れかもしれない。迷宮のように象徴性にみちた建造物は,すべての道や旅路がもつ、こうした本性に目を開かせてくれる。

    ・したがって、風景のなかを歩くことの歴史においてワーズワースは変革者であり、?子の支点か触媒のような存在だったと考える方が正確だ。ワーズワース以前に街道を歩く者が少なかったことは疑いない。(ついでにいえば、自動車によって道路がふたたび危険で悲惨な場所になってしまった現代人もほとんど同じ境遇にある)。やむを得ず徒歩で移動する者は少なくなかったが、楽しみとする者はほとんどいなかった。それゆえに先の歴史家たちは徒歩旅行の楽しみを新しい現象だと結論しているが、本当のところは旅の手段とは別の場面で、すでに歩くことが重要な活動になっていた。歩行の歴史におけるワーズワースの先達は街道の旅人ではなく、庭や公園の散歩者だった。

    ・歩くことが与えてくれる社会的、空間的な余裕は大きかった。彼女たちは、そこに身体と想像力を目一杯に働かせるチャンスを発見したのだ。ついにふたりが互いを理解しあうことができたのは、道連れがいなくなって、エリザベスが「思いきって彼とふたりきりで歩いた」ときだった。その幸福な時間が過ぎるのは早く、「『リジーったら、いったいどこまで歩いてらしたの?』という質問を、エリザベスは部屋に入るなりジェーンに、それに食卓についたときにほかのみなから受けたのだった。ふたりで歩きまわって、自分でもわからないところへ行ってしまったの、と答えるほかなかった」。風景と心の区別はなくなり、エリザベスは文字通りに「自分でもわからない」新しい可能性へ足を踏み出している。それが、疲れを知らぬこの小説の主人公に歩行が果たした最後の役割だった。

    ・彼の人生に岐路をもたらし、『序曲』の転回点ともなっているのは1790年に学友ロバート・ジョーンズとフランスを縦断してアルプスへ向かった。驚嘆すべき徒歩の旅だ。ふたりにとってはケンブリッジ大学の試験のために勉強をせねばならない時期のことだった。近年刊行されたワーズワース伝の著者ケネス・ジョンストンは「この不服従の身振りによって、彼のロマン派詩人としての人生がはじまっていたといってよいだろう」とも述べている。旅には逸脱、越境、脱走といった無軌道さや反抗的な側面があるが、思いつきの冒険であったこの旅はそれと同じくらいに異なるアイデンティティを模索する道のりとなった。

    ・ライン河を下って帰路に就く直前に最後の目的地として彼らが立ち寄ったのは、ルソーが『告白』と『孤独な散歩者の夢想』で自然の楽園のひとつとして語っていたサン=ピエール島だった。方法と目的の両方の意味で歩いたーすなわち書くために歩き、歩くことを自らの拠り所にする―という意味で、ルソーがワーズワースの先駆者であったことは明らかだ。

    ・-「<さまよう>とは、道教において脱自の境地を意味する言葉である」と学者は書いている。一方で、目的地にたどりつくことは時として両義的だった。八世紀の詩人李白に「防載天山道士不遇(載天山に道士を訪ねたけれど会えなかった)」と題する作品があり、この主題は当時ありふれたものだった。山は現実と象徴いずれの領域にも場を占める存在であり、ただ歩くことにもメタファーの倍音が聞かれる。李白と同時代の風狂の僧、寒山はこう詠った。
    人問寒山道 人は寒山への道を問うけれど
    寒山路不通 寒山への路など通じていない
    ・・・
    以我何由届 わたしをまねただけでたどり入ることなどできようか
    輿君心不問 もともとあなたとわたしの心は違うのだから

    ・歩くことがエクササイズのバリエーションに過ぎないアメリカでは、雑誌『ウォーキング』といえば女性向けの単なる健康とフィットネス雑誌などにすぎないが、イギリスには肉体よりも風景の美を主眼に歩くことを扱うアウトドア誌が5,6誌もある。アウトドア作家のロリー・スミス氏によれば「ほとんどスピリチュアルに近い」。「ほとんど宗教。人との交流として歩いている人も大勢いる。野原には隔てるものはないし、誰にでも挨拶するから。我々の忌々しい英国的遠慮を乗り越えてね。ウォーキングには階級が存在しない。そんなスポーツはそれほど多くはない」。

  • 多面的にあるくことを見つめていく哲学書。

    サブタイトルの「歩くことの精神史」にじわじととくるものがある。「人」ではなく「こと」であることに。

    6年と10日。2201日掛けてようやく。ここまで自分も歩いてきたのだなと感慨。

  • ↓貸出状況確認はこちら↓
    https://opac2.lib.nara-wu.ac.jp/webopac/BB00277480

  • 第1部 思索の足取り The Pace of the Thoughts
    /第1章 岬をたどりながら
    /第2章 時速3マイルの精神
    /第3章 楽園を歩き出て――二足歩行の論者たち
    /第4章 恩寵への上り坂――巡礼について
    /第5章 迷宮とキャデラック――象徴への旅

    第2部 庭園から原野へ From the Garden to the Wild
    /第6章 庭園を歩み出て
    /第7章 ウィリアム・ワーズワースの脚
    /第8章 普段着の1000マイル――歩行の文学について
    /第9章 未踏の山とめぐりゆく峰
    /第10章 ウォーキング・クラブと大地をめぐる闘争

    第3部 街角の人生 Lives of the Streets
    /第11章 都市――孤独な散歩者たち
    /第12章 パリ――舗道の植物採集家たち
    /第13章 市民たちの街角――さわぎ、行進、革命
    /第14章 夜歩く――女、性、公共空間

  • ◆9/26オンライン企画「まちあるきのすゝめ ―迷える身体に向けて―」で紹介されています。
    https://www.youtube.com/watch?v=ighe77gjWX4
    本の詳細
    http://sayusha.com/catalog/books/nonfiction/p9784865281385

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著者プロフィール

レベッカ・ソルニット(Rebecca Solnit):1961年生まれ。作家、歴史家、アクティヴィスト。カリフォルニアに育ち、環境問題・人権・反戦などの政治運動に参加。アカデミズムに属さず、多岐にわたるテーマで執筆をつづける。主な著書に、『ウォークス歩くことの精神史』(左右社)、『オーウェルの薔薇』(岩波書店)がある。

「2023年 『暗闇のなかの希望 増補改訂版』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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