ラインズ 線の文化史

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  • Amazon.co.jp ・本 (280ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784865281019

作品紹介・あらすじ

人類学とは、人間がこの世界で生きてゆくことの条件や可能性を問う学問である! マリノフスキーからレヴィ=ストロースへと連なる、未開の地を探索する旧来の人類学のイメージを塗り替え、世界的な注目を集める人類学者インゴルドの代表作、待望の邦訳!
文字の記述、音楽の棋譜、道路の往来、織物、樹形図、人生…
人間世界に遍在する〈線〉という意外な着眼から、まったく新鮮な世界が開ける。知的興奮に満ちた驚きの人類学!
管啓次郎解説・工藤晋訳(原著LINES a brief history, Routledge, 2007)

感想・レビュー・書評

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  • 授業で読みました。最初は単なる現代科学思想に対する批判かと思っていたが、本書に散りばめられている線(ラインズ)に関する事象は非常に興味深く、納得できるところが多かった。徒歩旅行と輸送の二項対立やソシュール批判をしたオングへの考えなどが私には印象深かった。本書を読み終えたとき、翻訳者のひとが巻末に書いていた「何かとても良いものを読み終えたときの清々しさ」をまさに体感した。ただ著者の手書きに対する熱い考えをワープロ文書で読まされる違和感があった。

  • 楽しく、発見に満ちた本であると思う。

    線の文化史ということだが、多種多様なラインが紹介されている。
    地図のライン、建築のライン、物語のストーリーライン、裁縫のライン、旋律のラインなどなど。

    洋の東西を問わずに並べられていくが、
    手振り身振りそのものであるラインとそれらの記録であり、
    身振りを呼び出すための設計図は意識的に区分される。

    ただ、これは理念的な区分であって、
    同時に双方のものであることはふつうに起こりうる。
    むしろ、これらが移ろうからこそ、記述そのものにも意味がある。
    (それにしても、この著者はそういう操作概念をためらいなく2項で作るが
    どれもMECEなものとはかけ離れていて、いっそすがすがしい)

    また、線の話をしながら立ち現れていく面の話は
    人がそれらを「扱う」ということの可能性そのものなのだと思う。
    線のままではおそらく人は触れることもままならない。

    多くのストーリーラインが混線している現代にあって
    それが刺々しい突起を持つのは避けられないかもしれない。
    しかしラインは終わらない。伸びていく。
    その先にゆるやかな広場を持てますように。


    >>
    筋を追うことは、地図をもって後悔することに似ている。しかし地図からは記憶が消し去られている。旅人たちの旅の記録と彼らが持ち帰った知識がなかったら、地図をつくることは不可能だったであろう。ところが出来上がった地図自体は彼らの旅の証言を留めていない。(p.52)
    <<

    これ自体は正しい。そして貧しさをイメージさせるところはあるが、むしろ読み手の旅への余白を残してくれたと見ることもできる。地図を見て脳内旅行など誰しもしたことはあるだろう。

    >>
    オロチョン族にとって、生が終わるべきものではないように、物語も終わるべきものではない。物語は、鞍に乗った人とトナカイが一体となって森を貫く道を縫うように進む限り、続いていく。(p.146)
    <<

    他にも物語に終わりはないのだという部族のあり方はいくつか例があるが、
    この点はギリシャ哲学が、特異なものとして思想史に存在する理由でもあるだろう。

  • 今回は1章でやめた。
    ただとても文化的で、人類学的で、人というものがどのように成り立ってきたのかわかるような気がする。
    歌うというのが印象的だった。まず、歌うは一人で歌うものだったようだ。そして、奏でるというような歌うではなく、説得するとか、政治家が語るような、聴衆に聴かせるというようなイメージがあったようだ。
    そして楽器だけの時期もあり、メロディーに乗せて歌うような時期にもなっていく。
    私は今、前述の歌うに意識を寄せたい。どのように語ることが歌うになるのか。そういった出会いをするとは思わなかった。読書の出会いに嬉しさを覚える。

  • 線をテーマに人類を語るという面白い本。興味深かったのはイヌイットの移動と英国海軍の移動の比較からストーリーテリングに話が及ぶところ。それぞれを散歩と特定の地点から地点への輸送とし、前者の中に人は住むことができるが後者にその余地はなく、プロット(予め決められたストーリーライン)の存在するストーリーの中に鑑賞者が住む余地はないと結論づける。著者がカバーする範囲は非常に広く、楽しめるところもあればそうでないところもあった。しかし、これだけ幅広い分野の物語を一冊にまとめた点に著者の偉大さを感じた。

  • 「メイキング」がそこそこ面白かったのでこの本も手に取ってみた。
    実は3年ほど前に購入して途中で断念。3年ぶりに再開してみたが、やはり挫折してしまった一冊である。
    「ライン」をお題にしたうえで、発話と歌の違いとは?記述物と楽譜の違いとは?といった著者の問いかけは非常に興味深いものの、その答えに至る著者の考察、論理がとてつもなく難解且つ遠回りであり、途中で読むのをやめてしまった。(約半分を読了)

  • 論理の積み重ねよりもその場その場の思いを大切にして書いている感じがして、最後まで話に乗り切れなかった。
    時折いい文章やいい考えがあった気もする。

  • ラインとは何か?これは人類学の本であり、デザインの本でもある。

  • 歴史

  • 以下2022年1月18日に追加分

    記述が、そのもとの意味である刻印行為として、理解される限り、線描と記述、あるいは製図工の技と写本筆写者とのあいだに絶対的な区別をつけることはできない。

    タイプを打ち印刷する行為においては、手の動きと刻みみ込まれる軌跡との密接な関係が断ち切られている

    音がそれ自体の固有性ではなく、観念を帯びるとき、音楽にとっては不利益が生じる

    記述(writing)は、そうした鋭利な刃物による軌跡制作を指し示すものだった。あるものの表面上で鋭いものの先端を引っ張ることによりラインを書いていた。そのときドローイングとライティングは、身体動作とその動作によりあらわれるラインという関係にあるのであり、共理解されているような区分で

    中世の写本の人は、目の前にある手本の内容をほとんど理解していなかった。彼らは文字を理解することはできた、では結局のところ、書いていたのではなく、描いていたのだとうか
    →臨書もそうだな。般若新居とかも意味が大事ではなく、そのラインに同期するのが最も本質だと思う

    ★記述はいまだに線描である


    ★図像的要素が書かれているのか、単に描かれているのかを問うことは意味をもたない。それらは同時に係れかつ描かれるのであり、砂のなかのラインは、表記法の要素を描いていることもあれば、その要素が物語の特定の文脈において表現しているはずの対象を描いていることもある

    線描は芸術だが、記述はそうではないとよくいわれる。その二項対立はたかだか300年を遡るにすぎない。

    ★★記述の技とは、活版前は、ラインを描く作業だった。著述家にとって、感情や意見は手の動きにより描きだされ、それが生み出す奇跡へと刻み込まれておた。大切なのは、言葉の選択や意味内容ではなく、ラインそのものの質や調整や力動性だった
    →ぼくは書を見るときはここしか見てない

    英知とは、進みゆく様を知ること/ラスキン

    言葉の構成についての知的苦労ばかりを強調し、過去の文字記述行為の前提だった純粋な身体行使を省みることがない。






    ------------------------------


    音楽は言語芸術として理解されていた。

    記述そのものの理解の仕方の変化、すなわち手を使う刻印行為から言葉を組み立てるわざへの変化

    ※記述・・「世界」の中に、「痕跡」を記す行為。無文節的でしかない【世界】の中で、自分が見た/見られた、そうした「世界」の体験を、刻印する行為。その人間の身体を通じての「世界」との関わりの痕跡。

    記述がその元の意味である刻印行為として理解される限り、線描と記述、あるいは製図工の技と、写本筆写者とのいあだに絶対的な区別はない

    発話と歌が分離した経緯は、現代に置いて記述と線描とが分離し、技術と芸術という二項対立を生んだことと同様 →「具体」と「抽象」という言い換えができると思う。本来の「記述」は、この「具体」と「抽象」の間で「刻印」されることで成立していたんだろうと思う。パロール、エクリチュール、シニフィアン、シニフィエの議論と同様


    あらゆるモノは、ラインがが集ったものである

    歌とは、人が偉大なる力によって心を動かされたときに呼吸とともにつむぎだされる思考なのだ、私たちに必要なことばがことば自体としてほとばしるとき、新しい歌が生まれる

    純正な音楽とは本質的に言語芸術だった。音楽から言葉を引き抜いてしまえば、音楽はただの装飾か伴奏になってしまう

    歌の音楽的本質がその構成要素である言葉の響きにあったとすれば、書かれた言葉もまた書かれた音楽の一形式であったはずだ

    言葉の記述は音楽の記譜法とはかなり違ったものにみえる。しかしすぐあとで明らかになるように、どこに両者の違いがあるのかを正確に指摘するのは容易いことではない。

    記譜法の歴史ではないような記述の歴史はあり得ない。

    記述物の読解は認識作用、テキストに取り込まれた意味を取り込む。一方、音楽を読む行為は演奏、楽譜に書き込まれた指示を実行にうつす。

    記述物が演劇の上演のために書かれるとき、それは楽譜への変貌の途上にあるということ

    詩人が話される言葉の響きを使用して意図を実現しようとする場合、その詩は言語よりも音楽に近い。しかしあくまで言葉の構成物にとどまっている詩は、音楽よりも言語に近い。このように詩的テクストは、記述物でありながら、楽譜である。あるいは純粋にはどちらでもない。

    構築された制作物としての作品という観念自体、18世紀にあらわれた作曲、演奏、記譜の概念に由来しており、音楽が自律的な芸術として識別されるようになったのと同じこと

    音楽作品は、演奏に先立つ作曲においてではなく、その都度の演奏という行為において存在すると理解されていた。すべての演奏はあらかじめ記譜に示された子細な指示に従うべきという考えはなかった

    音楽と言語がこのように厳格に分けて扱われると、それらの境界線上に必ずあいまいな事例があらわれる

    近代において、音楽が言語的要素を拭い去り、言語が音声的要素をぬぐいさって純化された
    →本来的な記述においては、おそらく、この言語と音楽との絡まり合いに「伝達」されるべきものがあった

    読者は聖書の記述が語る声を聞き、そこから学ぶねきことが求められていた

    もし記述が語るとするならば、そして人々が彼らの耳でそれらを読むとすれば

    記述が語るものであるとするならば、読むことは聴くことである。読む-忠告や助言を与える。

    ★読むことは、一種のパフォーマンスであった。声に出して読むことであった。

    →臨書は、一回性のパフォーマンスともいえる。その記述に内在する「声」に、身を浸すこと、そこから「ロゴス」を聞きとること

    身体的実践と知的了解とは、摂食と消化のように分かちがたく結びついている

    もし記述が語るとするならば、それは過去の声で語るのであり、読者はまるでその声たちのさなかに居合わせているかのようにそれらの声を聞き取るのだ

    言われたり為されたりしたことの完全で客観的な報告をおこない、過去を孤立させることではない。過去の声たちが復活し、生き生きとした現在の経験のなかに再び連れ戻されるような経路を用意すること。その経路によって、読者はそれらの声との対話に直接参加しそれらの声が言わんとするメッセージをそれらの声が活きている世界へ結びつける

    ★つまり記述は記録として読まれるものではなく、復元の方法であったのだ。
    →つまり、記述(記録)それ自体では、記述物に刻印されているものは、現前しない。その復元の方法が、今問われているということだと思う。その一つが、「演奏」であり、臨書であろう。あくまで、記録物それ自体は、「指標」というか、そういうものに過ぎない。


    ★古代と中世の読者は徒歩旅行者であって、航海士ではない。彼らは、ページ上の記述をすでに組み立てられ自己完結したプロットを表したものであるとは解釈しなかった。記憶の地形のなかで彼らの行く道を教えてくれる一連の道しるべ、方向表示、飛び石だと考えていた。このような道の導き-場所から場所へと導かれる流れ-をさすものとして、中世の読者は<運び>という用語を用いた。文章を貫く道の途上において思考する精神をともに導くもの

    ★【運び】が言わんとするところは運動、すなわち文章を貫く道の途上において思考する精神をともに導くもの

    ★読むことにおいて、ひとは物語を語る事、旅することと同じように、前進しながら何かを記憶する。つまり、記憶という行為はそれ自体が一種のパフォーマンスとして考えられていた。テキストは読むことによって、記憶され、物語は語ることによって記憶され、旅は実行することにより、記憶される。あらゆるテキスト、物語、旅は見いだされた対象ではなく、踏破される行程である。そして、一つひとつの行程が同じ土地をめぐるものであったとしても、それらはみな他とは異なる運動である。

    ★書かれたものが朗読において読まれ、音として経験されていたとするならば、それを楽譜とみなすべきなのだろうか。答えは否である。書かれたものは記述物でも、楽譜でもない。

    近代的思考が言語と音楽を区別するために設けた意味と音、認識と行為といった項目は、古典期や中世期の写本筆者の書いたものにあっては全く対立していない。


    読む行為とは、実行に写すと同時に、取り込むこと

    テキストを読むものは、牛が動かして食べたものを反芻うするかのごとく、言葉をつぶやきながら、記憶の中でテキストを繰り返すようにと。反芻的に熟考するべき。

    言葉の記述と音楽の記譜とを分離する理由がなかった

    現代の読者にとってテキストは白いページの上に印刷されたものとして出現するが、それはまさに世界が既成の完成された刊行地図の表面に印刷されたものとしてあらわれるようなもの

    ページの表面は、足跡や道しるべを辿ってある土地を旅するように、文字や言葉を辿ることでその地理を把握すること。

    地図はそれを生み出したすべての実地踏査の軌跡を消去し、地図の構造が世界の構造に直結しているような印象をもたらす。しかし、地図に再現される世界は住民不在の世界である。誰もおらず、何物も動かず、いかなる物音もしない。刊行地図から人々の度が消去されているのと同様に、印刷されたテキストからは、過去の声が消しとられている。

    ▼本来の地図やテキストというのは、誰かによって形作られ、その人が生において確かに実感された、身体によって確認された【世界】、その解釈、足跡、歩んだ道である。本来、人間は<現世界>というべき、無文節的世界に住むことはできない。身体を通じ、関り、その人間の独自の解釈においてのみ成立する「世界」にしか住むことはできない。そして、その「世界」に住むには、誰かの残した地図やテキストといった<世界>の痕跡に、その都度の自らの<運び>を見出していくという、そのことしかないのではないか。そういう風にしてしか、つまり誰かの残した【軌跡】と絡まり合うことでしか、自らの<世界>というのは、実感されえないのではないか。つまり、自分の世界の増幅、運ばれには、<他者の残した世界>、つまり、すでに他者がその身体に置いて把握し、解釈した<世界>に、自らの新たな<世界>を見出すということ、そして、その世界に内在する「いのち」を、引っ張り、伸ばし、引き継いでいくということが必要なのではないか。これをもう少し解釈すれば、このような<運び>の契機となるもの、その機会が、<アート>だということになる。つまり、何か<運び>となるか、どの【いのち】や<世界>を、その人は引き継いでいくかが、個々人によって違うわけだから、客体としての<アート>というのは存在しない。個々にとって、<運び>となる、そういう場所、もの、記述物があるだけだ。その意味で、アートというのは本来は徹底して主観に依拠するものだと思う。<その人にとってアートに成る>、そういうものしかないし、もう少し拡大すれば、ある個人の人生や記述物も、誰かの生命にとっての【運び】となれば良いのだということ。

    ▼そして、個人の生命活動、創造活動が真に独自的である所以は、個人の生命が接続する個々の記述物が、誰一人として、同じような組み合わせを見せないからである。つまり、その人間の<生命>を引き延ばし、道を紡いでいくために関わってきたそれぞれの他者の記述物が、まったく意図せぬ形で、それぞれ結びつき、その個人のいのちを運び、その人独自の<記述>の形態を形づくっていく。そのコンビネーション、そしてその連結における全く予期しなかった結びつき、その結果編み出された独自の「記述」の形式。そしてその「形式」によって記述されたものに、おそらく<生命>は宿るのであろう。なぜなら、その「記述」の形式が生まれ出たその出自にはまぎれもなく<生命>の通過が確認されるからだ。その人自身、その人独自の<人生>、その人と世界との関わりにおいてしか、<生命>などありはなしない。そうした意味ではその人間にとっての独自の「記述」を編み出していく、見出していくということが、<人生>なのだといえるのかもしれない。創造というのは、こうした意味で、<連結>や<コンビネーション>であるといえるのだが、重要なことは、その連結やコンビネーションを統制し、結び付けているものが<生命>であることだと思う。

    ▼テキストというのは、それ自体において、何かを意味し、指示し、明示しているものではない、つまりそれはいつでも<誰かに読まれることを望んでいるもの>なのである。つまり静止や完結など全くしていない。言い換えればそれは<世界によって書かれた言葉>でありながら、<世界が書かれた言葉>であると言えるのであろう。<世界が書かれた言葉>は読むものは、その言葉を通じて自らの<世界>を見出していく。

    ▼私という存在は、誰かが世界に残した痕跡・記憶を、ある意味では<内面化>して、それをあたかも自分の延長にあるものとして、自分の<物語>の一部として、自分の<一部>として、身体の<延長>にあるものとして、引き継いで、そうして生命活動を継続させて生きていく存在なのだろう。だから、<わたし>というのは、この身体、それ自体のことではない。この身体の中を流れる生命、その生命がその都度の<現出=運び>において必要とするどこかの・だれかの・いつかの<世界・痕跡>との関わり合い、そしてその関わりの総体をして、<わたし>というのだろう。

    ▼臨書というのは、その意味で、誰かののこした【世界】をなぞりつつ、そこに潜伏する自らの「運ばれ」を、その都度見出していくということなのだろう。だから、全員の臨書をやることが大事なのではない。その臨書の過程で、<運ばれ>や<ざらつき>を見出して、実感していく、そして<わたし>を見つけていくことが大事。




    ▼誰かの残した「世界」の痕跡(=場所)、身体を通じて世界との関り、そこから紡ぎ出されたもの=記述に、自らの生の流れを見出し、接続するということ。他者としての、<運び>、生命の連関を見出すということ。

    印刷されたテキストは、苦労してそれを生み出した人々の活動の痕跡を残しておらず、あらかじめ組み立てられた制作物としてあらわれる



    ★つまり、表面は、そこを通って進む領域のようなものから、それを眺めるスクリーンのようなものへの変化し、その上に他の世界からやってくるイメージが投影されるということになった。
    →身体で読んでないということかな。文字と関わるということは、自分自身の潜在他者=意識との接触、その現出を試みる行為であったのだと思う。それはいうなれば、もう後戻りはできない、<生命の運ばれ>、つまり未知や旅へと、自らを追いやっていくということ。

    記述とは、少なくとも、手仕事であり、写本筆者の技である。

    ページに刻み込まれたラインは、文字、ネウマ、句読点ないし記号のいずれであり、手の巧みな動きを目で追う事の出来る軌跡であった

    目で辿ることと、声で辿ることは同じプロセス。すなわちテキストのなかを積極的かつ注意深く進んでいくプロセス。

    書の大家-世界のリズムや運動を彼らのみぶりのうちに再生すること

    現代の学者は、言葉の組み立てについての知的苦労ばかりを強調し、過去の文字記述の前提だった純粋な身体行使を省みない



    おそらく手で書写されたラインはうねりながら、伸び続け、視覚の監視によってもの化を強制されて沈静化することを拒否していた。

    →つまり、<記述>物というのは、それ自身において、<生命>であるということだ。ある時点において記述され、固定化(されたように見える)されたものは、決してそれ自身において、完結していない。あるタイミングで、ある誰かに<読まれる>ことを、いつでも欲している。誰かの<生命>の想起へと関与することをいつでも欲している。生命は、記述され、何かしらの形で「もの」になったとしても、しかしその「もの」は決して固定的な物質ではなく、あくまで流体として機能するポテンシャルを備えている。


    言葉が書かれるのではなく、印刷されるとき、文字生産物からそれに技術的に影響を与える身体動作が断ち切られることによって、言葉をものに変わる。

    ★写本を読むことは、テキストの言葉を発音する際の声と結びついていた。手によってしるされた道をたどることである。しかし印刷されたページには、辿るべき道がない。
    →ベンヤミンの複製技術ではないけれど、大量印刷技術以前における<複製>は、純粋な形態を留めることが目的ではなかったのだと思う。重要なことは、先行するオリジナルのテキストに内包する「イメージ」を、身体的動作・身体的接触を伴いながら、個々が形態化していくことだった。そこには「解釈」が成立する。しかし印刷業における<複製>はその「外部的形態」のみを、大量に流布・氾濫させることに成功しただけで、実際的にその記述物において引き継いでいくべき<イメージ>や<ロゴス>は、一向に身体化されえない。つまり、そこでは<ミメーシス>が成立しえない。つまりすでに完成されたものを、スクリーンとして享受し、そこに自分が映るなどとは一向に考えられないようになる。現在において問題にすべきはここだと思う。既に氾濫している<文字>を、いかに身体的接触を伴いながら、自分自身の生命と関連付けていけるか。

    人は動くやいなや線になる

    徒歩旅行は絶えず動いている状態にある。歩を進めながら、道に沿って開けてくる土地と積極的にかかわる

    人は、物語や旅を記憶するのとまったく同じ方法で、テキストを記憶した。読者はコトバと言葉へと進みながら、ページの世界に住んでいたのだ
    →自分(の生命=場所)を<教えてもらう>旅

    現代の読者ははるかな高みから見下ろすように、ページを測量する

    ★グラフィックアーティストと、著述家とのあいだに強固に制度化された奇妙な対照。




























    以下引用

    どうして発話と歌とが区別されるようになったのか

    西洋では長らく音楽は言語芸術として理解されていた

    言語が沈黙した経緯は、記述そのものの理解の仕方の変化、すなわち手を使う刻印行為から言葉を組み立てる技への変化と関係がある

    ★もともとモノとは、人々が集い、人々が問題を解決するために集う場を意味していた。あらゆるモノは、ラインが集ったものである。

    紙の上にあるものとして見つめられ、じっと動かず長時間の吟味に耐えれるものとして捉えられる時、言葉がすでに音声からまったく遊離したそんざいと意味を示す

    音それ自体に神経を集中する(その背後にある意味を探ろうとしない)

    彼が書くものは文学作品であるが、しかし作曲家は音楽作品を書くのでない

    詩人が話される言葉の響きを利用して意図を実現しようとするとき、その詩は言語よりも音楽に近いものとなる

    あくまで言語の構成物にとどまっている時は、音楽よりも言語に近いまま。このように詩的テキストは、記述物であり、楽譜である

    ★★音楽-構築された製作物としての作品という観念自体、十八世紀にあらわれた。それ以前は、音楽作品は、演奏に先立つ作曲においてではなく、その都度の演奏という行為において存在すると理解されていた。すべての演奏はあらかじめ記譜に示された子細な指示に従うべきという考えはなかった

    中世の書物は、制作されたものではなく、語るもの

    聖書の記述が語る声を聴き、そこから学ぶ

    文字の音

    ネウマは音楽それ自体をあらわすというよりも、演奏を補助する注釈

    ★刊行地図から人々の旅が消去されているのと同様に、印刷されたテキストからは、過去の声が消されている
    →もともと「本」は、無数の人の「場所」が更新される「過点」であったのに

    ★表面は、今やそこを通って進む領域のようなものから、それを眺めるスクリーンになった

    ★何よりも徒歩旅行を行うことで、人間は世界に住む。
    すでにある風景や、歴史の最中である「場所」に、自分を織り込んでいくということ、自分を発見したり、運ばれていくという事

    徒歩旅行者は、世界を貫く運動の道。

    ★★進みながら知る

    ★物語りを語ることは、語りの中で過去の出来事を関係づけて語ることであり、他者が過去の生のさまざまな糸を何度も手さぐりながら自分自身の生の糸を紡ぎ出そうとするときに従う、世界を貫く一本の小道を辿りなおす事。

    ★★物語りは、道である。それは辿られるべき道筋という意味であり、それに沿うことで人は生き詰まる事もなく語り続ける

    読書を徒歩旅行に、ページの表明を人が住む風景に繰り返しなぞらえた

    ★ストーリーテラーが話題から話題へ、旅人が場所から場所へと進むように、読者は言葉から言葉へと進みながら、ページの世界にすんでいた



    場所をなづけることは、それらの場所がそれに沿っている道の旅を語りか歌によって記憶すること

    持続する流れの中での休符点。ひとつの場所から別の場所へ向う道の途中で一息つくために立ちどまる

    ★運動の道筋に沿った休止の地点であった場所
    →これを「記述」するのが、制作ということかな

    現在は、それらが今いる場所やそこにたどりついた経路とはまったく関係がない

    自分の時間を、それらの場所のあいだではなく、それらのなかで使いたいと考える現代の人

    書家が書こうとしたのは、事物のかたちや輪郭ではなく、世界のリズムや運動を再生すること

    ラインは、生命のように終わりのないもの、重要なのは終着点ではない、面白いことはすべて、道の途中で起きる

    ★★成長あるいは移動して生きる全ての生き物は、時間の中で、必ずなんらかの線=痕跡をひいている


    ★★インゴルドは、彼の発想を励ますものとして、数多くの人類学者、哲学者などの「線」を引き継ぎ、巧みに織り込んでいく


    きみだけがもつ数々の線の並びと、それぞれの線の延長を。その線が、きみのまったく知らない誰かの線とつながるとき、何かが始まる。

    特定のひな型、スタイル、理論への適合を強制することなく

    いつもの道をはずれて、外に出てみるといい。あるいは自分の習慣をよく見直して、それによって差してくる光のもとで、たとえば本の森を見直してみるといい。

    人は誰も自分一人で考える力はない。すべての思考は他の人がこれまでに試みた線を引き継ぐものだ。痕跡を見つけ、それをたどり、延長し、糸をみつけ、それを利用し、、、

    きみだけがもつ数々の線の並びと、それぞれの線の延長を。その線が、きみのまったく知らない誰かの線とつながるとき、何かが始まる。

    見つけた線を延長し、または捨てていい。そんな風にして自分の人生の線にほんとうに役立つ者を探し、また次の一歩を探ればいい。

  • 訳者自身があとあきで「要約できないし、要約すべきでない」と書いているが、線形(Liner)に喩えられるものをいろんな角度、視点の高さから捉えて語っているので、まとめようとしても「ラインズ(Lines)」としか言いようのない本だった。

    刺繍の糸、時間、散歩、旅、書道、絵画、建築等々……議論を積み上げて大きな命題を証明するというシロモノではなく、個別のディテールを言語化して編むということそのものに力点がある。

    文化人類学って、ざっくりそういうものなのか。

    売れ線の「一点突破の結論キャッチコピー」をタイトルに据えた啓発本とは対極に位置する本。一本筋は通っているが、対象はあっちこっちに飛ぶので読みにくいのは読みにくいけれど、読書体験としては豊かな感じがしないでもない。

    個人的には「樹形図またキタ!」って思った。あとは王羲之が雁の首をしなやかさに霊感を得て、筆の運びに取り入れたとか……あとはブルース・チャトウィンのソングラインとか。

    マスな社会的インパクトという視点を除けば、語るに足る対象や切り口は、いまだ溢れているなと再確認。

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著者プロフィール

1948年イギリス・バークシャー州レディング生まれの人類学者。1976年にケンブリッジ大学で博士号を取得。1973年からヘルシンキ大学、マンチェスター大学を経て、1999年からアバディーン大学で教えている。
『ラインズ──線の文化史』(2014年、左右社)、『メイキング──人類学・考古学・芸術・建築』(2017年、左右社)、『ライフ・オブ・ラインズ──線の生態人類学』(2018年、フィルムアート社)、『人類学とは何か』(2020年、亜紀書房)、『生きていること』(2021年、左右社)などがある。

「2023年 『応答、しつづけよ。』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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