- Amazon.co.jp ・本 (899ページ)
- / ISBN・EAN: 9784861827051
作品紹介・あらすじ
根源的(ラジカル)な全体像
本書の「外篇」は、明治改元によってこの国の近代が開かれたそののち、宣長のうえに流れてきた時間を測りなおそうとするこころみである。一方でその蓄積をふまえ、他方でその堆積をかき分けてゆくことで、私たちははじめて、今日の時代のただなかで宣長の全体像をあらためてとらえかえすことができる。本書の「内篇」でもくろまれるのはそのくわだてにほかならない。たほう「外篇」がこころみるのもいわゆる「研究史」ではない。それはむしろ、現在の私たちが宣長の生と思考との痕跡をたどりなおそうとするさい、その所与の条件を形成する、本居宣長をめぐる近代日本の精神史のひとこまを検討することを目あてとするものなのだ。
感想・レビュー・書評
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この本は恐るべき力を持つと同時に、とても残念極まりない一冊だ。
前半の外篇では、明治以降宣長がいかに論じられてきたかをつぶさに記述していく。
後半の内篇では、宣長の全体像を構築していく。
熊野の分析と記述は緻密で丁寧だ。
だが、ここには決定的に欠落しているものがある。
熊野は宣長の思想に心から震撼していない。(最終章で震撼させられたようなフリをしているが)
熊野は宣長の思想を生きてないのだ。これは熊野のほとんどの著作に見られる欠落だ。
ところが実は、彼にはとても鋭くて豊かな文学的感受性が備わっており(たとえばそれは、蓮田善明を語るところなどで奔り出ている)、もっとパトスに満ちた内容を盛る力があるはずなのだ。ところがそれを徹底的に抑制しており、それはそれで抑制美と言えなくはないが、著作としても失敗になっていると言わざるを得ない。なぜか。
この「本居宣長」には、宣長の全体像は書かれているが、書かれていないことがある。
それは、宣長の核心だ。宣長があの途方もない努力によって古の意と事と言を掴みだし、後世に伝えようとしたその内実、それが明確に抉り出されていない。
そのことは、これだけ浩瀚な書物を膨大な資料に基づいて物していながら、鈴木重胤にも、鹿持雅澄にも(後書きで少しだけ触れられている)、保田與重郎(たった一か所一行だけ触れられているに過ぎない)にも言及していないところからも分かる。彼らこそが宣長の本質と核心のかけがえのなさに気づいて必死に後の世のために語り伝えようとした人たちであるのに。
宣長の核心を明確に言語化した著作としては、前田英樹の「保田與重郎の文学」を推す。
ただ、この本によって、蓮田善明を知り、彼の訳で古事記を読むことへと誘ってもらった。蓮田の「本居宣長」もこれから読む予定。
蓮田を教えてもらったことには、心から感謝したい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
本居宣長にかんするさまざまな論点を拾いあげて考察をおこなっている本です。
本書は900ページにおよぶ大著で、「外篇」と「内篇」に分かれています。「外篇」では、主として近代以降の宣長解釈がていねいにたどられています。いわゆる先行研究の整理ではなく、もうすこし広い意味で宣長について論じた研究者や思想家たちが、それぞれどのような問題を宣長の生涯と思想のうちに見いだしていたのかを掘り起こしています。
「内篇」では、ほぼ宣長の生涯の歩みに沿いつつ、その仕事の諸問題を考察しています。ただし、論点を順番にとりあげているという印象が強く、著者の独創的な解釈にもとづく統一的な宣長像が提示されているわけではありません。この点は、著者の前著『マルクス―資本論の思考』(2013年、せりか書房)と同様です。ただし前著では、カントやヘーゲル、ハイデガーといった哲学者の翻訳にたずさわり、廣松渉の薫陶を受けた著者が、マルクスの新しい解釈を示してくれるのかという期待があったために、すこし期待はずれに感じてしまいました。それに対して本書のばあい、著者が日本思想史の専門家ではないため、そこまで期待のハードルをあげることがなかったこともあり、おおむね満足のできる内容だったように思います。