- Amazon.co.jp ・本 (282ページ)
- / ISBN・EAN: 9784861528392
感想・レビュー・書評
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内田樹が、これまでに雑誌やブログに書いた「芸術論」的な文章を1冊の本に編集し直してみたもの。
「芸術論」と書いているが、芸術全般について論じたものではない。主に内田樹の好きな、(大きな意味での)アーティストについて論じる(というよりは、この人たちはここが良いよね、好きだよね、というファンである内田樹の好みを語る)という内容が中心となっている。
取り上げられているのは、三島由紀夫、小津安二郎、宮崎駿、村上春樹、大瀧詠一といった人たちだ。村上春樹の小説やエッセイは何冊かは読んだことがあるし、大瀧詠一の"A LONG VACATION"は、今でも聞いている。が、村上春樹も大瀧詠一も内田樹がファンであるほどには、ファンではない(好きだけど)、また、三島由紀夫や小津安二郎や宮崎駿は、あまりなじみがない。
内田樹は、これらの人を紹介するのは、「この人たち、なかなか良いでしょう」というスタンスで行っている、と本書中に書いている。すなわち、内田樹のレコメンデーションを読んで、読んでみよう、とか、観てみようと思われれば成功、というスタンスである。そういう意味では、いつか、三島由紀夫は読んでみたいし、小津安二郎の映画は観たいと思わされた。私に関しては、内田樹は成功したわけである。
ただ、本書で一番面白かったのは、巻末の内田樹と平田オリザの対談。平田オリザが開学に奔走した、芸術文化観光専門職大学について平田オリザに語ってもらい、そこから、もう少し広くトピックスを広げていった対談である。2人の切れ味鋭い会話がとても楽しかった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
『街場の芸術論』序文 - 内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/2021/05/03_1416.html
街場の芸術論 | 青幻舎 SEIGENSHA Art Publishing, Inc.
http://www.seigensha.com/newbook/2021/04/05113253 -
街場の芸術論
毎度の如く内田老子の新刊が出ては買っている。ほとんどが読んだことがある話なのにもかかわらず。今回は、宮崎駿の話などは初めて読むものであったが、やはり印象的だったのは三島由紀夫、村上春樹だろう。
内田老子は三島の魅力をこう評する。
「彼は自分にまつわるすべての謎を最初から自作したのである。これから先、彼の死後も、自分に関して解かれたり、付加されたりするであろう謎を批評家に先立って網羅的にカタログ化し、それを決定版として残そうとしたのである。」
三島は活動家でもあり、センセーショナルであった。三島由紀夫VS東大全共闘は私も好きで何度も見ているが、彼は単なる文筆家ではなく、熱情を信じるアクティビストであった。通常、著者と著書というものは区別される。なぜなら、著書の評価にとって、著者のパーソナリティは邪魔になる時があるからである。批評家は、著者のパーソナリティをあげつらい、歴史的背景を踏まえて著書を批評する。しかしながら、一度や本になってこの世に出た書物にとって、それは一種の雑味になるのである。多くの著者は著書を正当に評価してもらうために、自らを開示しようとしない。開示しないことにより、著書を際立たせる。しかしながら、開示しないということもまた雄弁なのである。批評家は全く謎の人物にさえも、解説を欲望する。そうして、著書にはやはり雑味が混じってしまうのである。三島が行ったことは多くの著者とは真逆のことである。彼は、彼について憶測されるであろう謎を批評家に先立って網羅的にカタログ化したとことにその独自性がある。三島は、三島由紀夫を全面に出すことによって、三島文学の純度を守ったのであろう。それが内田老子の解釈である。どうしてこうも逆説的でかつ明瞭な考察ができるのであろうかは、これもまた謎であるが、内田老子による三島の評価は私にとって非常に好みである。
内田老子は村上春樹で2冊も本を書くほど、村上春樹については考察しているが、今回もやはり系譜学の話が出てきた。羊をめぐる冒険はレイモンドチャンドラーのロング・グッバイの本歌取りであり、ロング・グッバイもまた、グレートギャッツビーの本歌取りというのである。では、どの部分が本歌かと言えば、登場人物の構造である。これらの物語には、主人公と、主人公のアルターエゴが出現する。アルターエゴの特徴は「弱さ、無垢、邪悪なものに対する無防備、そしてそれらが複合的に絡み合った不思議な魅力」である。そして、それらの特徴は主人公がこれまで今の姿になるまでに切り捨ててきた資質である。主人公はたいてい「自己規律、節度、邪悪なものに対する非寛容」がその特徴である。主人公が、タフでハードな世界を生きていくには、切り捨てなければならないような資質をアルターエゴはもっているのである。物語はどれも、主人公とアルターエゴが絶妙な距離感の中で終わり、彼らの交わりはそこまで多くはない。しかしながら、それらが物語として一定の人々の心に響くのは、これが少年期との決別を描いた作品だからである。社会では、少年は成熟を求められ、大人にならざるを得ないときがある。急な要請から大人にならなければならない人間にとって、彼の少年的な資質は切り捨てられる。しかし、それはたしかにそれまでの自分ののもであったからそこには見えないながらも傷口があるのである。しかし、大人になるということはそれらの傷口に気づかないようにすることでもある。そうして少年性を抑圧するとき、そこには空虚と喪失感のみが横たわる。大人になった時点では喪失感しか感じることができない。なぜなら、大人になるということはそれまでそこにあった少年性を抑圧することだからである。村上文学の真骨頂は、その失われた少年性に物語を経由して名前を付け、呼び戻すことである。ある日突然、名を奪われ、抑圧された感情は、いつかかならず回帰する。そして、自分の望まぬ形で回帰したとき、それはその人物の人間性を大きく歪める強毒となる可能性もある。だからこそ、そうして望まぬ形で回帰する前に、文学を通して少年性をゆるやかに呼び起こす作業が必要なのである。日本にはお盆という風習があるが、これは死者とのコミュニケーションを絶やさぬよう、こちら側から歩みよることなのである。あちら側から歩みよられるとき、それは大きく境界をゆがめる可能性があるからである。そうした意味で、村上文学はまさにセラピーなのである。 -
久しぶりの待場シリーズ
今回は芸術ということで、三島由紀夫・村上春樹・小津安二郎・宮崎駿・大瀧詠一
の評論。今回は三島と村上春樹は面白く
読めました。どちらもあまり小説家としては
はまっている作家ではないのですが。
でも最近村上春樹は読みたいなあと思い出しました。 -
小津安二郎 「挨拶」 父親に多弁をたしなめられた幼い合理主義者、実は、大人だって余計なことをいっているじゃねーか こんにちは、おはよう、こんばんは‥コミュニケーションの本義はメッセージを過不足なく伝えることにあると信じている。だから「テレビが欲しい」という意思を伝えるためには、「テレビが欲しい」と大声でわめきたててみせることがもっとも合理的なふるまいだと考える。そのようなメッセージは、どれほど一義的であっても軋轢以外の何も生み出さないことを知らない。
宮崎駿「魔女の宅急便」才能が枯渇した時にそこから抜け出してもう一度才能を起動させるためには人間は成長しなければならない。才能に頼って仕事をすることは幼児でもできる。でも才能が停止した時それをもう一度賦活させるためには大人になる必要がある。だから才能についての物語は必ず成長についての物語になる。
特別対談
内田樹×平田オリザ
空間のインプットと筋肉や関節の動きのアウトプットを関連付けて記憶する。人間の脳というのはそういうものらしい。俳優が小道具でセリフのタイミングなど記憶したり、器械体操の選手が天井や壁、床などをどの順番でどの角度で見えるかをイメージトレーニングする。 -
樹先生は本当に文章が上手いなあ。(当たり前か)
思わず小津映画を観直した。
宮崎駿も観直したい。 -
ウチダ先生が小津安二郎、宮崎駿、村上春樹を通して社会を論じる
「何かを本当に好きになるには偶然出会ったという物語が必要。だから過度な推薦は駄目。相手と作品との出会いに偶然性がなくなってしまう」
至言。偶然書店で出会った本やジャケ買いレコードがまさにそう -
教員になって割にすぐの頃、内田樹さんの下流志向を読んで,衝撃を受けて、以来彼の本と共に教員を続けてきた感がある。恥ずかしいんだけども、私の教育観は、大体彼の受け売り。
この本のほとんどは、ブログランキングなり何なりで目を通したことがあった。
初めて出合ったとき、私達が、教員が何とか頑張ったら、少し世の中が良くなるかも!という、淡い期待があった。何をどう頑張れば良いかわからなかったけれど、根っこにあるものを見失わずに、子供と直接関わっていくことを続けて今に至るわけだけども、
この本の雰囲気よろしく、いつのまにかpoint of no return を越えていた。
虚しさと苦しさだけが今残り、結局何もしてきてなかった今までと自分の無能さを思い知らされる。
「正しい絶望」今年の目標は,それがなんたるかを,見極めること。 -
「表現の自由」についての記述に大いに勇気づけられた。
表現の自由を認め合う、そういう場を希求する心持ちによって、そして他者もそれを希求すると信じることによって、ようやく命を吹き込まれるものなのだ。各々の勝手で、あることにしたり、無いことにしたりできる、そういう呑気なものではない、と著者は語る。いわゆる制度論で語られる「表現の自由」から一歩踏み込んだ論考だと思う。