リベラルなナショナリズムとは

  • 夏目書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (365ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784860620585

作品紹介・あらすじ

ナショナリズムは果たして人類悪なのか?リベラルとナショナリストの融合は可能なのか?この余りに現代的な課題に果敢に挑戦した、イスラエル女性学者であり平和運動家でもある著者のユニークなナショナリズム論。世界秩序についての一つの思考法。

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  • 「主権国家を持ちたいという要求は、領土や住民を巡って相互に競合する。しかし、どのネーションの主張を取り上げるべきかという選択を不要にして、多くの国籍、文化的伝統、また文化集団を包摂するトランスナショナルな共同体を作り、そこにおける政治権威の配分を調整できるようにすれば、さらに、そのような配分の選択がある種の補完性原理により導かれるのであれば、ネーション相互の二者択一性は大きく緩和される。つまり一者のアイデンティティが必然的に他者のアイデンティティの犠牲の上で承認される、という状況は解消される」p19
    →ヨーロッパの場合は、こういった地域機構が、スコットランド人、バスク人、コルシカ人、ウェールズ人などの小さな「国家無きネーション」に対して、欧州共同体に留まりながら文化的、政治的な自治を発展させることを可能にしている。

    ロールズの「重なり合うコンセンサス」p41

    【公民教育とナショナルな教育】p43
    市町村、国家であれ、地域機構、グローバル社会であれ、多様なネーションが織り成す政治システムにおいては、子供たちすべてが、異なったライフスタイルを持つ他者、異なった価値観、伝統を持つ他者への尊重を学び、他者を同じ政治システムの成員として対等に見ることがとりわけ重要である。このような広薄な層を土台にして、ナショナルな集団の各々は若者たちに自身の共同体、歴史、言語、伝統についての知識を授けるべきである。従って、公民教育をナショナルな教育から分けることが、平和な多文化社会を持続させるための最重要項目である。

    【オプティミスティックなのだろうか?】p46
    われわれにはまだ、現実的な楽観主義を抱く余地が残されている。南アフリカ政治の展開、イスラエルとその隣人とくにパレスチナ人との和平プロセスの穏やかな進展、さらにアイルランドにおける妥協案への初の調印という成果は、リベラル・ナショナリズムが抽象的理論を越えた何かであることを物語っている。リベラル・ナショナリズムは、理論から現実へと変わり得るのである。

    【胎動するナショナリズム】p51
    例えばエストニア人、ラトヴィア人、ロンバルディア人は、共産主義体制や西欧国民国家によって強いられた長い昏睡状態から目覚め、筋肉を動かし、民族独立の旗の下で行進を始めている。

    【本著の主張】p56
    すなわち、個人の自立、反省、選択を尊重するリベラルな潮流と、所属、忠誠、連帯を強調するナショナルな潮流は、相互に排他的であるという見方が広まっているけれども、実は互いに一方が他方を包摂しうる関係にある。リベラルは、所属、成員性、文化的な帰属の重要性と、それらに由来する個別の道徳的義務の重要性を認めてもリベラルであり続けることができる。ナショナリストは、個人の自立の尊さ、また個人の権利や自由の尊さを認めてもナショナリストであり続け、国民内部あるいは諸国民間における社会正義にコミットし続けることができる。

    [状況や文化の中に]深く取り込まれているということ(embeddedness)と選択すること(choice)は必ずしも正反対のことではない。p70

    【文明化のプロセスに伴う人間観の展開 by ギアツ】p74
    単純な仮想(masquerade)から仮面(mask)へ、役割(personage )から人間(personne)へ、名前へ、個人へ。さらに個人から形而上的・道徳的価値を有する存在へ、そして道徳的意識をもつ存在から聖なる存在へ。聖なる存在から、思想と行動の根本形態へ。このようにしてこの過程は完結した。

    【原子化された自己と状況づけられた自己についてー二極化する人間観】p75
    ナショナリズムとリベラリズムは、共に近代の運動である。双方とも、自由で合理的かつ自律的な人間は、自らの人生の処し方に対して完全な責任を負う能力を持っているという見解を共有しているし、また、双方とも、自己支配、自己実現、そして自己発展を成し遂げうる人間の能力への信仰を共有している。こうした幅広い合意にもかかわらず、ナショナリズムとリベラリズムとは、こうした人間の特質をどう解釈するべきかという点で極端なまでに相違なる解釈を展開してきた。

    【アイデンティティの4つのモデル】p83~84
    ①厳密な発見モデル
    ②共同体的な選択モデル
    ③道徳的な選択モデル
    ④厳密な選択モデル

    個々人は選択肢を更新し、自身の過去によって提供される潜在的なアイデンティティを更新する。たとえ哲学的にはぎこちなく思われるとしても、[更新という]この概念は、ナショナルなアイデンティティについてわれわれの思考にとって本質的な側面をなしているのである。p100

    【「文脈づけられた個人」 'Contextual individual' 】p108
    という人間観は個人性と社会性とを、二つの等しく真正かつ重要な特徴として結び合わせている。それは文化的社会的な成員資格がもつ、拘束的で構成的な特徴を認識しているリベラリズムの解釈を許容すると同時に、個々人を共同体という枠組みにおける自由で自律的な参加者と考え、ナショナルな成員資格を、ルナンの用語で言うところの日々の人民投票と考えるナショナリズムの解釈をも許容する。文脈づけられた個人という概念は、このようにして、リベラルとナショナルの諸理念を相互に一歩近づける。

    文化は集合的な善である。p130

    集団が代表されることを認める政策、あるいは、さまざまの集団があらゆる公的地位において比例代表されるべきだという議論は、集団の福利に対する関心によってではなく、その集団の個々の成員らに対する関心によって動機づけられているのである。Cf. アファーマティブ・アクション p135

    【ネーションと国家の区別】p156
    ネーションが「連帯や、共通の文化、ナショナルな意識という感覚によって成員を相互に結びつける人民の同体」である一方で、国家は「公民の服従と忠誠とを要求する法的かつ政治的機構」である。

    近代の国民国家の全体的性格を、ルソーの一般意志の概念、バークの有機体的国家観、あるいは国家を「自由の実現としての倫理的総体」と見なすヘーゲルの認識が支持している。p160

    【発明された伝統 by ホブズボーム】p164
    それは「一連の実践であり、儀式的、あるいはシンボル的な本性を有し、通常、明白に、あるいは暗黙の内に受け入れられたルールによって支配されている。この実践は、確かな価値と反復による行為規範とを熱心に教え込むことを求め、それはおのずと、過去との連続性をほのめかすのである」

    【ネーション形成に関して by オスタード】p165
    ネーション形成が「国家内部で地方を統治することを進め、ナショナルな連帯へと内部住民をまとめ上げていく過程についての建築学的隠喩である」

    【「ナショナルな自覚」】
    コバーン「どのような領域的共同体であっても、全ての成員が自らをその共同体の一員であることを自覚し、その共同体の同一性を保持しようとする場合、それはネーションである」

    ナショナリズムは文脈や文化的起源の重要性、さらにはその起源、帰属、人間的発展、そして自己実現の必要性についても重要性を認めており、それによってしばしばリベラルの理論が脇に除けてしまいがちな広範囲の問題に光を当てるがゆえに魅力に富んでいる。p196

    「想像された」共同性の感覚を共有する共同体内に成員が住まうことは、彼らの間に相互的な責任感を生じさせる。人間関係の発展、すなわち共有された目的を達成するために他者とともに奮闘する能力は、人間的生活を豊かにする。そしてナショナルなメンバーシップに内在している連続性に対する敬意は、自らを祖先と将来の世代とに結合させ、現代生活の特徴である孤独と疎外とを減じ、それによって個人に人間的生活と創造性との連続の中に自らを位置づけることを可能にさせるのである。p202

    【共同体道徳】p221~222
    ①共同体道徳は合理的なエゴイズムと相互の無関心を助長するよりもむしろ、ケアと協力を基礎とした関係を発展させるよう成員を促す。
    ②共同体道徳はわれわれが抱く直観、すなわち、われわれは自分たちと生活を分かち合い、また自分が深く気遣う相手を優遇する理由をもっているという直観を説明することができる。
    ③特定の他者に関心をもち、その人たちの特殊な所属関係を充分にわきまえている個々人のあいだでは、正義の諸原理について合意することが可能であると、共同体道徳は論証する。
    ④広く流布している見方とは反対に、非成員に対する態度について共同体の道徳が含意するものは、必ずしもリベラルの理論から導かれるものより利己的であるわけではないし、そしておそらく実際上はそれよりも利己的な度合いが少ないのである。

    道徳的観点からすれば、共同体の生活のさらに決定的な長所とは、それが個々人の「正義の感覚」を発達させ、彼らがそれに従うことを可能とする点である。ロールズによれば、正義の感覚の発達は、状況づけられること、特別な関係をもつこと、生き生きとした愛と友情の感情を育むこと、また、われわれの福祉のために行為する他者の明白な意図を目の当たりにすることにより方向付けを与えられる。p223

    【配分的正義が有する視野の限界】p263
    配分政策がなぜ成員のニーズのみを考慮すべきかという問いに対するもう一つのアプローチは、配分的正義が社会的協力の果実を分配するものだと論じることである。つまり、何らかのかたちで生産プロセスに参加してきたひと人々だけが財の共有にあずかる資格があると論じることである。
    Cf. 「慈善は足許からはじまる」

    【アソシエーションにおける成員資格(メンバーシップ)の条件】p266
    ①境界画定(Demarcation)
    ②持続性(Continuity)

    【リベラルな国家における成員資格】p279
    ①一般的な市民的能力ー仲間の市民たちと対話し、主張し、諸々の問題を議論する用意ないし能力、そしてこの対話を基礎として判断を形成する用意ないし能力。
    ②共有された文化とアイデンティティーこの特定の社会の一員として行為する能力。

    特定の国家、つまりわれわれの国家に対する政治的責務を引き受けるプロセスは、アソシエーションへのコミットメントとしての性質を政治的責務が有することに鑑みてはじめて理解されうるのであり、その道徳的な重みは一般的な道徳諸義務よりもむしろ成員資格という観念に由来する。p288

    【特定の政治的責務が有するアソシエーション的本性】p291
    アソシエーション的な責務の引き受けは、帰属の感情、および自己とアソシエーションとを同一視することに依存する。かくして、政治的責務に対するアソシエーション的なアプローチは、個々人がそうした責務を引き受けるのが、彼らが国家を彼らの国家と見なし、その法を彼らの法と、その政府を彼らの政府と見なすからである、ということを示唆する。
    ラズ「彼らの属する社会を自分と同一視し、自分自身を法に服従する責務の下にあるべきものとー彼らは法を、こうした態度を表現するものと見なすー考えるのである。この態度は同意ではない。たぶん、それは特定の時点における特定の行為によって開始された何かではない。それはおそらく、ある共同体への帰属の感覚を獲得してそれを自分と同一視するプロセスと同じくらい長い、ひとつの漸進的なプロセスの産物である。

    「多極共存型デモクラシー(consociational democracy)」 by レイプハルト p328

    【リベラルかつナショナルな政治体の特徴】p340
    この政治体は分配に関するリベラルの諸原理をその内側と外側において肯定することができる。つまり、その政治システムはある特定のネーションの文化を反映しているであろうが、しかしその市民たちには互いに異なった文化を実践する自由、多様な人生設計と善の構想に従う自由があるだろう。

    【目に見える境界線なしに各々の同一性を保とうとする集団】p346
    ユダヤ人やアルメニア人のように散らばって暮らしている人々(ディアスポラ)、また南カルフォルニアにおけるヒスパニック系の人々、マイアミのキューバ人、フランスのアルジェリア人、イングランドのパキスタン人、そしてユタ州のモルモン人、ペンシルベニアのアーミッシュ、エルサレムの超正統派ユダヤ・コミュニティなどの宗教セクトに属する人々

    【結論】p348
    未解決のままに残された問いがあるとすれば、それは、ナショナリズムが憎悪に満ちた自民族中心主義の装いを持つことになるのか、あるいはリベラルな諸価値に対する尊重によって導かれるところの、醒めたヴィジョンとなるのかという問いである。

    【訳者あとがき】
    リベラルの側は、選択の自由が無限であるという幻想を捨て、選択の自由は個別の文化に浸ったという原体験と、選び取るべき個々の文化(の保全)があって初めて可能となるという事実を認識する必要がある。一方、ナショナリストの側は、血と地のレトリックから自らを解放し、個人の自由と選択が不可侵な権利であることを再確認する必要がある。そのような融和の結果として生み出されるのがリベラル・ナショナリズムなのである。p354

    ナショナリズムの実現が領土的空間を要請すると考えたミラーに対し、タミールはナショナリズムを国民国家擁護論に還元する思考法と決別した。この違いは、ミラーが、穏健だが単一のナショナリズムの中にマイノリティのそれを含む多様な要求を包摂しようとしたのに対し、タミールが複数ネーション国家を理想とし、複数の文化集団がそのもとで自決(自治)権を持ち、その意味で統合と個別化が同時に果たされる国家を理想としたことによる。p355

    「複数ネーション主義」を採用する国々が集まって組織する地域的機構、というタミールがリベラル・ナショナリズムの実践として提唱するプランは、東アジアの将来を考える上で参考になるかもしれない。p356

  • 健全なナショナリズム。ナショナリズムや民族自決は、植民地支配を終わらせるために大きく貢献した。思想は過度に追求すると災禍をもたらす。マルクス主義、自由主義。ナショナリズムもそう。リベラリズムのいう個人の選択の自由は、集団的価値を前提とする。人権でさえも人権文化を想定している。自由・平等・公正と両立するナショナリズムがある。ヤエル・タミールTamir『リベラルなナショナリズムとは』1993

    ナショナリティは「自分は何者か」の型を与える。民主的な議論において、見解の異なる人々が公共の利益を追求するためには、お互いへの信頼・連帯意識(ナショナリティ)が必要。▼再分配政策を可能にするためには、連帯意識・不遇な同胞への共感(ナショナリティ)が必要。同胞に負う義務は人類に負う義務とは異なる。福祉は自国民が優先、に反対する人は少ない。再配分への動機づけとして同胞への愛着や信頼が必要。▼ナショナリティは固定されておらず、社会的に構築される。ナショナリティを固定的なものと捉え、個人の権利よりもまとまりを重視する保守的なナショナリズムとは異なる。▼急進的な多文化主義者は「ナショナリティは差異を無視して、同質化を強要している」とし、その解体を目指している。しかし、ナショナリティとマイノリティは共存できる。自由に討論をし、少数派の意見も反映しながらナショナリティは構築される。よりリベラルで民主的なナショナリティを考えることができる。ナショナリティが解体されると、集団同士の連帯(全体としてのまとまり)が失われ、集団同士が互いに疑心暗鬼になり、結局はマイノリティ集団の排除につながってしまう。▼教育により公民道徳を次世代に教えることが大切だ。エスニック教育などで差異を過度に強調すると、反社会的な効果を生む可能性がある。デイヴィッド・ミラーMiller OX

  • アイデンティティや多文化共生について興味があっていろいろ読み漁っているうちにたどりついた一冊。
    訳者あとがきで押村先生が言及されているように、ナショナリズムについて、超克すべき前世紀の遺物である、ととらえがちな日本人にとって、とても大事な価値観を提供してくれる本だと思います。


    リベラリズムとナショナリズムという、今日においては、ともすれば対立する概念と考えられる2つの思想がお互いに関係していることを示している。リベラルナショナリズムのような概念は以前からあったが、それに論理的説明を与えようとする試み。

    近代からの、「国民国家」や「明確な国境」という概念が現代まで続く果てしない紛争・戦争の原因なのではないかという感覚はこれまでも漠然と抱いていたし、ナショナルな感情の過度の称揚の危険性についてもいつも思っているので、本書で提示されている”リベラルナショナリズム”という概念は個人的にとてもすっと入ってくる考え方でした。

    著者も言及しているように、ヨーロッパやアフリカの事例をみても、いくらネーション単位で領域を細分化して区切り国民国家をつくろうとしても、完全に1ネーションの領域などあり得ないし、必ずマイノリティというものは生まれると思う。そういう意味で、やはり国民国家の追求というのは既に限界がきているとやはり思ってしまう。

    ナショナルな意味でのマイノリティが、できる限り平等な権利を得るためには、国家という単位を越えた地域機構の存在が必要という著者の主張。国際連合United Nationsが実質的な意味では、United States(そしてそれぞれのStateは多数派のNationによって動いている)でしかないので、少数派のNationが、少数派であることを理由にして不利益をうけないようなそんな仕組みがあればよいという。
    著者がこの著書を書き上げて20年経った今日。EU(著者が執筆時はEC)という壮大な実験の進捗状況について、著者がどういうふうに考えているのか知りたいなと思います。

    本書において一点気になることは、著者が明示しているとおり、リベラリズムを基軸にして、ナショナリズムの言葉をリベラルのために翻訳する、というやり方をとっているということ。本文中でも述べられているとおり、ナショナリズムの最終的な目標は文化的なものであり、政治的なものは目標達成への手段でしかないのは確かだと思う。ただ、イスラームをはじめとして、不可避的に政治的なものを包含する文化・宗教があるのが現実。リベラルというのは、あくまで欧米的・キリスト教的概念が基軸にあるわけで、そのあたりが本当に難しい部分だなと思います。著者も当然感じていることだとは思うのですが、欧米諸国が無理に自らの価値観を他の地域に押し付けようとしていることが時に気になる私にとっては、やはりちょっとひっかかってしまいました。

    われわれ日本人も当然含めて、世界の人々が本書に示されているような、他文化への配慮と尊重の気持ちをもって生きて行けばどんなに素晴らしい世界になるのかな、と思います。そういった世界に少しでも近づいていけるように自分にできることは何かと常に考え続けて行きたいです。

    非常にいろいろなことを考えさせられる良書でした。

  • 読破断念。1行1行、私の読解力を超える文章の羅列・継続で、何度同じ文章を読み返しても頭に入りません。2割ほど読み進んでみましたが、読書放棄といたします。

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