ならず者たちのギャラリー 誰が「名画」をつくりだしたのか?

  • フィルムアート社
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  • Amazon.co.jp ・本 (512ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784845917150

作品紹介・あらすじ

サザビーズの競売人(オークショニア)が案内する、美術史と美術品の価値に影響を与えた魅力的な画商列伝。

数量でははかることが難しく、美や質や稀少性といった概念によって左右される美術品の価値。

画商が売りこんでいるもの、それは漠然とした、はかり知れない、だが無限の値打ちをもったもの。
すなわち芸術家の天賦の才能である。

美術の世界でこれまで顧みられることのなかった画商という存在。
美術品を売ることに対して自身の想像力と創意工夫と、
そして説得力の限りを捧げた一群の魅力的な男たち(そして女たち)が登場!!
美術史に新たな角度から光を投げかける画期的な作品!!

オークション会社サザビーズのディレクター、フィリップ・フックが
今度は「画商」について語る!!

【本書に登場する画商の例】
レンブラントを雇い、才能を開花させた男 … ファン・アイレンブルフ
セザンヌの市場価値をつくった男 … アンブロワーズ・ヴォラール
ピカソらキュビストを発見し、応援した男 … ダニエル=アンリ・カーンワイラー
モディリアーニの水先案内人 … ポール・ギヨーム

征服者なのか寄生虫なのか、あるいはその中間のど

感想・レビュー・書評

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  • 『ならず者たちのギャラリー 誰が「名画」をつくりだしたのか?』(フィルムアート社) - 著者:フィリップ・フック 翻訳:中山 ゆかり - 鹿島 茂による書評 | 好きな書評家、読ませる書評。ALL REVIEWS(2018/11/14)
    https://allreviews.jp/review/2709

    『ならず者たちのギャラリー 誰が「名画」をつくりだしたのか?』|翻訳書ときどき洋書|note
    https://note.com/tuttlemori/n/ncd9c0087b35e

    ならず者たちのギャラリー  誰が「名画」をつくりだしたのか? | 動く出版社 フィルムアート社
    http://filmart.co.jp/books/fine_arts/roguesgallery/

  • 美術品の制作者とその回りにいる人とお金の話しです。

    画家へのお金は、どのようにして画家の手に
    王様や貴族がパトロンとなっていた時代から現代まで、まぁ~知らない事ばかり!
    イヤ、知りたくなかった事ばかり?

    名もない画家を見いだし、援助し、売り出していく博打のような仕事に人生をかけている
    人達、傲慢になっていく画家と渡り合う人達

    あー、画家だってお金持ちになりたいよね


    知識として、こぼれ話しとして、面白かったです。



  • ならず者というタイトルがやや刺激的過ぎて、画商の胡散臭そうなイメージが増幅して読んでしまいがちだが、勿論多少なりともそういう輩もいたと思うが、必ずしもそうではない。
    中世からのアーティストを支えてきたパトロンの役割が、画商に取って代わり現代へと続いていく流れは、政治や経済、戦争の影響も大きいが、とても面白い。
    もし世界大戦がなかったら、アートの中心は現在のアメリカではなく、ヨーロッパのままだったかもしれないし、コンセプチュアルなアートはまた違った形、若しくはなかったかもしれないと思うと、不思議な感じがする。
    なんとなく現代のアートは、日本語の美術という言葉ではなく、アートなんだなぁと思う。

  • 美術史に関する書物は数多くありますが、
    本書は画商、美術商にスポットをあてて、
    彼らの存在がどのように美術史に影響を与えたか?
    というようなことが書かれています。

    画商、美術商といってもタイプはいろいろです。
    ただ単に美術品を商品と考え、
    利益のことしか頭にない商人タイプ。
    いまは無名だけれど
    将来有望な画家を育てることに一生懸命なタイプ。
    新しいブームを生み出そうとするプロデューサータイプ
    商人であり、擁護者であり、開拓者であり、
    探究者であり、研究者であったともいえます。

    ここに記されているのは、
    古代ローマから現代にいたるまでの
    美術品に関する取引にまつわること。
    時代によって翻弄されたのは、
    アーティストだけでなく、
    画商も同じだったということがよくわかりました。
    芸術の中心地がオランダからイタリア、
    イギリス、フランス、ドイツ、そしてアメリカへと
    移り行く様子も興味深く描かれています。

    ほかにも、なるほどそうだったのかと
    感心させられるエピソードが満載。

    いずれにせよ彼らの存在がなければ、
    芸術の進化、発展はなかったかもしれません。
    また、いま世界各国の美術館で
    様々な絵画や美術品を鑑賞することができるのも、
    彼らのお陰かもしれません。



    べそかきアルルカンの詩的日常
    http://blog.goo.ne.jp/b-arlequin/
    べそかきアルルカンの“スケッチブックを小脇に抱え”
    http://blog.goo.ne.jp/besokaki-a
    べそかきアルルカンの“銀幕の向こうがわ”
    http://booklog.jp/users/besokaki-arlequin2

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  • 学生の頃、私がゴッホやモーツァルトを駄作と言ったら憑き物が落ちたような顔をした知人が結構いた。

    彼らの作品に「君らはもっとほかにすることあるだろ」「最初から消化試合でどうするんだ」などと勝手なことを言っていると「そんな風に思っていいんだ・・」と。
    (「生き方として」の駄作と言っています。後述しますが私は「現段階」の人間の機能に鑑みれば価値は存在不可で良い、つまり人間は作品に価値など存在しないと考えて良い、との考えでいます)

    もし宇宙人や人間でないものから「絵に値段をつけてありがたがっている地球人のあの行動は何を意味するのか」「名画とは、人間とは一体何か?」と聞かれたら説明してやろう。

    あれらの作品はいわば人間のカタログ、人類史のハイライトだ。作品そのものに意味はない。ただ、過去の私たちが後世に何を残したのかで、私たちが何者であるのかがわかるはずだと地球人は考えている。自分たちが一体何者なのか?この疑問の答えを出すことは人類の悲願の一つなのだ。私たちは長い間、未来の人類に向けてそれを託してきている。

    それをある時、経済社会が生み出す不安にまみれてしまった私たちの一部が、「カタログとなって残っているということは、価値があるからだ」と勘違いした。(積極的に勘違いさせたのもいるし、善意有過失もある。それがたとえば画商という存在だ)

    言い換えると、地球人は因果関係に弱く、標本にされた昆虫を見て「大事に保存されていたりするということは、特別な個体に違いない」などと考えてしまう習性があるということだ。その標本に美しさを感じることに間違いはないが、それが全てにある美しさだということがわからない。

    とある動物イベントでの話をしよう。私がヒヨコを抱っこしていると、幼児が自分の抱いていたヒヨコを放り出して、そのおとなしいのをくれと言ってきた。手渡して別のヒヨコを抱っこしていると、再びそのおとなしいのをくれと言ってきた。それが何度かループすると泣きわめき出した。自分が子供でうまく抱っこできないのをヒヨコの方に良し悪しがあると考え、世界を恨んだのだ。

    地球で神の子と言われている人が大事なことを言っている。
    「全てが自分の妻であるのになぜ隣の妻を欲するのか」と。(星の王子様も"僕のバラ"という表現でそれを問いかけた)
    それから二千年余りがたった。私たちの進捗状況は現時点で「全てが自分の妻w宗教ww」といったところだ。本質からだいぶかけ離れたところにいる。そして相変わらず絵や音楽やヒヨコや妻なんかに良し悪しがあると信じ、搾取されている。たとえば画商や、国家なんかに。(だが、だいたいは無知が引き起こした善意有過失だ。地球の生命は自らの悪意に長く耐えられるようにはできていない)

    この本を140ページくらい読んだおかげで私は宇宙人たちにばっちり説明ができるようになった。あまりにもばっちりなものだからもう図書館に返しにいこうと、カバーをはずしたら表紙のモディリアーニの描いた画商が特別に悪そうなやつだった。(モディリアーニは中二病だろう。歴史は全くしらないがエコール・ド・パリがアノミーの発生を示唆していることと彼の病はたぶん関係ある)それで、続きを読めばモディリアーニがどのような目に合ってあの病に至ったのかがわかるかもしれないと、もう一回借りることにした。

  •  17世紀は、美術品取引の様々に異なる雛型の確立を見た。画家が工房を開き、雇った別の画家たちの作品を売りに出す。商人たちは作品を買い、そしてのちに別の場所で売って利益を得る。国外の代理人たちが顧客のために、たいていは過去の重要な美術品を探し出して提供する。コレクターたちは、自身のコレクションから作品を売ることで利益が得られることに刺激を感じ、次第に商取引の世界に引きこまれる。そして次には画商たちと、評論家や美術史家といった姿をとる人々との協力関係が誕生していく。この後者の人々の役割は、特定の芸術家たちを後押しし、その過去の芸術家たちの真価や美点がどこにあるかを特定し、それによって価値を特定する枠組みを提供することだった。(p.60)

     以前は狩猟場やライチョウを狩る湿地で楽しみや気晴らしを見いだしていた人々が、今や美術品を収集することに喜びを見いだす顧客となっていた。(中略)18世紀のローマは、政治的な陰謀や社会的な野心、そして美術品の取引が混在する実に魅力的なるつぼだった。驚くほど多様な人々が、その混沌とした世界に関わっていた。外交官、商人、スパイ、貴族、そして枢機卿たち。(p.78)

    「画商が影響力をもっているということは、現代美術の主要な特徴のひとつだ」と、ロンドンの「アート・ジャーナル」誌が1871年に指摘している。「画商はパトロンの位置にとって代わった。そしてかなりのところ、この画商のおかげゆえに、現代絵画の値段は途方もなく上がっている」。英国のヴィクトリア朝時代のすべての画家のなかで、おそらく最も成功を収めたサー・ジョン・エヴァレット・ミレイもまた、この評価を確認している。「現代美術のために支払われる価格の大きな上昇については、これまでは大いにののしられてきた画商たちから主たる恩恵を受けていると思わざるをえない」と、1875年に書いているのである。(p.124)

     印象派の画家たちの作品をこのように国外へと流通させようとした画商の努力は、思いがけない、だが重要な影響力をモダニズムの展開にもたらした。もしデュラン=リュエルが1896年にモスクワで展示されることになる印象派の絵画を送り出していなかったならば、ロシアの若き画家ヴァシリー・カンディンスキーはモネの<積みわら>の絵を見ることもなかったし、それによって抽象芸術を追求する道に導かれることもなかっただろう。(p.246-247)

     作家のエミール・ゾラによると、美術品とは、芸術家のもつ「ひとつの気質を通して見られる創造物の一片」なのだそうだ。これはゾラ自身が印象主義を経験することで生み出した定義であり、そしてこれは客観的な世界と、人間の感覚の主観的な性質との間の関係についての現代の哲学的な探求とも対応する。この定義は重要だ。なぜならこれは、美術品を特徴づけるものとして、またその美術品を刺激的なものへと高める存在として、個々の芸術家たちの気質を強調するものだからだ。したがって印象派の画家たちの作品が市場にもたらされるとき、そこで売られているのは芸術家の気質ということになる。画商たちは、何か新しいものに敏感だ。19世紀半ばのガンバートが市場に出していたヴィクトリア朝時代の絵画は、主題によってブランド化されていた。これに対し、我々は今や個々の芸術家の気質、すなわち個性によるブランド家を手にしているのである。(p.251)

     フィンセント・ファン・ゴッホは亡くなる前に、リードについて心を変えた。1889年6月、弟テオにこう書いているのだ。「シェイクスピアを読みながら、どれほどたびたびリードのことを考えていることか、そして今より病状が悪かった頃、どれほど彼のことを思い出したことか。絵画のことよりももっと画家のことを愛するべきだなどと言い張ってしまったが、ぼくは彼に対してあまりにもあまりにも厳しすぎたし、彼をすっかり落胆させてしまったと思うのだ」。これは多くの画商の心のなかに潜んでいる秘密の確信について、画家自らも認めてくれたことを示している。絵は売るのに適した商品だが、それを描く人々は厄介な存在だという確信である。(p.379)

     ウィルソンは、彼自身が熱心で知識豊かな美術コレクターであり、作品を追い求めることに激しい情熱をもち、また作品そのものにも、それを入手することにも歓びを感じていた。「欲深くない限り、芸術のパトロンにはなれない」と、ウィルソンは言った。「欲深さなしには、人は美術品を正しく評価できるというのはきわめて稀なことだ」。彼は自身の部下たちに、同じように考えるよう奨励した。「私は自分で収集をしない者はスタッフにしたくない。そんな人のことは信頼しないだろう」。(p.418)

     かつて印象派を崇拝したデュラン=リュエルは、だがポスト印象派については今一歩行き過ぎていると感じていた。あるいはヴォラールは、ポスト印象派やフォーヴの画家たち、そして初期のピカソの作品は暑かったが、キュビズムは受け入れられなかった。そしてカーンワイラーは、キュビズムには夢中になったが、ダダやシュルレアリスムの展開を受け入れる時間はなかった。こうした先達とは異なり、カステリには精神的な機敏さがあり、大衆文化に軽蔑的な態度をもっていた抽象表現主義から始め、ポップアートへと歩みを進めたが、このポップアートはむしろ大衆文化に喜んで応じ、それを流用するものだった。概念芸術を代表する現代美術家エド・ルシェがカステリのことをこう言っている。「面白いのは、厳格そうな外見とヨーロッパ的な優雅さをもつこの男が、いつも若者のような心を持っていたことーそして、意味深いことに、英雄崇拝者であったことだ」。(p.476)

     偉大な芸術家が偉大な画商をつくるのであって、その逆ではないということは依然として確かなままだろう。画商たちはまた、過去の美術品に対する公衆の趣味にも影響を与える。そして最も開拓者的な画商たちの場合には、新しい芸術を大衆がどう受け入れるかにも影響を与えている。(p.493)

     もしハーバード・リードが画商たちのなかに認めていた「鈍化した感受性」が美学的なものではなく、実際のところは道徳的なものであったとしたら、おそらくリードは真実に近づいているだろう。美術品取引の歴史は、人間たちの実に多種多様な愚かさとその内面の二心が、独創性とインスピレーション、そしてときおりは英雄的な行為によって彩られている物語であるからだ。(p.494)

  • 画商という者をルネサンス時代から遡って現代に繋がるまで語って,その膨大な知識と内容に圧倒された.それぞれ個性的な画商のユニークさ,また美術市場やアーティストに及ぼした影響など,読み物としても面白く,美術史としても読める,類稀なる本だ.本当に楽しめました.

  • 戦火の絶えないこの世の中で、一枚の絵が何百年もの時を超えてわたしが目にするまでに、尽力したのは描いた本人よりもこういう人たちの貢献が大きいのだろうなぁ。
    お世辞にも聖人君子とはいえない彼らからずる賢くも財を成すために、生き抜くために、アートを扱い、国と国をつなぎ、人と人をつなぎ、時をつないだ。

    先の大戦で失われたアートもあるだろうけどこうして生き抜いたアートもある。その背後には画商達がいたことをちゃんと覚えておきたいな。

    テロリストだったり詐欺師だったり人たらしだったり、いろんな画商がいて、とても面白い読み物でした。
    美術館で絵を見ても、画集を開いて絵を見ても、そこに画家の名前はあっても、所有している人の名前はあっても、扱った画商の名前はない。
    でも、作品の数だけきっと彼らの存在がある。
    そのことをハートに留めて、今後も絵画鑑賞を楽しみたい。

    フィルムアート社さんの本は面白くて好きです。

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著者プロフィール

オークション会社サザビーズの現・取締役、印象派と近代美術部門のシニア・ディレクター。
ケンブリッジ大学で美術史の学位を取得後、1973年にオークション会社クリスティーズに入社し、80年から87年まで19世紀絵画部門の長を務める。画商として活躍したのち、94年にサザビーズに入社し、現在に至る。その間、英国BBCの人気テレビ番組「アンティーク・ロードショー」の鑑定人役としても知名度を高めた。オークショニア、画商として、40年にわたり美術市場で培ってきた経験と専門知識を活かし、執筆活動も行なう。著書に、推理小説『灰の中の名画』(ハヤカワ文庫NV)など美術界を舞台とした5冊の小説や、19世紀絵画を紹介した美術書もあるが、とりわけ美術市場に精通した立場から美術史を論じた書籍に対する評価が高い。世界各国での印象派の受容の歴史を分析した『印象派はこうして世界を征服した』(白水社)は、「フィナンシャル・タイムズ」紙の2009年の「ブック・オブ・ザ・イヤー」に、また『サザビーズで朝食を 競売人が明かす美とお金の物語』(フィルムアート社)は、「フィナンシャル・タイムズ」のほか、「サンデイ・タイムズ」「スペクテイター」「ガーディアン」など、2013年の各紙の「ブック・オブ・ザ・イヤー」に選ばれている。

「2018年 『ならず者たちのギャラリー 誰が「名画」をつくりだしたのか?』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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