わたしは不思議の環

  • 白揚社
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  • Amazon.co.jp ・本 (620ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784826902007

感想・レビュー・書評

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  • 「私」とはいかなる経験であるのか。ベストセラーである「ゲーデル・エッシャー・バッハ」の著者が壮大なテーマに再度挑んだ力作。長大かつ難解だが、文章は著者ならではのユーモアに彩られており楽しく読むことができた。

    著者は一部の哲学者が提唱する「クオリア」という概念を錯覚だとして退けている。「経験」が創発する場に「その経験の経験者」を要請するのは無限後退であり、「私」を捉えることがいつまでも不可能というわけだ。そうではなく、無限の上位跳躍をしつつも最終的にはなぜか出発点に戻るという、エッシャーの不思議絵のような「奇妙なループ」こそが「私」であるというのが著者の主張。そしてそのような閉じた「私」を可能にするのがゲーデルによって見出された不完全性定理のアイデアであるという。
    ゲーデルの「整数式の証明可能性を整数を用いて語る」というアイデアが、「経験の対象とそれを経験する状況を同次元で語る」ことのアナロジー(写像)になっており、これにより「私」は無限後退に陥ることなく「閉じた(=安定した)」存在でいられるというわけだ。

    さらに、このゲーデル文の記述方法にみられる「下からの因果律」の力により、人間は下位レベルの具象を「気にせずに」いきなり上位レベルである抽象のみを了解しているという(この、レベル毎に認識すべき対象を選択するというアイデアに盟友ダニエル・デネットの影響が見て取れる)。そこから生まれたのが、神経学者ロジャー・スペリーの論に着想を得た「動玉箱」という枠組み。器質そのものではなく、外界からのシグナルをカテゴリー化し志向性を獲得するという、動的な無限フィードバックシステムこそが意識を形作るのだという、著者の意識論の中核をなす概念が端的に示されている。一方で心的な現象をニューロンの機能に還元するジョン・サールの因果的還元論をビール缶のアナロジーを用いて痛切に批判しているのが印象的だ。

    本書の著者の哲学的考察において特別すべきは、それらがことごとく個人的経験に対する深い考察に裏打ちされているということだ。深い心的ダメージをもたらした愛妻の死はともかく、ビデオカメラを用いた遊びや封筒の束を握った時に得た不思議な感覚など、あらゆる事象の本質を徹底して洞察し抜く鋭敏な感性には驚かされる。またそこに通底する著者ならではのヒューマニスティックな眼差しが、「奇妙なループ」たる「私」が「私」と同様の他のループの存在を認めることにより他者の認識パターンを取り込むという、本書のテーマの1つである「遍在する私」の基礎となる「共感」という着想をもたらしたのだと思う。

    そして本書で最も「奇妙」と思えたのは次の点。本書に通底するテーマはアナロジー、すなわち異なる状況の本質が同一であることを示す「写像」が人生においていかに強力で芳醇な意味を持つかを示すことにあると考えられるが、その語りそのものがまさに多数のアナロジーを用いて行われているのだ。本書自体が「奇妙なループ」をなしているともいえ、この次元においてもテーマと語りの同型性が表現されていることに思い至った時はめまいのような感覚を覚えた。英語の”loopy”に、「輪の多い」のほかに「頭のイカれた」という意味があるというのも奇妙な符合ではある。

  • 意識や「私」という感覚がどのようにして生じるか、という難問に様々なアナロジーや思考実験を使って著者の直感的な考えを不思議な環として紹介。ゲーデル・エッシャー・バッハよりもはるかに読みやすい。不完全性定理の分かりやすい説明はピカイチだった。ちょっとプライベート的な話に突っ込みすぎてページが浪費されてる感が残ってしまった。「私」が複数または他人の頭脳内にも生じてるかという点についてはミームの概念に近く、メインテーマと逸れてしまうと思った。ある一定以上の複雑性に脳が到達すると必然的に自己言及のループによって意識が生じるという考えで、そうなるとコンピューターなど自動機械でも意識を生じさせることができるはずだという主張になる。ところがいくら複雑でも分子や銀河などのふるまいには意識など生じようもないと指摘しており、その理由についての説明が抜けてしまっているのは残念だった。SFの巨匠アシモフは、複雑なソフトを組むとどういう仕組みか知り得ないが知能を持ったロボットが誕生する構想で物語を作ったが、現実世界でもシンギュラリティが達成するのか、それとも不可能であること、もしくは検証しようがないことが証明されるのか、生きてるうちに答えが出る時が来るとよいと思うばかり。

  • 編集、制作、「後記――GEBから不思議の環へ」を担当。

  • ・ゲーデル、エッシャー、バッハの根底にあるメッセージはあまりわかってもらえなかった。:ゲーデルが発見した自己言及構造。生命のない物質から生命のある存在がどのように生まれるか。

  • 意識をどう考えるか。
    でも、やっとホフスタッターを読み切った。

  • 『わたしは不思議の環』 ダグラス・ホフスタッター著 | レビュー | Book Bang -ブックバン-
    https://www.bookbang.jp/review/article/558434

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    『ゲーデル、エッシャー、バッハ』の興奮をもう一度!
    1979年に刊行されるやいなやアメリカの出版界の話題を独占した『ゲーデル、エッシャー、バッハ』(GEB)。日本でも85年に邦訳が出るとたちまちベストセラーとなり、それから30年あまり経った今日まで、知的好奇心あふれる読者たちを魅了し続けています。
    本書『わたしは不思議の環』はその続編、あるいは完結編とも呼べる作品で、GEBの核心にあった「命をもたない物質からどうやって〈私〉は生まれるのか?」という疑問に、新しいアプローチで再び挑みます。もちろん、著者お得意の饒舌と諧謔は今も健在。ゲーデルの自己言及構造から人間の魂に至る幅広いトピックを縦横無尽に走り抜け、「<私>とな何か?」という人類最大の謎に迫ります。
    認知科学の大家でありベストセラー作家でもある著者が、自身の知見と経験をすべて注いだ新たなる知の金字塔。これぞ本物の読書体験! と言えること間違いなしの、知的な歓びが詰まった一冊です。
    http://www.hakuyo-sha.co.jp/science/fushiginowa/

  • 「ゲーデル、エッシャー、バッハ」で一世を風靡した著者に
    よる、その続巻とも言える本。「ゲーデル─」も少し気には
    なっていたのだが、こちらから先に。

    基本的に著者の考える「意識」像─あるいは「私」像は私の
    それに近いのではないかと思う。「その中心には何も無く、
    錯覚のようなもの」「生まれ持ったものでは無く周りからの
    入力の積み重ねによって生じるもの」「徹底的な霊肉二元論
    の排除」etc. そのためか大変面白く読むことが出来た。

    ただ気になる点もいくつか。まずは「ゲーデルの不完全性
    定理」のループと「意識」「私」のループがどう繋がるか
    という記述が抜けているのではないかと思われる点。
    もちろんゲーデルの不完全性定理についてはとても理解し
    きれているとは思えないし、私が読み落としているという
    可能性も低くは無いのだが、この二つをなぜ同じものだと
    あるいは似たものだと思ったのかという説明がないように
    感じたのだ。

    そしてもう一つは著者による魂の線引き。友達の概念を
    魂があるかないかの線引きに使おうというのはあまりにも
    恣意的すぎる気がする。私はどちらかと言うと蚊にも、
    そして極論すればサーモスタットにさえ何らかの「意識」
    「私」「魂」があると考えて良いと思っている。

    後追いになったが「ゲーデル─」も読むことにしよう。

  • 2018年12月15日に紹介されました!

  • 好きなネタに関して好きな作者が書いているものを同時代に読める幸せ。
    意味はアナロジーの中にしか存在しないという言明は強い。なんかみんなの読んでいるアイディアの本にもそんなこと書いてあったよね。思考の整理学か。自己言及のループの中にしか抽象化が存在しないというようにも読めた気がするけど、なんなんだろうね。抽象化というのは、アナロジーが重ならないと起こらない、そして、意味というのは抽象化されたものである。ってことかな。
    後半の、チャーマーズとかへの言及はいるのだろうか。そこの部分で立場表明みたいになっちゃうのは現在進行系の話としては仕方がないけどね。
    テレビとビデオのフィードバックの話、大学生のころにナムジュン・パイクに触発されてテニスサークルで鍋パーティーしたときに一人でそればっかりやってたことを思い出した。なんだったんだろうね。あれが楽しいと思ってたんだろうけど。
    テレポーテーションの話は、非常に印象に残っていた思考実験で、自分の立場を明確にする際には大変役にたった。僕の場合は、問題となっているのはむしろ自己が複数あるという問題はちょっとかなりFirmwareの書き換えが必要かもな。という考察で、そもそも意識のある状態とない状態が睡眠で限られているときに、ない状態からある状態になるときには連続性保証が必要になるんだけれどそれによって付随的に意識も連続性を持つというプログラムを強いられただけなんじゃないかなと思っている。そこから、記憶がないときの自己ってなに?みたいな最近のたくさんの映画が生まれている。で記憶がないときにも自己は存在するんだという結論に達する場合、主人公(記憶をなくしてしまう人)は毎回、同じように恋に落ちるという作業を繰り返すそのプロセスの再現性に自己があるのだ、みたいな話になる(のかな。見たことないけど)
    あと、妻をなくした人が妻の位置について語る本であったことに愕然とするよね。今めぐりあうかねこれに。シンクロニシティだんねえ。

  • 2018/11/13図書館から借り出し。思っていたよりも部厚くて二週間では読みきれない。

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