「リベラル」という病 奇怪すぎる日本型反知性主義

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  • 彩図社
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  • Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784801302839

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  •  この本の最大の問題は「リベラルはこの本をヘイト本認定して多分読まない」ということなのだ。もっとめちゃくちゃおしゃれな装丁にして、おもわずスタバで読んじゃうみたいな、おもわず遠い目で見えない虹を探していましたみたいな、そんな感傷的な表紙にして、読んでみたら内容はこれ!みたいにして、広められなかったか。それくらい、広まって欲しい本だと思う。
     岩田氏のいまは、リベラルをやっつけるというよりは……リベラルVS保守ではなく「自由VS反自由」であるという枠組みを提示している。そして、リベラルは現在、反自由であるという奇怪な思考に陥っていることを指摘している。自由主義がリベラルであるはずなのに、あまりに自由を求めすぎて、また平和憲法に固執しすぎていて、人々に不自由を要求するまでになっているのだ。
     そして、もっとも知識人が避ける話題として「憲法制定権力」についての指摘があるのが面白かった。「憲法制定権力」とは、内容の正しさには関係なく、憲法を制定する権力を保持したある自由な政治的意思のみが憲法を制定することができる、というもので、当時日本は「オキュパイドジャパン」であったということを大前提として憲法を語らないといけない。それをどうにかして見ないようにして、リベラルは、日本人が自ら憲法を作ったということにしなければならないが、「その憲法を制定した権力はどこですか? 当時の権力は誰ですか」となれば、それは天皇でもなく日本国民でもなくマッカーサーなのである。今の「日本人が憲法を作った説」への痛烈な反論があるし、これに反論するのは思いつかない。また、当時の検閲システムについてもまだまだ研究が足りていないという。それをすると出世できないから、出世したい知識人は大正時代とかをやるそうだ。

     日本的リベラル知識人を本著では、はっきりと発言の原典を示しつつ批判しているのだが、加藤典洋の言説への批判が一番良かった。というのも、「交戦権は否定するが国土防衛隊を編成する」という提言をしたり、それなのに「国内でテロが起きた場合の治安出動は認めない」といった、とにかく「日本国が動く」というのが認められない。別の国家権力が何をしてもいいが、日本国だけはだめ。日本国以外ならば、どんな組織もあって良いということなのだ。日本国の軍隊が憎いのであり、それ以外ならば許すということを貫くために、あらゆる矛盾を超克しようとしている。
     フィリピンが実効支配していたミスチーフ礁、スカボロー礁が中国に奪われるなか、日本は横須賀に第七艦隊があるから、まだ領土は奪われていないわけで、中国は土地を購入したり、韓国の場合は島に移住させたりして、ソフトにやっていくしかないのが現状だ。それもどうにかしたい脅威ではあるけれども。

    「サルトルはたしかに一個の輝かしい才能だと思うが、とぼくはいった。
    ―――ことが政治問題に触れると、どうしてあんなに子どもっぽくなるのでしょうか。
    ―――それが不思議なのだよ。あれほどの才能が。
     歯ぎれのいいアロンが、このときは珍しく暗い顔をして口ごもった」
    (村松剛『アンドレ・マルロオとその時代』角川選書、一七八頁)

    日本にはあまりにもサルトル型の「リベラル」な知識人が多すぎると岩田氏は結論する。

     だが、別に「リベラルな人」の矛盾を指摘しても仕方ないのだ。本人の中では矛盾していないのだから。しっかり発言の原典を示して批判するのは正しいし、必要な行いだが、さらに一番重要になる問題は、「自由」の問題だ。
    【現代日本のリベラルに欠けているのは、なぜ右の全体主義であるナチズムを許さないリベラルが左の全体主義である共産主義を奉ずる人々に対して寛容であり得るのか。】という岩田氏の指摘は全くその通りで、これをリベラル自身が乗り越えていかないと、言論も何もあったものではない。
     岩田氏は日本的リベラルにある「レーニン主義」「左の全体主義」を認める面を厳しく論じている。
     前衛たる知識人、党が、労働者を指導するというレーニン主義の核心は、人々の自由を思想的な正しさの名の下で簒奪するところにある。徹底して自由を排除する思想、それがレーニン主義なのだ。様々な解釈を容認する思想の自由ではなく、ただ一つの正しい解釈を認識すべきだと考えるところに、レーニン主義の特徴があるといってよいだろう、と述べる。そして、しばしば日本的リベラルは……もしくは極端な保守主義は、このレーニン主義に近い状態になる。日本の思想的状況は、「レーニン主義VS反レーニン主義」になっていくのではないかと岩田氏は述べているように思う。では、そのレーニン主義に対抗するには、何があるかと言えば、著者の提示するリベラルな保守主義だ。

    【私の考える保守主義とは、「垂直的共同体」としての我が国を意識し、祖先から継承した祖国を時代に合わせて漸進的に改良しながら、次世代へと受け渡す覚悟を抱くこと、そして、理性、思弁を否定するものではないが、それらを過度に信用することを戒める態度を有することである。
     従って、私の考える「リベラルな保守主義」とは、次のような思想を意味する。
     個人の自由を最大限尊重し、国家の過度な干渉を避け、社会的な弱者の声に耳を傾けるというリベラルな姿勢を保ちながら、我が国の存在が過去から継承されたもので、これを次世代によりよい形で引き継ぐという決意を有すること。そして、改良の際には、理性を過度に信ずることなく、伝統を尊重することだ。】

     これに対する反論として、いくつかある。
    「日本は多民族国家になりつつあるので、他の国の人間の伝統はどうなるのか。他の国の人間の伝統のために、日本の伝統は多少の犠牲は仕方ないのではないか」
    「伝統といっても、日本は差別や侵略を繰り返しており、とても受け継ぐような伝統はない。また、今伝統を思われていることは、明治とかに作られたもので偽物である」

     大きく、横軸縦軸的に「セレブなリベラルの仮面をかぶったレーニン主義的なるもの。自分たちの意見を聞き入れないひとをすべてファシストと判断する考え」っぽい反論があるとすればこの二つではないか。そして、この二つを実行した国はぶつかり合いが絶えず、右派政党が出てくるのを東浩紀は「リベラル疲れ」といって、リベラルであることに疲弊した国民に対してうまいネーミングをつけている。このリベラル疲れをどうするかについては、具体的な言葉は聞いたことがない。せいぜい、マックの女子高生のような存在とかに「いい感じの人権エピソード」を語らせてみるくらいしかないのではないか。もしリベラル疲れという指摘にたいする、具体的な反論・理論があるのならば、知りたいと思う。
     この二つの反論に対する反論として考えられるのは「日本国は日本人のものであるので、他国民の伝統や文化を弾圧するわけではないが、やはり日本とは何かを、日本国においては優先させていきたい。」となり、それだと「他国民を差別しているのか」という意見が出てくる。その場合、「例えばスポーツクラブで会員と非会員があって、会員を優先することは差別ではない」となる。そこからは泥沼の言論バトルとなるので、とても書ききれない展開になってくる。

     あとは、日韓基本条約によって「完全かつ最終的に解決された」問題について、法的責任を果たして、さらに道義的責任として「アジア女性基金」まで作ってもまだ問題が続いているのは、朝日新聞以上に、韓国側がどうにかしないとどうしようもないし、もうすでにそういう慰安婦問題ビジネスとして利権・金が出来上がって、戻れない状況に韓国側もなっているのではないかと思われた。北朝鮮に核武装を解除させるのが無理なように、韓国に慰安婦問題を終結させるのは無理なのだろう。
     あと河合栄次郎を「リベラルな保守」のモデルとして取り上げていて、その河合の「共産主義が歴史の必然であるのならば、なぜ今努力しないといけないのか。勝手にそうなるのではないか」という指摘は本当にそうで、面白かった。

  • 1263

    「リベラル」という病 奇怪すぎる日本型反知性主義
    by 岩田温
    何故、私はそうした自称「リベラル」を批判するのか。それは、日本でリベラルを自称する人々の奇怪な主張が、自由の尊重や社会的弱者に対する配慮とは無関係でありながら、リベラルの条件のように語られているからである。我が国の「リベラル」という言葉には、極めて特殊な意味合いが込められている。私はこの日本における特殊な「リベラル」を批判しようというので

     全く現実を無視したような奇怪な言説を展開する人々がリベラルを自称することに強い憤りを感じているから、自称「リベラル」を批判するのだ。  日本でリベラルを自称する人たちには、顕著な特徴がある。それは、現実をみつめようとせず、愚かな観念論に固執することだ。極めて反知性主義的な態度だといって

    リベラル」は大袈裟な表現で国民を脅す。例えば、集団的自衛権の行使が可能になれば、「徴兵制がやってくる」「戦争がはじまる」という馬鹿馬鹿しい批判があった。だが、現実に集団的自衛権の行使が容認されたが、日本は戦争もしていないし、徴兵制も導入されていない。事実が大切だ。彼らの主張は極端で非現実的な主張であったのである。だが、彼らは自分たちの妄想じみた非難が的外れであったことを反省することは

    共産主義が一億人もの人々を殺戮してきたことも決して忘れてはならないだろう。  日本ナチス党などという政党が存在すれば、多くの国民は驚くだろうが、日本では、未だに共産主義社会の実現を夢想する日本共産党が存在し続けて

    だが、「リベラル」を自称する人々は共産党に対して極めて友好的で

    私自身はテレビを見ると知性が腐食していくと考えているので、ほとんど見ないようにしているのだが、今回、この文章を書くに際して、友人に提供してもらった過去のテレビ番組をじっくりと眺め、驚愕した。こうした番組を客観的で中立的な番組だと思い込んでいては、多くの人は「リベラル」にならざるを得ないだろ

    逆に、国家を守る自衛隊の存在が否定されてしまうようなおかしな憲法だからこそ、憲法を改正する必要があると考えている。多くの改憲派も同様に考えているだろ

    図書館に籠もり、池上彰氏の膨大な著作群に目を通して、私が思い返したのは、この「鵺」の物語だった。  池上氏の著作の特徴は、一見すると際立った主張が存在せず、全く中立的な立場のような姿勢に終始している点にある。従って、本人の主張がどこにあるのかが判然としない。まるで鵺のように得体が知れないという思いを抱かせるの

    熟読すると見えてくる

    ところで、池上氏の本を読んでいて気にかかったのが、池上氏がインターネットのユーザーに対してかなり批判的な点で

    嘘はつかずに「事実の選択」によって、国民を左に誘導する。それが池上氏の真実に他ならないだろう。奇怪な鵺のような言説は、あくまで中立的であるかのように装うための仮の姿であり、その本性は、視聴者を知らず知らずのうちに左へと牽引するガイド。それが池上彰氏の正体

    共産主義思想は、全世界で一億人近くの人々を殺戮した。理想や理念が人を殺すという現実を直視すべきだろ

    多くの人々がイデオロギーの犠牲となった。ナショナリズムにせよ、ナチズムにせよ、共産主義にせよ、政治的なイデオロギーは、正義の名の下に人を殺戮する。他者の存在そのものを絶対的な悪と断罪する。我々はイデオロギーから逃れることはできないであろうし、理念を捨て去るべきでもない。だが、それはつねに狂気や凶器となりうるという自覚が伴わなければならないだろ

    もちろん、政党の政治理念や個性は複雑で幅が広いものであり、例えば、自民党でも様々な見解をもった政治家が存在し、それが自民党の懐の深さとなって

    だが、左翼・護憲派の排除が持ち出されると、それまで小池氏を持ち上げていたマスメディアは、掌を返したように小池批判を展開した。理由は単純だ。マスメディアは改憲勢力を蛇蝎の如く嫌う「リベラル」「ガラパゴス左翼」の牙城だからである。彼らはリベラルを自称するが、リベラリズムとはほとんど無関係だ。彼らの主張は憲法九条が日本の平和を維持してきたという、日本でしか通用しない「信仰」を中核とし、本来のリベラリズムとは異なる特殊日本的な〝退化〟をたどった「ガラパゴス左翼」なので

    保守主義とは、一切の改革を排除するような 固陋 な思想ではない。むしろ、改革を歓迎する思想なのだ。だが、改革の進め方は漸進的でなくてはならないと考える思想なのである。何故か。それは人間の理性とは極めて貧弱なものであり、現実は我々の思弁を必ず越えるものであるからだ。従って、全く根本から国家の制度を設計してみようと試みたり、眼前に存在する制度を根底から覆すような革命的な改革には猛烈に反対

    我が国では、「憲法九条を守っていれば平和が維持できる」「集団的自衛権の行使容認で徴兵制がやってくる」といった、非現実主義的な「平和主義」を信奉する人々を「リベラル」と呼ぶことが多い。この人々の存在がリベラルだと思われているところに我が国の悲劇があるといっても過言ではない。  実際に、こういう人々の主張は本来、保守の思想に基づいたものでもリベラルの思想に端を発するものでもない。端的にいえば、彼らは保守でもリベラルでもなく愚かなだけである。自国が攻め込まねば他国は攻め込んでこないなどという主張には、何の論理性もない。集団的自衛権を限定的に容認すれば、徴兵制が敷かれるという主張も、あまりに極端

    人類の社会は資本主義では終わらず、「共産主義」が到来するというのが、彼らの基本的な世界観なのだ。自由・民主主義社会から共産主義社会への移行を夢見る人々、それが共産党の面々なのだ。この事実を忘れてはなら

    一つの理論を狂信する余り、歴史の名の下に数多の人々を殺戮し、あらゆる犯罪を行うこと自体が正義だと居直る。それが共産主義者の正体に他ならない。彼らは純粋であり、正義を追求しようとしているのだろう。だが、彼らが現実世界で行っているのは、殺戮であり、詐欺であり、背信なので

    日本の「リベラル」を自称する知識人たちは、共産党に対して極めて融和的な姿勢を示しているが、このこと自体が異常な行為で

    その場合、果たして、人間の能力があたかも平等であるかのように、すべての人々に経済的な自由のみを与えたら、どのような結果になるのだろうか。弱肉強食という状況が生まれ、富める者が益々富み、貧しき者が益々貧しくなる状態が永続することになるだろ

    何故、右の全体主義、ナチズムを許さないという「リベラル」が左の全体主義である共産主義を奉ずる人々に対して寛容でありうるのだろう

  • 左右の全体主義にも断固反対し、人格主義を説きながら、祖国の防衛を重要視する姿勢に同意します。

  • 日本の「リベラル」な政治家の中に、現実的に考えられる人が出てくることを願う。
    ソ連の黒いところと言うと、スターリンが思い浮かぶけど、この本の言う通り、そもそも論、親玉はレーニンだし、個人がやったこと云々じゃなくて、共産主義っていう思想そのものにも問題があるってことを改めて実感した。テレビでも新聞でもネットでも、間違った情報、考えに流されないようにはやっぱり「過信と鵜呑みは禁物」だよなぁ~。

  • 同じタイトル「リベラルという病」で山口真由の本もありますので、間違わないでね。
    さて、本書を一言で言えば、
    リベラルを自称する彼らの主張は、憲法9条が日本の平和を維持してきたという、日本でしか通用しない「信仰」を中核とし、本来のリベラリズムとは異なる特殊日本的な退化をたどった「ガラパゴス左翼」なのである。という一文(P128)に集約されます。
    国家とは自国民のため最大の恩恵を与える国民の信託機関であるという前提に立てば、国家間による限られた資源の奪い合いは必然となり、他国民のためを思って遠慮していればたちまち食いっぱぐれるか収奪されることになるだろう。
    つまり、日本国憲法の国際社会の認識は憲法前文で語られる「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」という幻想と「いづれの国家も自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」という勝手な思い込みに彩られた世界観という矛盾を抱えたまま出発している。
    本書で取り上げられている「リベラル」=憲法前文というお花畑思考の持ち主(筆者は反知性主義と呼ぶ)ということになるが、さらに始末に悪いのは、「反日」勢力の隠れ蓑としても利用されている点である。
    お花畑思考の人はあくまでも個人の理想を追い求めるだけなら害は少ないのだが、知ってか知らずか反日勢力の中に簡単に組み込まれうまく利用される(隣人を信じ切るのがこの人たちの理想なので)存在となり、自国を守ることさえ放棄した「平和憲法維持」が目的化し思考停止してしまい、議論の余地がなくなる。
    また、こうした人たちの特徴として、自国には厳しいが韓国にはなぜか物分かりがよく厳しいことが言えない(言わない)という点が挙げられる。
    韓国は悪くない、いつも悪いのは日本人だという自虐史観にこだわる傾向も強い。
    例えば、韓国の慰安婦問題などは国家間で既に2度にわたり解決済みの問題であるにも関わらず何度も蒸し返す事態が続いているのだが、日本のリベラルは必ず「日本人は過去に冒した罪を永遠に謝罪し続けなければならない」「許しが終わるのは韓国がそうだと認めたときであり、日本ではない」とあたかも韓国の蒸し返しに理解を示す発言を行う。
    日本も米国から東京大空襲という無差別爆弾投下や2度の原爆投下という非人道的な行いをされたが(戦後ですら米兵専門のパンパンの存在や白昼強姦での泣き寝入り)、今でも日本人がこのことを蒸し返して謝罪を要求すれば、両国の信頼関係は生まれなかったでしょう。(きちんと言うべきだとは思いますが・・)
    お互いに未来に向けて建設的な関係を構築するためには「和解」、相手を許すことが最初の一歩となるはずなのに、韓国は反日を政争の道具として毎度利用するばかりでらちが行きません。
    一見韓国に理解を示しながらも、本当は両国の和解を妨げているのがリベラル勢力だという認識はお花畑思考の頭にはピンとこないようです。より正確に言えば、従軍慰安婦問題を解決させないことで、日本人を未来永劫責め続けることが出来るネタを手放さないという韓国の尻馬に乗って。
    この辺の背景をわかりやすく解説したのが本書です。
    良書ですので一読をお勧めします。

  • 「リベラル」というと響きはいいが、日本でリベラルを名乗っているのはただの「反知性主義」。
    理想というか信条というか、スローガンというか。
    それのみを掲げて、過去も現状も顧みない。
    なのに、ただリベラルとレッテル貼ると、その言葉から全く違う存在のように周りが勝手に考える。本人もか。
    保守、というレッテルもそうだな。別に懐古主義でもなければ軍国主義でも、増してやファシズムでもない。
    所謂ストローマン的なことをやりたがるのも、「リベラル」な気がするな。
    左翼、についても、「ガラパゴス左翼」とバッサリ。
    共産主義が何故ダメなのかに付いても、簡潔に、明快に論じてあって、すっきりした。

  • 著者の観察、分析は正確で、的を射ている。

    我が国の不幸はまともな野党勢力がいないことだ。

    しかし、河合栄治郎が出てくるとは思わなかった。

  • 現代日本で奇怪な言説を振りまく、「リベラル」と称する人々の反知性主義的な主張をあらゆる点から批判した一冊です。私自身も、日々Twitterを見ていて「あのような頭のいい人がなぜこのような陳腐な発言にいいね!をしているのか」といった「リベラル」の知識人たちを見ていて不思議に思ったことから本書を手に取ってみました。本書では、「リベラル」と呼ばれる日本の知識人の言説を取り上げその批判をしています。特に印象に残に残った「リベラル」の言動についての批判は、第4章にある従軍慰安婦に対しての奇怪な議論です。韓国の言いなりになり謝罪をし続けろという「リベラル」の言論を取り上げ、彼らには「和解」の思想が欠けていると著者は説きます。韓国と従軍慰安婦問題に決着をつけ和解することで前に進むことができるのだと。これには納得しました。
    そして、もうひとつ印象に残ったのは、日本型「リベラル」の人たちは、共産主義と融和性が高く、共産主義とは如何に恐ろしい考え方なのかその歴史を紐解くことで「リベラル」と共産主義を批判しています。
    以上のように難しい内容を一般の人にも分かり易く読み解けるように書かれているので日本型「リベラル」に疑問を持った方にはオススメできると思います。

  • いわゆるリベラルを名乗る集団への批判の書。
    その基になっている日本国憲法、いわゆる平和憲法の欺瞞や成り立ち、共産主義がもたらす悲惨さや脅威についても平易に解説している。
    良書だと思うし広く読まれて欲しいが、もう少し対象を絞るべきだった。

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著者プロフィール

昭和58年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大学大学院修了。現在、拓殖大学客員研究員。専攻は政治哲学。著書に『だから、改憲するべきである』(彩図社)、『政治とはなにか』(総和社)、『逆説の政治哲学 正義が人を殺すとき』(ベストセラーズ)等がある。

「2015年 『人種差別から読み解く大東亜戦争』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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