夜のみだらな鳥 (フィクションのエル・ドラード)

  • 水声社
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  • Amazon.co.jp ・本 (576ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784801002678

感想・レビュー・書評

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  • ラテンアメリカ文学において、何度も何度も「ついに再版される!」と取りざたされてきたがいつの間にか話が流れて…を繰り返されてきた作品がやっと本当に再販された。
    20年近く前に読んだ感想はこちら。
    https://booklog.jp/users/junsuido/archives/1/4081260117#comment

    語り手は小さな唖を意味する<ムディート>と呼ばれる中年の聾唖の小男。
    この<ムディート>がグジグジウダウダした語りをただただ繰り広げてゆくのだが、発表当時スペインでは発禁処分になったくらいの精神的視覚的グロテスクかつ猥雑。
    再版されて読み返すつもりではあったのだが…こういう作品を読むときには、自分もそれなりの状態でないとキツい訳で。自分が疲れていると呑みこまれてしまう、自分が元気すぎると跳ね返してしまう。…今は何だか良いタイミングだったようで、このひたすらグジグジウダウダ陰々鬱々滅滅した500ページの語りに、案外すぐに波に乗れたというか。
    作中で「怪異と醜悪とは別の物。怪異とは美と対等の特権を与えられて高貴の域に達したもの」としているのですが、まさにこの「夜のみだらな鳥」という作品が醜悪を超えて怪異になっているというか。

    始めから状況も<ムディート>の精神も錯乱しているのだが、読んでいくうちにこの<ムディート>がいるのが名門一族のアスコイティア家が昔建てたエンカルナシオン修道院だとわかる。
    この修道院の創設には、魔女と呼ばれた娘とその乳母との因縁話があり…。
    そして今ではアスコイティア家の召使だった老婆たち、そして孤児たちが暮らしている。
    この年老いた老婆たちがとにかくグロテスク。
    一緒に暮らしていていた別の老婆が亡くなればその形見のがガラクタを「わたしにおくれ」「わたしにおくれ」「わたしにおくれ」と群がってくる。
    そして孤児の娘イリス・マテルーナが男と寝まくって妊娠したのを「処女懐妊の奇跡の子」として、自分たちだけで所有しようとする。
    この所有方法とは、外部には知られず出産させ、秘密の暗い部屋で赤ん坊を布で巻きつけて目も見えず手足も使えず、自分では考えることも動くこともできなくさせて完全に老婆たちで面倒を見ようというもの、これこそが汚れなきものの育て方だと。イリスや老婆たちは、〈ムディート〉や老婆を括り寝かせ赤子とした人形遊びにに興じる。
    老婆たちが作ろうとしている、この完全に覆った怪物は”インブンチェ”という。
    インブンチェ。目、口、尻、陰部、鼻、耳、手、足、すべてが縫い塞がれ、縫いくくられた生き物。

    <ムディート>は呟き続ける。処女懐妊なものか。父親はおれだ。妊娠した イリス・マテルーナ は<ヒガンデ>(大男)の段ボールの面をかぶった男と交わったんだ、彼女は一人の相手をしているつもりだったが、町中の男たちが<ヒガンデ>を被り彼女と交わった、そしておれもだ。彼女を妊娠させた<ヒガンデ>はおれだ。

    今この修道院にいる六人の老婆たちは魔女のようだ。そして<ムディート>は自分を七人目の老婆、七人目の魔女にしてほしいと願う。<ムディート>は自分こそがインブンチェになりたがる。
    「おう婆さんたち、おれのからだをしっかり包んでくれ。熱で震えないようにようく包んでくれ。腕も手も、脚もその先も、動かせないようにしてくれ。急ぐんだ。からだじゅうを縫ってくれ。熱い口だけじゃない。目もだ。とくに目を頼む。その力を眼の奥深くに閉じ込めてくれ、もう見えないように。あの男に二度と見つからないように・おれの目が闇の中で、暗い空虚の中で、その力を失ってしまうように。そうだ、おれの目を縫いふさいでくれ。そうすれば、おれはドン・ヘロニモを永久にインポテンツの状態に置くことができるのだ」(P87)

    話が進むうちに、<ムディート>はかつてウンベルト・ペニャローサという名前で、名門アスコイティア家の最後の当主であるドン・ヘロニモの秘書だったとわかる。
    <ムディート>がウンベルトだった頃、ウンベルトはドン・ヘロニモの影武者としてドン・ヘロニモの名声を挙げさせ、そして互いに同化し互いの力を奪い合っていった。
    今の<ムディート>は、すでにウンベルトとは外見が別人で、それはアスコイティア家お抱えのアスーラ医師に体も顔も盗られたのだという。

    栄光のアスコイティア一族は、”魔女”を閉じ込めた呪いか、男子がほとんど生まれなくなかった。最後の当主となったドン・ヘロニモはまさに男の中の男、アスコイティア一族の希望を背負っていた。
    ドン・ヘロニモは遠縁の美女イネスと結婚する。
    だがイネスには魔女のような老女のペータ・ポンセがついていた。
    「光を見ることなく闇に消える宿命を持った物からなる、地下の、左手の、裏の世界とイネスとの関係を断つにはどうすればいいか」 (P197)
    イネスはペータ・ポンセと離れることを拒否し、そのことを条件にドン・ヘロニモに嫁ぐ。

    イネスは一度妊娠した。
    妊娠中のイネス夫人を抱けなくなったドン・ヘロニモは、ウンベルトの目線がないと女を抱けなくなる。

    <ムディート> の語りは続く。
    だがイネスが身籠った、栄光のアスコイティア家を継ぐ子供、その子供の父親もおれだ、かつてのウンベルト・ペニャローサ、今は<ムディート>と呼ばれているおれだ。
    おれがドン・ヘロニモと同化してイネスと交わったのだ。
    だがあの時、イネスもペータ・ポンセと同化していたのだ。ペータ・ポンセはだから今でもおれを追っている、ペータ・ポンセから逃れるためにおれはこの修道院にいるのだ…。
    「光のカップルが宿しえなかった子を、彼女とおれ、つまり闇のカップルが孕んだのだ」(P229)

    そして生まれてきたのは地獄と渾沌とを具現化したような畸形の<ボーイ>だった。

    「やっと許しが出てゆりかごのカーテンを細めに開け、待ち望んでいた子供を見た時、彼はいっそ、その場で殺してしまおうとさえ思った。瘤の上でブドウ蔓のようにねじれた醜悪極まりない胴体。深い溝が走っている顔。白い骨と赤い線の入り乱れた組織とがみだらに向き合死になった唇や、口蓋や、鼻…それは混乱もしくは無秩序そのものであり、死が取った別の形、それも最悪の形だった。
    (…)
    しかし、ヘロニモは息子を殺さなかった。このいわばカオスの変形の父親となったという恐怖が、最初の衝動とのあいだに呆然自失の数秒を挿しはさみ、ヘロニモ・デ・アスコイティアは殺すことを思い留まったのだった。殺せばそれは、敗北を認め、カオスの中に堕ち、その生贄となることを意味しただろう」(P165)
    (この文章三回繰り返されます。これほどおぞましき赤子誕生場面を三回書く作者と三回読む読者…)

    <ボーイ>を殺さなかったドン・ヘロニモは、<ボーイ>のために領地のリンコナーダを不具のもので集める。
    太陽を見るまっすぐな木は切り倒され、捩れた幹の葉が雑然と群がった木を植える。
    庭には身体が捻じれ酷い痘痕面のアポロン像やアテネ像を置く。
    屋敷の回廊を複雑化させ、あらゆる場所に意味のない部屋や行き止まりの廊下を作り迷宮に変える。
    そして<ボーイ>が自然であるかのように見えるくらいの畸形、不具者達を集める。

    「ドン・ヘロニモは細かいところまで指示した。<ボーイ>を取り巻くものは、醜かったり、卑しく下品だったりしてはならない。醜悪と怪異とは全く別のものである。後者の意味するものは美のそれと対立しながら対等である。したがって怪異はやはり美と対等の特権を与えられなければならない。ドン・ヘロニモ・デ・アスコイティアがその誕生の日から息子に与えたいと願ったのは、ただひとつ、怪異なるものだった」(P236)
    アスコイティア家の遠縁で小さな身体と大きな頭を持つエンペラトリス、
    額の真ん中の一つ目と鱗に覆われ猛禽のような手を持つアスーラ医師、
    仰天するほど大きな瘤を背負った修道士のブラザー・マテオ、
    世界一の大女で愚鈍によちよち歩くサーカス女のミス・ドーリー、
    下半身がまったく動かないために以上に太くなった腕と手を使ってトカゲの尻尾のように地面を這うベルタ、
    全身が赤黒く斑の顔を持つ女、鼻も下あごも歪み黄色い乱ぐい歯がむき出しになった男、ペンギンの手足と蝙蝠の耳を持った少女。
    「彼らの肉体的な欠陥はもはや醜悪の域を超えて、怪異と言う、あの高貴な範疇にまで達していた」(P237)

    リンコナーダの館の周りには不具者の町ができ、政治、道徳、経済、習俗のすべてを彼らが作る。不具者たちの使命は<ボーイ>に苦痛や快楽、幸福や不幸など、人為的なこの世界の壁の外に潜んでいるものの存在を意識させないこと。物事には始まるということも終わるということもない、<ボーイ>が生きているのは、他の場所も他の時刻も存在しない、束縛された”現在”の”この場所”のみだった。

    そして 不具者の間で階級が生まれる。直接<ボーイ>の世話を焼き教育を施すエリート、不具の街を作り下働きする不具者たち。
    彼ら不具者の間で唯一”普通の体”を持ったウンベルトは、ドン・ヘロニモと不具者たちの橋渡し役、ヘロニモの全権役だった。不具者が正常な町の中では、健常者であるウンベルトこそが異常者だった。そして秘書として、作家としての才能を認められていた彼は、<ボーイ>のすべてを記録する役を仰せつかっていた。

    「どちらが果たして真の現実なのか、分からなくなりました。内面の現実でしょうか?それとも外部の現実でしょうか?現実がわたしの脳裏にあるものを作り出したのでしょうか?それとも、わたしの脳裏にあるものが、この眼前の物を造り出したのでしょうか?密閉された息苦しい世界。言ってみれば袋の中に生きているような感じです」(P250)

    <ボーイ>が四歳のころ、ウンベルトは胃潰瘍の血便にまみれて倒れたところをアスーラ博士やエンペラトリス達により手術を施される。リンコナーダの畸形たちは手術室に群がる。畸形たちの血はウンベルトに輸血され、ウンベルトと畸形たちの身体がないまぜになる。
    「ウンベルトのそのまっすぐな腕をおくれ、瘤のない背中を私のセムシと変えておくれ、その肌をおくれ、私の蝙蝠の耳と彼の耳とをとりかえておくれ…」
    ウンベルトは身体の八十パーセントを摘出され、畸形たちとの交換を繰り返す。
    そしてドン・ヘロニモが妻を犯したウンベルトの性器と役に立たなくなった自分の性器との交換を申し出た時、残りの二十パーセントとなったウンベルトはリンコナーダの館から、ヘロニモから、アスーラ博士から、<ボーイ>から、ペータ・ポンセから逃げ出す。

    そしてエルカンナシオンの修道院で、ウンベルトは<ムディート>となる。
    しかしリンコナーダを逃げ出した後も<ボーイ>の後を追っていたのだ。
    「ぼくの名前や父の名前、それに母の名前をどうして使ったんです?小説中の人物の名前のように?あんたのような人間が、なぜぼくたちを知っているのです?」(P164)
    ああ、<ボーイ>よ、おれを見捨てないでくれ、かつておれが書いた本を焼き捨て、顔も名前も忘れた者たちの中に入りたいのだ…。

    そして今<ムディート>がいるエンカルナシオン修道院には取り壊しの話が上がっていた。
    それを阻止しようと、ウンベルトの妻のイネス夫人が修道院に住み着く。
    (あれ?そもそもイネス夫人は「<ボーイ>出産後死んだ」みたいな記述があったような…。そして修道院でのイネスはそもそも妊娠したことも無い様な記載だし、同じイネスなのか、記憶が混在しているのか、死んだのはイネス単体で、こっちはイネス&ペータ・ポンセの同化だとか?)

    美女で贅沢好きで上流社会の娘、上流社会の奥様だったイネス夫人は、魔女のような老女ペータ・ポンセと同化し、醜く年老いた姿で修道院の老婆たちを振り回す。
    イネス夫人は白髪で歯が無くボロを身に纏う老魔女の姿の中に、かつての美しいイネスの姿を垣間見せる存在となっていた。
    <ムディート>は、イネス夫人からペータ・ポンセを排斥した姿、かつて自分が夜を共に過ごした美しかったイネスの姿を呼び戻そうとする。
    しかしついにはイネスを狂わせる。

    ウンベルトの去ったリンコナーダは、残った畸形たちにより不具の世界が保たれていた。
    だがある時<ボーイ>は外の世界を知り、そして自分がリンコナーダの外では異常者だと知り苦しむ。
    <ボーイ>は自分自身を慢性的な死の状態でリンコナーダに保つことを望む。
    そのために父親であるドン・ヘロニモをリンコナーダに招き入れる。
    老いても美丈夫であったドン・ヘロニモだが、畸形によって成り立つリンコナーダでは完全に究極の異常者だった。ついにドン・ヘロニモの精神と命とはリンコナーダに呑みこまれる。

    エンカルナシオン修道院で、父の分からない子供を妊娠したイリス・マテルーナは臨月をとっくに越えていた。老婆たちは「私たちを天国に連れて行ってくれる奇跡の子だよ」とりかこむ。
    そして<ムディート>のつぶやきは続く。
     その赤子はおれだ。
     老婆たちが待ち望んでいる「自分たちを天国に連れて行ってくれる奇跡の赤子」とはおれだ。
     老婆たちは実際のおれを見てはいない、おれは老婆たちの奇跡を投影するただ受動的なものだ。だから老婆たちはおれを去勢し、おれを袋に縫い込め、口と耳だけでなく目も奪い、思考を奪う。

    「説明など辞めたほうがいい。信じたいように信じさせておけばいいのだ。条理も不条理も、原因も結果も、この無秩序そのものである人間たちに意味はなかった」(P554)

    取り壊しの決まったエンカルナシオン修道院から老婆たちは新たな住処に去る。
    窓と扉はかつて<ムディート>により閉じられ、ガラクタとボロで埋め尽くされ、最後に運び込まれた五百のカボチャに潰され、手入れのされない植物たちに侵食されて廃墟のようなエンカルナシオン修道院に遺されたのは、最後の老女と完全にふさがれた袋の中で”インブンチェ”となりつつある<ムディート>だった。
    そして風が吹き何も残らない。
    <ムディート>も完全に消滅した。


    ***
    とにかくですね…ウンベルトがアスーラ医師の手術を受ける意識の混濁して妄想とも現実ともまったく分からないあたりの記述はかなりの圧力。
    過去のリンコナーダの館、もっと過去の自分の少年時代、そして未来のはずのエンカルナシオンの老婆たちとの記憶が混在し、
    いないはずの人間がいるはずのない場所に現れ、
    同じ文章の中で複数の人間の意識が混在し、
    同じ出来事を語っても毎回違う内容となり、
    無いといわれたものが別の記述では存在し…。

    後書の解説によると、実際に作者が胃潰瘍で手術を受けた時の妄想と混乱の体験からきているということ。
    しかしそれを「身体の八十パーセントを不具者たちに奪われ、自分の身体が不具の体と取り替わり、自分は正常な臓器の培養体とされ幾度も臓器を摘出され、ついには自分自身は二十パーセントとなり逃げだした」と記載することが作家の力量。

    この本で印象的なグロテスクなものは「畸形たち(人も建物も)」「老女たち」「廃墟」なのですが、それぞれすべて作者が見て心に残った物らしい。
    (他にも「全ての孔を塞ぎ閉じ込めインブンチェ化させる」もかなりグロテスク)
    それをここまでのものに記載するのが…(以下同じ)

    そもそも<ムディート>は聾唖者ということだけど、相手や場合によっては普通にしゃべったり聞いたりしていますからね、この話自体が<ムディート>の妄想なのか?という話の根本がぐらつくわけで。
    <ムディート>自身が「明日になればおれ自身もおれに逢えなくなる。ひとつの顔とひとつの名前、ひとつの機能とひとつの範疇に拘る人間が哀れに思われることがある。統一性という観念が、つねに同一人間であるという牢獄の中に閉じ込めてしまっている。 」とまで言っているので、ウンベルトやら「おれ」やら「ぼく」やら<ムディート>やら赤子やらしゃべれるんだか聾唖なんだか変化し続けるのは当たり前なのか。
    そういえばウンベルトの書いた<ボーイ>の記録というのも存在してるんだか一行も書いていないんだか。
    本の楽しみ方としては意味が分からん、現実が崩壊する、矛盾の中に漂う、というものでしょう。

    とりあえず二回読んでの感想は「映像では絶対見たくない!!」なんですけどね(笑)

  • こんな小説を書けたら死んでもいい、というか、こんな小説を書いて死にたい。
    冒頭の「シスター・ベニータからの電話で、もといた女中のブリヒダが昨夜死んだと知らされて、ラケル・ルイス夫人ははさめざめと泣いた」という一文で、いきなり三人も外国人が出てくるとわけがわからんと混乱に陥り、しかしこの混沌は、のちの他者との境界が入り乱れる展開を予感させるものですらあったと思わせられる。
    で、ブリヒダの死→過去→挿話と展開するなかで「二ヶ月前から」の一語で話を戻すあたりがうまいなあと思ってると、だんだん語り手への不安(「おれ」とは?)が募っていき、それは物語(といってもあってないようなものだが)が進むにつれ増してゆく。
    中上の『日輪の翼』を思い出したけれども、とにかく老婆がたくさん出てきて、そこに修道院、畸型、ともう悪夢のような世界観がたまらない。
    短文で積み重ねてゆく狂気、悪夢のなかで、いよいよだれがなにをしたのかという事実までもが揺らぎはじめ、いったいなにが現実で虚構か?と気が狂いそうになる。
    ほんとうに地獄のような幸せな読書だった。

  • ずっと読みたかった1冊をようやく読破。それにしても久しぶりにへとへとになるような読後感。単純に本が分厚くて重いというのもあるけど、それだけではなくとても気力・体力とも奪われる1冊でした。

    あらすじを書きだすのはとても難しい。語り手が言ってることが全部本当とは思えないし、語り手自身もどんどん姿を変え、時間の流れも順番もわからなくなって、まさに悪夢としか言いようがない。

    以下一応自分の備忘録として。全部で30章あるのだけれど、最初の9章で現在、次の9章で過去の回想、そしてまた現在に戻り、さらにその後のざっくり4部構成。

    1~8章では《ムディート》と呼ばれている聾唖(これもどこまで事実だか謎)の語り手が、老婆や孤児のいる修道院で雑用をしながら暮らしている。孤児の一人、ませた娘イリスは《ヒガンテ》という若者に夢中。この《ヒガンテ》は、どうやら仕事のためのボール紙で作った被り物の名前で、中の人の本当の名はロムアルド。しかしイリスは少々おつむが弱いのか《ヒガンテ》の被り物さえ被っていればそれを彼と信じて体を許してしまうという特殊な性癖の持ち主。《ムディート》はこれを利用し、ロムアルドにお金を払って《ヒガンテ》を借り、イリスを何度も抱く。やがてイリスは《ヒガンテ》を被った客相手の娼婦のようなものに。

    イリスを抱いた客の一人に、彼女らのいる修道院の持ち主、アスコイティア家の当主ドン・ヘロニモ・デ・アスコイティアがいる。実は《ムディート》は、本名ウンベルト・ペニャローサ、昔はドン・ヘロニモの秘書だった。やがてイリスが妊娠し、《ムディート》は自分の子であると確信しながらも、この子をドン・ヘロニモの子にしようと妄想したりする。妊娠したイリスは彼女が処女懐胎したと信じている修道院の老婆たちに大切にされ、《ムディート》もまた、老婆の一人として彼女の秘密を守る企てに参加する。赤ん坊はなかなか生まれず、老婆の一人ダミアナがなぜか赤ん坊化、イリスは彼女を赤ん坊がわりに世話し、二人の異様な関係が始まるがいつのまにかダミアナはいなくなる。《ムディート》はドン・ヘロニモの邸宅へむかう。

    9章で《ムディート》は、熱にうなされており、修道院のシスター・ベニータに語りかける形で過去の告白が始まる。

    10~17章《ムディート》がまだウンベルト・ペニャローサであった頃の過去回想。若き日のドン・ヘロニモは、裕福な名門アスコイティア家に生まれ海外で遊学、やがて遠縁のイネスという美人と結婚する。しかし子どもができない。イネスには、ペータ・ポンセという魔女のような乳母がいて、二人はまるで一心同体。やがてヘロニモは親族の圧力で議員に立候補、政治の世界へ。その頃ウンベルト・ペニャローサは作家志望の貧しい大学生。偶然博物館でヘロニモと出会い、気に入られたことで、本の自費出版に出資してもらい、その後議員になった彼の秘書として雇われることに。あるとき、怒れる民衆に取り囲まれたヘロニモを逃がす途次、ウンベルトが身代わりに撃たれてしまう。幸い撃たれたのは腕で命に別状はなかったが、ヘロニモはこれを利用し、自分が負傷したと喧伝。ここで、ヘロニモ=ウンベルトの同一化、あるいはすり替わりが起こる。

    ウンベルトはヘロニモの妻イネスに恋慕しており、ヘロニモとして彼女を抱く。イネスは妊娠したがっており、しかし子供ができないため、夫以外の誰かと寝てみる必要があったのだろう。しかしイネスは乳母のペータと一心同体で、こちらも同一化とすり替わりが起こっており、ウンベルトは自分が抱いたのがイネスではなくペータだったのでは、とも思う。しかしいずれにせよ、結果としてイネスは妊娠した。やがて待望の赤ん坊が生まれるが、その男児《ボーイ》は、世にも醜悪な畸形だった。

    ヘロニモは、我が子のために、リンコナーダ屋敷を改造、子どもが自らを畸形と悟らずにすむように、さまざまなフリークスたちをウンベルトに集めさせる。スイスから呼び寄せられた医者のアスーラ博士、ヘロニモの従姉で侏儒のエンペラトリスをはじめ、使用人はすべてなんらかの畸形。そこは健常な人間のほうが異形とされる畸形の楽園となり、ウンベルトはその采配と、年に一度のヘロニモへの報告と、《ボーイ》の記録小説を書くことを任務とされる。

    18章で《ムディート》はまた意識混濁している。数年間、ウンベルトはリンコナーダ屋敷で《ボーイ》と大勢の畸形たちと暮らしたが、胃潰瘍になりアスーラ博士の手術を受けた。そのときに彼は自分の臓器がすべてヘロニモと取り換えられ、80%奪われて20%の身体になってしまったという。どうやらこのあと、ウンベルトはリンコナーダを出奔、修道院に逃げ込んで《ムディート》になったということらしい。

    19~26章では、冒頭の修道院の続きに戻る。持ち主であるヘロニモは、この修道院を手放そうとしており、その背景として妻のイネスによる夫の拒否、イネスと同じ名のアスコイティア家の先祖で修道院建設のきっかけとなった女性の列福の問題がある。このご先祖の聖女イネスは、魔女の疑いをかけられ9人の兄たちが真相を探るが、真の魔女は乳母だったという伝説があり、この「魔女の乳母とイネス」という組み合わせは、現在のイネスとペータ・ポンセが反復している。

    このイネスが、ローマへの旅、スイスでの療養を経て、夫のいる家ではなく修道院に帰ってきて、ここで清貧の生活を送ると言い出す。イリスはずっと妊娠中。このイリスのエピソードも、ウンベルトの子をヘロニモの子として産んだイネスの反復。一方で、ウンベルトの名を捨てた《ムディート》は、どんどん小さく縮んでいる。アスーラ博士により20%にされてしまったからだというが、老いの表現でもあるのだろうか。どんどん縮んだ《ムディート》は、今ではイリスの赤ん坊のふりをしている。しかしイリスに指一本触れられないように、老婆たちに袋に詰められ縛られて。

    やがてイリスは赤ん坊を産むが、それは《ムディート》。本当はイリスはただ太っただけで妊娠していなかったのか。いずれにせよ、ここで《ムディート》は、《ボーイ》の反復となる。イネスは、老婆たち相手に賭け事やゲームをして暮らしていたが、ついに発狂。精神病院へと連れ去られてゆく。《ムディート》は、イネスはスイスの病院でアスーラ博士に、子宮摘出手術をしてもらったのみならず、中身をペータを入れ替えられたのだと考える。

    27章~ウンベルトが逐電したあとのリンコナーダ屋敷を支配していたアスーラ博士とエンペラトリスのその後、二人は夫婦となっている。《ボーイ》は10代半ばに成長、あるときついに屋敷を脱走、外の世界を見分する。当たり前だが、それはあまりにも残酷な現実。畸形の楽園を出た彼は外の世界に居場所はないことを悟り、リンコナーダに戻ってくる。そしてこの5日間の記憶を除去してくれとアスーラ博士に頼む。

    一方で父ヘロニモは、ようやくこの息子に再び関心を抱き、リンコナーダ屋敷でしばらく一緒に暮らすが、畸形たちにとっては健常なヘロニモのほうが滑稽な異形。ずっと彼らといるうちにヘロニモは混乱、ついにある晩、溺死してしまう。イネスの去った修道院はいよいよ閉鎖されることになり、老婆たちはマイクロバスで嬉々として引っ越してゆく。イリスは妊娠の嘘がバレて娼婦にされてしまった。袋詰めにされた《ムディート》は、まるでインブンチェのようだ。やがてすべては空っぽになる。

    全体的に、同じテーマの反復がとても多く、登場人物たちは常に中身が入れ替わり続けている。《ヒガンテ》のエピソードが象徴しているように、中身が誰でもかまわないのだ。つまりアイデンティティの物語でもある。

    《ムディート》とヘロニモ、イネスとペータは相互に入れ替わり、おかしな四角関係となるし、ご先祖イネスのエピソードは現在のイネスと同じ構図、そして紛らわしい名前のイリスもまたイネスである。イネスから生まれた《ボーイ》と、イリスから生まれた幻の赤ん坊《ムディート》もある意味同一人物。ウンベルトの名を捨てて以降、《ムディート》は老婆になったり、赤ん坊になったり、ヘロニモになったり忙しい。

    ものすごく平面的なことだけまとめれば、ウンベルトがヘロニモの妻イネスに横恋慕した、しかしその恋は成就せず、ウンベルトは二人に復讐を企てた、というだけ話なのかもしれない。いやもうさすが南米文学、すべてが狂気の沙汰でした。

    • 淳水堂さん
      yamaitsuさん〜♪

      yamaitsuさんのレビューを読みまして、私の”あらすじ”の理解は間違っていなかったと安堵しました(笑)
      ...
      yamaitsuさん〜♪

      yamaitsuさんのレビューを読みまして、私の”あらすじ”の理解は間違っていなかったと安堵しました(笑)

      最初から最後まで、反復、同化、中身は誰でもいい、ぐるぐる巻き(出られない)でしたよね。
      文章も、ボーイ誕生の<やっと許しが出てゆりかごのカーテンを細めに開け、…>の部分が何度か出てくるんですよね。
      このおぞましい文章を何度も読んじゃった−−−、むしろ癖になるーー、みたいな(笑)

      狂気じみているのにスラスラ読めたのは、
      <醜悪と怪異とは全く別のものである。後者の意味するものは美のそれと対立しながら対等である。したがって怪異はやはり美と対等の特権を与えられなければならない。>
      <もはや醜悪の域を超えて、怪異と言う、あの高貴な範疇にまで達していた」>
      という畸形たちの表現がまさに「夜のみだらな鳥」そのものでもあるからかなあ。
      どんなにグロテスク・混乱・狂気じみていても、読んでいて醜悪で不快は感じず、美と対等の怪異になんか敬意を感じてしまうような。
      そして「胃潰瘍」だとか、yamaitsuさんが最後に書かれている現実的解釈をこのような怪異に書けるということが、作家としての力量ですよねえ。
      ラテンアメリカのマジックリアリズム作家には特にそのように感じます。
      2021/10/05
    • 淳水堂さん
      連投すみません。

      中身が違っててもかまわない、現実ってなんだよ?みたいなのは、以下の文章にも出ていて印象的でした。自分が常に自分である...
      連投すみません。

      中身が違っててもかまわない、現実ってなんだよ?みたいなのは、以下の文章にも出ていて印象的でした。自分が常に自分であるっていうことが”牢獄”って言われちゃったらさあ(苦笑)。

      <どちらが果たして真の現実なのか、分からなくなりました。内面の現実でしょうか?それとも外部の現実でしょうか?現実がわたしの脳裏にあるものを作り出したのでしょうか?それとも、わたしの脳裏にあるものが、この眼前の物を造り出したのでしょうか?密閉された息苦しい世界。言ってみれば袋の中に生きているような感じです。(P250)>

      <決して同じ人間のままではいないという自由、(…)全てが一時の間に合わせで、常に変わる。今日のおれは確かにおれだが、明日になれば誰も、いや、おれ自身がおれに逢うことができない。人間は仮面がある間、人間であるにすぎないからだ。シスター・ベニータ、おれはときどき、ひとつの顔とひとつの名前、ひとつの機能とひとつの範疇に拘るあなたのような人間が哀れに思われることがある。あなたはその執拗な顔から絶対に逃げられない。統一性という観念が、つねに同一人間であるという牢獄の中に、あなたを閉じ込めてしまっている。P160>
      2021/10/05
    • yamaitsuさん
      淳水堂さん、こんにちは(^^)/

      淳水堂さんの感想も拝見しました~!
      読後へとへとになっていたので、あの悪夢感をわかちあえて嬉しい!...
      淳水堂さん、こんにちは(^^)/

      淳水堂さんの感想も拝見しました~!
      読後へとへとになっていたので、あの悪夢感をわかちあえて嬉しい!(泣)

      確かにこの作品自体が「醜悪」ではなく「怪異」なんですよね。だから恐ろしいけど美しくてどんどん読んでしまう。

      ボーイ誕生場面、何度か出てくるのでデジャブ感がすごくて、これさっき読んだよね?あれ?って感じで自分の中でもぐるぐる、それなのに逆に「あれ?さっきと違うこと言ってない?」という辻褄の合わない場面も多々あって、もうこっちの頭がおかしくなりそうでした(^_^;)

      ずっとリンコナーダにいたはずのアスーラ博士がスイスでイネスの手術をしたことになってたり、ムディートが修道院の前に捨てられていた赤ん坊になっていたり…。何が本当かなんて追及するだけ無駄なんですよね。

      シスター・ベニータ、登場人物の中で唯一まとも、かつ存在に一貫性がありましたが、ムディートにとってはそれこそが「牢獄」なんですね(^_^;) インブンチェのようにすべての穴を塞がれて内側に閉じこもっている状態もその象徴なのでしょうか。

      いやはや、ほんとに久しぶりに衝撃的な1冊でした…。
      2021/10/06
  • 作者が見かけてショックを受けた光景が2つあり、そのイメージを作品にしてるそう。その2つの世界はフリークスと、廃墟化した修道院にたむろす老修道女。自分は話の筋とかあまり気にしないので抵抗は少ないと思うのですが、読み進め積み上げた情報がすぐに粉砕される。あれ、これは時系列でいうと昔の話なの?そういうわけでもねえ。最後につながるのかな?そうでもねえ。

    その?が気になり、自分ははよ!次はどうなるねん、ととにかく夢中になって読みました。560ページ位。

  • ラテンアメリカの文学。
    長すぎて読むことが苦しかった。

    迷宮的な分裂病的な小説。なにが現実か何が妄想かわからなくなる。ムディートの無意識から生まれるそれらの奇怪さは、錯雑した独白の中から、常識的に理解しようとしたらかなり怯む。

    外国文学の読書会の課題本でなかったら読み終えることができなかった。
    しかし、現実世界も私たちの脳の中の現実なのだろうから現実か妄想か!もありで、これを8年かけて組み立てたチリの小説家ドイソさんも凄い。
    腐りかけの一歩手前のぎりぎりのところをいく傑作って意見に納得。お婆ちゃんこの小説だって意見も。マテ茶を老婆がすすってて飲みたくなった。
    老婆と畸形の者たちが沢山てできて、隠された畸形の世界の中でも1級の畸形にみんな憧れて、現実の階級制度とか揶揄か。

    あなたにとっての傑作ってなんです?

  • 本書の説明やあらすじでやたらと取り沙汰される「畸型の王国」はいうほどメインではなく、それこそ《ムディート》の手術後と同じく全体の20%ほどに過ぎない。
    『ドン・キホーテ』の内容の代名詞「風車に突撃」シーンは、実際に読んでみると一瞬で終わってあんまり印象に残らないのと似ている。未読者に向けたキャッチーな要素が必ずしも小説の大部を占めていない例。


    お婆ちゃんの存在感がある小説が好みであることに最近気付いたのだけど、この小説も、とにかく大勢のお婆ちゃんズが元気に喋って老いて子育てして遊んで歌って死んでの大活躍を繰り広げるので、好き。

    「自分」というアイデンティティがぐらぐらしている方が安心感を覚える無我論者なので、その点でも非常に自分好みであった。(そういう奴ばかりが登場し、あまつさえ語り手の座に居座っていやがる小説が読み易いかといわれれば当然そんなことはないのだが。)

    途中二度の「寝かせ」の時期を挟んで1年半かけて(だいたい3分の1ずつに分けて)読み終えた。
    読み始めた当初のメモには「めちゃくちゃムズい…」とビビりまくっている様子が残っているが、終盤3分の1を五日間で一気に駆け抜けてられたのは、レサマ=リマ『パラディーソ』漬けの2ヶ月のあとだったからだと思う。正直なところ、『パラディーソ』のあとでは、『夜みだ』の文章はなんて読みやすいんだろう!と感動するほどだった。(じっさいドノソの文体は端正で正統派なほうだとは思うけど。)
    そもそも文体からヤバい鈍器本のあとでは大抵の「難解と言われる傑作」が霞んでしまう現象は、4年くらい前にギャディス『JR』の次に『百年の孤独』を読んでしまったときとまったく同じだ。
    とはいえ、むろん、「ヤバい」ものがすなわち良い文学作品、好きな小説というわけでもなく、それぞれに得難い読書体験ではある。

    ちなみに、『パラディーソ』と『夜のみだらな鳥』は、対照的ともいえるし、根本的/最終的にはかなり近いものを体現しているのではないかとも思う。
    両作の「属性」を雑にいうと、『パラディーソ』は圧倒的に光属性で、『夜みだ』はタイトル通りに闇属性だろう。(より厳密には、闇というよりも「負」属性というほうがしっくりくるけど。あとは「冥」とか。)

    で、直喩などの修飾の過剰性を全開にしたネオバロック文体の『パラディーソ』が、それによって言語・言葉そのものの価値/世界を創り出そうとしているのに対して、『夜みだ』は、同じ人物名でも指示対象が入れ替わったり判然としなかったりと、言葉のある種の無力さ、無価値さを表現していると解釈してみる。しかし、そういう言葉の無力さを照射する基盤となっているのもまた言葉の集積(=小説)であるために、逆説的に、言語はそれ自身の存在価値を崩壊させてしまうほどの力があることを示してもいる。ドノソの文体が意外とふつうにちゃんとしている点もここに効いてくる。端正な文章でアイデンティティおよび言語の価値を融解させる物語を創り上げるからこそ成立する文学作品であるということ。
    そして、直喩の過剰さによってもはや言葉そのものが破綻を来している『パラディーソ』もまた、言語の万能さと無力さが究極的には一致することを示していると考えれば、『夜のみだらな鳥』とテーマは共通する。
    まぁ、こうやってレトリックをこねくり回せば大抵の文学作品に当てはまっちゃうんですけどね……(台無し)


    最後に、もっとも『夜のみだらな鳥』で個人的に刺さったのは、修道院に帰ってきたイネス夫人が老婆たちと始める賭けドッグレースの描写。彼女が選んだ黄色い犬のコマが、ページをめくった次の文章からは本物の牝犬として疾走する様子が流れるような文章で描かれる。そして、リンコナーダ屋敷での「あの夜」に、茂みから目を光らせていたあの犬へとシームレスに繋がっていく。
    ここは、ゲーム/遊戯という虚構と現実が融和している点で、ドノソ文学の本質を象徴している場面だし(『別荘』然り)、それを抜きにしても文章がめっちゃエモいので好き。泣きそうになった。こういうのに弱いんだよ……

  • あらすじはあってないようなもの。この世界に引きずり込まれるかどうか。

  • 長らく品切れだった名作が復刊。
    実は集英社版を持っているのだが、矢張り新刊で買えたのは嬉しい。
    今回、再読してみて思ったのだが、これ、キャサリン・ダンの『異形の愛』とちょっと通じるところがあるんじゃないかな〜。

  • 「畸形の楽園」とかもういろんな意味で映像化不可。グロい部分もあり。混沌を楽しめる人には面白いと思えるでしょう。おススメするには人を選ぶかな。私は南米小説に慣れている方だと思うので一気読みしましたが、誰が話しているのかわからなかったりで結構苦労しました。イリスとイネスの会話とか…かすみ目には辛い。

  • 上下段の長い小説だったけど、読みやすかった。

    皆川博子さんオススメの本。

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著者プロフィール

1924 年、チリのサンティアゴのブルジョア家庭に生まれる。1945 年から46 年までパタゴニアを放浪した後、1949 年からプリンストン大学で英米文学を研究。帰国後、教鞭を取る傍ら創作に従事し、1958 年、長編小説『戴冠』で成功を収める。1964 年にチリを出国した後、約17 年にわたって、メキシコ、アメリカ合衆国、ポルトガル、スペインの各地を転々としながら小説を書き続けた。1981 年、ピノチェト軍事政権下のチリに帰国、1990 年に国民文学賞を受けた。1996 年、サンティアゴにて没。
代表作に本書『別荘』(1978 年)のほか、『夜のみだらな鳥』(1970 年、邦訳は水声社より近刊予定)、『絶望』(1986 年)などがある。邦訳書:『境界なき土地』(1966 年、邦訳2013 年、水声社)、『隣の庭』(1981 年、邦訳1996 年、現代企画室)

「2014年 『別荘』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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