日本の「安心」はなぜ、消えたのか 社会心理学から見た現代日本の問題点
- 集英社インターナショナル (2008年2月26日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (264ページ)
- / ISBN・EAN: 9784797671728
作品紹介・あらすじ
偽装国家ニッポン!?いつからこの国は「嘘つき」だらけになってしまったのか?その驚くべき真相を最新の心理学が鋭く解き明かす。
感想・レビュー・書評
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時勢、時流、社会は「勢い」で決まる場合も多くなった。 「臨界質量」40%を超えるとその勢いが増す(良くも悪くも多数の流れが発生する)、とある。また、ここにあるのは「武士道」的モラルは現代の資本主義社会(契約社会=信頼・安心)には合っていない、と言う。元々日本で多いのは「〜すべきだ」が多く「〜する方が得だ」が未だ少ないことが原因だと言う。また、日本の「安心」が少なくなったのは政治家の自己主義(個人主義者)が多くなり信頼関係が薄くなったことは実際肌で感じる。
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キーワードは「安心社会」と「信頼社会」。
「安心社会」とは、クローズドな共同体集団を前提にし、共同体の成員が相互の素性を熟知しており、成員個々の行動に関する情報は成員間で共有されることになるため、相互監視と制裁の仕組みが働くことで社会の規律が維持される社会のこと。
そこでは、共同体の成員であることイコール共同体のルールを守る人間であることが明らかであるので、自分自身が集団の中で波風を立てず共同体のルールを守っていさえすれば「安心」して暮らすことができる。
一方「信頼社会」は、オープンで流動性の高い社会において、共同体が保障する「安心」に頼ることなく、個々人が自身でリスクを引き受けて他者に対して「信頼」を与えて積極的に人間関係を拡げていこうとする社会のこと。
他者に騙されたり裏切られたりするリスクは常に付きまとうものの、そのリスクを見込んだ上でなお人間関係の広がりによって実現する便益を享受していこうとする社会。
「安心社会」と「信頼社会」は、各々全く相容れない異なる原理で成り立っている社会である。
「安心社会」においては、同じ共同体に属していればそれだけで「安心」できるので、他者が「信頼」できる人物かどうかを吟味・判断する必要がない。
日本はずっと「安心社会」でやってきた。
農村の集落共同体、地域社会のコミュニティ、終身雇用を保証する家族主義の企業、護送船団方式の行政…
ところが、ここにきてその「安心社会」が維持できなくなってきている。
地方から農村への人口移動は人々と地域の結びつきを弱め、核家族化により血縁による相互扶助の仕組みも崩れ、経済の成熟化とグローバル化により日本的雇用慣行も維持できなくなりつつある。
様々な内的・外的要因により「安心社会」から「信頼社会」への移行をせざるを得ない環境にありながら、それがうまくいっていない。
即ち、ずっと「安心社会」でやってきた日本人は、見ず知らずの他者を「信頼」することに慣れていない。
自らリスクを引き受けて自己責任で相互に「信頼」を与え合うという行動様式をうまく使いこなせないが故に様々な問題(企業不祥事、いじめ問題、公共道徳の低下…)が生じているのではないか。
…といったところが著者の現代日本に対する見立てです。
著者はまた、「日本人らしさ」という一般的な概念にも疑問を投げかけます。
「日本人は『和』の心を持っている」「控え目で、自分を犠牲にしてでも公益を優先させる」というのは常識のように言われている話です。
著者の社会心理学実験でもそのような傾向は結果として現れるのですが、さらに厳密に調べていくと、それが日本人だけが特別の心の性質を持っていることに起因しているわけではないことが判る。
「控え目」「自己犠牲」「集団主義」は、日本人の心の特性ではなく、そうすることが日本の「安心社会」で生きていく上で都合がよかったために自然と身につけられた方便であったのだ、と分析されます。
従って、様々な問題を抱える現代日本の社会問題への対処策として、「昔の日本人が持っていた『心』を取り戻そう」と、精神主義的な倫理教育・道徳教育を持ち出しても効果など生まれない。
そもそも理性に過剰に期待するのは非現実的であり、精神論ですべてを語ろうとするのは思考停止に他ならない。
昔の日本人が特別に高い道徳心(無私の精神や清貧の思想)を持っていたわけではなく、そうすることが「安心社会」に適応する上で有利だったというだけのことであり、「安心社会」が成り立たなくなった現代日本社会においてそこに立ち返ったところでうまくいくはずもない。
最近よく持ち出される「武士道」精神にしても、「安心社会」でこそその有効性を発揮できる統治の倫理なのであり、「信頼社会」に無理やり当てはめようとすると、その組織防衛的側面が裏目に出て却って社会を混乱させてしまう。
…と、備忘も兼ねて長々と要旨を書いてしまいましたが、今の日本が直面する問題の本質をこのように捉える考え方は広く共有されているものかとは思います。
池田信夫氏がブログで書いている<a href="http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/012c01871ea97ec8a0b2aad2648f2a2e">「日本的中間集団の安定性の崩壊」</a>というのも同じことでしょうし、先日読んだ<a href="http://blog.goo.ne.jp/rainygreen/e/9014d783ae61a2b9125377a67aa40863">「日本の難点」</a>でも「社会の包摂性の喪失」が指摘されていました。
犯罪や不祥事などが発生した際に、世論が、加害者が帰属する集団(企業、学校、家族など)の責任を追及しがちになるのも、規律の維持責任を共同体が担っていた「安心社会」の名残りであるように思います。
問題の所在を捉えるのは比較的容易であっても、それに対する処方箋を立てるのはなかなか難しい。
著者は、「安心社会」と「信頼社会」はどちらが優れているとか劣っているとかそういうものではないと書いてはいますが、全体のトーンからすると「信頼社会」に適用できるよう社会の仕組みを変えていくべきだと考えているように窺えます。
これだけ社会が流動的になってしまった現実を考えると、その方向性しかないことには同感なのですが、ではどうすればよいのかと云えば、「アメとムチ」をより効率的・効果的に使うだとか、「武士道」ではなく「商人道」の価値を見直すだとか、いまいちパッとしません。
宮台氏の処方箋も、「道徳よりもシステム」「合理よりも不合理」とのことであり、かなり似通っている印象ですが、解決のための具体的な方策がすぐに打ち出せるほど簡単な状況ではないということはよく分かります。
本著のような冷静な視点は大好きですし、現代日本の問題の本質を明快に指摘している点で、お薦めできる一冊だと思います。
欲を言えば、「安心社会」から「信頼社会」への移行という局面に差し掛かっているのは何も日本ばかりではないと思うのですが、その中で日本固有で抱えている問題(例えば、自殺率が国際的にみて高いことなど)の考察を入れられていれば、さらに多面的に問題の所在を捉えることができたのかな、という気がします。 -
日本人は他人を信頼していないが故に集団のルールを厳格に守ることによって「安心」を維持する人々であるというのが本書の結論である。そして、いじめが起こる原因は本当は個人主義のはずなのに「集団を大切にしなければいけない」という誤った認識からくるという。今何でもかんでも日本人の精神とか、昔の日本を取り戻そうという結論に結びつけられて、我々若者が責められているのは私も過ちであると思うし、いい迷惑である。結論においては、概ね同意する。
ただ、本書に2の評価をつけた理由は、著者が社会心理学者でありながら、理論的なところを原因帰属だけによっているためである(読み間違えているかもしれない)。排除の構造はもっと複雑であり、みんながやってるから私もやるなんて人間はそんなお粗末な存在ではない。実験からわかるデータは最も客観性を示すのに有効ではあるが、そのデータが登場する社会背景、歴史などを踏まえて説明をする必要があると思う。本書を読んだあとは、非常にチグハグな断片同士が結びつけられて、主観的な主張に止まっているように見える。せめて今と昔の価値観が異なることを証明するなら、コホートを追った縦断研究を引っ張ってきて欲しかった。著者は教育の力をあまり重視していないが、教育によって作られる国民性は確かに存在する。例えばアメリカの学校では、ディベートの大切さが重視され、議論の重要性が叩き込まれる。対象に日本では詰め込み教育、教師に意を唱えることを不可とする権威的な教育が行われてきた。人間は環境に適応し、うまくやるために「学習」する生き物であるから、なんども反芻した行為から価値体系が作られることは間違いない。
あと出典がないのも残念な点である。データにとって最も重要な裏付けがないので、論の信憑性がほぼ感じられなかった。
結論は非常に重要なのに、道中があまりにもひどく学者の著作としては非常に残念だった。
現代人の心理を読み解くのであれば、斎藤環氏の著作の方が適当であると感じる。 -
世の中には、閉鎖的な安心社会と、商取引から発展した信頼社会があり、それぞれが異なるモラル体系を作り上げたと論じる。2つのモラル体系は全く対立するものであるため、グローバル化が進んだ信頼社会においては、安心社会に基づく武士道の精神を持ち出すのは有害であると断じている。
教育で知識を教え込むことはできるが、人間性に反した形に心を作り変えることはできない。生まれたての赤ちゃんの心はホワイトボードのようなものであると考えた20世紀の社会科学は誤りだった。国民への倫理・道徳教育に熱心だったソ連や中国でも、他人に奉仕する立派な国民が生まれることはなかった。
モラル教育では、利己主義者がただ乗りの恩恵を受け、まじめに教育を受け止めた人が損をする結果となる。アメとムチ方式では人々を監視するための仕組みが必要であり、そのコストの方が大きいことがある。人々の多くは、他人の動向を見てから自分の態度を決めようとする日和見主義者。他人のどれくらいが行動を起こせば自分も同調するかは人によって異なり、状況が少し変化すると結果が大きく変わることがある(その潮目となる比率を臨界質量と呼ぶ)。
進化の過程で人間が身に着けてきた人間性を教育によって修正しようとするよりも、心の中にある人間性の本質を理解し、その性質をうまく利用する方が、社会の様々な問題を解決するためには建設的である。著者は、約束を守り、正直者でいること、ポジティブな評価を得た人が得をする社会をつくることが効果的ではないかと主張する。
欧米には何事も積極的に挑戦し、自分の特性を伸ばしていくことが善とされるが、日本などの東アジアでは自らの欠点を見つめ、それを克服していくのが正しい生き方であるとする文化がある。しかし、日本人が自己卑下の態度を示すのは、その方が日本社会ではメリットが大きいから謙虚にしているだけで、「日本人らしさ」なるものは、日本社会で生きていくための戦略的行動に過ぎない。
日本人とアメリカ人を対象とした他者一般への信頼感を調査した結果によると、「たいていの人は信頼できる」と答えたのは日本人では26%だが、アメリカ人では47%で、アメリカ人の方が他者一般への信頼感が強い。農村などの閉鎖的な社会では、悪事に走ったり、非協力的な行動をとると、損になる。メンバーが互いを監視し、何かあった時に制裁を加えるメカニズムがあることが安心を与えているのであり、他の仲間を信頼する必要はない。日本人が「和の心」を持ち、他人と強調する精神を持っているのは相手が身内の場合に限られており、よそ者に対しては警戒感を抱く。
日本人が他人を信頼しないのは、長らく生活してきた安心社会では、正直者であることや約束を守るといった美徳を必要としないため。閉鎖社会では、相手が裏切ることはあり得ないし、よそ者とは手を組まなければいい。誰と付き合うことが安心をもたらしてくれるかを見極めること、つまり、ボスが誰であるか、だれを味方につけておけばいいかといった、力関係、人間関係を正確に読み取っておくことが重要であり、信頼性の検知能力は必要ない。
一般的な信頼性が高い人は単なるお人好しではなく、相手の情報を積極的に活用して評価を修正するためにシビアに観察している。
中世の地中海貿易では、ユダヤ系イスラム教徒のマグレブ人と、ジェノア人の2つのグループがあった。マグレブ人は取引を身内に限定して、裏切った人間とは二度と付き合わない安心社会的な方法を用いたが、ジェノア人はその時々で必要な代理人を立てる方法を用いて、トラブルを解決するための裁判所を整備した。安心社会的な方法はリスクもコストも低いが、環境が変化した時の機会をつかむことができない。ジェノア人の方法はリスクもコストも高いが、機会を獲得して利益を拡大することができたため、発展して地中海貿易を制覇し、マグレブ人は姿を消した。
信頼社会を作り出したのは西欧文化圏だけであり、近代以降に世界で圧倒的な影響力を持てた要因となった。ローマでは統治のための法律だけでなく、人々が安心して商取引をするための万民法があり、この伝統が近代ヨーロッパで信頼社会が生まれる基盤となった。中国が信頼社会を作り出せなかったのは、法制度が治安を守るための刑法や行政法だけで、皇帝が人民を統治するものに限られていたため。
ジェイン・ジェイコブズは、古今東西の道徳律を調べて、市場の倫理と統治の倫理の2つのモラル体系があることを明らかにした。市場の倫理とは商人道で、信頼社会において有効なモラル体系であり、統治の倫理とは武士道で、安心社会におけるモラル体系と言える。安心社会で最も重要なのは、メンバーの結束と集団内部の秩序を維持することであり、伝統堅持こそが善で、集団を守るためには排他的で、欺くことも良しとされる。2つのモラル体系は全く対立するものであるため、混ぜて使うと社会に矛盾と混乱をもたらして、堕落することになる。信頼社会では武士道の精神は相容れず、有害な結果をもたらしかねない。日本において、組織を守るために社会を欺く事例が続いているのも、武士道的なメンタリティが原因と考えられる。
<考察>
日本人が「和の心」を持つのは身内に対してだけで、西欧社会の方が他者一般への信頼感が強いとの指摘には開眼させられた。グローバル化を否定して鎖国の時代に戻るつもりがない限り、信頼社会への移行は避けられないだろう。いつまでもボスに追随し、力関係に頼るだけで、アメリカべったりの外交を続けていると、国際環境の変化に対応できなくなるのは、今年の北朝鮮の変化の際にも露呈したと言えそうだ。取引を身内だけに限定して姿を消していったマグレブ人の歴史は、安心社会の殻から抜けきることができない日本人の行く末を暗示しているように思えてくる。 -
ふたつの驚き!日本人は個人主義!そして他人を信頼していない!単なる意見ではなく、データに基づき解説されているのでグウのねもでない。
「ムラ」社会に基づく「安心」社会、他人を信頼するところから始まる「信頼」社会。クローズ社会とオープン社会とも言えるかな。
現実的に起きている事象、ニュースレベルから個人レベルまでこのような説明されると納得。そして自分の考え方もムラ的発想をしていることあるなあ。
日本と欧米(といってもアメリカ!)の考え方の違いをこのように明確に解説され脱帽です。
そして、武士道と商人道も。武士道をよしとする考え方(これは私もそう)と商人道が混ざった状態!最悪のシナリオ!日本はまさにこの状態に陥りつつある。あいかわず武士道で運営される政府・行政と民間。なかなかくるしい。日本にある外資企業というのも微妙なポジションかな。しかし安心社会から信頼社会にむかっているとはおもう。
純日本企業はまだまだ安心社会かな。でもそれではこのすべてがつながっている世界での未来は。。。。。マグレブ商人と同じ運命をたどらないように! -
日本はお互いに監視し合う安心社会から、協力し合う信頼社会への移行期にある、という本。
社会のあらゆる問題を心のせいにする考えは間違ってるし、それを教育によって解決しようというのは不可能だ。イデオロギー教育が上手く行かなかったのは社会主義国が証明している。
お説教では世の中は変わらない。心がけを改めるなんてスローガンは問題外。人間の心の働きをしり、人間性の本質を理解する事が重要。
そもそも人間の心の動きとは、与えられた環境に対応する形で生まれてくる。環境に合わせて行動したほうが何かと得だから、そのように行動する。
武士道は安心社会の中で生まれた素晴らしい倫理体系だか、オープンで共存共栄を目指す信頼社会には合わない。
情けは人の為ならず。
安心社会、統治の倫理、武士道、すべき
信頼社会、市場の倫理、商人道、したほうが得 -
安心社会と信頼社会という視点が自分として新鮮だった。日本という集団主義社会は社会が安心や信頼を用意してくれて、他人を信頼しなくてよいそうですね。周りをみて同じようにすればよくて、しないと制裁をくらうと。だから一人一人のモラルは高くないそう。なるほど。
小泉内閣あたりから日本社会が変わってきて西洋型の信頼社会へ移行しつつあるようですが、そこは集団主義を卒業できない低いモラルの日本人の気質がモロ出しになってきたそうです。だから色々とあるんですね。なるほど。 -
武士道のイメージが合致する「安心社会」と、商人道のイメージが合致する「信頼社会」。日本的な共同体、ムラ社会的なシステムでは機能した安心社会が、多様性や異質性が押し出されてきた現在においてネガティブな側面を露わにし出したという掘り方は興味深い。一見パラドキシカルな考察もあるが、著者自身の社会心理学実験の結果を多用しながら展開しており納得性も高い。
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ほとんど読む時間なく返却。未読に戻す。