土偶を読む――130年間解かれなかった縄文神話の謎

著者 :
  • 晶文社
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  • Amazon.co.jp ・本 (338ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784794972613

作品紹介・あらすじ

日本考古学史上最大の謎の一つがいま、解き明かされる。
土偶とは――「日本最古の神話」が刻み込まれた植物像であった!
「考古学×イコノロジー研究」から気鋭の研究者が
秘められた謎を読み解く、スリリングな最新研究書。

・縄文時代に大量に作られた素焼きのフィギュア=「土偶」。
日本列島においては1万年以上前に出現し、2千年前に忽然とその姿を消した。
現代までに全国各地で2万点近くの土偶が発見されている。

・一般的な土偶の正体として
「妊娠女性をかたどったもの」
「病気の身代わり」
「狩猟の成功を祈願する対象」
「宇宙人」……
などの説がこれまでに展開された。が、実はいずれも確証が得られていない。

・本書では〈考古学の実証研究〉(データ)と
〈美術史学のイコノロジー研究〉(図像解釈学)によって
ハート形土偶から縄文のビーナス、そして遮光器土偶まで
名だたる国内の「土偶の真実」を明らかにする。

そこには現代につながる縄文人たちの精神史が描かれていた。
日本、5000年の歴史。
現代人の心的ルーツを明らかにする人文書の新しい展開へ。

感想・レビュー・書評

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  • 「北海道・北東北の縄文遺跡群」が世界遺産になった。それにより何回目かの縄文ブームが起きている。特に縄文時代特有の「土偶」は、大きな展覧会もあったし、豪華な本も何冊も出ている。そこまでブームなんだけど、「土偶は何のために作られたのか?」という基本的なことは、未だ謎のままである。まぁだからこそ魅力的なのではあるのだけど。

    竹倉史人氏は「植物の形をかたどっている」と主張する。例えば表紙を見ていただきたい。中空土偶の顔がシバグリに似ている。その他オニグルミやハマグリやイタボガキやサトイモに似ていて、土偶を「神話表現の一様式」と読むのである。

    竹倉氏は、さあこれで「130年間解かれなかった縄文神話の謎」を解いたと宣言して、かなり評判になっている。レビューを見回せば、9割以上は本書の主張を支持しているように思える。しかし、私はこれは「言ったもん勝ちの世界」だと思った。

    本書を読んで、私は2016年に読んだ大島直行「縄文人の世界観」を思い出した。
    大島氏によると、縄文人の世界観は次のように単純化された。全ての非合理的思考は、縄文土器の形の中から「月=水=子宮=蛇」のシンボルに集約される。土偶はおろか、普通の形の土器もそれで説明できるという。しかし、私は縄文人の世界観(非合理思考)を「不死信仰」と「性」への思考だけで説明出来るとは到底思えなかった。大島氏は、この主張で2冊本を出して、一定売ったと思う。ことは考古学的「証拠」を取り出し難い「精神の世界」のことである。大島氏の主張に対して、考古学は沈黙を守った。私は正しいと思う。考古学界としては正しいと思う。しかし、個人としては意見を表明してほしかった。読者はこういう本を読むと右往左往してしまうからだ。

    私は、今年2月「顔の考古学」のレビューの形を借りて、弥生時代後期の岡山市加茂政所遺跡出土の分銅型土製品は、「赤ちゃんの顔を表し、赤ちゃんの夢のように世界の平安を祈るシンボルとしての扱いがされた」と書いた。私はそれなりの確信を持って書いたが、それが考古学的な定説になる事を期待してはいない。むしろ、あの仮説は土製品の例外的な扱いであって、そこにこそ私はあの時代、あの土地での「真実」があるように妄想できた事をとても嬉しく思ったのである。私に意味があるとしたら、あの仮説から私には豊かな「物語」が生まれた事なのであるが、ここでは展開できない。

    竹倉仮説にはたくさんのツッコミ所があるのだが、例えば多くの土偶に共通している腕を独特な形で持ち上げていることには言及がない。顔や足が植物に似ていだとしても、その「形」についての説明はなかった。

    その他恣意的に過ぎる資料の見せ方について、考古学者ではなく、市井の考古学ファンである望月昭秀氏から詳細な「批判」がなされている。是非以下の文章を読んでほしい。

    『土偶を読む』を読んだけど(1)
    https://note.com/22jomon/n/n8fd6f4a9679d
    以下(2)(3)と続く。

    望月昭秀氏も書いているが、私も全ての竹倉仮説を否定しているわけではない。植物と似ている土偶も確かにあるわけだし、その一部は氏主張するような神話的背景がないとは言い切れない。

    でも、多分証明できない。今のところ全ては「言ったもん勝ち」、それだけで本を書いても売れてしまうのである。でも私は「学術書」として書くべきではないと思っている。「物語」として書くのならば大賛成だ。むしろ、豊かに具体的にこの仮説を展開してほしいとさえ思う。或いは縄文のファンクラブみたいなところで、時間を忘れて語り合うのも良い。

    これはそういう種類の〈仮説〉だと思う。

    • 猫丸(nyancomaru)さん
      kuma0504さん
      ナント、小学館から「土偶を読む図鑑」と言うのが出たみたい、、、
      kuma0504さん
      ナント、小学館から「土偶を読む図鑑」と言うのが出たみたい、、、
      2022/04/21
    • kuma0504さん
      猫丸さん、
      竹倉史人さんの仮説の拡大再生産というだけで、萎えます。
      検索した時、その下にあった
      誉田亜紀子さんの「ときめく縄文図鑑」(山と渓...
      猫丸さん、
      竹倉史人さんの仮説の拡大再生産というだけで、萎えます。
      検索した時、その下にあった
      誉田亜紀子さんの「ときめく縄文図鑑」(山と渓谷社)が出ていたと知り、こちらの方は「ときめき」ます。
      2022/04/21
    • 猫丸(nyancomaru)さん
      kuma0504さん
      ニャー

      実は昨夜、家にある筈の縄文関連本を探したのですが、見当たらない、、、
      同時に探したケルト関連本も嫌になっちゃ...
      kuma0504さん
      ニャー

      実は昨夜、家にある筈の縄文関連本を探したのですが、見当たらない、、、
      同時に探したケルト関連本も嫌になっちゃう。。。
      2022/04/21
  • 【感想】
    今の考古学会は時代遅れの偏屈屋ばかりで、権威的で、古い男がその地位を独占している。新しい意見を全く受け入れようとしない。だから明治時代から130年も研究しているのに土偶の謎ひとつ解明できてないんだ。俺の新しい論を見ろ。これが真実だ。文句があるなら反論してみやがれ。

    筆者の竹倉氏は、本書で上記のような挑発的な内容を述べている。これは一切の誇張抜きであり、独立研究者として、考古学会に属する縄文研究者らに真正面から喧嘩を売っているのだ。

    では、竹倉氏が提唱する「新しい土偶論」とはいかなるものなのか。
    それは、「土偶は人間の姿ではなく、植物の姿をかたどっている」「縄文人は自分たちが食べていた植物や貝を祭祀するために土偶を作った」というものだ。なるほど、古代の人々がアミニズム的信仰を有していたのは明らかであるから、自らが口にしていた自然に敬意を払ってヒトガタを作るというのは、確かにあり得る話である。

    では、その根拠をどこに求めるのか。それは土偶の「見た目」にだ。筆者は「イコノロジー」=モチーフを想定するうえで見た目の類似こそが依拠すべき最優先のファクターである、という考え方を用い、出土された土偶と、生育していた食用植物の外見との間に関連性を見出だしていく。

    例えば、ハート型土偶をイコノロジーによって推定すると、そのモデルとなるのは「オニグルミ」というクルミの仲間になる。2つに割られたオニグルミの殻はハート型をしている。殻を左右に分ける隔壁は、どことなく土偶の顔面の鼻の部分に見え、殻の左右の窪みは眼部に見える。何より、オニグルミは東北・甲信越地方の山間部の渓流沿いに多く生育しているが、それはハート型土偶が集中的に出土する地域と合致しているのだ。そう考えると、普段から手近にあったオニグルミを「自然からの贈り物」と捉え、祭祀用の道具として加工するのはなんら不自然なことではない。従来、土偶は縄文人の姿、特に女性をかたどっていると考えられていたが、そこに「食料」という新たな可能性が付与されたのだ。

    このほか、合掌土偶、遮光器土偶といった様々な土偶についても、当時食されていた植物との外見を比較しながら、モチーフの可能性について類推していく。
    ―――――――――――――――――――――
    以上が本書のおおまかなまとめだ。
    さて、『土偶を読む』自体は本書一冊で完結するものだが、その内容をめぐっては後日談がある。なんと、竹倉氏に「幼稚で馬鹿げた非学問的態度だとする父権的な空気が支配してきた」とけなされた縄文研究者たちが、『土偶を読む』の検証書を執筆したのだ。その名も『土偶を読むを読む』。その内容は、「『土偶を読む』での読み解きは破綻している」「およそ研究書の姿勢ではない」「それってあなたの感想ですよね?」と、散々な評価を下すものであった。
    私としても『土偶を読む』を読む中で「ん?」と首をかしげるところがあったり、論理的に弱い部分があるというのは感じていた。だが、私は土偶に関しては素人なので、「土偶=植物論」については、プロの提唱する面白い新説として、特に内容を疑わずに楽しく読んでいた。だが……。

    『土偶を読む』は『土偶を読むを読む』とセットでなければ語れないニコイチの本だ。本書の内容をしっかりと通読した後に『読むを読む』を手に取り、竹倉氏の研究が何故否定されたのか、土偶界隈をめぐる一つの騒動がどのような形で結ばれたのか、ぜひ確かめてみて欲しい。

    ――藤森「栽培植物が検出されない以上、縄文農耕は認められないこと自明の理だという考古学者もいる。植物学者がいうならとにかく、これを考古学者がいうにいたっては論外である。考古学こそは、地下から掘り出した物質遺物の様相を組み立てて、その文化相を復原する学問なのである。有機性の食品がかりになくとも、むろん出てくれればそれにこしたことはないだろうが、文化構造の構成が、それを考えるより理解つかないという方が、いうまでもなく本道なのである。」
    ここに私は藤森の考古学者としての矜持と人文学者としての揺るぎない姿勢を感じ取り、深い共感を寄せるものである。「遺物が出ないから無い」というのでは、それは学問の、想像力の、ひいては人間の敗北である。実話精神は学問の基礎であるが、だからといって可謬性のリスクを恐れて実証主義に媚びるのならば、遠からず人文学など無用の長物となるであろう。

    土偶を読むを読む の感想
    https://booklog.jp/users/suibyoalche/archives/1/486766006X
    ―――――――――――――――――――――

    【まとめ】
    1 土偶は植物をモチーフに作られている
    土偶は明治時代から130年以上にわたって研究されているのに、いまだにほとんど何もわかっていない。なぜ縄文人は土偶を造ったのか。どうして土偶はかくも奇妙な容貌をしているのか。いったい土偶は何に使われたのか。縄文の専門家ですら「お手上げ」なくらい、土偶の謎は越えられない壁としてわれわれの前に立ちふさがっているのである。

    そんな中、私は土偶の正体を解明した。
    土偶は縄文人の姿をかたどっているのでも、妊娠女性でも地母神でもない。「植物」の姿をかたどっているのである。それもただの植物ではない。縄文人の生命を育んでいた主要食用植物たちが土偶のモチーフに選ばれている。土偶の造形はデフォルメでも抽象的なものでもなく、きわめて具体的かつ写実性に富むものだったのである。


    2 食用植物の資源利用
    縄文時代にはすでに広範な食用植物の資源利用が存在していた。しかも地域によっては、トチノミなどの堅果類を主食級に利用していた社会集団があったことも判明している。
    古代の人々には、自然の恵みに感謝するべく、動植物の霊を祭祀する呪術的な儀礼を行う習慣があった。当然縄文人においても例外ではなく、植物利用にともなう儀礼が行われていたことは間違いないのであるが、なぜか縄文遺跡からは植物霊祭祀が継続的に行われた痕跡がまったくといっていいほど発見されていない。対照的に、動物霊の祭祀を行った痕跡は多数見つかっている。
    なぜ見つからないのか。それは我々が気づいていないだけだ。つまり、「縄文遺跡からはすでに大量の植物霊祭祀の痕跡が発見されており、それは土偶に他ならない」ということだ。

    縄文時代の人口増減と土偶出土数のデータを見てみると、人口は縄文時代中期→晩期と緩やかに減り続け、弥生時代に入ると爆発的に増加する。出土数は中期が最も多く、後期、晩期にも相当数が発見されているものの、弥生時代に入るとほぼ消失している。
    これは「生業の変化」が原因だ。土偶祭祀は縄文の生業の中核をなす森林性炭水化物(トチノミを中心とする堅果類)の利用とセットになって中期以降に興隆したが、弥生期には大陸由来の穀物(イネ、アワ、キビなど)の利用が優勢となり、後者は土偶を用いないまったく別のスタイルの穀物霊祭祀の文化とセットになっていたため、この生業の変化とともに土偶文化が消滅した。


    3 イコノロジー
    フィギュアというものには必ずモチーフが存在しており、製作者はそのモチーフに似せてフィギュアを作る。したがって、フィギュアのモチーフを推定したいならば、そのフィギュアの見た目が何に似ているのかを観察するのが基本である。
    土偶もフィギュアであるから、土偶のモチーフを考えるのであれば、まずはその土偶が何に似ているか、つまり「見た目の類似」こそが依拠すべき最優先のファクターである。このような研究手法をイコノロジー(iconology)と呼ぶことにする。
    だが、イコノロジーは「偶然による類似」という可能性を排除できない。実証主義を標榜する昭和期以降の考古研究者たちの間では「見た目の類似は当てにならない」という認識が共有されることになった。
    しかし、リスクが高いことは、イコノロジーが不要であることを意味しない。われわれが採るべき道は、イコノロジーの排除ではなく、イコノロジーの補強である。


    4 実際の土偶の形を見てみよう
    土偶は当時の縄文人が食べていた植物をかたどったフィギュアである。ある植物が土偶のモチーフに選ばれるということは、その植物の精霊が祭祀の対象になっているということを意味する。ということは、その植物には相応の栄養価なり交換価があるはずで、葉物が祭祀の対象になるというのは考えにくい。

    ・ハート型土偶
    この土偶は、オニグルミをモチーフにしている。2つに割られたオニグルミの殻は、ハート型をしている。殻を左右に分ける隔壁は土偶の顔面の最上部から下垂する高い鼻梁に、そして殻の左右の窪みは眼部に見える。そして顔面全体が凹面に造形されている点も、オニグルミの殻の形態と合致している。
    また、オニグルミは東北・甲信越地方の山間部の渓流沿いに多く生育しているが、それはハート型土偶が集中的に出土する地域と合致している。

    ・合掌土偶・中空土偶
    この2つの土偶は、クリをかたどったフィギュアである。顔面の横断線はクリの果実の様態を表現したものであり、横断線の下側における繁雑な施文は、クリのへそのボツボツである。突端のある頭頂部はクリのとんがりである。
    合掌土偶と中空土偶が発見された遺跡の周辺では、クリ(シバグリ)とトチノキを主体とする森林が広がっていたことがわかり、集落周辺の原生林に手を入れ、クリ林を人為的に管理していた可能性も十分に考えられる。日常的にクリを資源利用していたのは明らかだ。

    ・縄文のビーナス(カモメライン土偶)
    細い吊り目と鼻孔を有する土偶。これはトチノミをモチーフにしたものだ。
    トチノミは堅果類の中で炭水化物をたくさん含んでおり最も高栄養であるが、同時に食用に供するのに最も手間と技術を要する。トチノミが検出される遺跡数が増加するのが縄文中期以降であるため、この頃にアク抜き技術が確立、普及したと考えられている。
    トチノミ食は縄文中期の中部地方から東西に拡散していったと推定され、これはカモメライン土偶が縄文中期の中部地方に出現し、東西へ拡散する流れと同じルートを辿っている。

    カモメライン土偶は①プレーン型、②とんがり型、③襟巻き型、④ヘルメット型と数が膨大だ。そのうちプレーン型のトチノミのカモメラインは「眉弓」や「髪の生え際」として見立てられていると分かる。
    また、とんがり型の被り物はトチノミを覆う果実と合致し、襟巻き型は熟すると三裂するトチノミの果実の形状に酷似している。また、ヘルメット型の「ヘルメット」は、当時のトチノキの生育環境に多く生息したマムシ(トチノキ霊の神使としての象徴)であることが推定される。
    ビーナスは従来妊娠像として考えられていたが、それは間違いではない。トチノミの精霊の妊娠像と考えるべきだ。

    ・遮光器土偶
    縄文時代晩期の東北地方に出現、その後消失した土器。それと入れ替わるように結髪土偶(イネがモチーフ)、刺突文土偶(ヒエがモチーフ)が登場した。肩幅、腰幅がとても広く、手足が紡錘形になっている。
    そのモチーフは、サトイモである。根茎類であるサトイモは地下で成長し、植え付けられた種イモから「親イモ」、「子イモ」、「孫イモ」と増殖していくが、遮光器土偶の場合はそのまま頭部に「親イモ」が、手足に「子イモ」が配置されたということになる。
    また、遮光器土偶の体表の紋様は、芋茎の断面の渦巻きをモチーフにしている。
    遮光器土偶の北限は北海道の南端であり、サトイモの北限と合致する。

    ほか、
    ・椎塚土偶→ハマグリなどの貝類
    ・みみずく土偶→イタボガキ
    ・星型土偶→オオツタノハ
    ・結髪土偶→イネ
    ・刺突文土器→ヒエ


    5 考古学会への挑戦状
    土偶研究を始めてすぐに思ったことがある。それは「縄文人の感性的世界の発露そのものである土偶を研究するのに、感性的アプローチを排除・抑圧した方法論によって土偶の謎に迫れるわけがない!」ということである。とはいえ、考古学の優れた実証研究がこれだけ蓄積されている現在にあって、その知見を無視した土偶研究というものもあり得ない。
    そこで編み出されたのが、「イコノロジー×考古学」という手法であった。感性的手法を存分に発揮しつつ、その弱点をソリッドな考古学で補完する今回の土偶研究においては、この異種交配の方法論が大いに力を発揮してくれたように思う。

    人類学者の私からみると、呪術を抽象的にイメージするという考古学の習慣は、呪具である土偶の見方にまで影響を及ぼし、生活のなかの道具である土偶までをも抽象的な相において捉えるという不運な傾向を作り出してしまったように感じられる。その結果として、これまでの土偶の質的研究は縄文人の心性をいたずらに神秘化してみたり、土偶の造形を象徴主義的に深読みし過ぎるなどして、実証的な考古研究との乖離を深めてしまった。たしかに土偶は呪具であるが、それは土器や石器といった道具類と同様に、まずは日々の生業とのかかわりの中で理解されるべき遺物であったといえるだろう。

    「この土偶は○○に似ている」という感覚は、単なる個人的な主観ではない。その感覚は「土偶とモチーフとの形態の近接」という物理的事実に基づくものであるため、他者と共有可能であり、そこに客観性が担保される。それは「郵便ポストは赤い」という主張が、個人的な感覚に基づくものであると同時に、客観的な事実として社会的に共有可能なのと同じことである。
    一方、これまで散見された「土偶は地母神である」とか「目に見えない精霊をかたどっている」いった類の言説は、感覚ではなく連想である。これらはわずか数点の土偶の姿形から連想された主観的な印象に過ぎず、人々を納得させるだけの物理的な根拠を欠いている。それゆえ、どれほど多言を弄しようとも、そもそも検証も反証も不可能であり、学術的な水準で扱うこと自体が困難な主張であると言わざるを得ない。

    昭和以降の実証主義を標榜する考古研究の世界では、椎塚土偶を見て「ハマグリに似てるね」などと口にしようものなら、これを幼稚で馬鹿げた非学問的態度だとする父権的な空気が支配してきたのであろう。しかしこれでは皮相的な「縄文人不在の縄文研究」が量産されるだけである。実際、一世紀以上にわたって、縄文土偶は男性たちの視線、すなわち「かたち」を軽視する思弁的な視線や、生命への共感力を欠いた視線に対し、一貫して自己の開示を拒み続けてきたのである。

    全体としてみたとき、やはり私の仮説以上に土偶の形態を客観的かつ合理的に説明できる仮説は存在していないといえる。

  • そもそも土偶とは何なのかについての独特な見立てを展開している一冊。
    人間を模した人形という説を脇に置き、著者は土偶は植物を中心とした自然を擬人化したフィギュアなのだと断言します。
    その後に理由を補完していくのですが、一般に向けての読みやすい筆致で非常にわかりやすいものでした。
    個人的には土偶を巡る謎に対する一つの仮説なのだろうという認識に留まりましたが、遺物の研究とは奇抜で良いと思うのです。
    失われた文明や文化の残影に様々なロマンを持ち寄ることで、混沌としながらもいずれは仮説が洗われ磨かれて収束する気がします。
    まだまだ研究の余地が残る分野であり、今後の進展に期待します。

  • 土偶を読む 130年間解かれなかった縄文神話の謎 竹倉史人著:東京新聞 TOKYO Web
    https://www.tokyo-np.co.jp/article/108811?rct=shohyo

    日本考古学史上最大の謎「土偶の正体」がついに解明 「土偶は女性モチーフ」の認識が覆った!驚きの新説(前編) | JBpress(Japan Business Press)
    https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65038

    土偶を読む | 晶文社
    https://www.shobunsha.co.jp/?p=6333

    • 猫丸(nyancomaru)さん
      竹倉 史人『土偶を読む ―― 130年間解かれなかった縄文神話の謎』 受賞者一覧・選評 サントリー学芸賞 サントリー文化財団(2021年受賞...
      竹倉 史人『土偶を読む ―― 130年間解かれなかった縄文神話の謎』 受賞者一覧・選評 サントリー学芸賞 サントリー文化財団(2021年受賞)
      https://www.suntory.co.jp/sfnd/prize_ssah/detail/202106.html
      2022/04/21
  • ワクワクして読み始め、読み進めるほどに疲れてしまった。そんな考古学に食ってかからなくても…。よほど嫌な思いをされたのかなあ。

    本書のアイデアはとてもおもしろかった。ただ考古学をちょっとだけかじった者としては、考古学の基本は、やはり編年だと思う。その遺物、遺構がどういう系統か、どんな流行り廃りがあるのか、原型からどう変化しているか、つぶさに追っていくのである。だから、ある土偶の、ある時期の写真を提示して、ここがこの植物と似ているといくら言われても、考古学には対応の仕様がない。それは著者が門外漢だからということではなく、仮に考古学者が著者と同様の主張したとしても同じだろう(と思いたい)。“考古学という学問としては”ダメだということなのである。たぶん。

    となると根拠とする写真の選び方が気になる。同じ系統の他の土偶ではどうか等、今後のさらなる研究を見てみたい。

    でも、土偶という区分だって先達の考古学者たちが決めたもので、それこそ縄文脳でもないかぎり、A土偶とB土偶を、縄文人も同じ土偶というフレームで考えていたかはわからない。やはり土偶はわからない。もう「俺の土偶論」でいい気もする。うーむ、学問としてはダメか。

  • 縄文期の土器土偶に生命の根源を感じる造形美を見出したのは岡本太郎でした。1950年頃の話です。それから、火焔土器が国宝に指定されたのは1999年、縄文のビーナスは1995年と縄文の美が日本美術史にオフィシャルにラインナップされるのにはずいぶん時間を要しています。そして、三内丸山遺跡などが2021年に世界遺産になり、今や縄文はブームです。そんな流れで本書を手にしました。縄文期の人口は中期がピークで約26万人、その後地球寒冷化で人口は減り続け末期は約7万6千人でした。世界中に土偶はあるようで、もっと比較ものを知りたくなりました。ただ、筆者のいう「土偶は植物をかたどった精霊説」がただちに従来の学説を崩すようには思えません。さらに比較調査し、研究を深めてほしいものです。

  • 土偶は人や神をかたどったものではなく、当時の人々が日常的に食していた食材の形状をかたどったものである、と言うのが本書の主張。

    例えば、土偶の代名詞ともいえる「遮光器土偶」はサトイモを、「縄文のビーナス」はトチノミを、「ハート形土偶」はオニグルミをもとにしている、と言うことを対象食材の分布や形状比較等を交えて解説している。

    私のような素人から見ると、かなり説得力のある内容だと感じた。

    著者は考古学者ではなく、在野の人類学者とのことだが、専門家以外での学術的視点からの新説主張は、考古学界からどのようにみられているのか知りたいところである。

  • 第43回サントリー学芸賞 社会・風俗部門受賞作。
    土偶とは、「日本最古の神話」が刻み込まれた植物像という主張。

    縄文時代に大量に作られた素焼きのフィギュア=「土偶」は、日本列島においては1万年以上前に出現し、2千年前に忽然とその姿を消し、現代までに全国各地で2万点近くの土偶が発見されている。
    一般的な土偶の正体として
    「妊娠女性をかたどったもの」
    「病気の身代わり」
    「狩猟の成功を祈願する対象」
    「宇宙人」……
    などの説がこれまでに展開されているが、いずれも確証が得られていない。

    本書では〈考古学の実証研究〉(データ)と〈美術史学のイコノロジー研究〉(図像解釈学)によって、国内で発見された名だたる土偶の真実を明らかにしている。

    それは、身近な食べ物というのが著者の主張だ。
    1 ハート形土偶
    2 合掌土偶
    3 椎塚土偶
    4 みみずく土偶
    5 星形土偶
    6 縄文のビーナス
    7 結髪土偶
    8 刺突文土偶
    9 遮光器土偶
    これらは、オニグルミ、栗、蛤、イタボガキ、オオツノハタ、トチノミ、稲、稗、里芋 を象ったフィギュアだと言う。

    かなり自信をお持ちのようで、従来の説や現在の学会を、単なる主観でしかものを見ていないと批判されているようだが、食べ物を現したものだと言う主張も、すんなりとは理解出来ない。

    専門家ではないのでその正当性を評価出来ないとしても、決めつけ的な表現はどうなのかなと思ってしまう。
    所詮誰も真実を証明できないこと。あまり他説を批判し、自説を断言するようでは、センセーショナルな主張で話題を集める類いとも逆に受け取ってしまう。

    案の定、「土偶を読むを読む」という検証本が出ているようなので、それを読んでみよう。

  • 土偶が何を模したものなのかについての著作。想像もしていなかった答え、説でした。写真からのアナロジー。検証が難しい点と、一般的な研究書にないアプローチが特徴。

  • #土偶を読む 読了。
     土偶の造形に対する考察を書かれた本で、個人的にはここまで説得力のあるものは読んだことがない!読み物としても面白く、特に筆者の発見に対する考察検証が、読んでる自分も一緒にフィールドワークをしているように感じられて面白い。あと「アシスタントの池上」氏が非常にいい味出してる。
     土偶の造形に関して大概は、女性や出産に対する神秘性を模したものとするところが多いが、確かに造形に関してなぜあそこまで極端なディフォルメを付ける必要があるのかに対する納得する解釈を得られることはあまりなかった。往々にしてそれらは当時の刺青であったり、仮面であったり、髪型であったりともっともらしく書いてはいるが、果たしてほんとにそうなのか?あんな奇抜な恰好を当時の縄文人はホントにしてた?と思っていた疑問を、この本の筆者による土偶と植物への相似性(イコノロジー)が解き明かしていってくれる。
     ざっくり言ってしまえば、土偶とは縄文時代に発生したゆるキャラグランプリだったのだ。
     この本を読むと、いままで古代人の表現技術不足による極端なディフォルメだと思っていた(思い込まされていた?)縄文土器に対する自分の感性というものが、とんでもない過ちだったことに気付かされる。そして縄文人がいかに自然造形に対して深い洞察と表現力をもっているか。そして縄文土器がいかに写実的でかつアノミスムを持っているかがうかがい知れるのだ。確かに日本書紀、古事記などを読んでも、日本における神というものは、何かしらを象っている。それは1万5千年前の縄文時代から連綿と続いていたのである。
     残念ながらこの本の内容は考古学的な学説としてはいまだ受け入れられていないようであるが、これを読んだ読者は、間違いなく新たな縄文土偶への視点を得られることになるだろう。

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著者プロフィール

1976年東京生まれ。武蔵野美術大学映像学科中退を経て、東京大学教養学部文科III類に入学。
東京大学文学部宗教学・宗教史学科卒業後、フリーター、自営業、会社役員などを経験。
2019年東京工業大学大学院社会理工学研究科価値システム専攻博士課程満期退学。
専門は宗教人類学。著書に『輪廻転生―をつなぐ生まれ変わりの物語』(講談社現代新書、2015)

「2021年 『土偶を読む』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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