日本の反知性主義 (犀の教室)

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  • Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784794968180

作品紹介・あらすじ

集団的自衛権の行使、特定秘密保護法、改憲へのシナリオ……あきらかに国民主権を蝕み、平和国家を危機に導く政策が、どうして支持されるのか? その底にあるのは「反知性主義・反教養主義」の跋扈! 政治家たちの暴走・暴言から、メディアの迷走まで、日本の言論状況、民主主義の危機を憂う、気鋭の論客たちによるラディカルな分析。『街場の憂国会議』に続く、緊急論考集第2弾!

感想・レビュー・書評

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  •  すっと入ってくる論考、そうでない論考いろいろあったが、その多くが「反知性主義に飲み込まれることへの懸念(恐れ)」という視点からはじまっていることに感銘を受けた。対岸の火事のように反知性主義を眺めようとすると、途端にそれに囚われてしまうということを、多くの筆者に教えていただいた。

    「知的フレームの不断の再編成」が、反知性主義から身をかわす手立てだということが、多くの論考で言及されていた。その件について考え込んでいるうちに、読了してからかなりの時間が経ってしまった。

    「知的フレームの再編成」は、真新しい考えに触れたときだけでなく、未知のコンテクストを導入することで、既知の事項が今までとは違ったものに見えてくることによって起こる(というか、そちらの方が多い)のではないか。

     しかし、そういう「目からうろこ」的現象は、新しい考えなりコンテクストなりを自分なりに咀嚼し、既知の事項を並べ直してみるくらいの能動的な努力が必要だ。おそらく、検索によるデータ収集だけでは「なるほど」とはなっても、パラダイム転換(それがどんなに卑小なものであったとしても)は起こらないだろう。そんな努力を不断に行わなければならないとなると、反知性主義から逃れきることは本当に難しい。

     とはいえ、予断と予定調和に凝り固まった世界は、想像以上に恐ろしいということを、最近の世の中を見て思わずにはいられない。それゆえ、少しでも自分が反知性主義から逃れ続けられるよう、不断の努力を惜しまぬようにせねばならない。

     陳腐な読書感想文のような文言で終わってしまったが、痛切なる本音であるので、このまま〆ようと思う。

  • 著者たちの多くが、自分こそ反知性主義に陥っているのではないか、という疑問や躊躇いを出発点としている。そのことからだけでも、この本に満ちている知性を嗅ぎ取ることができる。

  • 「日本の反知性主義」というテーマで、
    ・内田樹
    ・白井聡
    ・高橋源一郎
    ・赤坂真理
    ・平川克美
    ・小田嶋隆
    ・想田和弘
    ・仲野徹
    ・鷲田清一
    などが論じたもの。内田樹と名越康文の対談も収められている。
    「反知性主義」のもともとの意味は「知的な生き方を否定し、それを極小化しようとする傾向」のことだが、単に「日本人の知的レベルの下降」について、平たく言えば「なぜ日本人はこんなにもバカになったか」について論じているものが多い。
    その中にあって、白井聡の文章だけが反知性主義の原義から解きほぐしていく本格的な論考で、それゆえに一番読みづからかった。ここで止まっていたために読了が遅れた。
    日本人はバカになった。電車に乗れば、老いも若きもスマホとにらめっこをしている。本を読んでいるような人はわずかだ。別に読書が知性の証というわけではないが、スマホでゲームに興じていて賢くなるとも思えない。
    民主主義は人間一人ひとりの価値を等しくするところから始まる。誰しもが平等に尊いという平等主義だ。
    しかし、格差社会である。賃金の格差、年収の格差は厳然とある。それはどこから来たのか。それが知性の格差から来ていることを認めたがらないのが反知性主義で、ゆえに安易な手段を求める傾向でもある。『ファスト教養』(レジー)や『動画を早送りで観る人たち』(稲田豊史)で指摘した現代の風潮はまさにそれであろう。

  • 白井聡さんのロジックがキレキレでとても面白く氏の他の著作も読んでみようと思った

  • 反知性主義をテーマに、10名の論客がそれぞれの立場から論じている一冊。とにかくめちゃくちゃ面白かった。
    「わからない」「わかりにくい」ことの拒否、「否認」「対立」の拒否、「不確実性」の拒否。反知性主義は時間をかけることを拒否し、手間をかけることを拒否し、意見を戦わせることを拒否する。そして易きに流れることで、人間の知性は徐々に劣化をしていく。
    何故そうなったのかといえば、もともと人間はそういう流れに抗えない種族なのかもしれないし、あまりに便利になった現代文明のせいかもしれない。
    いずれにせよ、この本が、それらの疑問を考えるためのヒントを与えてくれるはず。特効薬を求めてしまうとやはり反知性主義と同じ穴の狢になってしまう恐れがあるので、あくまで考えるためのヒントとして、この本を手にとってみてはどうだろう。

  • 久しぶりに内田樹さんの本を読んだ。
    モヤモヤっと思っていていたことが的確に文章化されていることの心地よさよ…。

    科学や情報の伝達手段が格段に発達し 得られる情報が格段に増えたことで、物事を簡略化して理解しようとする人がいる一方で、複雑を複雑なまま受け入れ理解しようとする人がいる。前者の分かりやすい言葉に人は流されがちだけど、情報に溢れている現代だからこそ、後者の姿勢がますます大切になってくるのではないかと感じた。

  • このテーマはさすがにすそ野が広すぎたかな。解釈が散らかっていて、書いているほうにも戸惑いが垣間見える。読む方としてほしいのは、「安倍政権を取り巻く反知性主義傾向」なんだよな。特にネトウヨ分析に特化してほしかった。

  •  ホーフスタッターという人の『アメリカの反知性主義』(未読)にならって「反知性主義」の日本を考察するという本アンソロジーは、テーマがやや曖昧だったのか、各論者の「反知性主義」なるものの捉え方が少しずつ異なっており、前著『街場の憂国会議』よりも少々雑然としてまとまりのない印象となった。
     本書を読み通してみて、私なりに捉えた「反知性主義」のイメージは、知的な広がりを抑止してしまう傾向、姿勢、感情等である。
     内容的に共感する部分が多いか、興味を覚えたのは、内田樹さんの文章より、白井聡さん、想田和弘さん、仲野徹さんのそれだった。
     仲野さんは生命科学の分野の方で、後半、例の「STAP細胞」騒ぎに触れている。科学雑誌の小さなコラムで取り上げられてそのまま消えてしまうようなネタだったのに、最初からマスコミが変な風に小保方さんを持ち上げてしまい、あんな、「社会を騒がせるような」事件になってしまったのである。
     この場合は利益を上げられそうなネタととらえ、勝手に騒ぎ立てたマスコミが「反知性主義」なのであり、そのような立場はとうてい、科学の精緻な知性の場からはほど遠いものだった。
     そこから連想したのは同時期の佐村河内氏のゴーストライター事件。あれなんかも、「過酷な人生苦を乗り越えて編み出された壮大なシンフォニー」というストーリーを持ち出して騒ぎ出したNHKやレコード会社、それに踊らされ、物語に沿って「感動した」つもりになった教養主義的「自称クラシック愛好家」たち、みんな「反知性主義」である。(と同時に、反音楽的である。)
     ドキュメンタリー監督の想田さんの文章ではTVのドキュメンタリー番組なるものが、最初から台本を決めて作られているという内情を暴露していて興味深かった。営利企業としてのTV局が、売れ線のネタとして想定された物語が最初にあって、「事実」に取材したインタビュー等はそれに「あてはめられている」のである。想定に従わない情報が得られたら、当然捨象されてしまう。
    「この国には『社会』がない。」と指摘する白井さんの論点は痛快で、私がふだん思っていることとかなり近い。日本人は近代人としての前提をまったくふまえてこなかったという悲しい状況だ。
     たとえば自衛隊や警察が国家の「暴力装置」であるというのは社会学では常識なのに、それを口にした政治家は国民(ネット民?)からいっせいに叩かれた。
     なぜこのような反知性主義(未知の言葉などを理解しようとする知性をみずから抑止してしまう傾向)がはびこるのか。確かに、啓蒙主義ははるか昔の話なのだが、欧米の「現代人」の前提としてあるベースには「自己を陶冶する」精神性が存在する。けれども日本の大衆はそのような精神性を獲得するよりも先に、一気にポストモダンの時代(近代の「精神性」の否定)に突入してしまった。
    「自分探しの旅に出る」なんて誰が言い出したのか知らないが、確か1980年代あたりにはそのような「自己発見の旅」というイメージが日本文化のディスクール体系に織り込まれていた。何と言うことだ。欧米の近代人は自分を「作る」ために自らを鍛え上げていたのに、このひ弱なポストモダン人たちはそんな努力を最初から放棄して、自分をどこかで「見つける」と言うのだ。
     私が「日本の反知性主義」ということで考えるのはだいたい、以上のようなことだ。大衆の反知性主義は、「超」資本主義の時代にあっては必然的に到達してしまうとも言え、これはいずれ、日本だけにとどまらない話だろう。
     最後に内田樹さんの文章を読んで気になったのは「知性は集団的にしか発動しない」というくだり。その集団という語を「雑多な人々のゆきかう場、人と人とのあいだ、全体として複雑系を形成する不確定なもの」と捉えるなら良いのだが、日本人の場合、「集団」というと、同質性を基調とするような怪しげな<和>に直結してしまいがちなので、どうもそこを曖昧にしてほしくないと思った。内田さんはもちろん、そのような同質性の集団のことを言っているわけではないと思うのだが・・・。

  • 2010年秋に、当時の仙石由人官房長官が「自衛隊は暴力装置である」と発言して物議を醸したことをご記憶の方は多いと思います。
    私は当時、このニュースを見てこう感じました。
    「ひどい言いようだな」
    SNSなどインターネット上でも、仙石氏の発言に対する批判が噴出しました。
    ただ、私はSNSのヘビーユーザーにも関わらず、自分の意見を投稿することはしませんでした。
    これは最近特にしばしばあることですが、批判する人たちの口吻に「正義」の臭いをかぎ取って辟易してしまったのですね。
    私は「正義」を声高に言い募るのが生来苦手なのです。
    本書を読んで、当時の選択が正しかったと安堵しました。
    本書の執筆者の一人で、「永続敗戦論」(太田出版)で有名になった白井聡さんはこう書いています。
    「自衛隊のような軍隊や警察などの国家が有する実力組織を『暴力装置』と呼ぶのは、政治学や社会学では一般的な事柄である」
    つまり自衛隊を掌握している政府の人間が、事実上の軍隊である自衛隊を「暴力装置」と正しく認識しているということは、国民として安心できることではあっても、決して批判されることではないということです。
    もっとも、安倍首相が最近、自衛隊を「わが軍」と呼んで批判を浴びたように、官房長官という立場にも関わらず公の場で、自衛隊を軍隊とほぼ同義である「暴力装置」という呼称を用いたのは不用意で、その意味では批判されても仕方ない面はありました(ただ、そういう意味での批判は当時皆無でした)。
    などと偉そうに書いていますが、私だって当時よく知りもしないで「ひどい言いようだな」と感じ、一歩間違えばSNSで投稿して恥をさらす可能性もあったことを考えれば、「反知性主義」のそしりは免れないでしょう。
    もとより知性的な人間ではありませんが、せめて目の前の事象を冷静に受け止め、よくよく事情を調べて、自分の頭で考えてから反応する姿勢だけは持ちたいものだと、本書を読んで愚考した次第です。
    本書は、現代社会に跋扈する「反知性主義」について、ビジネスマンや哲学者、政治学者、コラムニスト、作家、ドキュメンタリー映画作家、生命科学者、精神科医、武道家と様々な分野で活躍する方たちが書いた論考を、思想家の内田樹さんがまとめたもの。
    大いに勉強になりましたし、反省もしたところです。
    以下、自戒も込めて、印象に残った箇所をいくつか。
    【内田樹氏】
    □□□
    バルトによれば、無知とは知識の欠如ではなく、知識に飽和されているせいで未知のものを受け容れることができなくなった状態を言う。(P020)
    □□□
    反知性主義者たちはしばしば恐ろしいほどに物知りである。一つのトピックについて、手持ちの合切袋から、自説を基礎づけるデータやエビデンスや統計資料をいくらでも取り出すことができる。けれども、それをいくら聴かされても、私たちの気持ちはあまり晴れることがないし、解放感を覚えることもない。というのは、この人はあらゆることについて正解をすでに知っているからである。(P021)
    □□□
    その人がいることによって、その人の発言やふるまいによって、彼の属する集団全体の知的パフォーマンスが、彼がいない場合よりも高まった場合に、事後的にその人は「知性的」な人物だったと判定される。(P023)
    □□□
    反知性主義者たちにおいては時間が流れない。それは言い換えると、「いま、ここ、私」しかないということである。反知性主義者たちが例外なく過剰に論争的であるのは、「いま、ここ、目の前にいる相手」を知識や情報や推論の鮮やかさによって「威圧すること」に彼らが熱中しているからである。(P041)
    □□□
    【白井聡氏】
    自衛隊のような軍隊や警察などの国家が有する実力組織を「暴力装置」と呼ぶのは、政治学や社会学では一般的な事柄である。ところが、日本の一部世論はこうした常識を理解できず、仙石への批判の声が相次いだ。これは、インターネットの普及による「集合知」ならぬ「集合痴」の効果が遺憾なく発揮された例だと言えるであろう。(中略)彼らは、「暴力装置」という言葉の語感からピント外れの批判を繰り出し、実際は無知を曝け出しているにもかかわらず、あたかも「失礼だ」という批判が正当であるかのような雰囲気が醸成される、という無残な状況が出現した。(P094)
    □□□
    【平川克美氏】
    戦後70年を経た日本とは、戦争の時代について誰も知っているものがいなくなった時代である。もはや、我が国の政治家が語る戦争とは、ベトナム戦争前のリンドン・ジョンソンや、イラク戦争前のジョージ・W・ブッシュほどにも、戦争について幻想的なイメージしか持たないものによって語られる戦争でしかないということであり、それがどれほど現実離れしたファンタジーでしかないかということは、肝に銘じておきたいと思う。(P156)
    □□□
    【小田嶋隆氏】
    「試験をパスした人間」の象徴としての「官僚」と「マスコミ」、さらに「試験を課す人間」としての「大学教授」と「日教組」あたりは、「学歴主義的」な「体制」の黒幕として、反知性主義者の憎悪を糾合することになる。(P191)
    □□□
    【名越康文氏×内田樹氏】
    内田 親の欲望、親の抱えていた欠落感って、子どもにダイレクトに伝わりますね。不思議なもので、「親が持ってるもの」はそれほど遺伝しないんだけども、「親が持ってなくて、欲しがっていたもの」って、子どもにそのまま遺伝する。
    名越 ほんとそうですよね。
    内田 これがなくて俺は苦労した、これさえあれば……という、「無いもの」に対する同性の親の欠落感は、同性の子どもに深々と刷り込まれるみたいですね。(P204)
    □□□
    内田 わかるでしょう? 自分が「学びのモード」に入ったときって、何かが変わるんですよね。まだ1ページも読んでないんだけれども、それ以外の日常生活のクオリティが全部上がる。なんというか、毛穴が開いてる感じになるというか。
    名越 ああ、わかる。(P211)
    □□□
    【想田和弘氏】
    ドキュメンタリーとは、作り手自身を「世界」に委ね、身体と意識を開いていき、そこから何かを本気で学ぼうとするための知的営みである。締め切りまでに完成するのか、いや、そもそも作品として成立し得るものかどうかなど、誰にも予測できない知的冒険であり、ギャンブルである。(P250)
    □□□
    例えば、「先に有罪ありき」の司法制度。(中略)他にも、「先に点数ありき」の教育制度。「先に移設ありき」の沖縄米軍基地問題。「先に書き換えありき」の歴史改ざん主義。「先にコスト削減ありき」の福祉制度改革。「先に可決ありき」の秘密保護法。いずれも、個人が自由な知性を発揮し、教育を、米軍基地を、歴史を、福祉を、民主主義を本気で考え、吟味しようとするならば、「台本(ゴール)」の正当性や意義が深刻に疑われる事例である。しかし、コトを進める人たちは、何があっても台本だけは絶対に崩そうとしない。そして台本を崩さないために、知性そのものの発動を抑制するという本末転倒が生じているのである。(P253)
    □□□
    【仲野徹氏】
    そして、あまり語られない大きな問題は、応用研究の大多数はモノにならないということだ。新聞などで、この研究によって〇〇の治療が可能になる、と報じられることはよくあるが、後日、そうなったという話などほとんど聞かない。ゴール志向性の強い応用研究がゴールに至らなかった時、残念なことに、結果的にほとんど何も生み出さない。(P273)
    □□□
    【鷲田清一氏】
    知性は、それを身につければ世界がよりクリスタルクリアに見えてくるというものではありません。むしろ世界を理解するときの補助線、あるいは参照軸が増殖し、世界の複雑性はますますつのっていきます。(P292)
    □□□
    自由主義とは(……)多数者が少数者に与える権利なのであり、したがって、かつて地球上できかれた最も気高い叫びなのである。自由主義は、敵との共存、そればかりか弱い敵との共存の決意を表明する。人類がかくも美しく、かくも矛盾に満ち、かくも優雅で、かくも曲芸的で、かくも自然に反することに到着したということは信じがたいことである。(オルテガ「大衆の反逆」(107頁)(P296)

  • T.N

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著者プロフィール

1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。神戸女学院大学を2011年3月に退官、同大学名誉教授。専門はフランス現代思想、武道論、教育論、映画論など。著書に、『街場の教育論』『増補版 街場の中国論』『街場の文体論』『街場の戦争論』『日本習合論』(以上、ミシマ社)、『私家版・ユダヤ文化論』『日本辺境論』など多数。現在、神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰している。

「2023年 『日本宗教のクセ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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