論語清談

  • 草思社
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  • Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784794225818

作品紹介・あらすじ

いかに生き、いかに死ぬか。
日本人の必読書を読み解く。

「友」とは「学ぶ」とは「仁」とは何か。
稀代の思想家・西部邁と文芸批評家・福田和也が、
主要な言葉、エピソードを辿りながら、
『論語』のエッセンスを縦横無尽に語り合う。

【「まえがき」より】
西洋において最も広く読まれ、影響を与えてきた本といえば、聖書である。では東洋でそれにあたる本は何かといえば、『論語』である。
考えてみたら不思議な話ではないだろうか。小国で多少重い位についたことはあったにしろ、無位無官に等しく人生を終え、何人かの弟子から尊敬を集めて、その内のほんの一握りと肝胆相照らした孔子という人間が、一文明圏と言われるようなものまで構成する思想家となり、彼の言葉をまとめた『論語』が時を超え、国を越えて受け入れられるようになったのだから。(福田和也)


【目次】
まえがき 福田和也

第一章 日本人にとっての『論語』
「中庸」の精神と孔子の哲学/『論語』の精神を継承した日本人/「朋(とも)有り、遠方より来たる、亦(また)楽しからずや」/「巧言令色、鮮なし仁」/朋としての友を持つということ/「終はりを慎み遠きを追はば、民の徳厚きに帰せん」/「三十にして立ち、四十にして惑はず、五十にして天命を知る」/「我仁を欲すれば、斯(ここ)に仁至る」/確信としての伝統、運命愛としての孝悌/「行ひて余力有らば、則ち以て文を学べ」

第二章 『論語』と価値基準
「己に如(し)かざる者を友とすること無かれ」/「君子は周して比せず、小人は比して周せず」/場をつくるという意識/「図らざりき。楽を為すことの斯に至らんとは」/「之を道(みちび)くに徳を以てし、之を斉(ととの)ふるに礼を以てすれば、恥ありて且(かつ)格(いた)る」/「関雎(くわんしよ)は楽しみて淫せず、哀しみて傷(やぶ)らず」/「女子と小人は養ひ難し」/「子は怪力乱神を語らず」/フランス哲学の「怪力乱神を語らず」

第三章 孔子の「俗」と「聖」
孔子の出自と儒教の血統崇拝/父の「現実主義」と母の「神秘主義」/「吾少(わか)くして賤(いや)し。故に鄙事(ひじ)に多能なり」/「学びて思はざれば則ち罔(くら)し。思ひて学ばざれば則ち殆(あやふ)し」/「憤せずんば啓せず」/驕気と多欲と態色と淫志/「下剋上」の賤しさと「長幼の序」/徳治と法治の関係/政治家孔子はなぜ急いだか

第四章 孔子の「死ぬ準備」
「帰らんか、帰らんか」/「吾行ふとして二三子と与(とも)にせざる者無し」/「博奕(ばくえき)なる者有らずや。之を為すは猶ほ已(や)むに賢(まさ)れり」/「異端を攻(をさ)むるは斯れ害あるのみ」/「知らざるを知らずと為す、是知るなり」/「甚だしいかな吾が衰へたるや」

あとがき 木村岳雄

感想・レビュー・書評

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  •  福田和也がなぜ論語を巡って西部邁と対談しようとしたか、その狙いは冒頭で述べられている。
     【私なりに掴んだ西部的な保守というのは、文学者が提示するような保守、つまり伝統をある程度実体的に捉えてそれを護持していくというかたちで保守を捉えるというのではなく、精神の運動の必然として保守を捉えていく。あるいは言葉の善用をしていく上で、どうしても人がとらざるを得ない姿勢として保守があるんだという考え方ですね。】P19 
     そして、西部はよく平衡感覚と述べる。これは中庸とも近い。なので、西部は論語を読んで何を述べるのか。西部の平衡感覚と、儒学はどう異なるのか。それを検討するための本である。

     西部は、「孔子は言葉の次元に我が身を置いた人である。自分が学んだことを人に話すのはとても喜ばしいことで、その喜びとは、人間の言動世界におけるあらまほしき基準に近づくということ、それが本当の楽しみだ、と、孔子は述べていると思う」という。

     仁の本質は、自分がやられていやなことを人にするな、であると、対談中結論が述べられる。結局はそこなのだと。なので、西部は「古代において、怒るとは大変なトラブルだったのではないか」と分析しているのも興味深い。

     論語を読んでいると、人間に対する絶望がある。どうしようもなく物事は進んで、終わっていく、そういうもんだなあという絶望があると、論語について西部は述べる。
     また「子曰、可與共學、未可與適道。可與適道、未可與立。可與立、未可與權。」が語られる。西部は、共同作業はもうすでにそこに相互分離が含まれていると述べる。何かを一緒にする。切り開いていく。共に権力を持つことは、人間にはできないのだ、という哀しさ。会うは別れの始まりという、この世の中をよくすることの困難さに対してどう向き合えばいいのか。
     こうした「絶望」に対し、西部は、葬式がなぜ必要か、葬儀について述べる。
    「自分と関係ない遠い過去の祖先や歴史的人物が、ほんとにどういう生き方をしていたのか。その環境なり状況なりというのを、なるべく忠実に、誠実に考えて共感しようとする、そういう教養が、自分が置かれているのとまったく違う環境について想いを巡らすことにつながり、人間の生には必ずや終わりがあるんだ、いかに終わりを終えるかが人それぞれに大事であり、それが、故人への礼としてはじまり、葬式が生まれてきたのではないか」と推察する。

     では、生きているあいだ、人はどうすべきか。
     人間にとって倫理的課題の最大は、友を選ぶことであって、イデオロギーや立場を選ぶことは、何ほどのこともない、非本質的ことである。誰を友とするかが、その人の倫理道徳を決めるのではないか、と西部は述べる。

     それに対して、福田和也は、フランス映画『変人たちの晩餐会』を取り上げて、軽蔑し合うことでしか生きていけない人間を、仕方ないから軽蔑し合いながら生きていくのも悪くない、と云い切る程度の力強さが映画から読み取れると高く評している。
     友を探すか、それとも一生軽蔑しあって過ごすしかないのか。二人のスタンスの違いが面白い。

     さらに、福田はルソーの『エミール』について「捨て子なんてことをした人間が書いたから『エミール』を読めるのであって、ほんとにあの話と同様に子ども尊重していたらとてもじゃないけど読む気にならない」と評価している。これはいい指摘だと思うし、人間存在の本質的な所だと思う。
     ものすごく恋愛至上主義で、純愛を貫く人の書く不倫論ほど面白いのであって、石田純一の不倫論を読んでも何も面白くないし、石田が不倫論を述べても、何も述べていないのと同じ事である。存在自体が不倫なのだからだ。「不倫である」のだ。しかし純愛の人が不倫について述べれば、「不倫になる」必要がある。変身するのだから、面白くないわけがない。
     あと、福田は、ルソーの『告白録』のなかで、正直であろうとすればするほど、嘘をついているような罪悪感を覚える。内心の無垢は絶対に客観的に証明されない、ということが語られていると述べる。ルソーが、居候している善意あふれる一家で、そこのおねえさんの大事にしている櫛が壊れてしまい、近くにいたのがルソーで犯人だと疑われる。ルソーはいくら善意あふれる一家に「やってない」と言っても、一家の神父は正直に告白しなさいと述べる。真実は「やってない」なのだが、その内心の正直さは人に通じないのだ。

     そこから西部は、「君子は周して比せず」を取り上げる。「自分に都合のいい相手だけではなく、だれとでも公平に付き合うべきだという教え」だが、「周して比せず」の「周」は、ある食卓を囲んだ宴席の周囲という意味ではないかという。つまり、宴席のところから少し離れて見ている人のことだ。ルソーは内心の正直さは通用しないと絶望したが、かならず「周」の存在にあたれば、何かしら希望はある。大切にしていたものを壊したのがルソーかどうか。「周」ならば、「大切なものは必ず壊れるし、勝手に落ちたりもするものだ」と言うし、内心は、「周」つまり、第三者的な人物から、光明は得られるだろうと。

     そのうえで、ルソーの罪はどうすべきなのか。内心の純粋はどうすべきなのか。
     西部は、罪の軽重は、徳治がないと決まらない。物を盗むのと、命を奪うのは、徳の観念がないとその罪の重さを問えない。徳治と法治を分離するのは間違っている。形式・構造をちゃんと機能させるには、広い意味での徳がなければ、感情というものがなければ、動きようがない。
     そして、万人に通じる普遍性・抽象性は、故郷とか家郷とか、そういう個別具体を密かな気持ちの根拠にしてしか、普遍・抽象を語り得ないという。
     ではその故郷や家郷は何によって「ある」のか。ありえるのか。それはその家族や故郷や共同体が長年どのように正統性を積み重ねて今に至るまで何とか続いてきたのか。それを知ることだ。
     
     こうした「正統」を踏まえないといけない理由として、福田は、異端は、異端であることの自意識、ある種のナルシシズム、負のヒロイズムとか、どうしても異端はついてくると色川武大は『うらおもて人生録』を取り上げて述べている。自分が異端だとか外れものだとか思ってしまうこと自体の恐ろしさ。それをよく理解すべしと福田は言う。「異端」では、歴史に、ナルシシズムを持ち込んで、共同体の連続性を、軽視してしまう。その軽視の結果にも責任を持たない自意識にまみれてしまう。

     どうして共同体が連続して続いたのかを客観的に学び、良き友を選び、「周」でありえるようにすることを忘れず、己の感情の出所であるところの共同体を踏まえて自分がいることを友と分かりあいながら、人々に広く納得できる言葉で交際する。これが論語と西部邁の結論である。

     その他、福田が、音楽は言葉として聴くか、イメージとして聴くかで、言葉としてしか聴けない自分がコンプレックスだったと語っている。西部も、「君もそうか」と言っている。ボクは言葉として聴いていないので、興味深かった。
     また、福田いわく、谷崎は女性を信じて、女性とある種の共同体を作ることができたが、荷風は女性を信じることができなかった。谷崎は、女性達が自信を持っていれば安心だった。女性達が自信を持つように気を遣っていたことを述べている。
     あと、この本を企画した木村は、宰我について、論語のトリックスターと評しているのも関心をひいた。

  • 九州産業大学図書館 蔵書検索(OPAC)へ↓
    https://leaf.kyusan-u.ac.jp/opac/volume/1412053

  • 第一章 日本人にとっての『論語』
    「中庸」の精神と孔子の哲学/『論語』の精神を継承した日本人/「朋(とも)有り、遠方より来たる、亦(また)楽しからずや」/「巧言令色、鮮なし仁」/朋としての友を持つということ/「終はりを慎み遠きを追はば、民の徳厚きに帰せん」/「三十にして立ち、四十にして惑はず、五十にして天命を知る」/「我仁を欲すれば、斯(ここ)に仁至る」/確信としての伝統、運命愛としての孝悌/「行ひて余力有らば、則ち以て文を学べ」

    第二章 『論語』と価値基準
    「己に如(し)かざる者を友とすること無かれ」/「君子は周して比せず、小人は比して周せず」/場をつくるという意識/「図らざりき。楽を為すことの斯に至らんとは」/「之を道(みちび)くに徳を以てし、之を斉(ととの)ふるに礼を以てすれば、恥ありて且(かつ)格(いた)る」/「関雎(くわんしよ)は楽しみて淫せず、哀しみて傷(やぶ)らず」/「女子と小人は養ひ難し」/「子は怪力乱神を語らず」/フランス哲学の「怪力乱神を語らず」

    第三章 孔子の「俗」と「聖」
    孔子の出自と儒教の血統崇拝/父の「現実主義」と母の「神秘主義」/「吾少(わか)くして賤(いや)し。故に鄙事(ひじ)に多能なり」/「学びて思はざれば則ち罔(くら)し。思ひて学ばざれば則ち殆(あやふ)し」/「憤せずんば啓せず」/驕気と多欲と態色と淫志/「下剋上」の賤しさと「長幼の序」/徳治と法治の関係/政治家孔子はなぜ急いだか

    第四章 孔子の「死ぬ準備」
    「帰らんか、帰らんか」/「吾行ふとして二三子と与(とも)にせざる者無し」/「博奕(ばくえき)なる者有らずや。之を為すは猶ほ已(や)むに賢(まさ)れり」/「異端を攻(をさ)むるは斯れ害あるのみ」/「知らざるを知らずと為す、是知るなり」/「甚だしいかな吾が衰へたるや」

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著者プロフィール

西部邁(にしべ・すすむ)
評論家。横浜国立大学助教授、東京大学教授、放送大学客員教授、鈴鹿国際大学客員教授、秀明大学学頭を歴任。雑誌「表現者」顧問。1983年『経済倫理学序説』で吉野作造賞、84年『気まぐれな戯れ』でサントリー学芸賞、92年評論活動により正論大賞、2010年『サンチョ・キホーテの旅』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。『ソシオ・エコノミクス』『大衆への反逆』『知性の構造』『友情』『ケインズ』など著書多数。

「2012年 『西部邁の経済思想入門』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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