- Amazon.co.jp ・本 (344ページ)
- / ISBN・EAN: 9784787719010
作品紹介・あらすじ
「その眼に射抜かれることもある。その眼に挫折することもある。それでもなお、お前は何者なんだ、と厳しく問いつめる眼に自分を開いておくこと。
見つめ、見つめられ、まなざしが交差する十字路が、ぼくのカメラのレンズに映っている。
そこに近づけるだろうか。
そのためには、どうしても置き去りにできないあの眼が問うものについて考え続けるしかない。自分が感じたあのおののきの意味を幾度も反芻すること。ボーダーランドをゆく旅で出会った忘れられない人びとの面影と、写真家にしかできない魂の対話を続けながら。」
——本書より
どうして見つめ返すのか。困難を生きる人びとの眼を——。アフリカ、アジア、東日本大震災後の福島へ。フォトジャーナリストが自らに問うルポルタージュ。
国境なき医師団との関わりから写真家として歩みはじめた著者は、世界各地の紛争や飢餓や児童労働、災害の現場を取材し、人びとが人権を奪われ、生きづらさを強いられる現代社会の「問題」を発見する。それは同時に、一人ひとり固有の名前とまなざしをもつ「人間」に出会う経験でもあった。
困難を生きる人びととわかりあえないことに苦悩しつつ、「共にいられる世界」を切実に求めて旅する著者の声は、分断の時代に私たちはどう生きるのかという道を指し示す。
感想・レビュー・書評
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「写真を撮るということは…心の扉を叩くこと」。世界各地の紛争や飢餓や災害の現場を取材し、アフリカ、アジア、東日本大震災後の東北を旅する写真家。そのような著者が、これまでの歩みを振り返りながら、なぜ困難を生きる人びとの眼を見つめ返し、写真を撮るのかを自らに問い、葛藤する思いを記録した真摯なルポルタージュです。
ジャーナリストとして大きな「社会問題」を追いかけることから、目の前にいる小さな「ひとり」と対話することへの姿勢の変化があった、と著者は言います。私はそこに感銘を受けました。写真も40点以上収録されていて、読み応えがあります。とても良い本なので、おすすめします。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
手に取ったきっかけは、著者の写真展を訪れたことだった。
本作にも収録されている、被写体の視線が印象的な写真に惹かれ、事前知識を持たないまま読んで、圧倒された。
著者は高校時代に一ノ瀬泰造氏に影響を受け、カメラマンを志す。
紆余曲折を経て「国境なき医師団」に随行してエチオピアへ向かい、辺境の地で生きる人々に触れ、大きな衝撃を受ける。
それから訪れた地は、アンゴラ、カンボジア、ミャンマー、ソマリア・・・世界の紛争地、難民キャンプ、日本人が深く知ることは無い「問題を抱えた場所」へ踏み入り、深く自問自答しながら写真を撮り続ける。
各地の実情と共に感じたこと、考えたことが丁寧に語られていて、本当に自分は世界のことを知らない、ということを思い知らされる。
著者の行動すべてを無条件に肯定するわけではないのだけれど、何もしない人間は何かした人間を批判する権利などない、ということを何度も感じた。
安全地帯から深く考えずに投げる言葉はあまりにも軽い。
そして、こういう写真家がいるということが日本では一般的に認知されておらず、写真だけでは食べていけない、ということにも驚く。
私自身、サルガドの名は知っていても、著者のことは写真展で初めて知ったのだった。
自分が情報に対して疎かったということもあるだろうけれど、やはり圧倒的にメディアに取り上げられていないのだと感じる。
海外各地のエピソードが連ねられた後に、最後は、3.11後の東北についても語られる。
衝撃的だった。
現代の日本で、こんな風に、公的機関にも助けてもらえず、独力で家族の遺体を探し続けた人がいたのか。
安穏と過ぎる自分の日々と同じ時間を、こんな風に生きている人がいるということ。
目を開かれる。
そして、海外の紛争地と東北が並べて語られることによって、自分は「海外は海外」とどこかで線を引いて読んでいたことにも気づかされた。
日本のエピソードが並列に語られて、初めて、海外の問題が自分の暮らす地と繋がっていると感じられたのだ。
あとがきで、真山仁氏の言葉を引いて、「報道は報いる道」と書かれているのも印象的だった。
もちろん、本来の意味は「報せる道」だろう、と思う。
しかし、「報せる」という文字には「報いる」という意味があるということが何かの象徴のように感じる。 -
渋谷敦志(1975年~)氏は、立命館大卒、アジアプレス・インターナショナル所属のフォトジャーナリスト。1999年、MSF(国境なき医師団)主催のフォトジャーナリスト賞受賞。
本書は、エチオピア、アンゴラ、カンボジア、ミャンマー、福島のほか、インドネシア、東ティモール、ルワンダ、バングラデシュ、ウガンダ、パキスタン、ソマリア、南スーダン、南アフリカなどの、難民キャンプ、被災地を取材したルポルタージュであるが、それに加えて、著者が高校時代に故・一ノ瀬泰造の『地雷を踏んだらサヨウナラ』を読んで写真家になることを決心してから、自問し続けてきた「(難民キャンプや被災地の人びとにカメラを向ける)自分は何者なのか?」という問いに対する、心の葛藤・変化を赤裸々に綴っている点において、他のフォトジャーナリストによる著作と大きく異なっている。そして、後者の部分は、強く心に響き、(幸いにも紛争や災害の影響を受けていない私のような)読者に対しても、「自分は何者なのか?」を否応なく考えさせるのである。
著者は冒頭でこう語るのだ。「戦争、飢饉、貧困、災害・・・。悲しいことだが、この世界にはまさに今この瞬間も、文字通りの生き地獄を生きている人々が大勢いる。自分の置かれた境遇からかけ離れた現実を生きるそんな「だれか」のもとにカメラを持っておもむき、耳を傾け、応答し、相手について少しでもわかろうとする。でもそのたびに突きつけられるのは、その「だれか」と行きずりの写真家である「わたし」とのあいだには目には見えない境界線がある、という厳然とした事実だ。それを克服しようとしてファインダーを覗き込み、相手のまなざしと向きあおうとするのだが、それでも「だれか」の痛みを「わたし」の痛みとして感受することはできないし、「だれか」の悲しみをその人の身代わりに背負うこともできない。・・・「わたし」が「だれか」になれない以上、お互いの心はどこまで行っても交差することなく、わかりあえないことに苦悩しながら、永遠に境界線上をさまよい続ける他ないのではないかと不安になる。」と。
しかし、30年間に亘り、様々な現場で、「だれか」である「あなた」と何度も何度も向かい合うことにより、「「あなた」の側から送られてくるまなざしに応えて、そこに自分自身の「生きる」を解き放てば、それまで知ることも気づくこともなかった世界との共振・共鳴が起きる。そんな「共にいられる世界」のリアリティを、写真を通じて一徹に探究してきたのだと、ようやく合点したのだった。」と結んでいるのだ。
本書において著者は、“写真”を通して他者との関わりを突き詰めていったが、このテーマは、そのまま、我々と他者の“対話”に置き換えられるものである。
「不寛容」が世界を席巻する今こそ、他者とつながる道につねに自分を開いておくことの大切さを問う本書の価値は大きいものと思う。
(2020年3月了) -
図書館で「ジャケ買い」ならぬ「ジャケ借り」した一冊。この本を読まなければ、きっと知らないままだった世界がある。報道写真の意義を感じる。読めて良かった。ルルちゃんの写真が忘れられない。
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フォトジャーナリストとは何者なのか。
危険地域に入ってまで写真を撮る意味。
写真で伝えられること、写真だから伝えられることがある。
写真を撮ることの葛藤。
そもそもフォトジャーナリストになりたいという著者の意志の強さや、フリーで報道されるべき国や地域に入り込んでいく行動力が、本当にすごいと思う。文章では淡々と書かれていても、その裏の努力は相当なんだと。
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写真を撮るというのは、見つめてしまったから撮るというよりも、むしろ被写体の人達からつよい熱量で見つめられてしまったから…と思いました。
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紛争・貧困・飢餓・災害。それらを理屈や数字でわかったつもりになることを、強く戒められる。著者が現場で発する煩悶の言葉には、その力がある。気負った物言いが結構あるが、そのぐらいの気負いがなければ、そのぐらいの覚悟がなければ、本書で紹介されているようなタフな現場に入っていき、それにきちんと向き合っていくことはできないだろう。
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毎日新聞2019210掲載