不穏の書、断章

  • 思潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (237ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784783724360

感想・レビュー・書評

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  • シオランが気に入ったのならペソアも読んでおくべきらしいので、図書館で借りてみた。
    こういう本を読むたびに文学(というか芸術全般)は虚無を表現してなんぼの世界だと感じる。
    明るくポジティブなものに芸術性なんてあるわけないし、今後もああってはならないのだよ。
    この人もシオランもだけど、本当は書きたいことなんてあるわけでもないのだけど、書くしかなかったんだろう。
    実際ペソアは最低限の仕事で給料を得て、それ以外のほとんどを執筆に充て、人付き合いもなければ地元を出たこともないような人間だったそうだ。
    しかも出版する予定もないのにただひたすら書いていたというのだから(境遇が宮沢賢治似ている)。
    「ふりをする」っていうのはいい言葉だと思う。
    詩人のふりなどさすがに現代ではする気はないが、人間のふりや友達のふりくらいはできる。
    ただそれすらも面倒な現代では死人のふりをするのが良いような気もする。

  • 装丁の紙使いがとてもお洒落で素敵。

  • 貿易会社に勤めながら膨大な文章を書き溜めたポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアが、自らの分身ベルナルド・ソアレスに仮託して綴ったライフワーク的な作品の抄訳。


    『不穏の書』はペソアの死後にトランクから原稿が発見されたので、決定稿が存在しないらしい。そんなわけで、本書は訳者編集によるその一部と、ほかの書き物から抜粋してきた断章からなる、断章の断章といったていの一冊である。
    ペソアは書くためにたくさんの分身を持っていた。ベルナルド・ソアレスはなかでもペソアと非常に近いパーソナリティを持った一人で、会社の社長を自分と対極の人間と位置づけながら、ペシミスティックな人生についての洞察を日々書き連ねる。仕事はしているが、かなりメルヴィルの「バートルビー」的な人である。貿易会社の商品である織物や出納帳、旅行パンフレットなどをとっかかりに日常と哲学的考察が入り乱れる短い断章の連なりは、ウィトゲンシュタイン風の20世紀日記文学という感じで意外と入っていきやすい。
    ソアレス(ペソア)はいつも自分という存在のゆらぎに目を向け、アイデンティティなどは実際にはどこにもない空虚なものだとくり返し書く。だからこそ、人は同時に全く異なる別々のものになることができるのだと。一隻の船であると同時に、一冊の本の一ページであること。異なる宇宙の別々の王国の二人の王であること。そう夢みることをソアレスは自らに課す。一人の人間のなかには行動する人と夢みるひと、二人が生きていて、二人の人間が上手くやるには四人分の人間関係が発生する、そんなのやってられない、というくだりに納得するし共感した。しかもペソアのなかには「夢みるひと」が何十人も息づいていたのである。
    ペソアはこうして、物語を書くのではなく、書く人たちの人生を無数に作り上げた。ひたすら孤独について書き連ねながら、何十人分も生き、劇場のような人生を夢みた。ペソア的な人、ペソア的な孤独は、みんなが何かしらを書くようになった今、すでに普遍性を持っていると思う。だが、単にペルソナを切り替えるというだけではなく、常に〈自分〉の向こう側に行こうとする者だけが辿り着く、狂気と芸術の世界がきっとあるのだろう。「詩人とは、つねに自分ができることの彼方へと向かう者のことだ」。

  • ★★★★★★儚い言葉、零れ落ちる言葉、無関係のいくつかの隠喩。漠然とした不穏さがそれらを別の時間に結びつける。 ペソアという詩人が存在したのかしなかったのか、またはそんなことからは超越した別の存在のあり方だったのか。私は生きることなく、そして同時に死ぬこともなく、移ろう景色を通り過ぎていた。通り過ぎた痕跡もなく、すべての足跡はあらかじめ失われていた。 内と外の両方で、同時に何かが溶けあい、私は誰でもない人だった。

  • 「生きること、それは他人であることだ。感覚することは、昨日と同じように今日も感覚するから可能なのだ。だが、昨日と同じことを感覚することは、感覚ではない。——それは昨日感じたことを今日思い出すことであり、昨日は生きていたのに、今では失われてしまったなにかの、生きた死体であることだ。
    画布に描かれたすべてを次から次へと消して、新しい夜明けごとに感情の永遠の処女として毎回新たな自分を見出すこと——これが、これだけが存在するに値するもの、所有するに値するものだ。不完全な自分から、完全な自分になるために。」

    「嗅覚は奇妙な視野だ。それが喚起するのは、潜在意識によって突如描かれる感情の風景だ。このことを私はしばしば感じる。路を歩く。私はなにも見ない。というか、まわりを眺めながら、誰もがするようにただ見ているだけだ。私は路を歩いていることを知っているが、この路が、その両脇に建てられたさまざまな家とともに、実在しているということは知らない。私は路を行く。すると、とあるパン屋からパンの香りがしてきて、その甘い香りによって胸がむかつく。突然私の前に、私の少年時代が、どこか遠い街からやってきて、そびえたつ。そして、別の国のパン屋が、私にとってはすべてが亡びてしまった魔法の王国から現われる。私は路を進む。」

    「文学とは、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である。」

    「私とは、わたしとわたし自身とのあいだのこの間である。」

    「真に誰かを愛することはけっしてない。私たちが唯一愛するのはその誰かに関して作りあげた観念だけなのだ。私たちが愛するのは、自分が作りあげた概念であり、結局のところ、それは自分自身なのだ。」

  • 2015/5/24購入

  •  幾つもの名前を持つフェルナンド・ペソア。ペソアは、ペソアであるが、ベルナルド・ソアレスでもあり、実は私でもあり、あなたでもあり、ペソアも私も知らないどこかの誰かでもある。
     この書物は、散策の中で書き継がれた、詩であり、散文であり、哲学書でもある。だから、断章という形をとるしかなかった。

     その中からの引用
     「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」

     「自然であるためには、ときどき不幸である必要がある」

     「私はもはや自分のものではない。私は打ち捨てられた博物館に保存された私の断片なのだ」
     
     ペソアの言葉は反芻を促す。
     イタリア出身の作家アントニオ・タブッキは、ペソアの詩に魅せられ、ポルトガル語を学び、ポルトガルのリスボンで生涯を閉じる。 
     山田太一はこの『不穏の書』を枕元に置いているという(『月日の残像』。
     加藤典洋も地味な読者であり、その痕跡を求めてリスボンまで行ったという(『考える人』(季刊誌No50)。
     私もまた、これから繰り返し読み続けることになりそうだ。

  • 胡蝶になった夢を見ていた荘子は、夢から覚めた後、今いる自分が胡蝶の見ている夢でないといえるかと自問する。『不穏の書』を読んでいると、自分もまた、フェルナンド・ペソアに見られた夢の中で生きているのではないかと思えてくる。『不穏の書』の作者とされるベルナルド・ソアレスの手記に見出される感情や思惟は、それほどまでに自分に近しいものを持っている。もっとも、その「自分」というのが私と等号で結ばれたりはしないのがペソアの世界なのだが。

    埴谷雄高は『死靈』の主人公三輪與志に「自同律の不快」という言葉を呟かせている。初めて読んだときには、それが、「自分=自分」であることの居心地の悪さを言っているのだろうという意味は理解できても、実感が伴わなかった。いつの頃からか、それが実感として感じられるようになった。若い頃は、自分というものをプラスティック(可塑的)なものだととらえていたから、日々移ろいゆく自分の変化を「成長」と錯覚することができた。しかし、ある日、それが誤りだと気づいた。確固とした自分などはなく容器としての自分があるだけなのだと。

    だから、こうして書いている「私」もまた、自分の中の一人の人格として存在している。こういう風に考える「私」を仮にAと名づけよう。『不穏の書』は、Aについての「本」である。生きていることに特別の意味などないと考えているAにとって、毎日の生活は単調であるが、格別不満というわけでもない。生活を維持する目的で事務的に仕事をし、残りの時間を自分の時間として考え事をしたり書き物をしたりするのに使う。Aにとっては、そちらの世界こそがリアルなのだ。

    ソアレスのいるのはポルトガルのリスボン。バイシャ地区(下町)に住み、独身で、貿易会社の会計助手をしている。食事はレストランで済ませ、余暇は手記を書くことに費やしている。書かれる内容は形而上学的な思弁であったり、自分についての省察であったりするが、基本的には「個人における性行、心理、生活、社会における慣習や風俗の描写を通して人間の本性を探る(訳者解題)」モラリストの文章に類する。

    ソアレスはペソアが生みだした複数の異名者の一人である。ただ、他の多くの異名者とちがうのは、ソアレスはペソアに近い外見や生活を持っているということだろう。作家の等身大の自画像と考えることもできそうだ。『不穏の書』は、膨大なテクストによって構成されているが、決定稿のないままに遺されている。「作家の複数性」という特質や「断章」という形を取ったテクスト群から分かるのは、ペソアが紛れもなく現代的な作家の資質を持っていることであり、タブッキをはじめ多くの信奉者を生む理由もその辺にあるのだろう。

    『不穏の書、断章』と、一冊にまとめられた「断章」もまた、複数の異名者による詩や散文から訳者が編んだものである。選び抜かれた短い言葉の中にも『不穏の書』に共通する色濃い「虚無」と「倦怠」が滲んでいる。自分というものに違和感を感じることのない健康的で実務的な人生を送る人には無縁の書物である。

    「私とは、わたしとわたし自身とのあいだのこの間である。」 -フェルナンド・ペソア「断章」より

  • ペソアとの親和性が非常に高まっている昨今2011夏。

  • ペソアとの親和性が非常に高まっている昨今2011夏。

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著者プロフィール

Fernando Pessoa (1888-1935)
20世紀前半のヨーロッパを代表するポルトガルの詩人・作家。
本名のフェルナンド・ペソアだけでなく
別人格の異名カエイロ、レイス、カンポスなどでも創作をおこなった。
邦訳に上記4名の詩選『ポルトガルの海』(彩流社、1985年/増補版1997年)、
『アナーキストの銀行家 フェルナンド・ペソア短編集』(彩流社、2019年)ほか。
散文集『不安の書』は、ペソア自身に近い男ソアレスの魂の書。



「2019年 『不安の書【増補版】』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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