ドリーム・ハラスメント 「夢」で若者を追い詰める大人たち (イースト新書)

著者 :
  • イースト・プレス
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  • Amazon.co.jp ・本 (280ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784781651248

作品紹介・あらすじ

あなたも、既に加害者かもしれない


<各界絶賛>

■武道家 内田樹氏
呪符として機能している「夢を持て」「自分らしく生きろ」という言葉の負の効果に、
我々はもっと恐怖心を持つべきである。

■思想家 田坂広志氏
若者に「夢を持て」と語る大人は、必読!

■教育改革実践家 藤原和博氏
私には夢がなかった。リクルートに憧れはなかったし民間校長になる夢を見たこともない。
「教育改革実践家」は52歳の私があとづけで付与した肩書きだ。

■経営学者 野中郁次郎氏
計画・分析偏重の呪縛から逃れよ。「いま・ここ」の直接経験から見えてくるのが「生き方」だ。


夢の強要。その罪と害

犯行の凶器は、「夢」でした。タチの悪い悪意無き共犯者たちによる「夢を持て」の大合唱。その陰に隠れて黙殺されてきたドリーム・ハラスメントという実態。数々のインタビュー・文献調査から浮き彫りになったのは、夢を持てずに苦しむ直接的被害者と、意外な間接的被害者の存在。誰も夢から逃れられないのに、誰も夢の持ち方は教えてくれない。夢に支配されない生き方も提示されない。只々「夢は善」と妄信させるだけ。夢を持てないとヒトは死ぬのか。そんなにも社会は生きづらいのか。教育関係者自らが、教育界の長年のタブーをえぐり出す。

【目次】
はじめに

第一章 夢に食い殺される若者たち
どこへ行っても夢まみれの社会
夢はただの後付け物語
夢にねじ曲げられる若者の個性
正解志向と忖度力は当然の帰結

第二章 職業以外の夢が認められない異常
「夢=職業」という画一的な夢観
曖昧にしてきた夢の定義
職業観の変遷と夢化

第三章 タチの悪い悪意無き共犯者たち
悪意無き教師と保護者
教師という職業的宿命
教師を動かしたもう1人の犯人
夢は大量生産できなかった日本

第四章 夢を持たないとヒトは死ぬのか
『夢をかなえるゾウ』の空白地帯
夢を持たない生き方
大きな夢より小さな成功体験

第五章 それでも夢を持たせたいならば
近くを見よという逆説
夢は宿るもの
実現しても終わりではない夢の続き
夢のある社会への改築こそ大人の仕事


おわりに

感想・レビュー・書評

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  • 「将来の夢」という言葉は、すべての人間に希望を見出すわけではなく、それに苦しめられる人もいる。

    学校の課題で書くことを強いられ、自分に夢がないことを、悪いことと思ったり、その場をやり過ごそうと夢を捏造したりした経験は、多くの人が通ってきた道であると思う。(もちろん全ての人が、と断定はできないが)

    様々な方法論やハウツー本が流通している中、絶対に全ての人に通じる正しい考え方なんかない、と思っていたが、無意識に信じてしまった「夢を持つことの正しさ」。

    読んでいく中で、それに気づかされたことが、とても恐ろしく感じられた。

    (もしかしたら、無意識に正しいと思い込んでいることは、他にもあるかもしれない。
    「常識を疑え」と口に出すのは簡単だ。
    しかし、刷り込まれた常識のように見えるものを、疑ってかかることはそう簡単ではない。)


    「夢を持つこと」それ事態は悪いことではない。

    「夢がなくても生きていける」社会を作り上げること。それが大人の使命である。と著者はこの本で締めている。

    ハッとさせられる読後感を。ぜひ。

  • dreamという英語を訳そうとすると、字としては夢。でも、その夢は、自分がなりたいものややりたいことしか、意味を考えられなかった。寝ている時に見る夢という発想がない自分に気付き、この本を手に取った。
    いつの間にか、刷り込まれたアンコンシャスバイアスの一つになってしまったかもしれない。

  • 店頭でこの本を見た時「ついに夢さえもハラスメントになったか」と感じた。しかし、中身を見てみるとなるほど納得のいく内容だった。
    夢とは非現実感なものである、なのに夢を持つことを前提とするキャリア教育。宝くじを買えと強要するようなものという例えはその通りだと思った。
    本書は実際の高校生の声を中心に話が展開していくため、やや極論では?と思う論理展開もあるものの、全体として実感に即するものだった。
    子ども・若者に「夢を持て」と語るその無責任さを反省しなければならない。

  • 書店でタイトルが目に止まり、購入。
    この本を読むと、2000年代に入りますます人(大人)は夢を持つことを若い人に押し付けていたのかを、思い知らされる。自分も母校のキャリア教育に関わらせていただく中で、夢を押し付けていなかったかと、ふと考えてしまった。行動して、その中で見つけていければ良いよねという考えは自分の中でも意識する必要性を感じた。
    ただし、この本は犯人探し(〇〇が悪い)や夢を持つこと自体を否定している訳でなく、凄く色々と配慮している感じが見て取れた。

  • 851

    この本に意味づけが無いと行動出来ないというのはダメだって書いてあった。まずはやってみないことには何もわからないし現実化していないことは自分の妄想とか理想に過ぎないからって。自分の夢が思い描いた通りとは限らないし、夢のあとの人生みたいなものがあるから。まずは行動することでやりたいことが決まってくるっていう部分に共感した。

    私もつまらない人生だったけど、なんとなくランニング初めてみたら、山に登る体力とかロードバイク大会出る体力とか付いて行動範囲が広がって楽しくなった。ランニング始めた当初は山登ったりとか自転車の大会に出ることとか自転車の大会先で九州の友達が出来たりとか山登りで出会った友達と旅行したりすることは予想してなかったから。まずは行動が先にあるんだと思う。小さい頃から夢を持ったことがなくて、夢がない事に悩んでたけど、この本読んで価値観が変わった。

    高部大問(たかべ・だいもん)
    1986年大阪府生まれ。慶應義塾大学商学部卒。中国留学を経てリクルートに就職。自社の新卒採用や他社採用支援業務などを担当。教師でも人事でもなく、子どもたちを上から目線で評価しない支援を模索すべく、多摩大学の事務職員に転身。現在は大学以外にも活動領域を広げ、自らが手掛ける中学、高校(生徒・保護者・教員)向けキャリア講演活動は延べ56回・13,000人を超える。また、新聞やニュースサイトでの寄稿など執筆も多数。


    大学受験に失敗し、就職活動でも苦労した天才物理学者アインシュタインも、自分自身に備わっているのは「特別な才能」ではなく、情熱的なまでに旺盛な「好奇心」だけだと述べています。「なぜ磁石はいつも北を指すのか」「なぜ月は夜だけ輝くのか」「なぜ海は青いのか」といった止め処無く沸き上がってくる興味・関心を、彼は放棄しなかったのです。つまり、遠大な夢は持たなくとも、身近にある小さな好奇心には蓋をしなかった。だからこそ、特許局で仕事をしながらも研究を続け、物理学の常識を根本から覆す偉業を成し遂げ「現代物理学の父」となったのです。

    なぜ、夢があるのに表に出せないのか。ある高校の先生への取材で明らかになりました。「夢や目標は皆あるんだと思う。けれど、秘めちゃっている。『何そんな青臭いこと言ってんの?』『そんなんで食っていけるの?』などと言われてきた過去があるのだろう」と、自戒を込めて仰っていました。

    「夢」とは何でしょうか。  以前、「夢=職業と結び付けて考えていた」と言ってくれた高校生がいましたが、私たちは普通、「夢」という言葉を職業と紐付けて考えます。幼い頃に聞かれるのは「大きくなったら何になりたい?」ですし、毎年発表される「なりたい職業ランキング」は子どもたちの「夢」として報告されています。  たとえば、小学6年生までを対象にした調査では、「学者・博士」がそれまで「夢の代表格」だった「野球選手」と「サッカー選手」の双璧を崩し、 15 年ぶりに子どもたちの「夢の代表に返り咲き」と報告されています(『第 29 回「大人になったらなりたいもの」調査』第一生命保険株式会社2018年)。

    2018年のサッカーW杯で、強豪国ブラジル代表でエースナンバー 10 番の重荷を背負ったネイマール選手。彼の夢はW杯優勝。重圧のなか、第2戦のコスタリカ戦で後半アディショナルタイムに待望の大会初ゴールを決めた彼は、試合後に写真共有アプリ・インスタグラムに「夢は続く……いや、夢じゃないね。いまは目標だ!」と綴りました。

    先ほど、「夢」は「現時点で非現実的な事柄」だと申し上げました。しかし、非現実的な事柄ならば何でも夢になるわけではありません。世の中に非現実的なことは山ほどありますが、それらのうち、本人の実現意欲が無ければ夢にはなり得ないのです。

    「成し遂げたさ」が生じるということは、その裏側に「成し遂げられなさ」が同居しているということ。つまり、夢は欠点のある不完全な人間だからこそ芽生えるもの。満たされない人のもとにやってくるのです。

     また、「東京ディズニーランドに行くことが志」と言われても違和感を覚えます。それは、誰かが個人的に東京ディズニーランドに行くことが、多くの他者に幸福をもたらす事柄ではないからです。つまり、夢は当人の個人的な達成願望事項なのです。

    ここまでの内容をまとめると、人々が使用する「夢」という言葉は、「当人にとって現時点では非現実的ながら、どうしても成し遂げたい個人的事柄」と定義できそうです。強引に短縮すれば、「個人的非現実的達成願望事項」とでも表現できるでしょうか。

    アイデンティティが白紙化したことで、若者たちは努力してアイデンティティを築き上げねばならなくなりました。生まれた時点では将来が未知数だからです。  無限の可能性があると言えば聞こえが良いですが、それは同時に、何者にもなれないリスクも孕んでいることを意味します。しかし、生まれてくる子どもたちはそんな世界のしきたりを知る由もありません。  そこで、「実力を付けアイデンティティを構築する支援」が先生や保護者の皆さんのメインミッションとなりました。「自分とは何者か」の発見の手伝いが仕事になったのです。それもこれも、目の前のことに頑張るためのメカニズムが狂ってしまったからです。

     アドバイスが容易ということは、手軽に目の前のことに努力させることが可能ということです。若者たちに夢があると嬉しいのは実は大人の方なのです。  ただし、助言が容易なのは地図があり目的地までの道程が明確な場合に限ります。ある町立中学校の校長先生は「夢を持たせ計画的に歩ませる方法が主流だしスタンダード。医師や看護師や介護士など、道がはっきりしている職業の指導はできるのかもしれないが、それしか教員はやれない」と仰っていました。  ということは、先生と保護者の皆さんは、助言が容易な夢を好む傾向にあるということです。「目の前のことに頑張らせる」という目的に対して「良い夢」と「悪い夢」が仕分けされてしまうからです。夢を手段化するとはそういうことです。なるほど、夢のストライクゾーンが決められ、それ以外の夢が否定されるわけです。

    職業教育を委託された先生たちには、若者たちに夢を求めざるを得ない教師ならではの理由があります。  ひとつは、そもそも先生たち自身が教師という職業を夢見て実現させたという成功体験者であることです。教師という職業は、大学教員や校長・教頭を除き、基本的には教員免許というライセンスを要する専門職です。ですから、どこかのタイミングで「なりたい」と望まなければ就けない職業です。  たとえ、就きたい仕事や特別なスキルが無く、「教師にでもなるか」「教師にしかなれない」と消極的な理由で教師を目指した「デモシカ先生」だとしても、です。  ただし、そうした職業は他にもあります。医師や美容師など「師」の付く仕事の多くは「なりたい」という夢に支えられた専門職です。では、教師という職業ならではの特徴は何でしょうか。

    ある県立高校の若手の先生たちとのディスカッションの場で「先生方がいま最も欲しいものは何ですか」と問い掛けてみたことがあります。どんな答えが返ってきたでしょうか。 「上司が欲しい」  これが、その場にいた何人もの先生たちが口を揃えて仰った答えです。煙たい上司の存在に辟易しているビジネスパーソンの方々からすれば驚かれることでしょう。なぜ、先生たちは上司を欲するのか。

    アメリカでキャリア教育が生まれた1971年、当時のアメリカ連邦教育局長官マーランドは「学を 衒う者は、役に立つ教育を冷笑するが、しかし、ではもし教育が役に立たないのであれば、それは何のためか」「すべての教育はキャリア教育であるべきである」という「正論」を語りました。この正論を真に受けた日本は、それ以来、多くの教育活動が「近視眼的には」意味のあるものにデザインされてきました。  また、表面的なキャリア教育が 跋扈 する別の要因は、キャリア教育という巨大マーケットに着目した「キャリア教育ビジネス」の存在があります。キャリア教育というあまりに巨大なお題が降ってきて対応に困惑する教育現場にとって、外部業者は有り難い存在でした。

    実行犯に夢の量産計画を言い渡した教唆犯である国にも、悪意はありません。低下した就労意欲を引き上げ、若者たちの雇用問題を解決すべく、自分で決めた夢のためならば頑張れるはずだと目論んだのです。もちろん、「夢を持とう」「夢は叶う」と公言する芸能人やアスリートといった幇助犯にも悪意は無いでしょう。  皆、悪意は無いのです。しかし、見るからにあくどい敵役がいないことが、ドリーム・ハラスメントのタチの悪さです。誰かを責めたところで、何の解決にもならないからです。  ドリーム・ハラスメントの加害者は、夢の量産計画を描いた教唆犯と、実際に夢を凶器に使ってしまった実行犯、そして犯行を結果的に助長した幇助犯。悪意無き共犯者たちによるタチの悪い嫌がらせのアンサンブル。それが、ドリーム・ハラスメントです。

    先生や保護者の皆さんは夢を善意で求めていますからハラスメントだとは認識していません。声を挙げるとするならば、被害に遭ってきた若者たち自身です。  しかし、多くの時間を学校や大学という限られたコミュニティで過ごす若者たちにとって、「先生が夢を卒業文集で無理に書かせてくる」「保護者が夢を強要してくる」とわざわざ意見することは、無謀でリスキーな賭けです。

    大変な勇気を必要としながらも、周囲からは寝言だと解釈されたり意図と違った方向に炎上してしまうリスクもあり、割に合わないのです。若者たちにとって、夢に関する迷惑行為の表明は高過ぎる壁だったわけです。そんなリスクを冒すよりも、泣き寝入りのコストの方が安く済む。実に合理的な判断です。

    なぜ、ドリーム・ハラスメントの訴えが割に合わないのか。それは、夢にスター性が備わっているからです。  夢それ自体は悪者ではありません。夢は人を差別せず、来る者を拒みません。ある人が夢を持つと自分は持てなくなる、ということはありません。夢は決して排除しない、誰にでも寛容な公共財です。万人に笑顔を振りまきながら個人には希望を語り掛けてくれる夢は、明るくポジティブなイメージをまとっています。

    しかし、ドリーム・ハラスメントの場合は違います。学校の授業で堂々と卒業文集に夢を書かせるくらいですから、やましさは微塵もありません。迷い無き善意は手強いのです。  世間の大多数が夢をスターだと仰いでいるときに、夢を敵に回し1人だけ場違いに声を上げても効果は見込めません。「寝言を言うな」と嘲笑され一蹴されるか、周囲の大合唱に掻き消されてスルーされるのが関の山です。

    誰かにコントロールされた操り人形のように夢がプロモーションされているのであれば、トリックは見破りやすく信じ込むに至りません。しかし、夢の合唱団のメンバーはランダムに構成されている。彼らは誰に頼まれたわけでもなく自発的に宣伝大使を買って出ている。無作為に選出されているのに、なぜか「夢は重要」という曲を皆で器用に奏でているのです。

     そうなると、たとえ若者たちが何らかの夢を持って相談に来たとしても、「それって本当に君の夢かな?」「そうだとしても、他の会社や職業でも実現できるんじゃない?」などと言葉巧みに誘導し、夢の芽を摘んでしまいます。夢は加熱するよりも冷却する方が簡単なのです。  もちろん悪気はありません。寧ろ、本人のためを思い、親身になって支援するからこそですが、だからこそタチが悪い。個人の夢を応援できない歯痒さに苦しむキャリア・アドバイザーの方も少なからずおられます。

    一方、地に足が着いた若者たちもいます。夢を持つ個性ばかりが強調されますが、夢を持たずに生きることを許された唯一の特権階級です。彼らは夢という曖昧模糊とした偶像には目もくれず、別のある事柄に熱中しています。何に熱中しているかというと、お勉強に、です。  ドリーム・ハラスメントの傍らで、夢問題を免除された唯一の存在。それは、お勉強ができる学業優等生たちです。なぜ彼らが免除されるかというと、前節で確認したように、キャリア教育がそもそも若年者雇用問題の解決を目的に導入されたからです。  夢を持たせることで低下した就労意欲を高めることがキャリア教育の狙い。学業優等生たちは勉強意欲が高いのだから当然就労意欲も高いものと見做され、彼らに夢の装着は不要と判断されたのです。

    実際に、東京大学に進学者を輩出する高校の生徒からも、率直な声を見聞きしています。 「いままでは就職の際に有利だからなどの理由で闇雲に勉強していました」 「いままでの自分ははっきりとした目標や夢を持たない状態で高校生活を送り受験勉強をしています」 「私は良い大学に行ってしっかりとスキルを身に付ければいいと思っていました」 「能力さえあれば、苦労しないと思っていた」  学業優等生たちがキャリア教育のメインターゲットでなかったとはいえ、先生たちは、彼らに課題感を覚えていないのでしょうか。本当に手放しで喜んでいるのでしょうか。実は、そんなことはありませんでした。少なくとも現場の先生たちは。

    「学力レベルの高い生徒は教科書や参考書は見るが、自分自身は見ようとしない。高偏差値層にこそキャリア教育が必要」( 県立普通科高校 K校長)という危惧。 「『教わること命!』のような『受け身だが学力的に優秀な生徒』もいるが、やはり、自分の頭で考えないと真に優秀とは言えない。学校での良い子が社会での良い子ではない」( 県立普通科高校 M校長)という現実的認識。 「将来リーダーになる人には彼ら向けのキャリア教育が必要だし、フォロワーにはフォロワーとしてのキャリア教育が必要」( 県立普通科高校 K校長)という課題感。  どうやら、「勉強さえやっていれば親も先生もとりあえず満足してしまっている」( 県立総合学科高校 A校長)というのが教育現場の現状のようです。

     夢問題を免除されてきた学業優等生の多くは夢という拠り所を持たぬままのし上がってきたわけですから、自分の手柄を拠り所にするしかありません。周囲の協力や様々な幸運も重なり巡ってきたはずの機会を、あたかも「自ら創り出した」と勘違いしがちなのです。  周囲に感謝し、社会に尽くせ。自らの立身出世のために勉学に励むなど言語道断。このように、社会は学業優等生たちに厳しい目を向けます。  なるほど、「始終我身の行く先ばかり考えているようでは、修業は出来なかろう」(『福翁自伝』岩波書店)というように、福沢諭吉が勧めた学問とは、私利私欲に満ちた野暮な目的のための手段としての学問ではありませんでした。

     多才な若者たちの多様な就職活動を応援するはずの就職情報会社の多くも画一的です。彼らの商売上の手口は、「皆さんがやりたい仕事や夢を決められないのは、皆さんがまだ情報を知らないだけ。さあ、情報収集を」です。  こうして、情報不足という課題感を醸成し、そこに情報提供することで課題を解決すべく、自社の就職情報サイトなどに巧みに誘導してきたわけですが、「なぜ、やりたいことや夢が事前に無いといけないか」は一切俎上に載せられません。夢という動機を携えて就職活動を行い、社会に出ていくということが、疑う余地の無い前提とされている。まるで、万人にとって無上の喜びであるかのように。

     彼らは表向きは情報を販売していますが、結果的には画一的な生き方を押し売りしている。それが、本当に志した商売なのでしょうか。もしそうならば、情報会社の割には、かなり情報が偏っていると言わねばなりません。「知は力なり」も事実ですが、「知らぬが仏」も事実。知り過ぎることで却って踏み出せない人だっているのです。

    「犬も歩けば棒に当たる」のですから、歩き出しさえすれば、幸運に巡り合う可能性は自ずと高まります。したがって、目的地も、理由や動機も、必需品ではありません。歩き出す前にあれこれ求められれば、歩き出す気を失ってしまいます。選択肢が多ければ多いほど…

    あらゆる一歩に意味を求め過ぎている。意味とは言い換えれば価値です。一歩一歩に価値が無いと認めない。「急がば回れ」や「果報は寝て待て」は許容しない。人生が100年時代になろうというのに、いままで以上に若者たちを生き急がせて一体何…

    事前に分かる価値など高が知れています。何がどこでどう役に立つかは予測不能です。キャリア教育は働く前に働く意味を過剰に考えさせていますが、働いたことも無い若者…

    アメリカの代表的経済紙『THE WALL STREET JOURNAL』( 2008年5月)の「最も影響力のあるビジネス思想家トップ 20」に、アジアから唯一選出された経営学者の野中郁次郎先生は、昨今の日本の企業経営にみられる「三大疾病」に警鐘を鳴らしています。「三大疾病」とは、「オーバーアナリシス・オーバープランニング・オーバーコンプライアンス」という3つの過剰のこと。これは人生経営にも当てはまります。  若者たちに過剰に自己を分析させ、過剰に人生を計画させ、過剰に統制する。働く前からあるべき人材条件を提示し、それに適うよう個人を矯正し、そこから外れると社会で生きていけないような同調圧力を感じさせているのです。「備えあれば憂い無し」ということでしょうが、「過ぎたるは及ばざるが如し」。備え過ぎると荷物が多くなって身動きが取れなくなります。

     周囲が「夢は良いもの」「夢は持つべき」と一様に信じ込んでいるときに、自分だけ「持たない」と言い出すのは勇気を要するでしょう。一大決心のように感じるかもしれません。  しかし、実際にはそんなことは無いのです。目的のために努力できる強さは、目的が無ければ頑張れないという弱さでもあります。私たちは、特定の目的のために生まれてきたわけではありません。日々、何かのために合目的的に生きているわけではありません。

    ある中学校の校長先生は「夢が持てない子へのキャリア教育はいまぽっかり空いている。そして、実は夢なんて持てない子が大半です」と実態を教えてくださいました。果たして、夢を持たないとヒトは死ぬのでしょうか。

    こうした意見を非難するつもりはありません。夢に対するスタンスは千差万別でしょう。夢に生きる彼らは、夢の量産計画を目論んだ大人たちの思惑通りの生き方でもあります。  ただし、生き方がそれだけ、というのはあまりにも味気無いではありませんか。夢を持つ人はそんなに偉いのでしょうか。夢を持つ人が優秀で、そうでない人は劣悪なのでしょうか。

     大正6年に妻と共に小さな借家の土間でソケットづくりを始めた松下幸之助は、「当時は、その仕事が今日のように大をなすとは夢にも考えていなかった」のであり、その実情は「ともかく生活の道をという、日々の切実な考えで仕事を始めた」と回顧しています(『松下幸之助 夢を育てる』日本経済新聞社)。  ダーウィンにしても、最初から「進化論」を夢見ていたわけではありません。医師の父親から医師になるよう勧められますが医学の勉強は退屈で手術も正視できない適性の無さ。医師の道を断念し、父親は牧師にするためケンブリッジ大学に入学させますが、ここでもキリスト教より科学に興味を示す紆余曲折ぶり。  たまたま南米の海岸線測量を目的とした航海に誘われ調査船ビーグル号に搭乗。約5年の航海で、ガラパゴス諸島などに立ち寄った際に生物の標本を採集し、結果的に考え付いたのが進化論です。

    発明王のエジソンに至っては、壮大な夢から最も縁遠い存在です。父親は彼のことを「馬鹿と決めこんで」おり、小学校では「あいつの頭は腐っている」という校長先生のひと言を耳にし3箇月で中退。 10 代の初めから自活を強いられ、聴覚の喪失もありながら放浪の日々を過ごし、小さい頃からほとんど独力で人生を切り拓いてきました。  発明家になることを決意したのは 19 歳のときで、その前には規則違反や仕事の失敗などのために、次々とクビになり転職の回数は数え切れないほどでした。  彼は、「やりたいことは何か」などと学校に通いながら悠長に夢を模索したわけではありません。背水の陣で発明家になるくらいしか残された道が無かったのです。

     日本が誇る世界的アニメーション作品を数々生み出してきたスタジオジブリ。宮崎駿監督・高畑勲監督と共に映画づくりを支えてきた鈴木敏夫プロデューサーは、イベントやラジオで「世の中には2種類の人間がいる」と話しています。  ひとつは、夢や目標を持ってそれに到達すべく努力するという生き方。もうひとつは、目の前の仕事をコツコツやって開けてくる未来に身を任せる生き方。ジブリ作品になぞらえれば、映画『耳をすませば』の主人公・月島雫は小説家になりたいという夢に向かって努力するスタイル。映画『魔女の宅急便』の主人公・キキは、飛べるという生来の能力を使ってその時々の局面を打開していくスタイル。飛行能力が宅急便に活かせるからと仕事を始めたものの、会社を大きくしようとか社長になろうといった壮大な夢は持ち合わせていません。正に、逆算型と加算型の生き方です。  アカデミー賞受賞など数々の栄光を下支えしてきた鈴木プロデューサーですが、御自身は「僕は後者の方だと思う」と述べています。「子どもの頃から夢に悩まされてきた」と言う同氏は、「自分でやりたいことなんて何もなかった」のであり、「夢に向かって頑張り続ける成功だけじゃない成功がある。目の前のことに一所懸命になっていれば開ける道もある」という持論を展開しています(『禅とジブリ』淡交社)。

    もちろん、逆算型と加算型以外にも生き方は様々存在するでしょう。しかし、少なくとも、予め夢を定めて一心不乱に努力するスタイルだけがライフスタイルではない、ということが、実在する同時代人の生き方からお分かりいただけると思います。夢という将来のために生きる方法もあれば、いまを生き切る方法もあるのです。

    保護者の皆さんに直接お話を伺うと、消去法的に進路を決めた方や、「大学の教授の紹介で入社を決めた」とか、「人事の人の雰囲気が良さそうだったから」など、凡そ夢があったとは到底言えない理由でいまの仕事に就いた方も少なくありません。筋書きなど無かったのです。  それでも、「意外とやってみたらやりがいを感じる」。もちろん、世代や時代にもよるでしょうが、少なくとも、万人が職業的夢を携えて社会に出ているわけではありません。演繹的な生き方がある一方で、帰納的な生き方もあることを、大人の皆さん自身が実証しているのです。

    私自身の話で申し上げれば、就職活動中に1人の親友を失いました。自殺でした。動機は未だに分かっていません。寝食を共にした親友のはずが、悩みや相談を聞くことすらできなかった。肝心なときに役に立てなくて「何が親友だ」と自分の存在意義を自問自答せざるを得ませんでした。  しかし、そのおかげで、「生きるとは何か」「どう生きるか」を真剣に考えることができました。それは、「人はこんなにも簡単に死ぬ」ということを目の当たりにしたからです。死の実感が生を実感させてくれたのでしょう。

    人のキャリアにおける意味とは先には存在しないもの。夢が人生という旅の必需品であるかのように吹聴し、意味を行動より先んじて強引に実感させるには無理がある。少なくとも、「精神を擦り減らす」くらいに嫌がらせだと感じる若者が相当数いるということを申し上げておきたいのです。  私たちは、若者に「夢を持つ生き方」ばかりを過剰要求しています。「よく親から『逆算しろ』と耳にタコができるほど言われていましたが、なかなかできず、自分に合った型ではないのではと悩んでいた」と言う彼らは、かといって別の生き方があることを知らされていません。

    異質な者同士が互いを理解し合って仲睦まじく暮らす必要は無い。同質化した同居よりも異質なままの雑居の方が、集団としての生存力は高いというわけです。  皆が夢を持ち、その実現に向けて 齷齪 働く人間の社会は、実は脆いのかもしれません。八百万の精神で、様々な個性を抱えている多様な組織の方が変化に柔軟に対応できるからです。  夢のある計画的な人生だけが素晴らしいわけではありません。夢を持たない人生にも同等の価値がある。人生という旅の持ち物リストに夢は無くともいいのです。実際に、少なくない大人の皆さんが、後から経験に意味づけし、解釈を加筆修正することで幸せを実感している。  しかし、それは往々にして大人になってから気付くこと。夢の先決を求められ、予め意味を噛みしめるよう躾けられている若者たちは、いまこの瞬間も苦しんでいます。彼らを夢の呪縛から解き放ち、夢を持たない生き方を実践可能にするために、大人にできることは無いのでしょうか。

    エジソンが創業したゼネラル・エレクトリック社を長らくトップとして率いたジャック・ウェルチ氏。約 20 年の在職中に株価を 30 倍にし「伝説の経営者」と呼ばれた彼は、人生に壮大な計画など無く、大きな夢を掲げないことを提唱しています。その手法は「スモール・ビクトリー・アプローチ」と呼ばれ、最初に期待を膨らませ過ぎてはいけないといいます。  彼が夢の代わりに推奨するのは「自信の貯金」を始めることです。最初に、達成可能なハードルの低い現実的目標を立てる。その目標を達成すると良い気分になるので、次はもう少しだけ大きな目標を立てる。このように、一歩一歩自信を築くといったスタイルです。

     人のキャリアにも同様のことが言えるでしょう。アジャイル型で重要なことは、完璧な設計図を求めず未完成の状態でもスモール・スタートで実験に踏み切り、スモール・ビクトリーを重ねること。つまり、小さな成功体験を積み重ねることです。  では、大人にできることは何でしょうか。若者たちが未完成の状態でも実験に繰り出し、小さな成功体験を得て、自己効力感や自己肯定感を高めるためには、どのようなサポートが必要でしょうか。

    しかし、与えない教育で功績を収めている事例もあります。たとえば「ノーサイン野球」で選手の自主性に賭けた常葉大学附属菊川高校は甲子園に出場し活躍。都立両国高校は「教えない授業」で現役生の国公立大学合格率「都立トップ」を獲得。  これらの事例が万能だとは思いません。ただし、過剰な サイン が無くとも若者たちが躍動することは示唆している。フランスの哲学者ルソーが提唱した「消極教育」や、彼に影響を受けたスウェーデンの思想家エレン・ケイの「教育の最大の秘訣は教育をしないところに隠れている」(『児童の世紀』冨山房)を体現した例と言えるでしょう。全く何も与えない放任型教育ではなく、余計な手出しをせず温かく見守る放牧型教育というわけです。

     学校での良い子は往々にして許可を取りたがります。手続きがきちんとしています。ただし、それは責任転嫁でもある。失敗したときにお墨付きを与えた人のせいにできるからです。  誤解を恐れずに申し上げれば、「小さなチャレンジ」という観点では、学校教育で排除されがちなヤンキーやギャルの方が、前述の竹内先生の言う「ビジョンなきただの戦術ゲーム人間」より分があります。舗装された道でないと歩けないお行儀の良い学業優等生と違い、日々何事かにチャレンジしているやんちゃな彼らは、小さな成功体験を得やすいのです。

    社会での良い子は自分の頭で考え、行動する。実験を重ね、失敗を体験する度に学習し、都度軌道修正しながら、ついには成功体験を手にする。そんなアジャイルな加算型の若者は、変化する世の中においてもサバイバル力が高いでしょう。  自己分析やキャリア・プランニングも結構ですが、実験に踏み出さない限り、分析や計画だけではいつまで経っても小さな成功体験を得られません。つまり、自己効力感も自己肯定感も高まらないのです。自信を持った足取りでなければ、後から振り返って意味を付加できるだけの 足跡 にはなりません。

    明らかなことは、その辺にいる社員ではなくシャイン氏の考え方をベースにはしているものの、本人の言葉ではないということ。引用ではなく援用なのです。そして、社会人を基礎に構築した理論ですから、いくら良薬だとしても、若者向けに転用する際には用法・用量に注意が必要です。

     夢はいまここには無い遠くのものですから、つい遠くを凝視しがちです。将来の自分を思い浮かべて 10 年後を描くとか、消滅するかもしれないのにいまの世の中の職業のことを調べキャリア・プランニングを制作するとか。これらは正に「遠くを見る」ことで夢ににじり寄らんとする方法

    ですが、それでは夢は見出せない。「夢は何だろう」と夢探しをしている時点で、夢など無いのです。「どうしても成し遂げたい事柄」がその辺りの石ころのように転がっているはずがありません。逆説的ですが、遠くにある夢は近くを見ることで初めて姿を現します。目前の課題から逃げずに対峙し、できることが増えれば、自ずとやってみたいことは増えるからです。

    「近視」などと言うと響きが悪いように聞こえるかもしれませんが、実は合理的です。今日1m進んだ場合、100mも先を見ている人と 10 m先しか見ていない人では、同じ1mでも成長実感に 10 倍の差が生じます。遠くを見過ぎると、どうしてもいまの自分は見窄らしく感じてしまうものです。

    同氏の3つの問いを思い出してみましょう。彼は、キャリア・アンカーを自覚するための最後の問いを「何をやっている自分に意味や価値が感じられるのか」と表現していました。一般的に、意味や価値を感じやすい事柄は、誰かに「やれ」と指示・命令されたことではなく自分自身で「やる」と意思決定したことです。  したがって、「MUST」とは他人から強制された「やらねばならないこと」ではありません。この点、課題を与えることが常の学校教育はそもそも夢と相性が良くありません。たとえば職場体験やインターンシップといった疑似体験は、往々にして先生や保護者や周囲に煽られた半強制的な取組です。

    「せずにはいられない」ということは、疼くということです。脇目も振らずひとつのことに集中する首尾一貫した生き方は窮屈で退屈そうなものですが、そんなことは関係無く脈打つ。ひとつのことに没頭するということは他のチャンスを見落とすことになりかねませんが、そんなことはお構い無しに衝動に駆られる。これが、疼くということです。  若者たちが何かに取り憑かれたように突き動かされていないか。自然と吸い寄せられることや無意識のうちに釘付けになっていることは無いか。心を奪われていることは無いか。指示したわけでもないのに、できない理由よりもできる方法をつい考えていることは無いか。他人の評価などお構い無しに人知れずやりがちなことは無いか。彼らが見て見ぬふりできないことは無いか。これらを観察してみてください。

    気付けば熱狂的に没頭している何か。頼んでもいないのに熱中している何か。それが、「せずにはいられない」という「MUST」です。我を忘れ、時間も忘れるほどの没我状態。逆説的ですが、「自分の夢は何だろう」などと夢のことなど考える暇も無いくらい夢中になっていることに、夢の種が蒔かれているのです。

    体がトリガーになるメカニズムは、脳の研究からも明らかです。脳研究者の池谷裕二先生は『単純な脳、複雑な「私」』( 講談社)のなかで、「自分の行動の『意味』や『目的』を、脳は早とちりして、勘違いな理由づけをしてしまう」という「錯誤帰属」を紹介しています。  この脳の早とちり機能を逆手に取って行動を先に起こしてしまえば、「無意識の心の作用」が働くといいます。  どんな作用かというと、「一般に、自分が取った態度が感情と矛盾するとき、行動と感情が背反した不安定な状態を逃れようと」する作用です。「起こしてしまった行動自体はもう否定できない事実ですから、心の状態を変化させることでつじつまを合わせ」るしか無くなるのです。  つまり、一見無意味そうなことでも先に既成事実として行動することで、脳にわざと早とちりさせるのです。そうすれば、人は、既に行動した自分を何とか合理化しようとする。つまり、「行動することは損じゃない」と思えるというわけです。

    行動による認知修正は、何も真新しい手法ではありません。どんな行いがどんな結果に結実するか分からないという「業は報を知らず」や、人の見ていないところで良いことをすれば確かな報いがあるとする「陰徳あれば陽報あり」は昔からの教えです。不確実な社会において、「Aという行動が必ずBという結果をもたらす」とするロジカルな因果関係が通用しづらくなり、代わりに「誤差が大差を生む」とする因果応報が再注目を浴びている。日本人からすれば、原点回帰です。

    認知のリハビリが完了し、晴れて「行動することは損じゃない」という思考回路に切り替われば、様々なきっかけの提供がようやく効果を発揮することでしょう。ただし、注意点があります。過度な期待は持たないことです。選択肢の多さに圧倒され選び疲れや消化不良に陥る可能性があります。  習い事のパンフレットを沢山見せれば行動できるわけではなく、求人企業の情報が何万社とあるから就職活動を開始…

    たとえば、同じ学校に通っていながら教師を夢見る生徒もいれば、教師など全く夢見ない生徒もいます。  また、同じ教師を夢見る生徒でも、夢見た経緯まで同じとは限りません。「尊敬するあの先生のようになりたい」と教師を夢見る生徒もいれば、「誰も尊敬できる先生がいないから自分こそがなってみせる」と教師を夢見る生徒もいます。両者は学校という同じ「入口」を潜り、教師になりたいという同じ「出口」に辿り着きましたが、その経路は全く別です。

    きっかけとは入口であり、動機とは出口までの道程。いずれも、予めデザインすることは不可能です。

    このように考えると、「きっかけ」という言葉では上から目線のお節介さが拭えません。厳密には「場」や「環境」くらいに表現しておいた方が適切でしょう。予め特定の目的や方向性を持っているわけではなく、もっと中立的なもの。提供する時点では意味や価値など計り得ないものです。「これをきっかけに夢を持てるはず」と切望するのは過度な期待であり 傲りです。

     夢はいつ生じるか分かりません。ファンが戦績不調でもチームを応援するように、夢不在でも若者たちを応援する真のサポーターでいたいものです。

    2012年にiPS細胞の研究でノーベル賞を受賞した山中伸弥先生は、整形外科医になることを夢見ていました。ところが、念願の整形外科医になった彼を待ち受けていたのは悪夢でした。手術が下手で怒られてばかりで周囲から「ジャマナカ」と呼ばれていたほどです。

    別段、「だから夢は不要」だとか「夢の実現は悲劇の始まり」などと申し上げたいわけではありません。  夢は、叶えた後も続編がある。夢を叶えた後に辛酸を嘗める可能性だってある。そこまで鑑みて、私たちは若者たちに夢を迫っているのか。そんなふうに思うのです。

    知人のP氏はパイロットになる夢を実現させました。「小学校高学年くらいからパイロットになることが夢だった」彼は、夢を実現して「最高に幸せだった」と言うものの、一方で「夢見てるときが一番幸せだった」とも語っていました。「結局は現実世界でまた目標ができてくるわけで、結局人間は求め続けるんだよ」と。

     逆に、何も語らずとも、大人が果敢に挑戦して道を開拓することで十分教育になる。「背中で語る」も教育なのです。  若者たちに何かを伝えようとするとき、有言実行は説得力がありますが、不言実行も同様に強力です。「夢なんて無くとも幸せだよ」とわざわざ言わなくとも、そういう生き方を実践する大人を見れば一目瞭然。大人の生き方や生き様から若者たちは感じ取り学び取ります。百聞は一見に如かず、というわけです。

    私たちは、忘れかけていた「背中で語る」教育を思い出そうとしているのかもしれません。教具や遊具がすべて子ども用にアレンジされたモンテッソーリ教育は、言葉を通して行う教育ではありません。「あなたたちに最大の敬意を払う」というメッセージを、子ども用の生活環境を丸ごと拵えるという行動でもって示しているのです。  再注目されている禅も然り。「だるまさんが転んだ」でお馴染みのインド人の達磨大師。彼が言葉の通じない中国にその考え方を広めた経緯もあって、禅もまた言葉で教えを語ることを重んじません。「不立文字」。すなわち、文字に頼らず実践を通じた教えこそ伝達の真髄であると考えます。

    育児休業中にある医師から教わったことですが、人間ほど子育てに熱心な動物は他にいないそうです。保護者が先に手を出し口を出し過ぎると、子どもが本来持っている学習本能は妨害され、起動しなくなります。

  • ハッとすることや頷かされることばかりだった。若者に夢を押し売りする大人は果たしてどんな夢を持ち実現させてきたのだろうか。一部の著名人は確かに夢を実現してきたのだろうが、それはほんの一部の人間を誇張し英雄化してきたに過ぎなく、夢を押し付ける側の大人のほとんどは夢などなくても、あるいは夢とは無関係に充実した生活をしている。
    夢という幻想に縛ることなく、人が多様な幸せを手に入れる社会でありたい。

  • 大人による夢の手段化
    日本のメリトクラシー
    逆算型と足し算型のキャリア形成

    子どもの育て方(好きなことをやらせる、非妨害)に関しては元々考えていたことと一致。

  • 第五章までは同じような話が結構長く続くので、途中中弛みした感が否めない。しかし、夢を必ずしももつ必要はないということを中立的な立場に立って配慮しながら語っているところに感銘を受けた。また、今後の教育(教師)のあり方についても示唆に富んでおり、教育職に就く学生にはぜひ読んでみてほしい一冊である。
    will,must,canの分類と相関についてもわかりやすく、mustから始めることで夢が見つかるというパターンがそれなりに多いということにも納得した。その際のmustが意味するところは、「〜しなければならない」という義務的なものではなく、「〜せずにはいられない」という自分の価値を再確認できる行為についてであるという点には注意が必要である。
    一点気に入らないのは、常用漢字ではない感じか振り仮名なしでそれなりに登場するところ。意味は推察できるが、正直調べようもないものもいくつかあり、もったいなさを感じた。

  • 夢は素晴らしいものだと大人は若者へと押し付けますが、
    一方で、あまりに大きすぎる夢はそんなことは無理だと拒否します。
    そのような扱いをうければ、若者はもちろん苦しみます。

    ハラスメント自体の話は良かったのですが、
    ならば、どう言う社会を作っていくべきかをもっと読みたかったです。

  • 読了しました。
    読書会でパパ友が、スマートなまとめ方をしつつも、意味深長なことを
    多く語っていおり興味が絶賛彷彿し、手にした本です。

    本書は、書名にあるとおり「夢」を押し付けることによる弊害について、
    いままでにない切り口で鋭く、そして社会に大きな問題提起し、その解決への提言もしっかりが語られています。

    著者は、「夢」を持つことに対してまったく否定していません。
    むしろ、必要であると言っています。
    著者が訴えているのが、押し付けることです。
    それが、親、教育者、国の施策、企業が「悪意なく」押し付けるこの社会の現状を赤裸々に映し出し、問題提起しました。

    著者は問います。
    「夢を持たないとヒトは死ぬのか」
    「夢=職業という画一的な無機質な価値観がげんじょうではないのか」
    「若者、子どもに夢を実現させたい大人の目的は、別の目的を実現させたいだけの悪意なき邪道な手法ではないのか」

    夢のもつ、人それぞれの価値観のズレや脆弱な曖昧さや、夢を実現するまでの「戦略論的技法」が、さも正しいとまかり通っている社会に気づかされるはずです。

    繰り返しますが、人が夢を持つことについて著者は否定しておりません。
    夢は「持つ」ものであり、その多くが事後的なものです。
    子どもたちや人が、夢中になること、大好きな事、その延長に夢はあるのだと著者は語ります。
    私の好きなキング牧師の言動が効果的に引用されているのに親近感を覚えました。

    読了後、今のこのドリームハラスメントを作ってきた大罪に愕然とします。
    私自身の自戒を含めて、そんな気持ちにさせてくれる本です。

    子育て中の保護者、教育に関わる方や、「夢」の本質に迫りたいな人に
    お勧めの本です。

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著者プロフィール

高部大問(たかべ・だいもん)
1986年大阪府生まれ。慶應義塾大学商学部卒。中国留学を経てリクルートに就職。自社の新卒採用や他社採用支援業務などを担当。教師でも人事でもなく、子どもたちを上から目線で評価しない支援を模索すべく、多摩大学の事務職員に転身。現在は大学以外にも活動領域を広げ、自らが手掛ける中学、高校(生徒・保護者・教員)向けキャリア講演活動は延べ56回・13,000人を超える。また、新聞やニュースサイトでの寄稿など執筆も多数。

「2020年 『ドリーム・ハラスメント』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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