- Amazon.co.jp ・本 (316ページ)
- / ISBN・EAN: 9784781618883
作品紹介・あらすじ
現代人が課せられる「まともな人間の条件」の背後にあるもの。
生活を快適にし、高度に発展した都市を成り立たせ、
前時代の不自由から解放した社会通念は、同時に私たちを疎外しつつある。
メンタルヘルス・健康・少子化・清潔・空間設計・コミュニケーションを軸に、
令和時代ならではの「生きづらさ」を読み解く。
社会の進歩により当然のものとなった通念は私たちに「自由」を与えた一方で、
個人の認識や行動を紋切型にはめこみ、「束縛」をもたらしているのではないだろうか。
あらゆる領域における資本主義・個人主義・社会契約思想の浸透とともに、
うつろう秩序の軌跡と、私たちの背負う課題を描き出す。
かつてないほど清潔で、健康で、不道徳の少ない秩序が実現したなかで、
その清潔や健康や道徳に私たちは囚われるようにもなった。
昭和時代の人々が気にも留めなかったことにまで私たちは神経をつかうようになり、
羞恥心や罪悪感、劣等感を覚えるようにもなっている。
そうした結果、私たちはより敏感に、より不安に、より不寛容になってしまったのではないだろうか?
清潔で、健康で、安心できる街並みを実現させると同時に、
そうした秩序にふさわしくない振る舞いや人物に眉をひそめ、
厳しい視線を向けるようになったのが私たちのもうひとつの側面ではなかったか?(「はじめに」より)
感想・レビュー・書評
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【感想】
現代は、全てをリスクに基づいて物事を判断するようになった。健康と喫煙、結婚生活と独身生活、育児にかかる費用と自らの収入。人々が自らの暮らしを計算し、危険で無駄な要素を省くほど、生活の質は上がっていく。そしてこの「生活の質」は、個人的な範疇に収まらずに、公共空間にまで領域を拡大している。ゴミひとつない美しい街、秩序正しく運行する電車、マナーに敏感な市民、ルールを守って人に迷惑をかけない子ども。
日本は本当に健康的で、清潔で、道徳的な秩序がある国だ。だが裏を返せば、そこに住む人がその街にふさわしい行儀良さや道徳的振る舞いを身に着けなければ、この街は成り立たない。
そして、一握りの「ルールを守れない人」は、生きづらさを抱えたまま社会から脱落していく。
本書は、そうした社会通念が行き渡ってしまった日本の現状を見つめながら、背後にいる「上手くやれない人」の存在に光を当てる一冊だ。精神医療・健康・育児・空間設計・コミュニケーションといった様々なテーマを軸に、令和時代ならではの「生きづらさ」を読み解いていく。
私は正直、この本の内容に同意しっぱなしだった。ページをめくるごとに、まるで自分の胸中を覗かれているような感覚を覚えてしまった。
でも、読んだ後にそれを文章にしようとすると、上手くいかない。この健康的な社会に一家言あるはずなのに、どうも指の間から文字が零れ落ちていってしまう。
何故、この本を読んで心を揺さぶられながらも、口にしようとすると言葉が立ち消えてしまうのか。何故、しっくりこずに歯がゆい想いをするのか。
それはきっと、健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会が「正しい」からなのだ。「不自由な社会だ」ということは頭では理解しているのに、それに歯向かう気が起きないほど、いまの暮らしはいい暮らしだからだ。
いや、そんなの嘘だ。日本を息苦しく感じ、脱落してしまった人も確実にいる、と反論しようとしても、今の社会をリセットするのは明らかに間違っている。そもそも、清潔な社会の恩恵はマジョリティだけでなくマイノリティも享受しているため、簡単に否定できるものではない。あんなにも不潔であった昭和の時代にはもはや戻ることはできず、文句を言いながらもなんとか生きていくしかない。
「強固な秩序」や「コスパ至上主義」は、確かに私たちを息苦しくするが、そこに向かうことで確かに幸せになる。不幸になる人は残り続けるが、それも少しずつ小さくなり、やがて完璧に美しい社会ができるのかもしれない。
しかし、「正しい」としてもそれで本当によいのか?たとえその合理性が今日の通念のもとではきわめて正しいとしても、その道を突き詰めてしまえば、やがて自分自身を追い詰めることにつながってしまうのではないか?
うまくまとまらず、やりきれない思いが残るばかりだった。
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【まとめ】
1 清潔に変わった世の中
かつてないほど清潔で、健康で、不道徳の少ない秩序が実現したなかで、その清潔や健康や道徳に私たちは囚われるようにもなった。昭和時代の人々が気にも留めなかったことにまで私たちは神経をつかうようになり、羞恥心や罪悪感、劣等感を覚えるようにもなっている。
そうした結果、私たちはより敏感に、より不安に、より不寛容になってしまったのではないだろうか?清潔で、健康で、安心できる街並みを実現させると同時に、そうした秩序にふさわしくない振る舞いや人物に眉をひそめ、厳しい視線を向けるようになったのが私たちのもうひとつの側面ではないか?
2 美しい街
ゴミひとつない美しい街、秩序正しい街、東京。だが裏を返せば、そこに住む人がその街にふさわしい行儀良さや道徳的振る舞いを身に着けなければ、この街は成り立たない。それは子供も同様である。こどものやんちゃに対する現代の大人たちの視線は厳しく、未成年者の逮捕・補導件数が減少する一方で、虐待の通知件数は増大している。
労働環境に目を向ければ、コンビニやファミレスといった庶民向けサービスであろうとも、クオリティが高い。社会の最前線で働くひとのスキルは向上しつづけ、より高機能な人々が効率的に働くようになっている。
これらは、「美しい国にふさわしいのは優れた人間だけである」との要求に見える。
2020年の現実を振り返れば、過去の不自由や不便を克服してくれた進歩が私たちに新しい不自由をもたらし、簡単には逃れられなくなっているようにも見える。過去には進歩的とみなされ、現在では当たり前の通念となった諸々は、私たちの認識や行動を、通念のテンプレートへとはめ込んでいるのではないだろうか。そのことに新しい生きづらさを感じている人、通念どおりに社会適応するために背伸びを余儀なくされる人、なかには力尽きてしまう人もいるのではないだろうか。
3 健康という普遍的価値
現代社会は価値観が多様化しているとは、よく言われることである。それでも、ほとんどの人が疑問を持つことなくシェアしている価値観や通念がないわけではない。健康はそのなかでも筆頭格のもので、これに肩を並べるほどの「普遍的価値」はそうざらにはない。
また、健康には優れているもの・見せびらかすに値するものといった、価値判断の次元で「良い」とみなされるイメージも付随している。
私達は健康でなければならなくなった。健康と長寿が、とにかく良いことであるとみなされるようになった一方で、何のための健康か、何のための長寿なのかは、どこまで顧みられているだろう?医療者は統計学的・生物学的なエビデンスに基づいて健康リスクを語るが、何が良いことで何が悪いことか、健康や長寿は何のためのもので、何のために生きるのかについては語らない。健康には「良い」という「普遍的価値」が伴い、不健康には経済的損失という資本主義のイデオロギーから見て「悪い」意味が伴うのだから、健康と、その結果としての長寿は誰もが大切にして当然のもの、大切にしなければならないものとみなされずにはいられない。
健康が手段ではなく目的となり、普遍的価値となり、その結果としての長寿が当たり前になった結果として、私たちの一人ひとりが「老後2000万円問題」を財務官僚のように考えなければならなくなった。健康を守り、個人の自由な経済活動に寄与するものであったはずの国とその制度が、健康長寿が当たり前になったことに伴う財政的負担にあえぎ、医療費の削減に躍起になっているのは皮肉なことである。
私たちは本心からそういう生を生きたがっていたのだろうか。それとも通念や習慣や制度に隷属するまま資本主義社会の歯車を回しているだけなのだろうか。
健康が社会制度に深く関わり合い、通年や習慣として皆に内面化されているこの社会のなかで、健康や長寿はいつでも私たちに味方してくれて、いつでも自由の守り手でいてくれるのだろうか。
4 リスクとしての子育て
秩序の行き届いた現代社会において子どもはリスクを想起させる存在であり続ける。
日本をはじめ、多くの先進国では少子化が進行しており、そのような国々では子育ては大きなリスクと表裏一体の営みと捉えられている。つまり、少子化が進行している国では必ず、親は子どもに細心の注意を払って当然とみなされ、虐待やネグレクトに対して社会も親自身も注意深くなければならない。と同時に、多くの家庭はますます子どもの教育に大きな投資を心がけるようになり、その投資に見あった成果を期待する視線を浴びながら子どもは育てられている。
ハイレベルな秩序を実現させた社会契約のなかでは、子どもとは、唐突に他人に迷惑や不快感を与えかねないリスクを含んだ存在だから、親はできるだけ子どものことで他人に迷惑や不快感を与えないよう、注意深く振る舞わなければならない。子ども自身も、他人に迷惑や不快感を与えないよう早くから期待され、そのように行動できなければならない。と同時に子どもはかつてないほど大切にされなければならなくなり、虐待やネグレクトは忌むべきものとなった。体罰が否定されるのはもちろん、日に日に高まっていく社会全体の敏感さに抵触しない子育てを成功させなければ、社会から親として不適格とみなされるおそれがある。そうした通念や習慣をどこまでも内面化している親たちは、子育てに瑕疵があれば罪悪感や劣等感に苛まれることになる。
子育てを、ひいては子どもを、資本主義や社会契約のロジック以外の視点でまなざせるものだろうか。一人ひとりブルジョワ的・資本主義的主体として徹底的に訓練されている現代人、とりわけ子どもをもうけたことのない現代人は、買い物や事業以上の意味や価値を子育てに見出せるものだろうか。
子育てにかけがえのない意味を見いだせるなら、やはり素晴らしいものである。だが、生まれながらにリスクやコストといった考え方に親しみ、骨の髄まで資本主義や社会契約のロジックを内面化している現代人が、みずからの価値観やイデオロギー体系では説明できず、可視化することも、値札をつけることもできない「子育ての意味」とやらを、いったいどうやって認識しえるだろうか。
5 秩序としての清潔
令和時代の日本は、今までのどの時代・地域と比べても法治が行き届いている。暴力は犯罪という理念そのものは昭和以前にもあったが、その理念に人々が従う度合いも、その理念からの逸脱が罰せられる度合いも、逸脱を観測するためのテクノロジーも、まるでレベルが違う。
そうした変化と並行して、私たちは清潔で臭わない身なりと、落ち着いた、他人に不安感や威圧感を与えない行動を身に付けていった。清潔であること、無臭であることまでもがまっとうな人間の条件とみなされ、不潔であったり臭ったりすれば「キモイ」「臭い」といった言葉が容赦なく投げかけられるようになった。
令和時代の日本社会の秩序と美しい街並み、そして私たちの非暴力的、かつ清潔志向で無臭志向な生活習慣は、お互いに迷惑をかけず、お互いに自由かつ快適に生活できるよう最適化されている。しかし、お互いに迷惑をかけないこと、お互いが自由に快適に暮らすことがあまりにも徹底された結果、この美しい街並みのなかでは、臭う者・不安感を与える者・威圧感を与える者は、ただそれだけで他人の自由で快適な暮らしを脅かしかねない存在、不安をもたらす存在として浮き上がってしまう。
日本で美しい街が出来上がっていくのと並行して出現したのが「かわいい」という存在だ。女性だけでなく、男性もかわいいが求められるようになった。男らしさではなく中性的で清潔、不安感を与えない「イケメン」男性が、世に受けるアイコンとなっている。
「かわいい」は好ましいものであると同時に、秩序である。かわいいはリスクを思い起こさせず、臭いや外観で他人に不快感を与えず、無害で受け入れられやすい。美しい街の景観に溶け込むのに適しているだけでなく、個と個がせめぎあう側面や干渉しあう側面をぎりぎりまで削り取った自由、東京風の自由のありかたとも合致している。社会の慣習や通念や自由のありかたに合致しているからこそ、「かわいい」は実際、日本社会においてどこまでも正しいのだ。
6 ならば何ができるのか
清潔で健康で道徳的な社会に慣れきってしまった私たちにとって、通念や習慣の外側、イデオロギーのオルタナティブを考えることは簡単ではなく、不道徳ですらあるかもしれない。
それでも私たちは、通念や習慣の奴隷になってはいけないし、現代社会のありようを当たり前だと思いすぎてはいけないのだと思う。法制度の枠組みを遵守し、空間設計に覆われながら暮らすことと、それらに盲従し、何も考えなくなることはイコールではない。自然科学領域のファクトと違って、ある社会、ある時代で常識とみなされている社会科学領域のファクトは永遠不変ではない。
どれほど清潔で健康で道徳的な社会になったとしても、コミュニケーションやディスカッションができなくなってしまえば、秩序は私たちをますます不自由へと、束縛へと連れ去ってしまうだろう。
わたしたちにはまだ、見知らぬ人、見知らぬ意見、見知らぬライフスタイルに出会ったり、驚いたり、影響を与えあったりする余地が残されている。そうした余地を生かし、そうした余地を守り続けていくことは、この世界に対する貢献のひとつであると私は信じている。
自由を実現させた社会を愛し、それを後世へと繋いでいきたいと願うなら、おかしな点はおかしいと指摘し、西洋社会の先人たちが積み重ねてきたのと同じように、あらゆるものを地道にアップデートさせなければならないはずである。資本主義や個人主義や社会契約といった、現代社会で最も正しいとみなされ、最も幅広い影響力を持ったイデオロギーについてもそれは例外ではないと考えて良いのではないだろうか。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
なかなかに尖ったタイトルの本書だが、題名から既に近頃考えていた問いに対して1つの指針であったと感じたため、間髪入れずに購入。精神科医の書ということで、個人的には身近に感じながら読むことができた。
清潔や健康といった価値観が無条件に良いものとされ、それが窮屈感に繋がっているという論には納得だった。都内住宅街ではまさにそうなのだろう。私が住んでいる郊外にも10年前に比べて随分と街が綺麗になったように感じる。
だが、この本は問いを提示しただけであり、その経過を観察しつつ私たちがどう行動していくかは自分自身に問わねばならない。 -
『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』というタイトル通りの内容。
現役の精神科医である筆者が、現代社会の生きにくさについて語った本である。
いまの日本は昭和の時代から比べれば、医療福祉、都市設計に至るまで、キッチリと整理の行き届いた社会となっている。
発達障害など、現代の日本で暮らしていく上でサポートが必要なところには極力助けの手が差し伸べられるような制度も充実してきている。
しかしながら、それは裏を返せば、これまで「そういう人もいるよね」という社会の一員だった人々を、サポートがなければ「一般的な」社会生活が送れない人々へと追いやったとも言えるし、サポートが必要だとみなされていない、いわゆる境界性知能を持つような人々が取り残されてしまう現状も生み出しているのではないかと言う事だ。
地域共同体としての社会のありかたから、急激に近代国家へと変化した日本では、資本主義原理をありとあらゆるものに適応し、全てをリスクで考える。
それは、結婚や出産、子育てをもリスクの1つとして考えるということであり、我々はとっくにこの考え方を内面化してしまっている。
では、昭和の時代に戻るのが良いのかと言えば、絶対にそんなことはない。
「サポートを受ける存在」とされた人も、かつては受けられなかったサポートを受けられているという事実は存在し、かつてのような曖昧な地域社会の中で、やみくもにプライベートを暴かれたり、暴力やハラスメントによって、生活が脅かされるリスクも格段に下がっている。
それでも、この本を読みながら、これまで自分では喉元まで出かかっていたけれど何となく言語化できなかった息苦しさ、生きづらさのようなものをどんどん説明されている感じがして、終始頷きながら、私はこの本を読み進めた。
この資本主義社会をハードランディングさせることは不可能だし、すべきでないとも思う。
今のこの社会に適応し、その思想と共生しつつも、「本当に正しいのだろうか」という視点を忘れずに生きていきたいと思う。
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人間がよかれと思った善意の行動が社会を不自由にするというもの。納得しながら読んだ。道徳、秩序というのは範囲やグラデーションが人によっても異なるので、話はより複雑になる。
最近読んだ「スマートな悪」や昨年読んだ「ネガティブケイパビリティ」にも通じる。
では我々はどう生きるか?考えてもなかなか答えは出ないが、考えないと沼にハマるだろうなということは感じながら考えた。 -
現代日本社会におけるモヤモヤを、はっきりと文章化したこの書籍は、「繰り返しの部分いらないんじゃ...」「このロジックは本当かなあ」と思った部分を差し引いてもなお、もう一度読み返したいと思える良著だと感じた。
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タイトル通りのことが何回も繰り返して書かれていました。引用を多用しているので仕方ないのかもしれないですが、頑張れば1/3の厚さにできると思いました。
内容に関しては、他の方がおっしゃっているようにレイヤーが一層上がる視点をくれる良書だと思います。
日々、便利だし他者から見たら幸せな環境なのに生きにくいと感じるのは何故だろう、と思っている部分に関して、答えをくれている気がします。
私も昭和終盤生まれなので、暴力や理不尽が横行していた昔に戻りたいとは絶対思わないけれど、今のキチンとしすぎている令和が苦しいのはそういう過去を知ってるからなのかなーと思えました。私より上の世代が今でも昭和的な横暴な考えを振りかざすのは、本気でアップデートできない(能力的に)のかもしれないですね。
ディスコミュニケーションが拡大しているという指摘が1番ハッとしました。人間の多面性を受け入れないと成立しないのが、恋愛や結婚、子育てだから、衰退していってるんだなぁ。。。 -
現代において当たり前のものとされ、もはや個々人に内面化されてしまった様々な通念が、果たして本当に所与のものであり、逃れられないものなのか。
読後は価値観がアップデートされる感覚があった。 -
2021/4/14読了。
いろいろ腑に落ちるところが満載で、現代社会について今までより一枚上のレイヤーから俯瞰的に考えられるようにしてくれる本だった。
僕は著者と同年代で、昭和に子供時代を過ごして令和まで生きてきた。だから昭和と令和の比較論についても概ね同感なのだが、著者がこれほど精緻に考えて言語化していることには驚いた。
改めて現代の日本人の超自我をこれでもかと詳しく説明されて、日本はもう僕が日本だと思っていた国ではなく、よその国というよりSFのような世界(著者も伊藤計劃の『ハーモニー』に触れている)になってしまったのだなあ、思えば遠くに来たものだ、と感慨しきり。よくぞこんなところで「生きにくい」と感じる程度で、せいぜいメンタルを病むくらいで生きてこられたものだ。茹で蛙とはこのことだ。
過去に読んだ本の中から、本書と似た読後感を得たものを二つ挙げておきたい。
一つは『角川インターネット講座全15巻合本版』。これを読破し終えたときに、インターネットとそれを使う人々、それに支えられている社会に対する見方のレイヤーが一枚上がったと感じたのだが、本書でも今の社会に対する見方のレイヤーというか解像度が一つ上がった、と読み終えた瞬間に分かった。教養書だ。
もう一つはルース・ベネディクトの『菊と刀』。読後というより読んでいる最中の気分が本書と似ていた。
『菊と刀』は、太平洋戦争で日本を負かして占領統治したアメリカが日本人をどのように理解していたかを知ることのできる本なのだが、戦後生まれのアメリカナイズされた日本人である僕が読むと、日本人を外から見る著者の視点と、著者が論じる対象である日本人の中の視点の間を、自分の視点が忙しく行ったり来たりする感覚に幻惑された。
本書でも同じ感覚を味わった。現代日本人の超自我を外から論じる著者の視点に膝を打ちつつ、その超自我を知らぬ間に内面化してしまっている現代日本人張本人として目から鱗も落ちる。自分に対する見方のレイヤーも一枚上がる読書だった。 -
今の日本人は世の中の秩序を重んじるばかり、子供を産み育てるということを、究極のリスクファクターと捉えるようになってしまった。
子供は社会のマナーや常識を身につけるまでは、人様に迷惑をかけるというリスクを持つ。怪我をしたり病気になるリスクをもつ。落伍者や犯罪者に育つというリスクを持つ。最も秩序から離れた存在だ。
個人の「不快にならない」という権利が強調されすぎて、今の世の中は秩序から外れた人間を受け入れる要素は持っていない。もちろん子供だけに留まらず、所謂「社会不適合者」も受け入れようとはしない。
かつての日本は、ちょっとばかり不潔でも、鈍臭くても、なんやかんや社会に居場所はあったはずだ。
だからといって人権の軽視を良しとしたり、昭和の共同体社会へ回帰することを求めるのは短絡的すぎる。現代人を昭和の社会通念に放り込んだらたちまち心が折れるだろう。我々はある意味この息苦しい秩序に助けられてもいる。
秩序にがんじがらめにされた社会の閉塞感を打ち破るには、他人の迷惑を許し、主張を受け入れる度量を持ったうえで、自分の迷惑を許してもらい、主張を聞いてもらうことが肝要だと思う。