哲学しててもいいですか?: 文系学部不要論へのささやかな反論

著者 :
  • ナカニシヤ出版
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感想 : 23
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  • Amazon.co.jp ・本 (217ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784779511257

感想・レビュー・書評

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  • 大学行政において文系学部、とりわけ文学部の社会的役割に疑問符が付される状況に抗して、哲学という、社会において直接的に役に立つことからもっとも遠いと思われる学問の意義を説いた本です。

    同時に、既成の枠組みのなかで安住して、それを越えていくような思考を回避する今の大学生の実態についても触れられているのですが、演習の授業で「この箇所は、難しくてよくわからなかったので、先生に説明してもらおうと思います!」と発言した学生に苦言が呈されていて、おなじようなことをいったことのある身としては弱ってしまいました。

    著者の議論はある程度納得ができるものの、それでもかなり守勢に回っているような印象を受けてしまいました。ただ、形而上学や認識論といったもっともコアな分野の研究がどのような社会的役割をもっているのかと問われれば、たしかに答えることが難しいのでしょうが、政治哲学や倫理学、社会哲学やその他の応用哲学の諸分野には、本書で論じられているような「箱の外に出て思考する能力」の重要性はかなりの部分で同意を得られるのではないかと思いますし、それらの基盤となっているコアな哲学の分野にも一定の社会的役割は認められるのではないかという気がします。

  • サブタイトルの人文学部の在り方についてが中心で、内容的にはメインタイトルではなく「哲学しようぜ」だと思う。
    最終的な著者の意見、「外の思考の実践」と「哲学する勇気」は共感します。
    ちょっと徒然なるままに書いている感がありますが、まぁ難しい言い回しは少ないのでさらっと読めるかなと。

  • 数学が将来何の役に立つのかと同様の議論
    論理と第三の視点を持つこと
    学部生が読む本かな

  • 大学の事情に関しては関心が薄れてきた今日この頃だが、「わからなさの増大」に関する議論が面白い。「わたしたちが「妥協と譲歩のない真剣な議論」から引き出すことを期待できるのは、ハーモニーではなくむしろノイズが増大していくだけであるかもしれない」という時点までは物足りなさを感じていたが、哲学のもつ社会的存在意義を、その奥にある「哲学の勇気」に見出す点が興味深い。また、それを「個人の孤独な決断の問題にしてはならない」としているところも、哲学対話を実践する者として共感できる。
    でも、そのあいだに、(これはわたし自身の課題かもしれないけれど)もうちょっと「わからなさ」とは何かという考察がほしいかなぁ。

  • 中間であり続けるとはどうすればよいか。自分んで考えないことだ。自分の日常を守ってくれるもっと偉い人たちの言うことを聞いてよい子にしておくことだ。平安とは、自分たちの手で作り出すものではない。誰かが作ってくれたそれを、わたしたちが享受するのだ。
     彼ら/彼女らの「これまで」と「いま」を支えるその考え方が崩れたとき、彼らは何を支えとして生きて行くことになるのだろう。デフレ時代のまどろみが破られ、彼らが毎日を暮らす予定調和の楽園が乱されるときがやってきたとき、彼らを支えていた「悟り」と「臆病な自尊心」の戦略は、それでもなお彼らの生を支えるに足るものであり続けることができるだろうか。(p.76)

     日常の生活を底のところで支えていた「確信のレパートリー」が崩壊する経験、そのような場面において、ただ右往左往するのではなく。呆然としてしゃがみこむのでもなく、一息ついて「すこし違った道を歩いてみようか」と声かけしてみることができるということ。わずかでもいいから、「すこし違った景色」が開ける可能性を探してみようか、と周りに提案することができるということ。
     もちろん、その時点で確たる見通しや具体的な答えをもちあわせている必要はないだろう。それでもなお、「出口はまだ見えないけれど、何か考えてみようよ」と最初の一声を上げることができるということ。同じく第2章の最後でふれた問いを繰り返すとすれば、先の見えない困難な状況において、「自分の同胞であってほしい」、「自分の側にいてほしい」とわたしが願うのは、そのような心の構えを備えた人びとである、ということになる。(pp.110-111)

     お察しの通り、「哲学は役に立たないけれども役に立つ」という一見矛盾したこの言い分に説得的な内実を与えるカギは、「社会的有用性」を「箱の中の即効性」と無条件に同一視する、「箱の中の論理」の基本的な前提そのものに疑いの目を差し向けてみることのなかに見出される。(p.134)

     はるばる時間をかけて歩いてはきたものの。いまさら引き返すことはできない。さらには、別のルートを探して先へ進もうにも、限られた情報しか書き込まれていない自分のガイドブックでは「どこか安心できる場所」へと自分を導く手がかりを見出すこともできない。そんな可能性に思いを致してみるとき、「準備された箱の中のシナリオに従うこと」を第一の選択肢としてしまう思考の習慣それ自体に対して、疑いをさし向ける必要性が浮かび上がってはこないだろうか。(p.148)

     十人にたった一人でいい。非常時にも対応することのできる技術と心構えを身につけたメンバーが旅の仲間にいてくれる。みなが戸惑い、立ち尽くすなか、たった一言「まずはお昼ごはんにしようか」と声を上げることのできる人間が自分のそばにいてくれる。そのことの心強さを思ってみるべきだろう。(p.148)

     まずは、さまざまな体験や読書、あるいは仲間たちとの会話やネット経由の上方であってもよいだろう。日々直面するあれこれの話題に関して、「選択肢となりうる多様な知識」へと関心を開き、情報を収集することから始めてみるのが一番のやり方ではないか。「自分を閉じ込めているのとは違う世界がある/世界は一つではない」。そのことをすくなくとも知ってはいるということ。ただそれだけのことが、多面的に、さまざまな角度から物事を眺め始めるうえでどれほど有効なきっかけとなりうるものであるか。(p.161)

     哲学の練習は、「自分自身の考えではないけれど、検討するに値すると思われる選択肢」を模倣してみることから始まるのであり、この点において、「違った目線から世界を眺めてみる」ことの練習ともなっているのである。(p.169)

    「哲学を通じたわからなさの増大」という経験のあり方には、簡単に切り捨てて済ませることのできない重要な論点が含まれている、ともわたしは考えている。さまざまな具体的問題について哲学することから得られるのは、「他者理解」や「相互理解」の増大ではなく、「最後のさいご、究極のところではお互いに分かり合えないのだろう」という事実を冷静に見据えてみせる覚悟だけであるかもしれないということ。あるいは、わたしたちが「妥協と譲歩のない真剣な議論」から引き出すことを期待できるのは、ハーモニーではなくむしろノイズが増大していくことだけであるかもしれないということ。これらの点について掘り下げた検討を施すことは、哲学のもつ「社会的存在意義」を確認するための視座を切り開くことにもつながっていくのではないか。それが、わたし自身の考えだということである。(pp.180-181)

    「何かがおかしくないか」と声を上げることで、世の多数派であるわかりやすくて大きな声の流れに「待った」をかけ、その場の空気をすこしだけ違ったものにすることができる。そして、そのことを通じて、世界をすこしだけ違った場所にすることができる。哲学の教育を通じて、そんな生活習慣を備えた人間がすこしずつ世の中に増やしていくことくらいは期待してみてよいのではないか。(p.194)

  • 哲学の効果は数値化され得ぬものだが、だからと言って哲学が不要であって良いというわけではない。哲学の存在意義も勿論ある。大学の先生って大変なのですね。

  • 2017/6/27読了。必携だ。

  • 箱の外で考える、正に仕事で若い人に言ってきたこととマッチしている。考えるとはどういうことなのか。安直に正解(があるはずと思って)求めるのでない、本当の思考とは哲学すろことだったんですね。

  • とても面白いほんである。岩波新書になってもよかったのになぜナカニシヤなのであろうか。

  • 前半は、大学において最近何かと風当たりの強い人文系学部の厳しい現状をレポートするような内容。後半ではそれを踏まえて、今この現代の大学において哲学をするとはどういうことか、どういう意味を持つのか、そしてそれはこれから社会へ羽ばたこうとする学生にとって価値のあることなのかどうか、それを「真面目に哲学的に」考察している(そして大いに価値があると結論づけている)。前半は「哲学科准教授の嘆き」とでもタイトルをつけられそうな軽いタッチなのだが、後半は紛うことなく哲学書の様相をみせる。博物学関係の本を読んだ時も思ったのだが、学部生よりも大学の予算を決めるお偉方とその上に立つ政治家に読んでもらって是非大いに予算をつけて欲しいと思う。まぁこの本を読んだくらいでは変わりはしないのかも知れないが(悲)。尺度が一つの世界はその物差しが壊れた時にはもろい。

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著者プロフィール

(みたに・なおずみ)
1974年、三重県に生まれる。1997年、京都大学文学部卒業。2002年、京都大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。2006年、文学博士(京都大学)。現在、信州大学人文学部教授(専攻/西洋哲学・倫理学)。著訳書に『哲学しててもいいですか?――文系学部不要論へのささやかな反論』(2017)、『若者のための〈死〉の倫理学』(2013。以上、ナカニシヤ出版)、『新・カント読本』(共著:牧野英二編、第21章「カントにおける生と死の倫理」を担当、法政大学出版局、2018)、‘The World in which Everything is the Self’, in Jay Garfield (ed.), Wilfrid Sellars and Buddhist Philosophy (Routledge, 2019)、K・A・アッピア『コスモポリタニズム』(みすず書房、2022)、C・コースガード『義務とアイデンティティの倫理学』〔共訳〕(岩波書店、2005)などがある。

「2022年 『コスモポリタニズム』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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