- Amazon.co.jp ・本 (200ページ)
- / ISBN・EAN: 9784772419833
作品紹介・あらすじ
ケアする人たちすべてに贈る。友人論と心理療法論を串刺しにする、「つながり」をめぐる根源的思索!人が人を支えるとはどういうことか。心の回復はいかにして可能になるか。この問いに答えるために、臨床心理学と医療人類学を駆使して、「ふつうの相談」を解き明かす。精神分析からソーシャルワークまで、病院から学校まで、介護施設から子育て支援窓口まで、そして職場での立ち話から友人への打ち明け話まで。つまり、専門家から素人まで、あらゆるところに生い茂る「ふつうの相談」とは一体何か。心のメカニズムを専門的に物語る学派知と、絶えずこれを相対化する世間知と現場知。これらの対話は、やがて球体の臨床学へとたどり着き、対人支援の一般理論を描き出す。補遺として「中断十カ条――若き心理士への手紙」を収録。
感想・レビュー・書評
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従来の著者の一般書とは違い、学術寄りでした。なのでハウツーに乏しかったけれど、最後の補遺にあった「中断十ヶ条」は他の職業にも応用の効きそうな、普遍的なアドバイスでした。「ラポールを築こうと思うならば、感情よりも知性を使う方がいい」
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人が人を必要とする、人と人が支え合う「ふつうの相談」について論じた一冊。「ケアするすべての人へ」とあり、心理療法に関わる人だけではなく、医療や教育、福祉、司法などの多分野で共通する「ふつうの相談」を読み解くものだが、東畑氏の他の著作に比べると結構専門的な内容だった。
専門用語が多く出てくるのでスッと理解しきれない部分もあるものの、あらゆる対人援助の現場で行われていることを改めて捉え直す一助となる。
図解も随所で登場し、最終的には〈世間知〉、〈学派知〉、〈現場知〉の三次元で構成されたすべてのメンタルヘルスケアを収容する地球儀が描かれる。それぞれの知に賢さもあれば、ときにバカになることもある。知には常に単純化による暴力が潜んでいるという。
心の臨床家は3つの知をメタに理解する人工衛星の視点によってバランスを取ることができる。優れた治療者とは汎用な治療の良さを知る人。これが普通の相談の根源的思想だと述べられる。
人間が生きていく上で積み重ねられた「知」にはもちろん大きな価値があるだろう。ただその限界やマイナス面も理解し、どのように扱うかを自覚する必要がある。
なかなか難しいものの、人と人がつながり、支えることには常に知を言葉にし、考え続けることが大事なのだと思った。 -
読み出してから、これは一般向けの本ではないのだと気がついた。心理療法に携わる人たちを読者に想定した、心理療法論の論文であった。それでも、東畑さんのこれまでの著作はどれも非常に興味深く、そうか!と思うところが多々あったので、素人にはわかりにくいところもあるだろうけど読んでみようという気になった。で、やはりおもしろかったし、何というか勉強になった。
心理療法論と言えば、大学で教えられ書店に研究書が並ぶあれこれが思い浮かぶ。精神分析・ユング心理学・認知行動療法・人間性心理学などなど。著者は本書で、そうした「学派的心理療法」や一般に行われている折衷的な「現場的心理療法」と、そうした専門家の扉を叩く前の「ふつうの相談」を、包括的に説明する心理療法論を提示している。研究者や医療関係福祉関係など専門家の方たちがどう評価するのかはわからないが、わたしとしては納得の内容だった。
その内容を要約することは難しい(当然だ)。ただ、著者の考えの核となっているのは、一般向けの最初の著書「野の医者は笑う」から一貫している。「心の治療というのは、説明モデルを通じて、人間をある種の生き方へと象っていく営みである」というのがそれだ。これはあやしげなヒーラーから精神分析の大家に至るまで共通している、という指摘には目から鱗が落ちた。学派的心理療法であれ世間話での知人へのアドバイスであれ、それぞれ暗黙の前提となっている「望ましい姿」というものがあり、それぞれの価値観がある。そこを見定めることは、難しいがとても重要なのだと思った。精神医療やカウンセリングなどについてモヤモヤとしていたことがかなりスッキリした。
また、文化依存症候群について述べられたくだりにも、なるほどと思う点があった。痩せを追求する「摂食障害」は欧米文化を文脈とした文化依存症候群だとあって、言われてみれば確かにそうだ。さらに、空気を読むことを重視する日本で「アスペルガー症候群」が多く診断されるとあるのには考えさせられた。そういう視点はあまりなかったので。
「文化的な規範があるときに、それがもたらす副反応も存在する。すべての文化がそれぞれに固有の文化症候群を抱えざるを得ないのである。」
心理療法と言うと、「治療者と患者が個室で向かい合っている」図を思い浮かべてしまうが、著者は、そこを取り巻く社会環境に目を向けなければならないと説く。
「臨床現場は制度が求めることを果たさねばならない。人間を社会が望むように象ることが求められる。現場知には社会的規範が埋め込まれているのである。制度はもちろん、公共的な議論と手続きの上で成立したものであるから、社会に必要なものを提供することを狙っている。実際、そのことで助かる人もたくさんいる。だけど、同時にそこには暴力性が含まれていることも忘れてはならない」
これは、こと医療や福祉の臨床現場に限らず、教育の場でも同様のことが言えるだろう。学校は生きていく力を育むものだけれど、そのことに傷つけられることもあるのだ。それに自覚的であるのが、厳しいけれど大事なことなのだと思う。 -
「ふつうの相談」がいろんな「専門知」、「世間知」の枠組みの中のどこに位置するか、について書かれた本。
”どうやったらふつうの相談ができるようになるのか”、を読みたい場合は
「聞く技術、聞いてもらう技術」を読んだ方が良いのかもしれない。
「ケアする人たち、すべてへ。」と帯にあったので、
ケアする側が受ける心労、疲労、トラウマ、へのケアの仕方とか、心理士の人たちはカウンセリング後の疲労をどうやって取っているのか、とかの方が個人的には読んでみたかった。
ケアする人・ケアした人のケアの仕方みたいな。
専門家ではないから、事例研究をして学問的に追究することもできないし、でも自分のケアはどうだったんだろうとか、専門家から見てもよく頑張ったよねとか、ケアした後のコミュニティが無いので、この疲れをどうしてくれようとは思う。
ケアされる側が元気になったのなら、もちろんそれが全てで良かったのだけど、やっぱり、自分もがんばったんだよと。頑張ったねと言われたい。
だから、結局、周りの人にふつうの相談をすることになるのかな。
こうやって、ここに書いて、読んでもらうことがケアされているんだな。 -
タイトルはシンプルだし、エッセイ的な感じかしら?と軽い気持ちで読みはじめたら予想に反してバリバリ専門家向けの本(論文)。‥とは言え、本書の想定読者には「素人」も含まれているし、なんならわたし自身も家族として対人援助のお世話になったり、末端の介護職員として「ふつうの相談」を受ける経験もあり、読み応えのある一冊でした。本書出版記念のトークイベント‥行きたかったなあ。
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初めて理解した。臨床心理士と公認心理師の違い。ベースが学派か臨床か、の違いかあ、なるほど。
本書の内容はとても学術的で小難しい面も多々あるけれど、でもいちいち納得。いちいちわかる。自分の臨床経験にいちいち合致する。
中井久夫の個人症候群の話とか、熟知性のなかで起こる治療とか、臨床現場にいる人なら感覚的に腑に落ちる話。
受けている著者のセミナーの質問コーナーでも、まあとにかくいちいち「わかる〜」とつくづく思えた。この納得感が、実際に現場で対人援助をしている人たちに猛烈に受け入れられ、だから著者は人気があるのだろうな。この「わかってもらった感」、ここが彼のカウンセラーたる所以か。
そして何より思うのが、やっぱり中井久夫はすごいなあ、と。陳腐な言葉になってしまうけど、それが感想。
追記
セミナーで、著者は本作にはおせっかいについて書いてあると言ってたけど、そうなのか?そう思えなかった私が理解できてないだけか。 -
東畑開人さんの『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』『聞く技術 聞いてもらう技術』を読んで、とても良かったので、この本も読んでみました。
最初は何度か挫折しそうでしたが
結局とても面白かったです。
昨年大学をやめて町の心理士となったそうです。
私は心理士としての東畑さんに直接お会いすることはないでしょう。
作家としてとても好きです。
ジャニーズ問題も書いてほしいなと思いました。
『正欲』文庫本の解説を書いたそうです。
単行本は読んだのです
そうか、文庫も読んでみたくなった。
見かけ、早く読み終えそうだったのですが
いろいろ考えながら読んだので
結構日数がかかりました。
(ジャニーズ問題に嵌っていたからではありません) -
公認心理師の資格ができ心理カウンセリングへの興味関心が強まっているなか、我が国の心理カウンセリング状況について、現場サイドでの率直な意見を述べている著者の最新刊。著者の最高傑作と私人は思っている「居るツラ」を理論的?に洗練させた書と思われた。「居るツラ」以降、著者の書作は迷走する。この著作で原点に戻ったと思われる。臨床と理念をつなぐ人は皆無だった中で、著者やその盟友の山崎氏は、今後の心理業界では期待が持てる逸材。今後の著作を期待したくなる一冊であった。
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『居るのはつらいよ』で「ケア」と「セラピー」の違いに目を開かれたのだけど、本書で本格的に「どこかにいる理想のセラピスト(わたしの場合、河合隼雄)」は、一種のファンタジーみたいなものなんだなと断ち切れた気がする。
専門家ではないので、きれいに説明はできないけど、純粋に学派的な臨床心理学を追究している人から見たら、現場に即して形を変えたり、「無意識」や「深層心理」に触れることなく、日常的なやりとりや現実的なアドバイスで困り事を解決に導こうとするやり方は、邪道だと思われがちだ。
でも、そうではない、というのが本書の主張。
真ん中にあるのはあくまでも「ふつうの相談」で、そこには専門家だけでなく、友人同士から地域、家族などすべての関係性のなかから生まれる相談がある。それを精錬していったのが「専門知」を用いた相談だし、それをどのスケールまでやるかも、ケースバイケースで決めればよく、そこに優劣はない。
いくつか印象的だった文を。
◎〈ふつうの相談〉において決定的に重要なのはソーシャルワーク的な想像力である。社会的環境の悪しき点を見出し、変わりうる部分を実際に変えていく介入を行う。個人の心の内側に焦点を当てがちだった従来の臨床心理学では見失われやすかったのが、この〈ふつうの相談〉の機能である。
◎次に取り組まれるべきは、個人の内の変わりやすい部分を変えていくことである。このとき、変わりやすいのが理性や意識であり、情念や無意識は変わりにくい。
◎クライエントは得てして「ふつう」を見失いがちである。苦悩の中にいて、孤立しているときには、共同性や社会性が失われ、実際の現実よりも厳しい「ふつう」を想像してしまう。だから、臨床家が現実的な「ふつう」を補うことは、クライエントが社会と再接続していくのに役立つ。〈ふつうの相談〉では「ふつう」が処方されるのである。