黒木和雄とジャン・リュック・ゴダール。
今となっては何の共通点も見いだせないように思えるが、佐藤忠夫はこの著作でかなりの分量を使ってゴダールについて言及している。
読んでいる途中では、非常に違和感があった。
ドラマの話法から逸脱する作品を相変わらず発表し続けるゴダールと
晩年はオーソドックスなドラマを発表してきた感のある黒木。
しかし、この本のラストに再録されている
過去に行われた、佐藤司会による黒木ら岩波映画出身者による座談会を読むと
黒木が映像作家としていかにゴダールに後押しをされていたかということがよくわかる。
そしてもうひとつ。
この本を読むと、黒木はものすごく誠実な映像作家だったことがわかる。
岩波映画の仕事として受けたとはいえ、
東電の火力発電所のPR映画を撮ってしまったことへの悔い、
そしてそのことが後年、福島第一原発建設をめぐる不正、情報隠蔽をドキュメンタリー的手法も交えて描いた「原子力戦争」を撮ることにつながったこと。
以前、この映画を見たときには正直、ぴんと来なかったのだが、
2011年4月時点でこの本を読むと
おそらく東電の実情を知っていた黒木としては、
作家としてこの作品を撮らなければ先に進むことができなかったのだろう。
また
戦時中、爆撃を受けた級友を見殺しにして逃げたことへの悔恨、
それに対する返答として「美しい国 キリシマ」を撮ったこと。
黒木と同じ年に生まれ、岩波時代からの彼を知っている“同志”でもある佐藤が誠実に仕事をしてきた黒木の足跡をじっくりと検証、紹介している。
高橋和巳の小説を佐藤慶の一人二役で映画化した黒木監督作「日本の悪霊」で
佐藤慶はこんなセリフを吐く
「犯罪に時効はあっても、おとしまえに時効はねえんだ!」
黒木和雄はまさにそれを映像作家として実践してきた人なのだ。
誠実な映像作家として、時間をかけ作品を発表するごとに過去への悔恨の“おとしまえ”をつけていった人なのだ。
そのことが納得できる本になっている。
そう思うと
オーソドックスなドラマのようにみえて
黒木の晩年の「父と暮せば」「紙屋悦子の青春」は
黒木の、ゴダールへのおとしまえとも思えてきてしまう。
見ている人はわかると思うが、意外にチャレンジングな作品なのだ。
ちょっと、穿ち過ぎかもしれないが。。。