ごく平凡な記憶力の私が1年で全米記憶力チャンピオンになれた理由

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  • Amazon.co.jp ・本 (367ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784767811802

作品紹介・あらすじ

古代ギリシャで知識人の必須のツールであった「記憶術」と、最先端の脳科学や一流のプロたちの技術習得の秘訣を学び、全米記憶力選手権で優勝するまでの1年を描いた話題作。

感想・レビュー・書評

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  • ためしにAmazonで「記憶力」、「記憶術」などと検索してみて欲しい。『○○で憶える、ラクラク記憶術』といった類の本が、溢れんばかりに表示される。もちろんその効能は、玉石混交なわけであるが、多くのビジネスマンや学生にとって、記憶する能力へのニーズがいかに高いかということを示している。

    本書もそのような記憶力をテーマにした一冊なのだが、いわゆるマニュアル本、自己啓発本とは、一線を画す内容である。著者は『ナショナル・ジオグラフィック』などでも執筆するフリージャーナリスト。取材ライターとして赴いた全米記憶力選手権で記憶力に興味を持ち、一年後の大会には自身が出場者としてエントリー、ついにはチャンピオンになってしまう。本書はその過程を描いた、実験ドキュメンタリー。ミイラ取りがミイラになるという典型のような話である。

    ◆本書の目次
    第1章 世界で一番頭がいい人間を探すのは難しい
    第2章 記憶力のよすぎる人間
    第3章 熟達化のプロセスから学ぶ
    第4章 世界で一番忘れっぽい人間
    第5章 記憶の宮殿
    第6章 詩を憶える
    第7章 記憶の終焉
    第8章 プラト―状態
    第9章 才能ある10分の1
    第10章 私たちの中の小さなレインマン
    第11章 全米記憶力選手権

    「いいかい、平均的な記憶力でも、正しく使えば驚くほどの力を発揮するんだ」そんな台詞に魅了され、著者はイギリスの若きグランド・マスターの教えを受けることになる。その教えのベースにあるのは、紀元前五世紀、天井が落ちてきたテッサリアの大宴会場のがれきの中にいた詩人、ケオスのシモニデスによって始まったものである。シモニデスは目を閉じて、記憶の中で崩壊した建物を再び組み立て、どの客人がどこに座っていたかを思い出すことが出来たという。このシンプルな発見から、いわゆる記憶術の基盤となるテクニックが編み出されたのだ。

    著者のトレーニングも、シモニデスのやり方を正常進化させた「記憶の宮殿」という方式である。自分が憶えなければならないTo-Doリストを、自分のもっている素晴らしい空間記憶を利用し、各々の場所にイメージとして置いていくのだ。それが人の名前や数字であったとしても、同様である。要は、記憶に残りにくい情報を、心が惹きつけられる視覚映像に変換して、頭の中の宮殿に配置していくということなのだ。このようなトレーニングを積んだ人にとっては、仮に思い出せないことがあったとしたら、それは記憶の不備ではなく、認知の不備に原因があるということになる。例えば、卵という言葉を思い出せなかった時には、白い壁のところに置いたために、背景に溶け込んでしまって見落としたなどということが、本当にあるらしい。

    そして、このような記述を目にして疑問に思うのが、この種の記憶術が、なぜ現在では主流でなくなってしまったのかということである。はるか昔、記憶はあらゆる文化の源であったのだ。人類が洞窟の壁に頭の中のことを描き残すようになってから様相が変わり始め、印刷機の登場により事態は急変する。そして、現在のクラウド化によって、記憶を外部に預けるということが、手の平の上で、瞬く間に出来るようになったというのはご存じの通りだ。その過程を経る中で、博学であるということは、内部に情報を保有しているということから、外部記憶という迷宮のどこで情報を手に入れられるか知っているということに変化していったのである。

    本書を通して著者が投げかけているのも、現代における記憶力の持つ意味、そのものである。その問いに対する著者の答えは、「私たちの実態は、記憶のネットワークである」というものだ。面白いものを見つける、複数の概念を結びつける、新しいアイデアを生み出す、文化を伝える、そういった行為において記憶力は必要条件であり、基盤となるものでもあるという。記憶と想像は、コインの表と裏のようなものなのだ。この主張、著者の実体験が伴っているだけに説得力がある。

    一方でこの問いを、外部記憶としてのWebサービスが今後どのようにあるべきかという問題に置きかえて考えても、示唆に富む内容となる。能動的、線形的にアクセスする現在のあり方から、溢れるような受動性と無秩序なアクセスという、実際の記憶に近いあり方へ変化させるのだ。この変化が創発的な思索を生み出すようになれば、外部記憶は新たなブレークスルーの時を迎えることができるのかもしれない。

    表題には「ごく平凡な記憶力の私が」とあるが、著者がジャーナリストとして有能であるということに疑う余地はない。本書には、『ザ・マインドマップ』でおなじみのトニー・ブザンや、『僕には数字が風景に見える』のダニエル・タメットといった著名人も登場するのだが、彼らとのエピソードや、その人物評を読むだけで、それがよく分かる。

    記憶力のメカニズムと歴史的背景の解説、全米記憶力選手権への挑戦、記憶力の意味を投げかける論考と、扱っている範囲は実に幅広く、一冊で三冊分くらいのオトク感があると思う。忘れることなく、ぜひ手に取っていただきたい一冊である。

  • 私はこれまで物事を記憶する事にあまり意味を見出さなかった。
    PCやスマホの外部記憶装置からいつでも好きな時に私の曖昧な記憶ではなく、ほぼ正確な記憶を引き出すことが今は可能となっている。意味のない数字や年号等の記憶をテストして何が意味が有るのかとこれまでは思っていました。そんな事に時間を使うよりも新しいものを創造する事にこそ人生のエネルギーを注ぐ事が重要なことではないかと思っていました。
    しかしこの本を読んで明らかに考え方が変わりました。
    人間は記憶の集合体であり、自分がどう感じ、どう行動するかは自分が覚えている事によって決まるのであり、私たちのアイデンティティは記憶によって形成され、新しく記憶する事によって一瞬一瞬に変化していくもので有る事がよく分かった。
    もちろん外部記憶は有能なブレーンであり、今はそれ無くしては活動ができない時代となった。
    年老いたら誰もがなりうる認知症は記憶の役割が人間の生活にいかに大事か教えてくれる。
    しかし私たちは記憶がいかにしたら無くならならないように出来るかについて未だ答えを見いだせていない。

  • 記憶術を学ぶノンフィクションドキュメンタリー。
    記憶があればあるほど人間らしいのかもしれないと思わせる。
    記憶が外部化した現代だからこそ、記憶の魅力を本書から感じ取ることができる。
    ただ、記憶術としてはシンプルな話なので、知っている事ではあったのでサラッと読んだ。

  • 内容紹介
    ●内容紹介
    古代ギリシャで知識人の必須のツールであった「記憶術」と、最先端の脳科学や一流のプロたちの技術習得の秘訣を学び、
    全米記憶力選手権で優勝するまでの1年を描いた全米ベストセラーの話題作。

    われわれ一般人でも、訓練すれば記憶の達人になれるのか?
    記憶力はせいぜいで人並みであると自称する新進気鋭の科学ジャーナリストが、古代ギリシャの時代から知識人の間で綿々と受け継がれてきた由緒正しい記憶術を武器に、
    1年で記憶力の全米チャンピオンに輝くまでを描いた実験ドキュメンタリー。
    著者が体験した記憶力訓練の記録であり、また記憶力の競技会という奇妙な世界に生息する、
    愛すべき変わり者たちの物語でもある。
    古代から中世にかけて、知識人の必須の教養であった「記憶術」の歴史も語られる。
    脳と記憶についての科学的な考察もある。
    記憶の魅力に取り憑かれた著者が、好奇心の赴くままに記憶の世界を縦横無尽に駆けめぐる。
    読み物としても面白さと、知的興奮を与えてくれる1冊。

    ●目次
    第1章 世界で一番頭がいい人間を探すのは難しい
    第2章 記憶力のよすぎる人間
    第3章 熟達化のプロセスから学ぶ
    第4章 世界で一番忘れっぽい人間
    第5章 記憶の宮殿
    第6章 詩を憶える
    第7章 記憶の終焉
    第8章 プラトー状態
    第9章 才能ある10分の1
    第10章 私たちの中の小さなレインマン
    第11章 全米記憶力選手権
    エピローグ
    内容(「BOOK」データベースより)
    古代ギリシャで知識人の必須のツールであった「記憶術」と、最先端の脳科学や一流のプロたちの技術習得の秘訣を学び、全米記憶力選手権で優勝するまでの1年を描いた話題作。

    =======================
     訳者あとがきより

     著者はふとしたきっかけから、ジャーナリストとして全米記憶力選手権を取材することになった。その過程で記憶の世界に魅せられ競技者達から「誰でも訓練すれば自分たちと同じようなことができる」とはいう話を聞いたことから記憶力のグランドマスターのコーチングの下で、記憶術を習得し、1年間で全米記憶力チャンピオンにまで上り詰めた。
    文章で紹介されている著者が使った記憶術は、舞台ギリシャで発明されたものである。
    端的に言えば、「覚えたいことが覚え安いイメージに変換し、頭の中にシステマティックに格納する」と言うシンプルな方法だ。(「記憶の宮殿」)

     
     著者は、参加型ジャーナリズムの実践すべく記憶術のトレーニングに身を投じるだけでなく、記憶の本質を探る「旅」に出かけ、その中で記憶の仕組み、記憶と私たちのかかわり、そして本当にだれでも記憶力は伸ばせるのかということを、様々な角度から見ていく。(略)「忘れることができない」ロシアのジャーナリストの記憶力の秘密を探り、一方でその対極の数分間しか記憶を保つことができない健忘症患者にも取材をする。映画レインマンのモデルとなったキムピーク、世界一の頭脳を持つ人間としてスターとなったダニエルタメットとという驚異的な記憶力を持つ二人のサヴァンにも面会した。そのようなプロセスを経て見えてきたのは、人間は記憶の集合体にほかならないということだった。(略)私たちのアイデンティティーは記憶によって形成され、新しく記憶することによって一瞬一瞬に変化していくものなのだ。

    著者は取材の過程でKアンダースエリクソンと出会い彼から熟達化の秘けつを学び、それを記憶力トレーニングに取り込んでいった。

    第1章
    P 23
     「脳」のワークアウトは世間に広く受け入れられている。
     その背景には、クロスワードパズルやチェスなどで脳をつかうと、アルツハイマーや認知症を食い止める効果があることが研究で示されたとともに何よりベビーブーマー世代が、自分の知能が低下していくことに対して危機感を抱いていることを大きいだろう。

     私たちと古代人との違いは、記憶する力である。といっても脳内の記憶のことではない。(略)ここで言う記憶とは、本、写真、博物館、そして今日のデジタルカメラに代表される外付けの記憶のことである。
     (略)記憶の外在化によって人間の考え方が変わっただけでなく「頭がいい」ということの意味するものも大きく変化し、内部記憶の価値は衰退した。「物知り」とは、「頭の中にたくさんの情報があること」から、「外部記憶という迷宮の中で、どこへ行ってどのようにしたら欲しい情報が見つかるかを知っていること」へと変わっていった。いまだに自らの記憶力を高めようとしている人たちを見ることができるのは、世界記憶力選手権と世界10数カ国で行われている記憶力選手権の中だけだ(略)。かつては西洋文明の礎であったものが、今ではせいぜい物珍しい程度の価値しかなくなってしまった。
     こうして私達の文明の基礎が頭の中の記憶から外部記憶へと変わっていったことで、私たちは、そして私たちの社会はどうなっていくのだろうか。
     
     第2章
     エドは70桁の数字を1分ちょっとで覚える(Sがかかった時間の1/3だ!)記憶力を披露した。
     
     ドイツの心理学者、ウィレム・ワーヘナールも記憶は消えることがないと考えるようになった。彼は6年間、毎日印象的な出来事を1-2個m記録していった。そのあと、無作為にカードを抽出し、覚えているかどうかをチェックした。結果はちょっとした手掛かりがあれば特に最近のことについてはほとんど思い出すことができた。しかし思い出さないことでも、一緒にいた人たちを探り当てて連絡を取り、さらに細かい情報をおしえてもらうとおもいおもいだすことができた。
     
     (超人的な記憶力を誇る)Sはいつも現実とは別の、一種の白昼夢を見ている状態だった。彼を取り巻く現実の世界があり、同時にもう一つの想像の世界が彼の脳内に展開されているのだ。
     彼の脳内に浮かぶこういったイメージはあまりにも強烈で、時には現実と区別がつかないこともある。「(略)彼にとってどちらも世界の現実なのか見分けるのは、だれにとっても至難の業だ」とルリヤは書いている。
     
     Sの思考には「比喩を使う」という選択肢はない。「自分の言葉の重みをはかる」という表現から想い浮ぶのは、「分別を持つこと」ではなく「秤」なのだ。文字どおりの意味のものでない限り、詩を読むことは不可能。単純な物語も理解するのは難しい。有無を言わさずイメージが思い浮かぶので、一語一語に反応して進めなくなってしまうか、関連した別のイメージへ、別の記憶へと思考が飛んで行ってしまうのだ。
     
    「コーヒー」という言葉から、黒色、朝食、苦みといったイメージが浮かぶとしたら、(略)「コーヒー」の概念を符号化するニューロンと、黒色、朝食、苦みといった概念とを格納しているニューロンとを結びつけたためである。
     
     (略)脳内の連想の仕組みは非線形的なものなので秩序だった方法で意識して記憶をたどることはできないということだ。何らかの思考や感覚(無限に広がるクモの巣の中の一部)からの合図をうけて、全く別の場所にある記憶が直接うかびあがってくる。だから、忘れてしまったり、のど元までしか出ていないときには、それを追跡してつかまえるのは難しいし、うまくいかないことが多い。
     
     Sは、記憶を自分が知っている建物や場所にマッピングすることによって、驚くほどきちんと整理している。
     
    (複雑な地形を網羅している、ロンドンのタクシー運転手は記憶を司る海馬が大きいとは聞いていたが、なるための試験も相当難しいらしい。)


     知的競技者の脳と対象群の脳には、一つはっきりとした違いがあった。記憶している時に脳のどの部分が活動しているのを調べてみると、(略)ロンドンのタクシー運転手は日日道を覚えていく中で拡大させていった右側の後方海馬をはじめとして、脳の視覚的記憶と空間記憶の二つに関与するといわれている部分が活動していた(略)なぜ知的競技者たちは、3ケタの数を覚える時に画像を思い浮かべるのか。(略)知的競技者たちはSと違って生まれつき共感覚があるわけではないが、意識的に覚えるようにわれた情報画像に変換し、よく知っている場所を思い浮かべてそれを並べる、といったことをしていた。
     
     実験で二人の被験者にある人物の写真を見せ、「この人はベーカーという名前だ」、もう一人には「この人はパン屋(ベーカー)だ」と教える。数日後、もう一度同じ写真を見せて何を覚えているか尋ねる。職業教えられた人の方が、姓を教えられた人よりも記憶している傾向が強いという。なぜそのような不均衡が起きるのだろうか?(略)職業ならば、記憶を呼び起こすための手がかりがたくさんある。

     第3章
     ひよこの雌雄を見分ける「初生雛(しょせいびな)鑑別師」。総排出腔を1000通り見分ける必要があり、プロは1時間に1200羽を98-99%の率で鑑別する。両手に乗せて1700羽を鑑別する者もいる。
     雌雄鑑別という技がこれほど人を魅了するのは、難しいケースでは、超一流の鑑別師でさえも鑑別法を説明できないという点にある。オスかメスか、3秒以内に「わかる」。でも、どうしてわかったのかを説明できないのだという。研究者たちがどれだけ詳しく調べてみても、どうしてこちらが雄で、あちらが雌なのか理由は分からない。(略)彼らが雛の臀部を見るときに、凡人には見えないものが見えているのである。
     
     エリクソン
    「それぞれの分野で世界に通用するものを得るには最低一万時間を要求とする考えられる」

    雌雄鑑別師と同様、ベテランの警官には言葉で表現できない技術がある。
    エリクソンの研究は一言で言えば、私たちが「経験」と呼んでいるものを分離して細かく調べ、その認知的基盤の正体を解明することだった。

    自分の記憶を使って、世の中を違った角度から見る―これは一流のプロが皆、行っていることである。
    長い年月をかけて積み上げた経験から、新しい情報を認知する方法の基盤となる。
    ベテランのSAWT隊員が見たものは、学校の階段を上がってくる男の姿だけではない。男の腕のびくびくした動きに長年の警官生活の中で何度か見てきた動きと同じものを見、男の姿に今まででやってきた怪しい人間の雰囲気を見た。過去に遭遇した経験を踏まえて、目の前にあるを見たのだ。

    <チェスの達人>
     大半の手については、少なくとも初盤では、達人たちは普通の人に比べて先まで読んでいるわけではなかった。一手につき検討する選択肢の数すら多くはない。彼らは雌雄鑑別師と驚くほど似た方法をとっていた。つまり、正しい動きが見える。そして、それをほとんど間違えることがないのだ。(略)彼らに思考プロセスをことで述べてもらった時、ぐルートは彼らが独特の言葉遣いをすることに気がついた。例えば
    「ポーンの形」を見てルークが無防備になっているというような弱点に気づいている。
    彼らは盤面を32マスとして見ているのではなく、マスのチャンク、争点の集合体としてとらえているのだ。
    達人は文字通り”違った盤面”を見ていた。
    彼らの目の動きを調べてみたところ、普通の人よりもますのへりを見る傾向があることが分かった。
    (略)
    しかし、チェスの達人に関する初期の研究で最も驚いたのは、彼らが驚異的なく記憶力を持っていたことである。ちらっと見ただけで、盤面の状態を記憶できる。そして、遥か。対局を記憶を頼りに再現することもできる。(略)そして、腕を上げていくうちに棋譜を記憶するのは当たり前にできるようになって、やがて頭の中で複数の相手と対戦することも可能になっていく。
    (略)チェスの研究からわかったことは、(略)私たちは、物事を一つ一つ個別に記憶しているのではなく、流れの中で覚えているのだ。

    ぐるーとは、(略)熟練を要する技術は、「経験に基づいて情報を連結させること」を積み重ねた結果である、と彼は言う。エリクソンによれば、私たちが「専門技術」と呼んでいるものの正体は、「その分野に関する長年の経験の中で得た膨大な知識とパターンに基づいた情報検索、そしてそれをまとめる力」のことである。言い換えるなら、優れた記憶力は専門技術の副産物ではなく、その本質なのだ。

    第4章 世界で一番忘れっぽい人間
    EPは単純ヘルペスにより両側の海馬だけが失われた。見ることはできるが、記録することはできない。

    p96
    記憶することができないので時間の感覚もない。意識は落ちては消える滴のようなもので続くことがない。(略)彼は思い出さない過去と予測できない未来に挟まれた「永遠の現在」という空間の中で、あらゆる不安から解放されて静かに来ている。慢性的な記憶喪失で、EPはある種の病的な悟りの境地に達した。仏教徒の理想とする「永遠の今を生きる」という思想を曲解して体現しているかのようだ。

     一般的に記憶は「陳述記憶(顕在記憶)」と「非陳述記憶(潜在記憶)」に分けられる。前者は自分の車の移動昨日の午後の出来事など覚えていることを認識している事柄をさす。EPはこれらを構築する能力を失っている。後者は自転車に乗るなど。

     (略)記憶はずっと変わらないわけではなく、時が経てばその姿形も変わるということだ。ある記憶を思い出すと、そのたびにその記憶は別の記憶が集まっているウェブのもっと深い場所へ統合され、安定性を増し、失われにくくなっていく。しかしこの過程で私たちは記憶を変形させているのである。ときには、実際起こったことといくらか似ている、というくらいまで変形させてしまう。
     
    第5章 記憶の宮殿
    p127
    イメージが鮮やかなほど、格納する場所に定着しやすくなる。記憶の達人が普通の人と違うのは、その場所でそう言った濃密なイメージを作り、今までに見たことがない、印象に残る情景として描きだせること、そしてそれを即座にやってしまうことだ。(略)イメージを描くときには、下品な発想が役に立つ。進化の過程で、私たちの脳はジョークとセックスの二つの事柄を、とりわけ面白く感じ、記憶に残すようにプログラミングされた。

    「ワインのボトルを擬人化するといいよ」「動かないイメージよりも記憶に残りやすい」

    第6章 詩を憶える
    最初の作業は建物のイメージを集めることだった。

    第7章 記憶の終焉
    (中世では一般的だった)「続け書き」の文章を読むのは実に難しい。このことから、当時の読書と記憶の関係が、現代とは全く異なるものであったことがうかがえる。このような文章は初見では読みにくいため、文書を声に出して流暢に朗読するには、読み手はその文章についてある程度の知識を持っていなければならない。つまり、文書をあらかじめ勉強して、頭の中で句読点を打ち、全部ではないにしてもある程度覚えている必要があった。

    さらに(略)何かを抜粋しようとしたら、初めから読む必要があった。(略)句読点をや段落はもちろん、ページ番号や目次、章分け、索引もないため、欲しい情報を見つけるためには最初から順を追って見ていくしかない。だから、文章記憶しない限り簡単には調べることができない。(略)巻き物は内容を外部に保管するためのものではなく、読者を内容の中に案内するものだった。
    このような暗誦も伝統は「トーラー」を読む行為に今も残っている。

    13世紀にはじめて聖書コンコーダンス(パリの修道士500人によってつくられた壮大な用語索引)が編纂され、同じころに 章分けのシステムも導入された。

    (略)索引の導入を大きな進歩である。これによって、内部記憶装置を使うように非線形に扱うことができるようになった。索引によって本は、聞きたい曲を直接呼び出せる現代のCDのようなものになった。これに対して、索引のない本は、わずかなフレーズを見つけるのに長いテープを延々と少しずつたどっていかなくてはならないカセットテープといえよう。(略)索引によって本の持つ意味が変わり、今後各社のために果たす役割が変わったのである。(略)本が調べやすいものになるにつれ、本の内容を記憶の中に保存するという意味が薄れていった。そして、博学であるということは、内部に情報を保有しているということから、外部記憶という迷宮のどこで情報を手に入れられるかを知っているということへと変化した。

    書物史の世界的権威(略)は本が普及するに従って、「深く」読むことから「広く」読むことへと変わっていたと述べている。比較的最近まで、人々は「深く」読んでいたとダーントンは言う。「人々は、聖書、暦、祈祷書といったごく少数のほしかもっていなかった。それを何度も読み返していた。それもたいていは、集まって声を出して呼ぶ。そのようにして、ごく限られた数の伝統的な文献が、人々の意識の奥ふかくに刻み込まれていた」
     ところが1440年ごろに印刷機が登場すると、自体は少しずつ変わっていった。グーテンベルクの登場後100年の間に、本の数は14倍に増えた。それほどの富豪でなくても、自宅にささやかな図書館を備え、外部記憶のデータバンクに気軽にアクセスできるようになったのだ。

    記憶の劇場 http://tocana.jp/2014/01/post_3471_2.html

    P194
    この(SNSやブログのオンライン上の記録)外部記憶は時を経るに従い、ただただ増えていく。生活の中にオンラインの要素が増えれば増えるほど、取り込まれて保存されるものが増え、その過程で内部記憶とる外部記憶の関係を大きく変わっていく。このままいけば、いつの日か、日常の行動を一切記憶できる大容量の外部記憶を持つようになりそうな勢いだ。

    (マイクロソフトの73歳のコンピューター技術者ゴードン ベル彼は記憶を極端にまで外部化しようとしている。センスCAMというミニカメラを首からぶら下げ聞こえてきた音をデジタルレコーダーで取り込んで。彼の デジタルメモリーは決して忘れない。
    彼自身が覚えておくことは『釣り針』だけでいい。デジタルのメモリーに保存してある引っかかりが増えるほど探すのは簡単になる)

    次に目指すのは、ブレインコンピューターインターフェイスを利用して、脳がデジタルのメモリーバンクとが直接やり取りできるようにすることだ。すでに何人かの研究者がこのプロジェクトに取り掛かっている。
     
     私たち西洋人は「自己」つまり自分という人間の核のようなものについて、あたかもそれがはっきりと区切られた実体であるかのように考える傾向がある。(略) 実際には、私たちが「自己」と考えているものは、漠然とし、ぼんやりとしていて、それについて考えるのは容易なことではない。ほとんどの人は、自己というものは表皮の内側にしかなく、コンピューターやライフログとは切り離されたものと思っている。
     しかし、本当にそうなのだろうか。私たちの記憶、つまり自我の本質は、実際は脳内のニューロンだけでなく、あらゆることとつながっている。少なくとも、書くことをソクラテスが批判したころから、記憶はいつも脳を超えて、外部の
    貯蔵庫まで拡大しているのだ。ベルのライフログプロジェクトはその真実をはっきりさせたに過ぎない。
    第8章 プラトー状態
     エリクソンは様々な分野の達人について、様々な角度から、それぞれの高度な技術を獲得するプロセスについて研究している。(略)彼が様々な分野を研究していく中で、達人がその道を極める過程で取り入れるためテクニック―技術を獲得するため一般的原則 ―を乱していたことが分かった。

    心理学者のポールフィッツらが新しい技術を獲得するときにだれもが通る三つの段階について言及した。第1段階の「認知段階」では、課題を分析し、もっと上達するための新しい戦略を発見する。
     第二段階の「連合段階」では、それほど集中力を要しなくなり、大きなミスが減り、全体的に効率よくできるようになる。その課題を十分にこなすことができ、基本的に自動操縦で走っているように感じる。この段階をフィッツは「自律的段階」と名付けた。(略)そこまで達すると、脳内の意識的な論理思考に関与してる部分の活性が低下し別の部分が代わりに活性化する。これが「プラトー状態」てある。ここまで上達れば大丈夫だと自ら判断し、自動操縦に切り替え、上達が止まるのだ。
     (エリクソンらはこれらのプラトーは、能力の限界ではなく自分が許容できるレベルのことを言っていると考えている)
     達人は方向性を定めた訓練を集中して徹底的に行う(これが素人との違いである)。(略)
     エリクソンは、トップに立つ人は、ある共通した成長パターンをたどるということを発見した。彼らは訓練するとき、自分の技術に集中する、目的を持ち続ける、パフォーマンスについて常に速やかにフィードバックをいるという三つを実践し、自律的段階を無意識的に排除している。つまり、自ら「認知段階」にとどまるようにしているのだ。
     例えば、アマチュアの演奏家は曲の練習に時間を割くのに対し、プロは反復練習や特定の難しいパートの練習に時間を割く傾向が強い。(略)集中的訓練を続けるのはもともと難しいものなのだ。

     エリクソンは自律的段階で逃れてプラトー状態にならないための最善の策を発見した。それは実際に失敗してみることである。そのためには、習得したい課題について、自分よりはるかにレベルの高い特定の誰かになったつもりになり、その人ならどうやって問題を克服するだろうかと想像するのも一つの方法である。
    (略)トップクラスのて選手も同じような方法をとっている。彼らは 1日のちの数時間をグランドマスターの試合を行って行って再現することに費やし、達人の思考を理解することに努めている。

    実は、チェスの腕前を予測する最も確実な判断材料は、対戦相手とのゲーム数ではなく、過去の優れたゲームの再現に取り組んだ時間なのだ。

     技術を上達させる秘けつは、練習中に意識的に技術をコントロールし続ける、つまり自動操縦にならないようにすることだ。タイピングの場合、プラトー状態を出するのは比較的容易である。(略)タイピングのスピードを上げ、間違いをさせることだという。

     (トランプを覚えるための時間を短縮し、覚えにくいカードがあればなぜ覚えにくいのかを確認する。)

    P216 
     速やかなフィードバックによって達人は現状よりもっといい結果を出すための新しい方法を発見しプラトー底上げしていく。

    P228
     突き詰めていけば、記憶術とはいかに少ないイメージで覚えるかということに行きつく。

    第9章 才能のある1/10
    P253
     「記憶の本質を知り、それを育てるというのは、異なる概念同しを結び付けるためのイメージを瞬時に想像する能力を開発すること。創造は、異なるイメージ同士を結び付けて何か新しいものを作り、未来に向けて発信すること。(略)ある意味、創造は未来の記憶だ。」創造の本質が事実や考え方を結びつけることにあるのなら、結びつける能力が高いほど、そして自由に利用できる事実や考え方が多いほど、新しいアイデアは湧きやすくなるだろう。
    「記憶の女神ムネモシュネは智の女神ミューズの母である」
     記憶と創造は同じコインの裏と表であるという考え方は、なかなかピンとこないかもしれない。一見、記憶と創造は補完的なものではなく、正反対のプロセスのように思える。しかし、それらが同じ一つのものである考え方は実は古くからあり、かつては当然のことと思われていた。(略)新しいアイデア生み出そうと思ったら、一種の錬金術を使って既存のアイデアを混ぜ合わせるしかない。発明するためには、まず目録、つまり引き出すことのできる既存のアイディアがたくさん必要だ。単なる目録ではなく、索引月の目録だ。しかるべき時に、しかるべき情報を見つける方法が必要なのだ。
     記憶率が最も役に立つのは、実はそういった側面である。記憶術は、記録するための道具というだけでなく、発明と公正の方法でもあったのだ。

    P 253
     脳は最新式の書類だなののように組織化されていて、重要な事実、引用文、考え方が覚えやすいように正当された引き出して詰め込まれている。そこで行方不明になるものは一切なく、また、その場で組み替えや連結もなされる。記憶力の訓練の目的は、論題と別の問題を結び付け、既存のアイディアの間に新しい関係を築く能力を開発することだった。「古代では、記憶は保持する技術としてより、創造する技術としての側面が重要だった」とカラザースは述べる。

     P 259
    私は、その場にふさわしい逸話や事実をいつでも引き出せる人々の知性にいたく感動する。そういった人たちは、多くを学ぶことで広い世界に触れ、遠く離れた場所からも情報を引っ張って来ることができる。知性には、単なる記憶力よりもはるかに大きな価値があること言うまでもない(年老いた教授は、ほとんど覚えていないのに多くのこと理解しているのと同じように、多くのこと覚えていても、ほとんど理解できていない人もいる)。
     しかし記憶力と知性は、筋肉と運動選手の素質のように密接に関連していて、フリードバックルートを通してつながっている。新しい情報の断片は、すでにある情報のネットワークの中に深く埋め込まれるほど記憶に残りやすくなる。また、記憶を埋め込むための引っ掛かりとなる関連知識が多ければ多いほど、新しい情報を忘れにくくなる。つまり、どんどん知識が増え、どんどん学ぶことができるということになる。そして憶えていることが多ければ多いほど、世の中を知ることができる。世の中を知ることができるようになれば、もっと記憶できるようになる。

    第10章 私たちの中の小さなレインマン
     オーストラリアの神経学者、アラン・スナイダーは左前頭側頭葉の機能停止させるとサバンでない人でも、記憶から正確な絵を再現する能力が向上し
    、サヴァンのようにふるまうことができる。

     世界知有名なダニエル・タメットは、実は訓練を積んだ知的競技者であるという可能性もある。
     
     実際ダニエルがけた外れに頭が痛いことは断言できる。記憶力を鍛えるのにどの程度労力が必要か、私は知っている。やるのはだれでもできる。けれども、ダニエルのレベルにやれる人はそういない。私はダニエルは特別だと確信している。ただ、彼が主張しているような意味(サヴァン)では特別だと思っていない。

    エピローグ
    (優勝した著者)
    テストが終わってエリクソンに、私と同じぐらいの時間をかけて練習すれば、だれでも同じくらい記憶力が向上させることができるかと尋ねた。
    エリクソン「このデータだけでは何とも言えない。ただ君ほど没頭して取り組む人はそういない。君のチャレンジ精神は飛び抜けている」

     共感覚を持つSとフネスを苦しめたのは、注目に値するものとしないものの区別がつかないことだった。彼らの強迫神経症的な記憶力を明らかに病的なものだが、彼らの感じた世界は、それだけ皮肉なまでに中身の濃いものだったろうと思う。どんな些細な事にでも注意を向けたいと願う人はいないかもしれない。だが、ただ通り過ぎるのではなく、理解しようとして何らかの努力をすることは決して無意味ではないと思う。こんな言葉がある―人が常々注目し、理解しようとするのは、それを自分に取り入れたいからである。

    記憶外在化されている時代に、なぜわざわざ覚えることに投資するのだろう。それに対する私なりの答えは、図らずもEPから教わったものだ。EPの記憶力を失われ、時間の感覚や場所の感覚がなく、他人と自分を比べることができなかった。世界をどう認識し、その世界で どう振る舞うかは、何をどう記憶したかによってきまるということ、EPが教えてくれた。
     私たちは、記憶によって形成された週間の集合体に過ぎない。そして記憶は、生活の中で、集荷を徐々に変えていくことに於てつくられる。行ってみれば私たちの実態は記憶のnetworkなのである。(略)面白いことを見つける、複数の概念を結びつける、新しいアイディアを生み出す、文化を伝える ―そういった行為の基盤には、必ず記憶の力がある。特に現代社会では、記憶の役割がかつてないペースで衰退している。

  • シモニデスが生み出した暗記術・・・それは場所法と呼ばれるものであった。そして、それが中世ヨーロッパの基本的な学問術でもあった。

    以上のことは最近勉強を始めた「修辞学」の概説で学んだ。修辞学においても暗記というものは重要な技術のひとつであった。

    その歴史から概観を始めている点に好感がもてる本。タイトルは「あ、ばったもんくせー」って感じだけど、本屋で手にとってざっくりと目を通したとき、クインティリアヌスとかシモニデスとかきちんと語っていそうなので購入。そして、一気に読んだ。

    マインドマップで有名なトニー・ブザンも「暗記術」の復活に貢献した人物である。そして、それは彼が中世ヨーロッパに伝わる「暗記術」に根本をおいて生み出したことも説明されている。そして、それを補強するためにマインドマップも生み出されたのだ。

    そのようなつながりも面白い。ジャーナリスティックな視点を失っていない。サヴァン症候群についてもしっかりと取材している。なので、人間の「記憶」と「記憶術」の歴史について、そして、学校の教育システムについても概観できる。

    よい本です。

  • たった1年で全米記憶力チャンピオンになった方の経緯が書かれた本。自分的には具体的にどうやって記憶力を強化したのかを理解したかったが、物語がメインで具体的手法に関しては期待したほど多くは語られていなかった。まとめると、憶えたいことを憶えやすいイメージに変換し、頭の中にシステマティック(人間の記憶しやすい場所をいくつも準備しそこに格納していく)に格納していくシンプルな方法に尽きる。確かに憶えやすく、一度憶えると中々忘れにくいのは実感できたが、相当意識して継続しないと時間がかかりそう。如何に習慣化していくかが肝のように感じた。

  • ジャーナリストである著者が、1年間の練習ののちに全米記憶選手権に挑み優勝するまでの話。

    記憶することで人格が形成されていくというのは、全く記憶ができない人の事例を知りなるほどと思った。
    記憶することが外部化されている中でも、自分の人格形成のため、空間記憶を利用した「記憶の宮殿」は試してみようと感じた。

  • 記憶の宮殿(場所記憶法)、数字変換法(アルファベットに)など
    トニー・ブザンも記憶法が出発点。
    ただ、筆者も述べているように、学校はいざしらず、人生では記憶法だけが全てではない。

  • あるひとは「ひとの顔と名前よく覚えられないんだよね」と言う。「それはあなたが覚える気が無いんでしょう」と言うと嫌な顔されるのであまり言えないが。ひとには得意と不得意がある。興味のある相手だったら覚えるよね。

    15世紀のグーテンベルクによる印刷された本の登場によって、人間は物語を記憶する必要を無くしてしまったとあった。そういえば春樹の『1Q84』でふかえりが平家物語を諳んじたりマタイ受難曲を歌ったりバッハを目録番号(BWV***)で覚えているというのが出てくるんだけれども、あれは読んだ時に記憶するためのそのひとにやりやすいパターンがあるんだろう。
    意識高い系のセミナーでマインドマップとかいうものを描かせるのあるが、あれを提唱したトニー・ブザンという人はもともと記憶術を広めた人であったらしい。
    この本ではジャーナリストの駆け出しである著者が自分の能力を向上させたいと願い、この大御所ブザンのかつての弟子であった人が著者のコーチとなり、記憶コンテストに出られるように仕込まれる、というのが物語になっているのだけれど、その中で記憶術の歴史が紐解かれる過程が興味深い。古代ギリシャの素養があればもっと楽しめたことだろう。

    これを読んでいて思ったのは、たとえ「読んだ」としてもその本の内容を覚えていないことはその本を本当に読んだということになるのだろうかということである。「読んだけれどあまり覚えてない」という本は、自分の人生の中に途方もなくあることを考えると虚しさも感じてしまう。

    覚える対象を自分の意識に埋め込みやすいイメージに変換するというのは、確かに自分にも見に覚えがある。ここでは、それらを住まわせる「宮殿」を作ることによって、さらに多くのもの記憶を保管できるようになるという。

    著者はマインドマップのトニー・ブザンや、『僕には数字が風景に見える』のダニエル・タメットへのインタビューも敢行する。円周率を5時間かけて暗誦するタメットは天才ではなく実はサヴァンでもなく、記憶するスキルを訓練しただけかもしれないのだった。(それでも大した能力だが)
    そうなると、もはやサヴァンとか共感覚とかってどうなのよ?って読者は思うわけですよ。もしかして訓練できるほどの想像力があるかないかであって、先天的なものなんじゃないんじゃないですかと。そんなわけで、これは記憶力だけで天才と呼ばれる有名人に喧嘩を売っている本でもあり、アメリカではベストセラーであったらしい。原題は”Moonwalking with Einstein”、アインシュタインと一緒に月を歩く。日本語のタイトルが違えばもっと違う読まれ方としたかもしれない本である。

    ちなみにこの著者のジョシュア・フォアのお兄さんは『ものすごくうるさくてありえないほど近い』の作者・ジョナサン・サフラン・フォアだそうです。911の後遺症、映画にもなったね。

  • 記憶力のノウハウ本と間違うけど、そうではないす。確かに本文中に記憶術の歴史や記憶術の具体的事例が掲げられています。それは、著者がそれらを駆使し、学び、練習して全米一の記憶力チャンピオンになったからです。著者が、自分の経験だけでなく、サバン症候群の記憶の天才や記憶の著名な研究者に直接取材して、記憶がその人を作っている、記憶の重要性を示しているところに、何でも機械のメモリーに頼る現代人へ警告する所にこの本の意義があります。

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