ハイデガーの超-政治――ナチズムとの対決/存在・技術・国家への問い

著者 :
  • 明石書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (376ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784750349565

作品紹介・あらすじ

ハイデガーはなぜナチスに加担したのか? 衝撃の新資料「黒ノート」の詳細な検討も交えてナチスとの関わりを丹念に描き、彼が「超政治」と呼んだ「存在の問い」の政治性を解明する。ハイデガー・ナチズム論の決定版かつハイデガー後期思想の格好の入門書!

感想・レビュー・書評

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  • 非常に面白く読ませてもらったのだが、ハイデガー思想におけるナチスとの対決という側面を若干過剰に強調する筆者の姿勢から、「もしある哲学がナチズムと親和的であるならば、それは思想として二流、三流である」といった俗的な先入観があるのではないかという印象を受けた。しかしその点を除けば、とても学びの多い読書体験だった。反近代的な価値観を称揚さえすれば近代を乗り越えられると考えている近頃の政治思想に対する強力な批判者としてハイデガーを受容することは、私たちに様々な洞察を与えてくれるだろう。
    印象論に過ぎないのだが、もし筆者の描いたハイデガーの姿が真正のものだとしたら、なぜハイデガーにとってナチズムへの対決がニーチェへの対決であったのかも納得できる。というのも、ニーチェ哲学は、やはり、ナチズムと親和性が高く、そしてこれもやはり「主体性の形而上学」の一部、あるいはその究極形に過ぎないからだ。

  • この本を読むにあたってある程度のハイデガーの知識が前提になるとは思いましが、そのような前提されている断片的なハイデガーの知識を大きな一つの流れとして捉えるための手引書になると思いました。
    単なるハイデガー礼賛の書だという先入観を持った人は、まず、あとがきから読むと良いでしょう。

  • ハイデガーのナチス関与については、現在においても無批判に非難されるが、それが単に「ハイデガーがナチズムだから評価に値しない」という思考停止に陥っている可能性がある。特にアーレントやレヴィナスが引き合いに出され批判される論調に一石を投じる。本書は、『存在と時間』や『黒ノート』『技術への問い』などを踏まえながら、「存在の問い」の政治性=超政治とナチズムの関係を読み解く。ナチス運動を機に、学長としてドイツの知を内側から変えようとしたが、全く期待外れで一年で辞し、そこからはナチズムを中心に、コミュニズム、欧米を含めた近代国家を批判する。その要素として技術、主体性、力の分析が重要となる。後期ハイデガーの著作・講義の狙いと、『存在と時間』などの前期との連続性が理解できる。さらに言えば、サルトルの実存、デリダのユダヤ-キリスト形而上学と精神、フーコーの権力論・主体化、アーレントの悪など、問題が継承されていることがわかる。
    ハイデガーのナチズムへの加担は、存在の問いに基づき、西洋形而上学的なニヒリズムに対抗する運動としてナチスに期待した。しかしニヒリズムを克服する方向には導けず、離反後は、ニヒリズム批判がそのままナチズム批判になる。当時、近代批判として、共産主義、民族主義、宗教的原理主義が勃興したが、これらは自由主義を近代性としており、公共の福祉の名目で、個人の権利を制限する暴力を肯定した。ハイデガーは、近代性を主体性の形而上学に見て取り、こうした運動に批判的だった。現代においても、環境保護運動やポピュリズムのような自由主義批判が本質を捉えられず続いている。ハイデガーは自由主義と全体主義の相互依存を主体性の形而上学の帰結と見ていた。すなわち存在を現在において現前するもののみから捉え、存在者を操作する技術支配の態度だ。
    超政治=メタポリティックは、存在者全体の中で現存在を捉える、つまりピュシス自然の中の人間を認識する古代の形而上学メタフィジックへの還帰である。利害調整の近代的な意味での政治ではなく、学問、知を超えた、哲学に代わるものとして、「超政治」と名付けた。
    ナチスに支配された学生団の要求に従い、労働奉仕、国防奉仕を制度化したが、ハイデガーは知の奉仕を加えた。ナチスは有用性のある職業的専門知識を、それまでの学問知に取って代えようとしたが、ハイデガーはむしろ地盤になるような知のあり方を志向していた。先駆的な覚悟として、プラトン『国家』における、洞窟の住人を諭し殺害された光を見た哲人になぞらえて、生物学的人種主義と戦う決意で、学長に就任したと言える。
    労働を存在の開示として捉え、マルクス主義的な経済的成果物としての労働理解ではなく、存在者全体の知に向かうものとして大学入学式典演説で説明した。大学の知から労働を通して国家の知に向かう。民族の存在開示の模範例は芸術としている。しかしハイデガーは、学生団やナチスが論争や目に見える施策しか興味がなく、自己教化する気はないとわかると、指名した学部長の更迭をきっかけに一年で職を辞す。
    ナチスに接近し出世しようとした同僚のシュタウディンガー、バウムガルデンの節操のなさを、ナチスに目をつけられるように報告している。しかし2人はうまくナチスに適応し出世、戦後も非ナチ化審査の影響を受けず、前者はノーベル化学賞、後者は正教授で定年した。一方ハイデガーは戦後に教授禁止、マスメディア批判、黒ノートで非難が強くなっており、対照的だ。多数派だったのは2人の方だった。
    ユダヤ人批判を行うナチスを、ユダヤ的だと言うことで反-運動が、その批判対象を根拠とすることを指摘した。ヘーゲル形而上学に対するマルクスも同様。
    第二次世界大戦は、歴史の終わり、すなわち存在者を表象し操作する頽落と存在からの疎外であるとした。→ポストモダン思想や、フーコーの統計的生権力へと繋がる。 
    人種主義は、現存在の被投性=必要条件に過ぎないものを、作為的で計算的な十分条件に祭り上げてしまい、むしろ所与性多様性を失った脱人種化と言え、存在開示の決断領域を喪失している。
    "ハイデガーによると、ユダヤ教はキリスト教を介して、その創造説と命令する神という観念により、古代ギリシアのアレーテイア、ピュシスの隠蔽を促進し、古代ギリシアの末期に現れたプラトン、アリストテレスの哲学と結びつきながら西洋形而上学に固有の思惟の様式を形作った"
    黒ノートにおける「ユダヤ的なもの」は、人種に対する言及ではなく、西洋形而上学の問題についてである。
    近代的主体は、存在者を前に-立てられたものvor-stellen(存在者を計算可能なものとして機械的に対象化し、制作により作為する技術)と解釈する。
    歴史学も歴史を操作対象とした点で、主体形成のプロパガンダ技術となる。
    技術には、技術的な対象化を担う存在者、すなわち人間の主体化が必要である。教育機関、医療・保健機関の教育や訓練が例である。→フーコーの生権力、主体化につながる
    技術は動員を強いる。その意味で近代国家は総じてコミュニズムであり、プロレタリアートは結局、国家の力の拡大のために設定された様々な聞こえのいい目標のもとで均質化され、命令に従属する奴隷に過ぎない。イギリスは、その暴力性を道徳教育で偽装している。
    悪は、倫理的に欠如あるいは否定されるような何らかの存在者ではなく、自然に反して支配の地位に転倒させるため徐々に領域を広げる悪性腫瘍のような「悪質なものdas Bösartige」としている。反乱の憤激、存在否定のニヒリズム。それは存在者を計算可能なものとして対象化し支配しようとする主体性の形而上学である。ナチスの悪も、戦争と共に消えたわけではなく、平和的秩序の装いのもとに残っている。トカゲの尻尾切りのような組織的な悪は、個人の倫理観で対処できるものではなく、凡庸な悪のような命令に従うだけの無責任な悪の悪質さを取り除くことはできない。
    "ナチズムに期待したのはあまりにも性急であった。ナチズムはコミュニズムを政治的に──ということは、単に政治体制として──捉え、ソ連のボルシェヴィズムを敵対視するだけであった。まして知識人も傍観者としてふるまうだけで、ナチズム運動に秘められた積極的な可能性を引き出すことにまったく関心をもたない孤立無援の状況では、自分の試みはあまりに拙速だった"
    ゲシュテルGe-stell駆り立て-組織(原義は棚、台架)…技術的対象を在庫として確保するよう人間を取り集めるもの。様々な設備、組織、消費者を含めた連関の全体。
    原子力は、根拠を探究する充足根拠率の考えに基づき、人間が発見した近代技術の帰結である。
    サイバネティクスは、生物も機械と同じように情報の伝達で制御可能、計算可能なものとして対象化する。
    技術によって画一化された人間は、民主主義的に主体になったように見えるが、技術の論理、改善に支配されている。民主主義は技術的対象化観の支配が背景にある。
    技術の力に支配されないために、主体的な意志のような悪質なものではなく、神に身を委ねるように意志しないこと。近辺(世界=存在者全体)への放下Gelassenheit zur Gegnet。
    →禅における、一切の執着を捨て去ることを放下という。諸行無常、無我、流れに身を任せる。
    ものへの放下は、技術的対象をいつでも手放せ、あるいは使用せずそのままにしておける態度。
    →マルクスでいう疎外から逃れること、類的存在・労働を自己に取り戻す自然。
    ものDingはものとして存在するのではなく、世界=存在者全体と常に関わっているが、特に分類すれば大地、天空、神的なもの、死すべき者の四方界合一の鏡映-遊戯Spiegel-Spielとして現れる。人間においては、住むこと=保護することとして現れ、作ることは建造物を産出することである。→アーレントの制作workの世界を作ることにつながる。ギリシア語では産出することティクトーと技術テクネーは語源を等しくする。
    →存在者全体としての理解は、スピノザの自然とも近い。
    環境保護運動も技術的対象として環境を見ている。環境の支配を承認することでしか、保護はできない。
    全体主義は、自由主義のエゴイズムを悪として、公的な自己犠牲として道徳を装うが、主体性が集団に移されただけで、主体的意志の悪には変わりがない。

  • 講談社の現代新書でもそうだったが、一部のマックス・ウェーバー学者と同じで、対象との距離感がなんだかなぁと感じる。序論から違和感だらけで、なかなか進まない。
    ここまで来るとハイデガー教祖様礼賛本としか言いようがない。

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著者プロフィール

1968年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。
現在、防衛大学校人間文化学科教授。博士(文学)。
専門はハイデガー哲学、現象学、近代日本哲学。
著書に『存在と共同―ハイデガー哲学の構造と展開』(法政大学出版局)、『ハイデガー『存在と時間』入門』(講談社現代新書)などがある。

「2020年 『ハイデガーの超-政治』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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