岸辺のない海 石原吉郎ノート

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  • 未来社
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  • Amazon.co.jp ・本 (329ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784624601232

作品紹介・あらすじ

『季刊 未来』で16回にわたって連載され、好評を博した「岸辺のない海 石原吉郎ノート」に参考文献と詳細な年譜を追加して一冊にまとめた伝説の詩人の力作評伝。戦後、極寒の地シベリアに八年にわたって抑留され、苛酷な労働と非人間的な強制収容所生活で人間のぎりぎりの本質と死を見とどけた石原は、現代詩の世界のなかでも独得な詩情と透徹した世界観をもって生き抜いた。そうした特異な存在をめぐって、やはり本誌連載をもとにした『詩人の妻――高村智恵子ノート』で一九八三年のサントリー学芸賞を受賞した、詩人でもある著者の怜悧な筆致が縦横に展開され、鮮やかな刻印を残す。数多ある石原吉郎論の決定版。

感想・レビュー・書評

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  • 郷原宏氏によって雑誌『未来』に連載された石原吉郎の評伝を一冊の本にまとめたもの。石原吉郎の詩の世界と、その人生、文学に関する来歴が綴られている。切り詰められた表現で描かれており、表面だけではその表現しているところをなかなか掴みづらい石原吉郎の詩を読み解く上で、参考になる内容が多く含まれていた。

    石原吉郎の詩の世界は、非常に抽象化された表現に満ちている。「そこ」、「その間を」といった位置を表す言葉や、「みろ」、「目をつぶれ」、「手がある」といった命令語や断定、「馬」や「しずかな肩」といった言葉に重ねられた換喩の世界などが、特徴的である。

    このような言葉の世界に彼がたどり着いた背景には、間違いなく、陸軍の特務機関としてハルピンに出征し、戦後8年間にわたりシベリアに抑留されて筆舌に尽くしがたい体験をしたことがある。

    1953年にシベリアから引き揚げてきた石原吉郎は、到着した舞鶴で、「諸君を待つものは、ただ飢餓と失業である」と演説した日共党員が帰還者に袋だたきにされるところを目にする。事実として帰還者を待っていたのはこの日共党員が言うものそのものであったが、その「事実」は「言葉」にされたとたん帰還者を傷つけ、正確であるがゆえに拒絶される。そして、彼自身にもそもそも言葉に置き換えることが不可能な体験があった。

    また、後に石原吉郎自身のエッセイにも書かれて明らかにされるが、シベリア抑留中、抑留者の間を支配した他者に対する強い不信感と、それ故に食事の分配をめぐって互いの間に生まれる共生関係を体験する。この奇妙な連帯の体験は、彼に孤独というものの真の姿を認識させた。孤独というのは連帯の中にはらまれており、「孤独に立ち返ることなくしてはいかなる連帯も出発しない」という認識が、彼に勇気ある「単独者」として、怒りでも喪失でもない、詩の言葉を綴ることを可能にさせた。

    言葉に頼ることから切り離され、また孤独な単独者としての立場に立たされることとなったこのような体験から、彼は「失語」の状態から詩作をスタートすることとなり、何ものも意味せず、何らかの立場を指し示すものではない言葉を綴ることで、彼自身の存在をかろうじて表現する道を選ばざるを得なかった。

    これは、『荒地』派の鮎川信夫などのように自覚的に敗北を意識しながら詩を作った戦後派詩人とも、「孤独」を拠り所に自我を保ちつつ戦争の敗北の意味を受け止めようとした加藤周一らの姿勢とも異なる。石原にはそのような社会的な「立場」や「位置」を拠り所にすることができず、むしろそれらをも無にしたところから、かつて「人間であった」ことを恢復するために詩を綴っていたと、筆者は述べている。

    一方で、石原は戦前からキリスト教に傾倒し、また立原道造や萩原朔太郎の詩に強い印象を受けるなど、みずみずしい感性の持ち主でもあったことが、本書では紹介されている。このことから、彼の詩には音楽のようなリズムがあり、『自転車にのるクラリモンド』に見られるような美しいロマンチシズムも内包している。

    石原の詩のこのような特徴は、彼の二面性とまではいかないものの、もう一つの特性を表しているものだと感じていた。もちろん、彼が若い時期に立原道造らの詩に親しんだことで、一つの所作としてそのような言葉のリズムや感性を獲得していたことは、彼の詩作に影響を与えたであろう。しかし、本書を読んでこの二つは根底において同じ基盤のもとにあるということが理解できた。つまり、彼自身が、その表現において告発や立場といったものを放棄しており、それ故に彼の詩の世界は意味の世界ではなく、音楽のようなリズム感で表現されなければならないものになったということである。

    彼の詩作がもっとも豊かだった時期に、彼は「一つの流れるようなリズムがいつもあって、そのリズムにのればいつでも詩が書けた」と述べている。彼は、そのような形で、失語の中から溢れ出てくる言葉を詩の形に結晶させていき、自らの表現を確立していったのだろう。そのような意味で、彼の中でみずみずしい音楽的な言葉と、意味を拒絶する単独者としての言葉は、深くつながっている。

    石原吉郎という詩人は、戦後詩の世界に突然現れ、その作品の性格からも、孤高の位置を占めていた詩人という印象があった。この本で彼の人生や思索の跡を辿ることで、彼が戦後詩の詩人たちとは全く違う背景を持って詩を書き始めたこと、そしてその詩の言葉が、シベリア抑留の体験による孤独や沈黙の中から導き出されてきたプロセスを知ることができた。

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著者プロフィール

文芸評論家・詩人

「2023年 『ベスト・エッセイ2023』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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