医師が死を語るとき――脳外科医マーシュの自省

  • みすず書房
3.73
  • (2)
  • (4)
  • (5)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 172
感想 : 7
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784622089667

作品紹介・あらすじ

「安楽死が認可されていない場合に私たちが迫られる選択は、すぐに悲惨な死を迎えるか、数カ月以上先延ばしにして、後日悲惨な死を迎えるかのどちらかということになる。驚くには値しないが、私たちのほとんどは後者を選択し、どれほど不快なものであっても治療を受ける」
イギリスを代表する脳神経外科医マーシュはある日、国民保健サービス(NHS)によって様変わりした医療現場に嫌気がさし、勤めていた病院を辞する。旧知の外科医たちを頼り、行きついた海外の医療現場――貧困が色濃く影を落とす国々の脳神経外科手術の現場でも、老外科医は数々の救われない命を目の当たりにする。
私たちにとって「よき死」とはいったい何なのだろうか? それは私たちに可能なのだろうか? そして、私たちの社会はそれを可能にしているのだろうか?
マーシュはロシュフコーの言葉を引いてこう言う――「私たちは太陽も死も、直視することができない」。該博な知識から生命と人生の意味を問い、患者たちの死、そしてやがてくる自らの死に想いをめぐらせる自伝的ノンフィクション。

■著者紹介
ヘンリー・マーシュ(Henry Marsh, 1950-) イギリスを代表する脳神経外科医。オックスフォード大学で哲学・政治・経済を学んだのち、ロイヤル・フリー・メディカル・スクールで医学を学ぶ。ロンドンのアトキンソン・モーリー病院、セントジョージ病院で30年以上脳神経外科医を務めたのち、現在は定年退職している。2010年、大英帝国勲章受勲。出演したドキュメンタリー番組Your Life in Their handsとThe English Surgeonでも数々の章を受章した。著書にDo No Harm: Stories of Life, Death and Brain Surgery(Weidenfeld & Nicolson, 2014;『脳外科医マーシュの告白』NHK出版 2016)がある。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  •  両親を看取り、また自分自身、これまで生きてきた人生より、これから生きられるであろう人生が短いことが確実になったころから、医学・医療関係の本を少しずつ読むようになった。

     本書の著者は、イギリスの著名な脳神経外科医だそうだ。手術室の息詰まるような描写、患者やその家族との苦しいやり取り、専門医としてのプライドの一方、判断ミスその他の過ちから患者を死に至らしめ、あるいは重大な後遺症を与えてしまった悔恨も率直に述べつつ、自らの半生を振り返っていく。
     また、どんどん官僚主義的になっていくイギリスの医療改革に対する著者の失望が率直に語られるほか、関係のあった医師への支援として訪れたネパールやウクライナにおける厳しい医療環境などについても、その実体験を通して深い考察がされている。

     それらに加えて本書では、人生の終わりに近づきつつある著者の〈死〉への向き合い方、対し方が、全編にわたり色濃く映し出されている。
     特に安楽死に関する著者の考え方については、人により異論もあるだろう。自分にしても判断力もあり死が差し迫っているとは感じていない時期と、周りからはどうしようもないと思われてしまう状態を想定した時とでは考えが変わるような気がする。本書を読みながら、色々な想いが湧き起こってきた。

  • 奈良の宝山寺に行ったとき、立ち並ぶお地蔵さまが高い木々に囲まれていたのが美しかった。そのとき、もし死んだら、木として生まれ変わりたい、と思った。死んだ後、何かに生まれ変わりたいと思ったのは、それが初めてだった。

    わたしたちの多くは、不吉な「死」を避けて生きている。無意識のうちに、「死」について考えることを遠ざけてしまっている。一方、「死」にまつわる恐ろしいニュースを熱心に読んでしまう心理が人間には備わっている。自分が同じような状況に陥った時のシュミレーションをし、危険回避の行動をとる準備をするためだと、どこかで読んだ記憶がある。

    そんな「死」に、常日頃から直面しているのが脳外科医だ。老脳外科医マーシュはわたしたちに、穏やかな口調で、「死」について語る。

    医師は、患者の手術に成功すれば崇められる。一方で、失敗に終われば先進国では訴えられ、途上国では脅されたり暴言を吐かれたりする。
    だが、それは確率の問題だ。いつだって、100パーセント助かる見込みなどない。今すぐ悲惨な「死」を迎えるか、延命治療をして後日悲惨な「死」を迎えるか、の二択の場合もある。ほとんどの患者は後者を選択する。

    回復の見込みの少ない患者、手術に成功したとしても重い障害が残る可能性が高い患者を助けて、彼らは幸せといえるだろうか?その誰かを世話するために、一日中サポートが必要になるとしたら、家族を苦しめるだけなのではないのか。マーシュはそう自問する。

    だから、患者の家族から責められた医者は思う。
    「こんな風に人から憎しみを向けられるのがどんなに辛いことか。間違ったことなど何もせず、最善策を尽くそうとしただけなんだからなおさらだ」。

    脳外科医マーシュも、生まれ変わったら樫の葉や森であればいい、と願っていたことがある。それを読み、親近感がわいた。「死」は平等におとずれる。患者にも、医師にも。いくら見慣れている光景だとしても、医師は非情でも、「死」を恐れていないわけでもない。心から溢れる思いが記された一冊だった。

    p14
    ただし、前頭葉は私たちの社会的、モラル的行動のすべてが制御される場所だ。前頭葉が損傷すると、ありとあらゆる社会的行動が変化してしまう-ほぼ間違いなく、悪い方向にね。突破的な暴力や理屈の通らない行動は一番ありふれたものだ。それまでは親切で思いやりのある人だったのに、下品で自己中心的な人になってしまう。知性は完全に保たれているにもかかわらずだ。前頭葉に損傷を抱えた人がそれに気づくことはめったにない。

    p18
    心臓からの血液の四分の一が、ほんの数秒のうちに脳を通り過ぎていく。脳が酸素を奪い去って、血液は暗い色に変わる。思考、知覚、感情、(大半は無意識的な)体の制御。これらはみな酸素を燃料とし、エネルギーを集中して必要とする過程だ。

    p60
    靴職人は「ダリット」、すなわちヒンドゥーのカースト制度における不可触民であり、社会の最底辺にいる掃除夫に次ぐ存在だ。

    p67
    ネパールには非常に強力なカースト制度がある。夫に先立たれた妻の儀礼的焼身形や奴隷制度が廃止されたのはようやく一九二四年になってからのことだ。カーストや民族性を理由とした差別は違法だが、カーストはいまでもきわめて重要である。

    p68
    一〇〇以上の民族が存在し、それぞれが異なる言語やカーストを持っていることも多い。ネパールは移民国家だ。北からはモンゴル人が、南からはインド人がやってきた。

    絶望的なまでに貧しく、最近の地震による損害を受け、外国からの援助やNGOに過度に依存している。ネパールは悲劇的な混乱の只中にあるのだ。この国の政治はその大半が斡旋と汚職の政治であり、西側諸国では当たり前とされている公共の利益やサービスといった感覚はほとんど存在しない。

    p72
    検査では、その女性の脳の左側がほぼすべて暗い灰色、黒に近い姿で示されていた。女性は明らかに大規模かつ不可逆的な脳卒中を患っていた-左頸動脈に形成された血栓によって引き起こされた「梗塞」だ。言語、知性、人格、そして体の右側を動かす全能力と同じように、左大脳半球は壊死していた。回復の見込みはない。これほどの損傷を元に戻す方法は存在しないのだ。壊死してしまった、あるいは梗塞した脳が外側に向かって腫脹し、頭蓋骨内部の脳圧の上昇によって患者が死ぬことがないように、患者の頭蓋骨を開ける方がよいという考えの外科医もいる。梗塞した脳は腫脹し、重度の脳腫脹は死をもたらすからだ。
    「減圧開頭術」という名のこの手術で脳卒中から患者を救うことは、脳卒中が脳の右側にある場合には正当化可能なものだろう。言語は通常は脳の左側に属するものなので、コミュニケーション能力を失わずに済む。患者が若い場合も同様だ。けれども、たとえ生存したとしても、ひどい障害を抱えることになるような患者に対してのこの手術を行うのは理屈に合わないことのように思える。にもかかわらず、患者の幸せは生きることだとして、この手術は数々の学術ジャーナルに掲載された論文によって推奨され、また実際に広く実践されている。知性や人格、自尊感情にまつわる脳の一部、あるいは言葉を話す能力の大半を失ってしまった場合に、どうやって犠牲者の幸せが成り立つのかと疑問に思う人もいるだろう。重度の脳障害を抱える患者は、周りからわかる範囲で言うと、自らの窮状をほとんど理解していない場合が多い。一方で、それを理解している人は深く落ち込んでいることが多い。ある意味、真の犠牲者は家族だ。家族はどちらかを選ばざるをえない。もはやかつてのその人とは別人になってしまった誰かを世話するために、毎日二四時間、自分のすべてを捧げるのか?もしくは施設でのケアに委託することの罪悪感に苦しむのか?この種の問題に直面したときに、多くの結婚関係かま破綻する。年齢にかかわらすま脳に障害を負ったわが子と無条件の愛で結びついている両親にとって、それは最悪の事態だ。

    p77
    「インドや中国で研修を受けてきた他の神経外科医と競争しなきゃいけないんだよ。あいつらは何だって手術する。いつだって金のためだ。アメリカと一緒でね。いま私が患者の家族に治療は不可能だと言っても、家族は別の医者のところに行って、そいつが正反対のことを伝える。そしたら家族は大騒ぎだ。だから、いまは昔だったらしなかったはずの手術もしないわけにはいかないんだ。(後略)」
    ウクライナにいる仲間のイーゴルも似たような問題に直面していた。手術室の外で患者の家族が銃を振り回している状況で外科医が手術をしなければならない場合がある国を、私も訪れたことがある。西側諸国から訪れる医師には、文化が大きく異なり、法の支配がない国で働く仲間たちが直面する困難を理解するのは、最初のうちは難しい。

    p81
    ネパールやウクライナ、そして他の多くの国々では、政府の腐敗が多くの人に認識されている。

    p86
    脳弓とは二本の数ミリの細い帯状の白質のことであり、記憶に関して重要な役割を果たしている。白質は人間の脳の八〇億以上ある神経細胞をつなぐ数十億本の絶縁繊維(要するに電気ケーブル)で構成されている。脳弓に損傷が加わると、新しい情報を取り入れる能力の大部分が失われてしまう-破壊的と言っていいくらいの障害だ。

    p89
    床から天井まである窓からは、テキサス・メディカル・センターを形成する、たくさんのきらびやかな高層ビル群を見渡すことができた。この惑星に存在する中で最大の病院群だ。ここには八千の病床、それに計五一もの臨床施設があるそうで、世界でもっとも先進的な医療を実践している。

    p93
    「直回は嗅覚を司っている。動脈瘤の治療をせずにまた別の出血が原因で死ぬことに比べれば、嗅覚に障害があった方が患者にとってはまだましというものだろうね」

    どんな人だったのだろうか?どんな人生を送ってきたのだろうか?そんなことを一瞬考えずにはいられなかった。彼にもかつては目の前に未来が広がる子ども時代があったはずだということも。

    p94
    アメリカの医療は贅沢なことで悪名高い。シカゴのある病院では、豪華なレストラン、バー、屋上庭園があるのを見た。病院は熾烈なビジネス競争に巻き込まれていて、多くの病院はなるべく病院に見えないように設計されている。そうした病院は高級ホテルやショッピングモール、あるいはファースト・クラス用の空港ラウンジに似ている。ヘルスケアにおける孔雀の尾みたいなものだ。

    p98
    個人的な意味でも感情的な意味でも接触のない患者の手術をすることを、外科医は「獣医のようだ」と表現する。

    p99
    何年も前のことだが、私は低悪性度神経膠腫と呼ばれる特定のタイプの脳腫瘍を治療するために覚醒下開頭手術の技術を使用した、イギリスで最初の外科医となった。当時は異例のことだったが、現在ではこれがほとんどの神経外科で標準的な実践となっている。実際のところ、これは非常に単純な手術法であって、全身麻酔で眠っている患者の場合よりも、安全に脳内の腫瘍の多くを摘出することができる。問題は「腫瘍」とは実際には脳の一部だということである。腫瘍は脳の中で成長し、脳と腫瘍が混ざり合っているのだ。異常な部分、特にその端の部分は、正常な脳とはほとんど同じに見える。正常な脳の中に迷い込んでしまっているのか?深刻な損傷を引き起こす危険性があるのか?患者に覚醒したままでいてもらい、そうすることで腫瘍を切断する際に患者に何が起こっているのかわかるようにすることで、はじめてそうした判断が可能になるのだ。

    p100
    脳は痛みを感じることができない。痛みとは体の内の神経終末から送られてくる電気化学的な信号に反応して、脳内で作られる感覚のことだ。私は慢性的な痛みを抱える患者に会うとき、ありとあらゆる痛みは「心の中にある」と説明するようにしている。小指をつまんだときに、痛みが小指にあるというのは錯覚だ、と。痛みは指の「中」にあるのではなく、本当は脳の中にある。それは能の中で、脳が作った体の地図の中で生じる電気化学的パターンなのである。痛みに関する心理学的アプローチが「身体的」な治療と同じくらい効果的かもしれないということを患者に理解してもらいたいとの考えから、私はこのことを説明するようにしている。思考、感情、そして痛み。これらはすべて脳の中で起こっている物理的なプロセスだ。脳と繋がっている体の損傷によってもたらされる痛みのほうが、体からの外部刺激を受けることなく、脳自体が発生させた痛みよりも強い理由、あるいはより「本物」の理由である理由は存在しない。切断された腕や脚の幻肢の痛みは耐え難いものになりうる。

    そういったわけで、覚醒下開頭手術にあたっては麻酔を施す必要があるのは頭皮だけで、手術の残りの部分は無痛で行う。

    p104
    出血が多いと、たとえ手術がどれだけうまくいっても、患者に障害が残ることになる。脳はきわめて複雑かつ繊細であり、体の他の部分に比べて、修復と回復のための能力がはるかに低いのだ。つまり、問題はその障害が深刻で(患者がいわゆる「植物状態」になってしまう場合のように)、死なせてやった方がよいものかどうかということだった。

    p114
    視床下部は、喉の乾き、食欲、成長など、きわめて重要な機能を制御している。視床下部に損傷を受けた子どもは、概して病的な肥満児となってしまう。

    p118
    ネパールでは診断が遅れるため、たいていの場合、腫瘍はかなりの大きさになる。

    p170
    「こんな風に人から憎しみを向けられるのがどんなに辛いことか。間違ったことなど何もせず、最善策を尽くそうとしただけなんだからなおさらだ。この気持ちは神経外科医にしかわからない」

    p188
    私たちが新しい技術を学習するとき、脳は懸命に働かなければならない。それは頻繁な反復とエネルギーの消費を必要とする、意識的な方向性を持った過程である。けれどもひとたび学習されると、技術(脳による筋肉の運動と感覚の調整)は無意識的なものに、素早いものに、そして効率的なものになる。技術が実行されても、活性化されるのは脳のごく一部だけだ。

    p200
    若者の前頭葉(人間の社会的行動と未来のリスクと利益の計算の所在地)はまだ成熟していない。一方で、思春期に上昇するテストステロン値は彼らを(たとえ手作りの窓に対してであっても)攻撃へと駆り立てる。これは戦闘や競争に向けた準備である。

    p210
    それに頭部の損傷と認知症の発症には明確な関連性があるのだ。

    p216
    両親が私に何かを期待することはほとんどなかった。どんなものであれ、私の成功は喜んでくれていたし、どんな形で私の助けになれるかといつも気にかけてくれていた。けれども、二人が私に見返りを求めたり、不満を言ったりすることは、まったくと言っていいくらいなかった。私には両親に対する甘えがあった。けれども、人生を通じて私の強さであり、弱さでもあった自尊心の、主たる源泉は間違いなく両親の愛だった。

    p288
    どこの国でも、医療費は制御不能なまでに急上昇している。こうした物事に対する選択の余地のなかった私たちの祖先とは異なり、私たちは(少なくとも原理的には)自分の人生をいつ終えるべきなのか、決めることができる。老後に致命的な病気を先延ばしにするための治療を受ける必要はない。ところが、もしも私たちが自然の摂理に身を委ねると決めて、癌のような致命的な病気の治療を拒否しても、私たちの大半は悲惨な死の見通しに直面することになる。安楽死(よき死)が認可されている国はごくわずかだからだ。したがって、安楽死が許可されていない場合に私たちが迫られる選択は、すぐに悲惨な死を迎えるか、数カ月以上先延ばしにして、後日悲惨な死を迎えるかのどちらかということになる。驚くには値しないが、私たちのほとんどは後者を選択し、どれほど不快なものであっても治療を受ける。

    p298
    本書の原題はAdmissionsというシンプルなものです。このAdmissionという英単語には複数の意味があります。
    第一に「(何かに)入ること」。学校に入学することや、動物園に入場することを意味する際に用いられる言葉です。医師である著者にとっては「病院への入院」がそのもっとも身近な用法でしょう。もちろん本書の中でも「入院」という意味で、この言葉が頻出します。そして、私たちの多くが人生の最後の日々を「入院」先で過ごすということも、きっとこの言葉が本書のタイトルに選ばれた理由のひとつなのでしょう。
    そして、第二の意味は「告白」。自らの過ちを認め、それを率直に語るという意味です。本書はまさに「告白」の書だと言えます。著者が手術中、もしくはその前後に犯した過ちが率直に記述されているのですから。また著者は自らの人間的欠点や私生活における問題のことも正直に、ときにはそこまで書いてしまって本当に大丈夫なのかと心配になるほど正直に描いています。この正直さだけをとっても、本書は驚くべき一冊だと言っていいでしょう。
    ところが、著者が「告白」しているのは医師として自分が犯した職業上の過失のことだけではありません。本書で著者は、専門医としての長い職業生活と私的な生活が織りなすようにして形作っていった内省そのものを告白しているのです。脳外科医として、患者のいのちと死に直接触れる経験を積み重ねてきた著者だからこそ達することのできた、その内省の深さこそが、本書を特別な一冊にしているのだと訳者は思います。

  • 2020I094 494.627/M
    配架場所:C2

  • イギリスで大英帝国勲章をもらうような著名なお医者様が「死」について語っているもの。死は不可避、これは分かっている。ただ、人生最後の数日〜数週間を、少ない人数の人々が、病院で、チューブに繋がり、尊厳も本人の意思もなく「生かされている」。その結果、本人も家族も苦しい時間を過ごし、やがて死にいたる。死が不可避である以上、延命措置で得られるメリットと、そのせいで避けられない苦痛などのデメリットを測り、メリットが大きければ延命すべきだが、そうでなければ意味がないのではないか。このような考え方は、著者の担当が脳神経外科であり、手術によって命は長らえても失明や障害が残ることが多いということも一因だろうから、主張をそのまま受け入れるには抵抗がある。とはいえ、ロジカルな反論はできない。受け入れ難いが、受け入れることになるんだろうなあ。また、医療政策や病院の経営にも言及されているが、人命は地球より重いとか言いながら、法律や政治はそうなっていないことを痛感する。「死すべき定め」以来の衝撃の一冊。

  • いかにもイギリス人らしい諧謔に富んだ本であると同時に脳神経外科医としての率直な告白の書でもある。著者はわたしと同年代、まさに残された時間を意識しながら自らの終焉をどう迎えるかに思いを巡らすあたりは、我が身に迫るものがある。これを十代に読んだら理解不能、バリバリに働いていた四十代、五十代では、著者の思いは十分には伝わらなかったと思う。原題は「Admissions : A Life in Brain Surgery」というもの。訳者あとがきにあるが、表題を副題に移して自省としている。なかなかの好著。

    書評

    https://allreviews.jp/review/5475

  • みすず書房にしては、すらすら読めます。
    ただ考えさせられます。
    人の死について。「よき死」について。

    ページivが金言のように美しい。
    主に各章の終わりと、ページ288-289には著者の死への思いを読み取れますが、基本的に死とは距離を置いた方なので淡々としています。

    本当にみすず書房の本は装丁もよく内容もいいな〜と思うのですが、いかんせん高価です。本書も3520円です。
    図書館で借りて読んでます。
    本書の様な本を本棚に並べられる方が羨ましい。

全7件中 1 - 7件を表示

著者プロフィール

1950-。イギリスを代表する脳神経外科医。オックスフォード大学で哲学・政治・経済を学んだのち、ロイヤル・フリー・メディカル・スクールで医学を学ぶ。ロンドンのアトキンソン・モーリー病院、セントジョージ病院で30年以上脳神経外科医を務めた。2010年、大英帝国勲章受勲。出演したドキュメンタリー番組Your Life in Their HandsとThe English Surgeonでも数々の賞を受賞した。著書にAdmissions: A Life in Brain Surgery(Weidenfeld & Nicolson; 『医師が死を語るとき――脳外科医マーシュの自省』みすず書房)、Do No Harm: Stories of Life, Death and Brain Surgery(Weidenfeld & Nicolson; 『脳外科医マーシュの告白』NHK出版)がある。

「2020年 『医師が死を語るとき』 で使われていた紹介文から引用しています。」

ヘンリー・マーシュの作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
劉 慈欣
朝井 リョウ
サン=テグジュペ...
ヴィクトール・E...
カズオ・イシグロ
アンデシュ・ハン...
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×