- Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
- / ISBN・EAN: 9784622088820
作品紹介・あらすじ
イタリアを代表するカリグラファーが、今日、文字を手で書くことの醍醐味を綴る。書くことは考えること、筆跡は顔、商売道具etc.
感想・レビュー・書評
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『手で書く時間は、考える時間を尊重する。むしろ手で書いていると、考える時間が作られ、そこから表現が生まれる。コンピューターでは、意図的にではないにせよ、過剰に時間に負荷をかけ、ある意味、考えがまとまる前に書こうとする。つねに考える前に、考えを決めようとしてしまうのである(アルベルト・アゾル・ローザ)』―『第4章 書く時間は考える時間』
役者が美しい台詞を口にしている内に話す言葉も洗練され、あたかも哲学者が語るような箴言を自分の言葉として口にする。ふと、そんな事を誰かが言っていたのを思い出した。本書に引かれる数々の言葉たち。それはどれも手書きのもたらす効用を説得力を持って投げかけるもの。その言葉を引き寄せたのは、カリグラファーの本能か、それとも、職業的危機意識なのか。
本書の随所に、頭ではなく身体が語る言葉がある。ものごとの本質に迫る言葉はいつも決まって身体と分かちがたく結びついたもの。それでも外部からの入力情報の大半を占めるという視覚情報ですら、脳の各分野との信号処理の遣り取りに比して視覚から入ってくる外部情報の占める割合は存外低いという。つまり脳は勝手に情報を見たいように解釈するとも言える。手の動きに限らず、環境からのフィードバックを伝える筈の身体からの信号が締め出されてしまったら、脳の活動は既に蓄積されたものの使いまわしばかりとなり、新しいものは生まれ難くなる。そこには確かに著者フランチェスカ・ビアゼットンの憂いが現実としてあるかも知れない。
しかし、すべからく道具は利便性を追求した人間によって進化し、人もまたその変化に合わせて思考方法を変化させてきた筈。例えば、文字の無い時代では情報へのアクセスは口伝で伝わる物語を通して為され、必然的に記憶へのアクセスはシーケンシャル(頭から順番にチェックしていく方法)であっただろうが、文字が生まれ情報へのランダムアクセスが可能になったことによって人の思考方法がどれだけ変化したかを想像する。手書きが廃れ多くの人々がキーボードやタッチスクリーンで考えを文字に起こす時代。当然のことながら人間の思考方法も相当に変化していくだろう。それは連綿と続いてきた人の営みそのものであるようなきがする。今現在起きつつある変化以前の人の在り方だけを善と捉える節が著者にはあるようだが、それはどうだろう。手書きが与えてくれるインスピレーションのようなものは経験として思い当たらないではないけれど、キーボードで綴ることによる同様のシナプスの発火もまたそれなりに起きているような気がする。
『物事には尺度がある。定まった境界線があり、あちら側やこちら側に、正しさはない』―『付録 ルドヴィーコ・ヴィチェンティーノによる小品カンチェッレレスカ体の書き方を学ぶために(1522年)』詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
第12章で述べられる学びの指針はカリグラフィに限ったことではない。
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「手で書くこと」についての古今東西のことが書いてある。
なんのことはないが、上質な文章という感じがした。 -
期待していた本でしたがその期待を超える本で原著を購入しました.再読した際に発見がありそうです. 引用が多いので著者が咀嚼した言葉で読みたかったという思いもあります.
文字を手描きで美しく書くことはlogosへの配慮であり,プラトン的な意味での「善く生きる」ことになるのでは.cf. p.23
「液晶画面では、画素数の高い低いが基となり知覚されるため、精神的、非肉体的、論理的なアプローチを助長する」。p.52
私達が抽象度の高い世界に生きている理由の一つは「液晶画面」にあるかもしれません.