- Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
- / ISBN・EAN: 9784622088530
作品紹介・あらすじ
暴力をうけた人は、それを話すことができるだろうか。周囲の人はそれを聞くことができるだろうか。
語ることを強いるのではなく、語れないものだと一歩引くのでもなく、「それでもなお語る」こと。そのためにできることを探っていく。
出会った人々の言葉とともに、旅する著者の生活や思い出が、普遍的な考察へとつながっていく。温かく深みのあるエッセイ。
感想・レビュー・書評
-
詳細をみるコメント0件をすべて表示
-
何度でも読みたい。いつか、言葉にできない思いをここに書かれた言葉のように、理解しやすい表現で話せるようになりたい。
-
2019年?冊目。(最近レビュー執筆怠り数え忘れた...)
『憎しみに抗って──不純なものへの賛歌』から注目していたジャーナリスト、カロリン・エムケの新刊(原書の出版は2013年で、『憎しみに抗って』よりも前)。
年末年始、他に読みたい本がたくさんあるけれど、これは連休中にもう一度読み返さなければいけない...今年の自分にとって、本当に大事なテーマで、消化して整理するにはまだまだ時間がかかる。現段階の雑感だけでも言葉にしておきたい。
...
「言葉にし得ない体験」をめぐる考察。
極度の暴力や不正に遭った人が失った言葉に対して、どんな言葉も及ばず「それ」としか形容できなくなってしまった体験に対して、著者は「それでも言葉にできる可能性」を信じている。
だけどこの本は、「言葉にし得ない本人」にではなく、「言葉にし得ない本人の周囲の人々」に向けられて書かれている。もっと言えば、後者の人々が持つべき責務のようなものが語られている。
「それは言葉にしがたいよね」と、簡単に語れない本人の沈黙に迎合し、変えることも理解することも諦める周囲の人たちの姿勢は、ときに、本人が語り得る可能性を閉ざしてしまうかもしれない。
語りを無理強いすることはもちろん避けつつも、本人の沈黙に耳を傾けて、その沈黙の背景に思いを寄せ、扉が開くかもしれない兆候を信じて待つ...そういう姿勢を、周囲の人間が持つ必要性を感じた。
暴力や不正に限らず、「例外的極限状況」を体験した人たちが、なんとかして「それ」を語ろうと口を開くとき、多くの場合、その言葉は混乱している。
時系列がおかしいかもしれない。何度も同じ話が繰り返されるかもしれない。一見関係のないような言葉が出てくるかもしれない。
著者はその混乱に、「可能性」を見出しているように思えた。まだその本人が「壊れていない」可能性を。言葉を取り戻せる可能性を。
なぜならその混乱は、その言い澱みは、その脈絡のなさは、壊れた世界に片足を踏み込んでしまいながらも、もう片方の足は壊れる以前の世界に残っていて、そのズレの狭間で、元の世界の片鱗を取り戻そうとしている証であるから。言い換えれば、その人はまだ、壊れる前の世界を完全には失っていない証であるから。
混乱が、なかなか手が届かないながらもなんとか元の世界にあるものを取り戻そうとする足掻きの現れ、つまり本人が「まだ壊れていない」証なのだとしても、多くの場合、その混乱に潜む可能性は見過ごされるように感じる。語る本人にではなく、語られ、聞く側の人間によって。
語る本人がはまっているズレ、支離滅裂さ、言葉選びの不安定さは、「語りの不可能性」として捉えられてしまう。その混乱はときに、「語る側の力量不足」としてさえ捉えられてしまう。
語る側が混乱を整理する義務を負うばかりでいいのか。語られる側こそが、語りのなかにある混乱に耐え、曖昧さのなかに留まり、早く整理して理解してしまいたい欲求に抗う努力をする必要があるのではないか。
そうでなければ、語られる側に対する語る側からの信頼は生まれず、語られる側にすらなることなく、語りそのものが起きなくなってしまう。
ここ数年、ずっと「ネガティブ・ケイパビリティ(性急な答えに飛びつかず、曖昧さや不可解さの中にとどまれる力)」の重要性をあちこちで感じてきた。語られる側が持つべき「語りの混乱への受容力」は、まさにネガティブ・ケイパビリティの一つだと思う。
来年、本格的に追いかけたいテーマ。
この著者は、ジャーナリストというよりも思想家のような印象が強い。読み手を恍惚とさせる筆の運びは、アーティストですらあると感じる。政治的・地政学的なメカニズム以上に、人間心理のメカニズムに迫る人であるとも。とにかく、今とても気になる人。 -
強制収容所での拷問、戦時中の集団強姦など、悲惨な体験をした被害者たちの話を聞いてきた著者。彼らが「それ」としか呼ぶことができない体験を言葉にしていくことの意義や、その過程で聞き手側に望まれる態度について論じるエッセイ集。後半は、故郷についてや、旅をすることについても語っている。
印象に残った部分を抜粋。
-----
こういった理解不能な世界は、子供たちとは違った形で大人たちを脅かす。「残虐の規範」に直面したとき、誰よりもまず打撃を受けるのは大人たちだ。別の規範、別の秩序のもとで育ってきた彼らは、新たな規範を理解することができないのだ。(P.35)
-----
アウシュヴィッツでの絶望的な拷問の日々を乗り越える唯一の手段は「理解しようとしないこと」であると主張している、上の引用に続く箇所が特に印象に残った。同時に川上未映子「ヘヴン」を思い出した。
「ヘヴン」において、主人公の二人は凄惨ないじめの被害だが、それぞれが取った行動は対照的だった。一方は、自らが貶められている現状に、論理の力でなんらかの意味付けと救いを見出そうとした(こんな酷い体験をしたからこそ見えるものがあるんだ、等)。もう一方は、自分に向けられる敵意に「的」となるものがあるとするならば(この物語においては彼が「斜視」であったことが的になった)、たとえそれが全くの言いがかりだったとしても、排除(=治療)することに決めた。
つまり、理解不能な絶望的な状況に陥ったとき、前者は合理的に強くあろうとひたすら自らを律し、後者は論理や理屈を放棄してとにかく生き延びることを最優先事項とした。フィクションとは言え、前者は精神を崩壊し、後者はそうならなかったという結末には納得がいくように思う。
人間は「強くありたい」「強くなりたい」と願う生き物なのだと思う。頭で理解して、分析して、苦境に立ち向かえるよう自分を鼓舞して。しかしその願望は、平和な状況下で成り立つものであって、平和さが崩れた瞬間、潔く手放す必要がある。「ヘヴン」読んだときに感じた思いが、この本を読んで一層強くなった。
もう一つ抜粋。
-----
適切な批判と不適切な批判との区別、啓蒙とイスラム敵視との区別は、批判の対象が差別的な行為や犯罪的な行為それ自体なのか、それとも特定の集団全体なのかという点にある。(P.173)
-----
家族の伝統や信仰に背こうとするムスリムの少女の自己決定権と同様に、家族の信仰を自身のものとし、実践していこうとするムスリムの少女の自己決定権もまた、認められねばならない。(P.174)
-----
イスラム敵視の問題は、日本で生活しているとほとんど無関係なことのように見える。でもこの「適切な批判と不適切な批判との区別、啓蒙とイスラム敵との区別」についての考え方は、身近で起こっているいじめ問題や、もっと広く捉えれば自分と違う価値観を持った相手との関わり方という観点で非常に役に立つ。集団の一員としての個人ではなく、あくまでその人自身を、またその人の行動そのものを見ること。そしてどんな行動や思想も、リベラルな社会においては容認されてしかるべきだと著者は説く。
後半の引用について。
私は専業主婦なのだけど。子供の頃から昔ながらの「夫=仕事、妻=専業主婦」というスタイルに強い憧れがあった。父親がいなかったし、祖母と祖父も実はちゃんと結婚していなかったということを大人になってから知った。そんないわゆる「普通」じゃない家庭に産まれたが故の不自由さを感じたことは、ラッキーなことにほとんどなかったけれど、結婚の理想像という一点においては、昭和のまま時間が止まっていたように思う。
頑にこだわってきた昔ながらの夫婦のスタイルは、私がそれを手に入れたときにはもう、完全に時代遅れになってしまった。がーん。共働きの夫婦に比べて専業主婦だから発言権がないのではとか、男尊女卑でも文句を言えないのではとか、思いがけないネガティブな意見と遭遇することも少なくない。がーん。
そんな中、この後半の引用を読んで。外野がなんと言おうと、それを選んだあなたが幸せならいいじゃない、と言われたような気がして心地よかった。ときどき共働きの友人夫婦の自由さが眩しく見えるけれど、自分がそうなりたいかと考えると、答えはいつもノー。だからいいんです!時代遅れでも。ずっと憧れてたんだから。
-----
いろいろ書いたけれども、正直、三度くらい途中で頓挫しそうになった。そもそもなんで読もうと思ったのか全く思い出せないし、アウシュヴィッツとかイスラムとか、テーマがあまりにも今の私の実生活からかけ離れている。とはいえ、読書においては自分のコンフォート・ゾーンを積極的に飛び出すことを目標にしているので、なんとか最後まで踏ん張った。著者が伝えたい内容の二割も受け取れていない気がする。でも一応、読み終われてよかった。 -
言語化することは、その治療的側面からとても深い意義がある。その人の内面の課題を解決するためには、内面を言語化するしか方法がないと私は思っている。
カウンセリングにしろ、トラウマ治療にしろ、その基本は「傾聴」することだ。すべてそこから始まる。ナラティブセラピーしかり、メンタライジングしかり。発達の未熟さから言語化が難しい幼児は「表現」でその代替行為をする。絵を描いたり、工作をしたり、箱庭療法なんかもその一つだ。言語にするなり形にして表すなりすることで、内面にあるイメージ、感覚、感情を整理し、内面を客観的にして初めて自分自身の状況を把握できるのだろう。「治療」というが、つまるところ、自分自身で自分の内面を整理整頓することじゃないかと私は思っている。
本書で著者が繰り返し言っていることは、言葉にすることの力だ。時に困難であり、残酷でもあるけれども、それをしないでは人はそこから前には進めない。傷ついた状況から前に進むには、言葉にすることが絶対的に必要なのだ。取り上げられている素材は、戦争やホロコーストであったり、内乱であったり、天災であったり、虐待であったりするが、その苛酷な状況に立ち向かわなければならないのはいつも「普通の人々」で、彼らの内面に起きることは、どんな社会でどんな場面であっても共通の普遍性を持つ。
だから、本書が書かれたのは数年前であっても、今のロシアのウクライナ侵攻にも、日本で事件や事故、虐待で心身とも深く傷ついた被害者にも、そのまま通じる考察だと思う。とても深くて優しく、そして厳しい。
ジャーナリストではあるが考察はかなり哲学的だと思ったら、大学時代の専攻も哲学だったよう。
一読の価値あり。 -
それは言葉にできるからとカロリン・エムケは信じる。とても言葉にできない体験も、時間や聞く人への信頼などによって言葉になることもある。聞くこと、伝えることの大切さを説いて素晴らしい。他者の苦しみ、故郷などの体験から語られる文章にも感銘を受けた。彼女の弱者に向ける視線と本質を見極め言葉にする力にこれからも期待します。