- Amazon.co.jp ・本 (216ページ)
- / ISBN・EAN: 9784622086703
作品紹介・あらすじ
すます分極化する世の中で、集団的な憎しみが高まっている。なぜ憎しみを公然と言うことが普通のことになったのだろう。憎しみの渦に飲み込まれずに幸せを追求するには。難民政策に揺れるドイツでベストセラーを記録した、世界を知るための基本書。
感想・レビュー・書評
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移民、黒人、IS、LGBTに対する見方が少し変わった。
自身もトランスジェンダーであるドイツ人ジャーナリストが、彼らの背景に何があるか、憎しみや暴力がなぜ生まれるかを指摘する。
日本にいれば差別されることはほとんどない。けれど、わたしはキリスト教徒ではないし、黄色人種なので、西側の基準からすると「差別される側」にいる。なのに、移民や黒人、LGBTのような差別される側の立場で考えたことはなかった。
また、他集団に対するパターン化された知覚や排斥的な行為をなくす必要もある。彼らに対する懸念をなくし、集団ではなく個人として認識することが大事。
宗教の多様性を嫌うISに対しては、まずは多彩な信仰を容認し、疎外感を感じている人がいれば見過ごさないことが大事。
なかなか難しいテーマだったが読んでよかった。
p15
憎しみに憎しみで対抗することは、自身を変えることであり、憎む者たちがなってほしいと願う人間に近いくことだ。憎しみに立ち向かうただひとつの方法は、憎む者たちに欠けている姿勢をとることだ。つまり、正確に観察すること、差異を明確にし、自分を疑うのを決してやめないこと。
p16
だが、憎しみは自然に生まれるものではない。作られたものだ。暴力もまた、自然に生まれるものではない。事前に整えられた土壌がある。憎しみと暴力がどの方向に発散されるか、誰に向けられるか、どんな限界や障害を事前に取り除く必要があるか、そういったことはすべて、偶然その場にある条件に左右されるのではなく、入念に決定され、整えられるものだ。
p17
憎む者たちが憎しみの対象を自分たちに都合よく仕立てあげる余地を奪うことは、文明社会に生きる者全員の義務だ。他人に委ねることはできない。外見や思想や信仰や愛情がほかと違うからという理由で驚異を受ける人たちの側に立ち、彼らに寄り添うことは、それほど大きな勇気を必要とする行為ではない。
p38
もちろん、懸念を抱く人々が過小評価されていいわけではない。だが懸念を抱くならば、自分たちが懸念だと表明することがらがひとつひとつの要素に至るまで正確に観察、吟味されることを受け入れねばならない。懸念を抱くならば、本当の懸念と、哲学者マーサ・ヌスバウムが「嫌悪感の投影」と呼ぶもの-つまり、己を守らねばならないという大義名分のものに行われる単なる他者の排斥-とが区別されることを覚悟せねばならない。社会的な共感の土壌を破壊する、懸念とはまったく別物の感情は数多くある。そのうちヌスバウムが挙げるのは、「不安」「嫌悪感の投影」そして「ナルシシズム」である。
p39
いまぜひとも必要なのは、この「懸念」に覆い隠された憎しみが、権利を奪われ、社会から取り残され、政治的対応からも置き去りにされる人間の集団が生まれる前触れ(またははけ口)なのではないかと問うことだ。その意味で、現在あまりに多くの場において憎しみと暴力という形で表れるエネルギーの由来はなんなのかと、冷静に原因を探求することもまた必要である。さらに、それぞれの社会が自身に批判的な目を向け、人々の社会的不満-とはいえ、憎しみも、自らのアイデンティティに対する狂信も、こういった社会的不満に対する答えとしては間違っている-をなぜもっと早くに認識することができないのかと問うべきでもあろう。
エリボンによれば、狂信や人種差別に特に走りやすいのは、否定的な体験を通して自己を形成する集団や環境であるという。サルトルはある種の集団を「集列」と名付け、それらは制約や障害が多い環境に受け身で無反応に適応していく過程を通して自己形成すると述べる。すなわち、こういった「集列」をつなぐのは、社会の現実に対する無力感なのだ-なんらかの課題や理想に自覚的、積極的に自己投影することではなく。
p45
「異形と不可視とは、他者のふたつの亜種である」と、イレーヌ・スキャリーは書いている。「一方は誇張された姿で目に入り、目を向ければ嫌悪感を催す。もう一方は目に入らず、それゆえ最初から存在しない」
p50
不安でいっぱいの人間は、危険な対象とのあいだにできるかぎり大きな距離を取ろうとするものだ。だが憎しみは逆に、その対象を避けたり、対象から距離を置いたりすることができない。憎しみにとっては、その対象は手の届く距離にいて、「破滅させる」ことができなくてはならないのだ。
p56
憎しみは無から生まれるわけではない。(中略)憎しみには常に特有の文脈がある。憎しみはその文脈を理由とし、その文脈から生まれるのである。憎しみの拠り所となる理由、なぜあるグループが憎しみに「値する」のかを説明する理由はら誰かがある特定の歴史的文化的枠組みのなかで作り出さなければ、そもそも存在しない。何度も繰り返し持ち出され、語られ、表現されなければ、定着し得ない。(中略)強烈で熱い憎しみは、長年にわたって準備されてきた、または何世代にもわたって受け継がれてきた冷たい慣習と信念の結果なのだ。「集団的な憎しみまたは軽蔑の構造は(中略)、社会的に軽蔑または憎しみの対象となる者たちから社会的な損失、危険、脅威が生まれるというイデオロギーなしには成立し得ない」
p58
人間を繰り返し特定の役割、特定の位置、特定の特徴でばかり判断していると、どうなるか。最初のうちは、まだ憎しみなど生まれない。こういった種類の現実の矮小化がもたらすのは、まずなにより想像力の枯渇である。難民が常に集団として扱われ、決して個人としては登場せず、イスラム教徒が常にテロリストまたは文明の遅れた「野蛮人」として描写されるネット掲示板や出版物の致命的なところは、それが移民をなにか別の存在として想像することをほとんど不可能にする点にある。想像力が弱まれば、共感する力も弱まる。イスラム教徒あるいは移民としての在り方には無数の可能性があるが、それがたったひとつの形に収斂されてしまう。そして、それによって個人が集団と、集団が常に同じ特徴と結び付けられる。こういったメディアからしか情報を得ず、こういったフィルターのかかった目線を通した世界像、人間像ばかりを与えられれば、人は常に同じ固定イメージを抱き続けることになる。やがて、イスラム教徒または移民と聞いて、固定イメージとは別のものを思い浮かべることがほとんど不可能になる。想像力の枯渇だ。残るのは、こじつけの特徴や世間に出回っている批判によって操作された短絡的思考である。
p60
他者に対するこういった知覚パターンは、現在特有のものではなく、歴史的な前例を持っている。まるで歴史的由来などないかのように口にされ、繰り返されているのは、実は常に同じ言い回し、常に同じイメージ、常に同じステレオタイプなのだ。
p67
多様で開かれたヨーロッパ世俗社会からイスラム教徒を切り離すことこそ、ISのテロの明確な目的である。
p68
ISのイデオロギー指導者はあらゆる混合を嫌う。あらゆる文化的交流、啓蒙化された近代精神がもたはあらゆる宗教的自由を嫌う。こうして、イスラム原理主義者と反イスラム過激派とは、互いが互いの奇妙な写し鏡となる。
さらには、行動を起こさない者たちもまた、憎しみを可能にし、育むのに手を貸していることになる。自分自身は行動しないが、他者の行動に理解を示し、それを許す者たちだ。暴力と脅迫という手段には燦然しないが、憎しみの対象となる者たちのことを見下している、こうした人間たちのひそかな許容がなければ、憎しみはこれほどの効果を持たないし、これほど執拗なものにもならず、ドイツのいたるところでこれほど爆発的に増大することもなかっただろう。彼らは自分では憎まない。他者に憎ませる。単に無関心で怠惰なだけなのかもしれない。関係のない出来事に割って入ったり、積極的に参加したりするのを好まないだけなのかもしれない。不愉快な争いに関わり合いたくないのかもしれない。平穏な日常を守りたい、現代社会の多様性、複雑性に煩わされたくないと思っているのかもしれない。
p80
知覚や視野とは中立的なものではなく、歴史的な思考パターンによってあらかじめ作られたものだ。そこではパターンに合致するもののみが知覚され、記憶される。
p88
それゆえ、どのような種類の逸脱、どのような形式の異質性が、共同体の一員であるために、そして尊敬と認知を得るために、好ましくないと考えられているかに、敏感でいることが大切なのだ。標準から外れた者が、日常生活において除外され、軽視されてどのように感じるかを語るときには、耳を傾けることが大切なのだ-そして、たとえ実際には一度も経験したことがなくともら彼らの経験をもし自分がしたら、と想像してみることが。
p94
一方、「今日で終わりにしよう」という言葉は、虐待のその瞬間にのみ向けられたものではない。とうの昔に硬直し、蓄積され、組織的に続く黒人の不遇と排斥という人種差別を生み出した、何百年にわたる憎しみに向けられた言葉だ。「今日で終わりにしよう」という言葉は、古くから続いているというだけの理由で、変えることなどできないと決めつけ、差別の構造を受け入れ、なにもしようとしない怠惰な社会に向けられたものでもある。
p153
時間を超越した「我々」の一員として無条件に受け入れられると同時に「よりよき」「より真なる」イスラム教徒となれる-まさにこの二重の約束こそが、大きな魅力なのではないだろうか。どこにも属せず、歴史的使命の一部としての自分をどこにも見いだせないヨーロッパのイスラム教徒たちを惹きつけるのは、この二重の約束なのだろう。常に二級市民として扱われ、社会から疎外されていると感じる者、自由と平等と友愛の理想を空論だと感じる者、仕事が見つかるあてのない失業者、犯罪の多い環境で先の見通しもなく生きる者、人生になんの意義も見いだせない者、人生に意味を求める者、なんらかの転機を探す者-こういったすべての人間にとって、この誘いは魅力的な響きを持つに違いない。
p159
ヨーロッパのイスラム教徒と非イスラム教徒とを分離させることがジハードの目的であることは、明言されている。ISは倒錯的とはいえ首尾一貫した合理性を備えており、ヨーロッパまたは米国でのテロ攻撃の後にらそれぞれの被害国が自国のイスラム教徒をひとくくりにして罰することを望んでいる。イスラム教徒は、現代の世俗国家において、ぜひとも疑念の目で見られる必要があるのだ。そして孤立し、排斥される必要がある-そうなってこそ、彼らは現代民主主義から離反し、結果的にISに帰属することになるからだ。
p163
「ファナティズムとは、盲目的で情熱的な熱意のことである。迷信的な物の見方に端を発し、馬鹿馬鹿しく不公正で残酷な振る舞いに及びながら恥じも悔いもないばかりか、一種の喜びと満足さえ感じるようになる」。
p166
なにより必要なのは、不純で多彩なものを支持することである。なぜなら、まさにそれこそが、憎む者、純粋で一義的なものを偏愛するファナティストをもっとも戸惑わせるからだ。必要なのは、自由思想に基づく疑念と皮肉の文化だ。それこそが、ファナティストや人種差別的教条主義者が最も嫌うものだからだ。不純なものへの賛歌は、単なる机上の空論以上のものでなければならない。多彩なヨーロッパ社会を主張するのみならず、多彩なものを包括する共存社会を実現するための政治的、経済的、文化的投資が現実に行われねばならない。
p170
真に多元的な社会に生きることとは、すべての人間が互いの個性を尊重し合うことだ。ほかの皆と同じように
生きる必要も、ほかの皆と同じ信仰を持つ必要もない。ほかの人たちの行為や信仰を共有する必要もない。それらに共感する必要も、それらを理解する必要もない。これもまた、真に開かれたリベラルな社会が提供する大きな自由だ-互いを好きになる必要はないが、互いを容認できること。もちろん、容認すべきことがらのなかには、多くの人間にとっては非合理的で理解不能に思われる信仰も含まれる。主体的な自由には当然、伝統に縛られない生き方や無神論者としての生き方をする自由と同様に、開かれた社会の多数派にとっては奇異に見えるかもしれない敬虔な生き方をする自由も含まれる。世俗国家とは、決して市民に無神論を強いる国家のことではない。肝心なのは、社会から本質主義的要素、均一で「純粋」な要素が少なくなるほど、他者と同じでなければならないという強制も弱まるということだ。
『見えない人間』ラルフ・エリスン
『ファウスト』ゲーテ
『市民』クローディア・ランキン -
自分が傷つけられたことには意識的である。反対に人を傷つけたことには、気がついていないのだろう。多分、これまで、何気なく人を傷つけきたのだろう。
多数派である限り気がつくことができない。さまざまな人がいる。よく対話をすることなくして、安易な思い込みでの発言や、軽はずみな発言は控えなければならない。
自分が自分らしく自由にいられるためには、ひとが傷つかないように気遣う必要がある。 -
2018年18冊目。(再読)
〉2018年17冊目。
〉読み始めてすぐに心臓がばくばくし、読み終えてすぐに「もう一度読まねば」と急き立てられた。
の通り、初読の直後にもう一度読んだ。思うところが多すぎて、それでもまだうまくまとまらない。長く付き合うことになる一冊。
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2018年17冊目。
読み始めてすぐに心臓がばくばくし、読み終えてすぐに「もう一度読まねば」と急き立てられた。
近年悶々と考えていたことが、物凄い密度の言葉で語られていた。
言葉の力が強過ぎて、「陶酔して盲目にならぬよう、気をつけて読まねば」とも思うくらいに。
流入する難民、異なる人種、性的マイノリティ...
制度化・内面化された「基準」とは異質とみなされる者たちへの「憎しみ」は、どのように生まれるのか。
著者は、「憎しみ」は個人的で偶然の産物ではなく、集合的・歴史的に形成されてきたイデオロギーという下地の上に生まれるものだととらえている。
侮辱に用いられる概念や、レッテルを貼るのに用いられる知覚パターンは、歴史の中で繰り返され、固定化され、再生産されてきた。
だからこそ、憎しみに駆られた個人を断罪する以上に(それが必要な場面もあるが)、その裏にあるメカニズムを正確にとらえよう、と主張する。
第一部の「可視 - 不可視」では、マイノリティの立場にある者たちが排除されるプロセスを、
①一人ひとりの個性が見過ごされ(不可視化)
②過度に一般化した集団として作り上げられる(可視化)
と分析している。
続く第二部「均一 - 自然 - 純粋」では、差別をする側の立場の者たちが利用する3つのモチーフが語られる。
それぞれに共通するのは、ファナティスト(狂信者)たちが重要視するものは「一義性」だということ。
「異質」「敵」「虚偽」な者たちを想定し、それを排斥することを前提として、純化した共同体を作ろうとしていること。
純化された狂信的な教義に、別の純化された狂信的な教義で対抗してはいけない、と著者は語る。
こちらまで狭義的にならず、多様で不純なものを受け入れる姿勢を貫くこと。
その想いは、サブタイトルにも表れている。
...
「憎しみ」とは、一つの誘惑だと感じる。
「憎しみ」は、不明瞭な個人を明瞭に見ようとする労を省いてくれる。
単純化したレッテルを貼り、疎外すべき集団として単純化・明瞭化してくれる。
不明瞭な事態に対する忍耐力として「ネガティブ・ケイパビリティ」という概念がある。
決して分かりやすくはない多様なものを受け入れる力として、それがいま強く求められている気がする。
不正なことに対して、「それは不正だ」と反対の声をあげることはとても重要。
そして、それを信念を持って表現している著者への敬意を強く感じる。
同時に、その声のあげ方一つで、お互いの考える正義感の衝突が強まり、分断がより深くなってしまうこともあるのでは、という懸念もある。
そうした分断のしわ寄せは、まさに守りたかったはずの社会的弱者たちに押し寄せる。
マイノリティに対して憎しみを抱く側も、憎しみを抱く者たちに反対の声をあげる側も、ネガティブ・ケイパビリティを失わず、自分たちの見方に常に考慮の余地を持っておくことを忘れてはいけないと思う。
確かに「人権を守る」ということは普遍化してきた概念で譲歩できないことでもあるのだけど、相対している者たちとの接触の中では、「自分の考えは常に暫定的である」という自覚を持ち、お互いに想像を広げていく余地は持たなければ、建設的な対話は生まれないと感じる。
頑なな正義の押し付けが、必ずしも不正を正してくれるとは限らない。
ある意味で、正義感は常に不安定でなければならないのかもしれない。
「憎しみに抗う」気持ちが高じ過ぎて、「憎む者たちへの憎しみ」に陥らぬよう、安直な正義に頼りすぎず、分かりやすさに逃げず。
そんな自戒を持ちつつ、この本は繰り返し何度も読みたいし、読んでみて欲しい人たちが多い。
まだ日本で訳されていなかったこの著者の本を出版してくれたことに感謝。 -
世に蔓延る差別に対する指南書
多様性なんて言葉が流行りとして使われてるうちはダメなんだろうなぁ
そして皆にこの本をお勧めしたいが、まず読むのが(内容的にも)面倒くさいと感じるであろうと察するので、まずはその面倒くささを取っ払う活動しようっと -
全体的に当たり前のことを書いているだけなんだけど、具体性と詳細さで細やかな部分まで主張を伝えてくる。当たり前のことに詳細に気づくことの難しさを感じるし、そういうことをきめ細やかに内省させてくれる。そして自分で気づき続けなくてはならないことを教えられる。のだが、こういう本を読む人にはたぶん少なからずその土壌がある。この本に手が伸びない人に、どうやって伝えていくかを考えると気が遠くなるとも思った。
イスラム教徒を差別することがISの理想(ある限られたイスラム教徒のみを認める過激な信条、ヨーロッパの二分化)を叶える方向に作用するという説明はなるほどと思った。
多様性のなかにいると落ち着く。それはつまり、他者(不純なもの)の個人が守られているということであり、自分にとって異質なものもまた、自分を安心させるものであるということ。文化的、宗教的なものと世俗的な社会との摩擦に普遍的な公式はなく、つど具体的に観察して慎重に考察する。という言葉にハッとした。 -
主にドイツにおける移民への排外的・攻撃的な風潮を扱っており、それらに対して静かに、かつ断固とした批判を向けている。また、そうした風潮の背景にある要因や構造、人を「憎む」という行為はどのような行為なのかといった考察は刺激的で、日本の「右傾化」を考える際の示唆を得られる。訳者によるあとがきもよい。
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哲学
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2016年にドイツで出版された本書。ドイツをはじめとして欧米で、ここ最近表向きに発せられるようになった、「懸念」や「憎しみ」に対する、理性的で力強い反論。
冒頭は詩的・抽象的に始まるが、中盤のクラウスニッツでの難民バス襲撃の事件や、アメリカでの警察官による黒人男性の暴行死の事件から、個人ではなく集団を憎しみさげずむ感情・行為に社会がうまく立ち向かえていないことを読者に痛烈に実感させる。
基本的に全て欧米の事例だけれど、今日の日本にも当てはまることがあまりにも多いと感じました。夫婦別姓であったり、LGBTであったり、生活保護であったり、外国人労働者であったり、それらへの日本社会の大きな不寛容。そういったいわば「少数者」の存在が自分の生活に何ら悪影響を及ぼすものではないにもかかわらず、懸念や憎しみを平気で表明する。訳者あとがきでもあるように、自分が少数派という立場になるまで、圧倒的に力のある多数派であることは自然には感じられないものなのかなぁと思います。それでも、自分がその少数派の立場であったら、という想像を働かせて、それぞれの人が窮屈さをできるだけ覚えずに暮らせるような思いやりのある社会にしていきたい、そのように感じることができました。
多くの方にぜひ読んでほしい、そして読んで感じたことを周りの人たちに共有してほしい、そんな1冊です。借りて読みましたが、家に一冊置いておきたいな。